「PAN」と一致するもの

R.I.P. Genesis P-Orridge - ele-king

野田努

 ジェネシス・P・オリッジが3月14日の朝に他界したと彼/彼女の親族が発表した。白血病による数年の闘病生活の末の死だった。

 いまから70年前の1950年、マンチェスターに生まれたジェネシスは、大学のためにハルに引っ越すと70年代初頭はコージー・ファニ・トゥッティらとともにパーフォーマンス・アート・グループ、COUMトランスミッションのメンバーとして活動し、1976年からはロンドンを拠点にコージー、クリス・カーター、ピーター・クリストファーソン(2010年没)らとともに後のロックおよびエレクトロニック・ミュージックに強大な影響を与えるバンド、スロッビング・グリッスル=TGのメンバーとして音楽活動を開始する。

 TG解散後の1981年、ジェネシスはあらたにサイキックTVを結成、そして2019年の『The Evening Sun Turns Crimson』まで、同プロジェクトを通じて数え切れないほどの作品をリリースしている。(80年代末には、クラブ・カルチャー以外のところで派生したアシッド・ハウスのプロジェクトとしてはかなり先駆的な、Jack The Tabも手掛けている)

 コージーの自伝『アート・セックス・ミュージック』における悲痛な告白には、一時期は恋仲にありながら虐待を受けていたことが赤裸々に綴られており、横暴で自己中心的でもあったジェネシスは決して誉められた人格の持ち主ではなかったのだろうけれど、まあ、21世紀の現代からは遠い昔のTG時代のジェネシスにカリスマ性があったのも事実だった。コリン・ウィルソンの『アウトサイダー』やウィリアム・バロウズをバンドに持ち込んだのはジェネシスだったろうし、コージーが主張するようにTGとはメンバー全員平等のバンドであり、誰かひとり抜けてもTGとしては成立しないわけだから、やはりジェネシス抜きのTGはあり得なかったのである。

 TGはたしかにロックを常識では計れない領域まで拡張し、エレクトロニック・ミュージックに毒を盛り込んだ張本人で、残された作品はいまでも新しいリスナーに参照されいているが、彼らのルーツは60年代にあり、ことにジェネシスはその時代のディープな申し子だった。彼/彼女にはブライアン・ジョーンズに捧げた曲があり、初期のサイキックTVにはサイケデリックなフォーク・ソングもある。彼/彼女の手掛ける電子音響による暗黒郷や全裸姿もさながら反転したジョン&ヨーコの『Two Virgins』だ。そして、アレスタ・クローリーの悪魔崇拝をはじめ猟奇殺人やナチスの引用、オカルトや神秘主義の実践やカルトや原始的なるものへの憧憬もまた、社会基準を相対化しようとした60年代的自由思想の裏返った過剰な回路でもあった。

 良くも悪くも常識という縛りのいっさいを払いのける生き方は、やがて自分を妻と同じ容姿にすることによる同一化へとジェネシスを駆り立て、じっさい性も容姿も変えてみせた。それもまた、TGやサイキックTVと同様に彼/彼女にとってのアート・プロジェクトだった。ジェネシスは妻が先立つ2007年まで彼女と服も化粧も共有していたというが、子供のPTAの会議には、ジェネシスは父親として銀色のミニスカートとブーツ姿で出席したそうだ。

 ぼくがジェネシスを見たのは一回キリで、1990年に彼/彼女が(たしかZ'EVなんかと)芝浦ゴールドに来たときだった。SMコスチュームで身をかためて、鞭に打たれながら這いつくばっている彼/彼女をフロアにできた人垣に混じって呆然と見ていたことをいまでも覚えている。ただ、そのときどんなサウンドが鳴っていたかはもう忘れてしまった。ただ、ジェネシスの姿だけがいまでも脳裏に焼き付いているのだ。

野田努

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三田格

 1979年当時、“We Hate You”というタイトルに何かを感じたのだけれど、うまく思い出せない。ルル・ピカソのアートワークに包まれて<ソルディド・センティメンタル>からリリースされたスロッビン・グリッスルのセカンド・シングルで、正確には“We Hate You (Little Girls)”と副題がついている。曲にはあまりインパクトはなく、歌詞は少女たちに向かって「憎い」と叫ぶだけ。前の年にジョン・ライドンがパブリック・イメージ・リミテッドのデビュー・アルバムで「僕たちは愛されたかっただけ」という歌詞を繰り返していたので、パンクスが共同体への回帰願望を表明しているようで、それはどうかなと思っていたこともあり、“We Hate You”にはそれとは正反対のメッセージ性を感じたということかもしれない。「Hate」という単語がポップ・ミュージックに使われた例は意外と少なくて、ハンク・ウイリアムズの“My Love For You (Has Turned To Hate)”(53)やアルバム・タイトルではレナード・コーエンの『Songs Of Love And Hate』(71)など、まったくないわけではないし、1988年にモリッシーが『Viva Hate』をリリースした時もけっこうなインパクトがあった(1995年にはプリンスがThe Artist (Formerly Known As Prince) ‎として“ I Hate U (The Hate Experience)”をリリース)。ちなみに単語検索をかけてみると、使用頻度では2000年代が最も多く、2005年をピークとして、そのあとは少しずつ減っている。

 いずれにしろ“We Hate You”はスロッビン・グリッスルのキャラクターを端的に印象づけたことは確か。社会に対して攻撃的で、パンクスが退潮した後もアティチュードは死に絶えていないと、そのことは日本にまで伝わってきた。スロッビン・グリッスルがあっという間に解散してもジェネシス・P・オーリッジはピーター・クリストファーソンと共にサイキックTVとして活動を持続させ、彼がその動きを失速させるつもりがないこともよくわかった。だから、当時はセカンド・アルバムとしてリリースされた『Dreams Less Sweet』(83)が僕にはよくわからなかった。イギリスではかなり評価の高い『Dreams Less Sweet』はとても美しい蘭の花にジェニタル・ピアス(性器ピアス)のイメージを重ね合わせたゾディアック・マインドワープとピーター・クリストファーソンによるアート・ワークがあまりにも素晴らしくて、しばらく壁に飾ったりもしていたのだけれど、肝心な音楽に関してはどこか散漫な印象が残るばかりで、良さがわかるまで何度でも聴く癖のある僕にしては早々に投げ出し、クリストファーソン脱退後のセッション・アルバム『Those Who Do Not』(84)ばかり聴いていた記憶がある。さらにいえば、クリストファーソンがジョン・バランスと結成したコイルである。螺旋階段をアナルに見立てるなど、実にユーモラスなゲイ表現とは対照的に強迫的なインダストリアル・サウンドを打ち出してきたコイルはあまりにカッコよく、“We Hate You”を継承しているのはむしろこっちだと思ったのである。

 事態が変化するのはサイキックTVが1984年に「Godstar」と1986年に「The Magickal Mystery D Tour E.P.」をリリースしてから。前者はブライアン・ジョーンズをテーマとし、後者にはビーチ・ボーイズ“Good Vibrations”のカヴァーが冒頭に収録されていた(7インチ2枚組のヴァージョンにはセルジュ・ゲーンスブール“Je T'aime”のカヴァーも)。1986年にNMEがサイケデリック・ムーヴメントの回顧記事を書いた時、それは跡形も残っていないものとして認識され、まったくもって過去の出来事でしかなかった。あれだけ迅速に音楽情報を伝えていたNMEもマンチェスターや北部の諸都市にレイヴ・カルチャーが浸透しつつあることは察知できず、初めてアシッド・ハウスが紙面に取り上げられたのは88年2月だった。明らかにジェネシス・P・オーリッジの方が動きは早かった。“Good Vibrations”のカヴァーを聴いて僕は初めてビーチ・ボーイズに興味が湧き、翌年に入ってジーザス&メリー・チェインが“Surfin' USA”をカヴァーしたことがダメ押しとなってビーチ・ボーイズのアルバムを一気に15枚も買ってしまった。そして、『Pet Sounds』(66)を聴けばどんなバカにもわかったことが僕にもわかった。『Dreams Less Sweet』はビーチ・ボーイズを意識したアルバムだったということが。ビーチ・ボーイズとまったく同じポップ・ミュージックと実験性の共存。サイケデリック・ミュージックはジーザス&メリー・チェインによって復活し、アシッド・ハウス・ムーヴメントへと拡大したというのがニュー・ウェイヴの定説かもしれないけれど、ポップ・ミュージックの文脈で誰よりも早くそれに取り組んだのは『Dreams Less Sweet』だったのである。

 インダストリアルを引きずりつつも、ノスタルジックなベースラインにタンバリンやオーボエ、チューバ、そして、まろやかなコーラス・ワークにヴァン・ダイク・パークスを思わせるメロディ・センスが『Dreams Less Sweet』の中核をなしている。アシッド・ハウス・ムーヴメントとともにようやくそのことを僕は理解した。ジェネシス・P・オーリッジの大言壮語はアシッド・ハウスを最初にやったのは自分だというもので、いくらなんでもそれは言い過ぎだったけれど、『Dreams Less Sweet』をつくっていたことでサイキックTVがインダストリアル・ミュージックからアシッド・ハウスに伸ばした導線が表面的なものではなかったことは実に納得がいく。それどころかジェネシス・P・オーリッジは本気でやっていたとしか思えない。『Jack The Tab』であれ『Tekno Acid Beat』(共に88)であれ、彼らがその当時、量産したハウス・レコードは初期衝動に満ちていて、いま聴いても実に楽しいし、後にはザ・グリッドとして国民的な人気を得るデイヴ・ボールとリチャード・ノリスが当時のメンバーを務めていたことも見過ごせない。あるいは匿名を使わなくなった『Towards Thee Infinite Beat』(90)では彼らなりにアシッド・ハウスを次のステージへ向かわせようと様々な試行錯誤に努めた痕跡も聴き取れる(結果的にクリス&コージーみたいなサウンドになっているけれど)。そう思って調べていくと『Dreams Less Sweet』には60年代の象徴がちりばめられていたことにも思い当たる。特異な録音方法はピンク・フロイドの踏襲、”Always Is Always”はチャールズ・マンゾン、"White Nights”は人民寺院で知られるジム・ジョーンズの言葉をベースとしていて、これはレニゲイド・サウンドウェイヴ”Murder Music”でオリジナル・スピーチがそのままサンプリングされている。とはいえ、それらはラヴ&ピースではなく、イギリスでは魔術師としても知られるジョン・バランスと結成したテンプル・オブ・サイキック・ユースの活動にも顕著なようにサイキックTVの表現はサマー・オブ・ラヴのダークサイドからの影響が濃厚で、“We Hate You”が単純に“We Love You”へとひっくり返らなかったことはアシッド・ハウス・ムーヴメントにおける彼らの位置を得意なものにした要因といえるだろう。なお、テンプル・オブ・サイキック・ユースの背景をなすケイオスマジックについては→https://ja.wikipedia.org/wiki/ケイオスマジック

 また、ジェネシス・P・オーリッジがポップ・ミュージックにおけるトリックスターとしてさらなる役者ぶりを示したのは自らがトランスジェンダーと化したこと(=The Pandrogeny Project)で新たな様相を呈することとなった。噂には聞いていたけれど、ブルース・ラ・ブルース監督『ラズベリー・ライヒ』(04)でその姿を初めて認めた時は僕もかなり驚かされた。その異様さはスロッビン・グリッスルの時よりインパクトがあったかもしれないし、旧左翼と新左翼の対立を描いたハンス・ウェインガートナー監督『ベルリン、僕らの革命』(04)をゲイ・ポルノの文脈で先取りしたような『ラズベリー・ライヒ』(04)はそれこそジェネシス・P・オーリッジはまだストリートに立っている証しのように思えた。最初は反逆者でも結局は規制のポストに収まってしまう人たちとは異なる迫力を感じたことは確かで、トランスジェンダーとして彼(女)はケンダル&カイリー・ジェンナーの父(母)であるケイトリン・ジェンナーのインタビューにも応じ、グランジ・ファッションの祖であるマーク・ジェイコブスのファッション・ショーにも出演している。ヴォーグの編集長アナ・ウィンターの側近ともいえるマーク・ジェイコブスのショーに出たということはニューヨークではかなりなセレブレティにのし上がっているということを意味する。ニューヨーク・タイムスはジェネシス・P・オーリッジをカルトと評し、アヴァンギャルドの宝と讃えていたことがあり、現在はマシーン・ドラムやゾラ・ジーザス、そして、ローレンス・イングリッシュやコールド・ケイヴなどなかなか広範囲の人たちから追悼の声が上がっている。

三田格

石原洋 - ele-king

 まず述べたいのは石原洋の「遠さ」が音の響きの傾向ではないこと。すなわちウェットとかデッドとかではない。音のバランスや定位は関係するにはするが、この論点に、たとえば一般的なレコーディングの技術論や方法論からちかづこうとすると、もっとも重要な部分を「欠落」させる──あるいはもっとも「欠落しなければならない」部分が欠落しないままに終わる──結果をまねく、おそらくカフカの『城』に似た「遠さ」を音楽の時空間内にかたちづくるには二通りの抵触の方法がある。ひとつには音楽という形式にたいするもの、他方に事物としての録音にむかうもの。石原は先日のインタヴュー記事の文中で前者を「コンセプチュアル・アート」と呼び、『formula』とのちがいをやんわりと指摘し、後者との親和性をほのめかしたのち、本作の自身の感覚にちかい既存の作品の作者としてフェラーリやエロワの名前をあげている。この両者はともにテープ音楽~ミュジーク・コンクレートに功績をのこしたフランスの作曲家で、石原のいうフェラーリの「プレスク・リエン」や、作品名こそあげていないがおそらくエロワではNHK電子音楽センターで制作した「Gaku-no-Michi」に耳を傾ければ、あなたは膝をはっしと打たれるであろう。というのも、この2作では具体音と電子音がマテリアルの中心をなし、前者は文字どおり「ほとんどなにも(おこら)ない(プレスク・リエン)」ことで聴くことが前景化し、作曲作品に現実音がまぎれこむ後者では電子音と環境音の差異と近似が作中からせりあがる、その方法論の歴史的な展開と考察は拙著『前衛音楽入門』の第Ⅴ章に述べたのでここではくりかえさないが、石原のいう「遠さ」がたんに音響現象面での距離感をいうのか美学的な意味でのそれをさすのかは留意が必要である。あの裸のラリーズに「記憶は遠い」と題した楽曲があるように、遠さはときに主体の心理のあらわれをさす。すなわち遠さとはなつかしさであり、なつかしさとはノスタルジーである。なぜなら録音にかぎらずすべての記録の対象は特定の過去であり、ことにフィールド録音による音源はかつて世界のどこかでその音が鳴ったことのあかしである──との確信は、しかしその音が匿名的ではなりたたない。森の木々のざわめきや雨音、よせてはかえす波の音はそれだけではライブラリーの収蔵用の音源にすぎない。それらが記名性をもつには「自然」という不変の法則からはみだすものがなければならない。私はひとつには人間、人間は人工と言い換えてもいい、音の記録のなかにそれらが存在することの差異が音の記名性を励起する。ところがそれを聴く人間にはすぎさったものを慈しむ文化的な習性がある。ひとはこれをノスタルジーといい、フェラーリのラジカルさはフィールド録音にわずかばかりのゆらぎを加えることでそのような主体の認識を異化する点にある。これは作品内の現実音が電子音にせめぎあうエロワ──『ヒュムネン』のシュトックハウゼンしかり──とは似て非なる志向性ないしは作者の位置をもつのだが、『formula』の石原洋はどちらの側にたつのかといえば、おどろいたことに両方に足をかけているのである。
 とはいえ『formula』は前衛音楽ではない。作者にはロックへのこだわりがある。こだわりというより刷りこみというべきだろうか。おそらくそこには信仰めいたものとは無縁の探究があった。その遍歴はインタヴュー記事でご確認いただきたいが、リヴィング・エンドを前身に1985年に結成したホワイト・ヘヴンにはじまりソロの前作にあたる23年前の『Passivité』をへてザ・スターズへ、ゆらゆら帝国やオウガ・ユー・アスホールのプロデュース業と並行した石原洋の道程はきらびやかさともちがう鈍色の輝きだった。私はホワイト・ヘヴンの演奏にはいまはなき仙川のゴスペルなどで何度かふれたが、失礼ながらお客さんもそんなに多くはなかったし盛大にもりあがっていた記憶もない。曲はすべて英詞なのもあって「海外と国内での評価差がもっとも激しいバンド」というのがモダーン・ミュージックの店主でレーベル〈PSF〉を運営した生悦住英夫氏をはじめ、ホワイト・ヘヴンを語るにあたっての枕詞のようになっていたが、当人にはたしてその実感があったかどうかはさだかではない。さえぎるもののない正午の庭に佇むとき、不意におとずれる真空のようなハレーションをサイケデリックと呼ぶなら彼らはその典型だが、表現のつよさに重きを置く世相に埋もれがちだったというか地味に映った。いや滋味があったというべきであろうが、科学調味料めいた音にまみれた耳には彼らのサウンドは文字どおり遠かった。その一方で、石原の弁によれば、1980年代初頭に新規性が頭打ちになったロックの形式にとどまる音は速さもかねていた。この「速さ」なる概念にはあの阿部薫の「僕は誰よりも速くなりたい」にはじまる神秘的なセンテンスを彷彿するが、石原の「速さ」はおそらく阿部の念頭にある主体における体感の絶対性ではなく、他者との関係から導く相対速度のニュアンスにちかい。あたかも私たちのより遠くの銀河がより速く遠ざかるように──

 さいわいホワイト・ヘヴンのレコードとしてははじめてのリリースである1991年の『Out』は〈PSF〉のカタログをひきついだ米国西海岸の〈ブラック・エディション〉がさきごろリイシューしたので、未聴の方はぜひご堪能いただきたいが、リマスターによりダイナミックに生まれ変わったサウンドを耳にしてあらためて思ったのは、巧みな曲づくりと抑制をきかせながらもはげしくうねるアンサンブルの妙味である。気をてらうところはないが、趣味性と批評性からくる内的必然性にきわめて忠実な石原洋の方法論は『Out』以降のホワイト・ヘヴンの諸作にも通底し、フランス語の「受動性」を表題に冠したソロ作『Passivité』を緩衝地帯に、ここに参加した栗原道夫やゆらゆら帝国の亀川千代もメンバーに名を連ねたザ・スターズでは作品の意図が直截的になったきらいがあった。能動的(アクティヴ)になったとまではいわないが、音楽はどのように聴かれ伝わるのかという意識(の「速度」の何割か)をプロデュース業にふりむけたことで、作品が負う荷が逆説的に軽くなったというか、楽器を手にとり曲をつくり演奏することと他者と協働で録音物を制作する行為がまったく等価になったというか。この考えを敷衍すれば、その両面をみわたさなければ石原洋はつかめない。知名度のわりになにをしているひとかいまひとつわかりにくいのも、おそらく石原のこのような立ち位置に由来する──のだとしたら、両者を調和する『formula』こそ、秘めた全貌をはじめて世に問う作品ではないか。
 との見立てのもとに『formula』を手にとられた読者はロックの領野ではすこぶる独創的な構想の前で右往左往されるかもしれない。先に述べたとおり『formula』を構成するおもな要素はフィールド・レコーディングと楽曲パートである。数え方にもよるが、楽曲のパートは五つないし六つ、それがフィールド録音と融合する、その全体がひとつづきの曲なのだという石原の言を念頭に『formula』を再生すると、地の底からわきあがるようなノイズが雑踏の喧噪に溶解し、1分半すぎの「プレスク・リエン」風のフランジャーにあなたはいま聴いているのは窓の外の騒音ではなくスピーカーからの音だと気づくだろう。ほどなくバンドの合奏がはじまって聴き手はひと安心だが、おずおずと雑音に踏み入るような曲調はアルバムの幕開けにありがちな威勢のいいものではない。石原のほかに盟友栗原ミチオ(ギター)、山本達久(ドラム)と北田智裕(ベース)のリズム隊に、レコーディングスタジオであるピースミュージックを運営する中村宗一郎らが参加する演奏はそれだけとりだしてもすばらしいにちがいないが『formula』の世界ではなんら特権的な存在にはあたらない。
 それにしても私たちはふだんなんと多くのノイズにとりまかれていることか。またノイズなる言い方ですぐそばにある無数の情報をいかにのっぺりした概念におとしこんでいることか。『formula』を聴いて、あなたが最初に思ったのはそのようなことではなかったか。そのことは足音ひとつとっても、男性のそれとヒールを履いた女性の靴音では音色にちがいがあるのでわかる。さらにそれらの音色は足の運びからくる個別のビートをもち、よりあつまれば、都市の、人間の生活空間をかたちづくる。本作の制作にあたって、石原はいくものフィールド録音に耳をとおしたという。そのことは電車の音、子どもたちの声、バイクの発進音、モーターらしき音など、五線譜に乗らない音がたんに異化作用のためだけでなく、楽曲パートとゆるやかにシンクロし、地も図もないだまし絵のような音響空間を構築するのでもわかる。たとえば元キャバレー・ヴォルテール~ハフラー・トリオのクリス・ワトソンら、フィールド録音の作者たちが取捨選択という透明な人為で録音に介入するのに比して、石原洋は録音物の内と外をこれみよがしに行き来する、その
公式フォーミユラ
はしかしメタ性語りで語り尽くせるほど簡便なものではない。作者の自意識や、インタヴューでも言及するヒューマニズム(人間中心主義)への違和とも深くかかわる表現におけるヒューマニティの変質が兆していたはずだが、そのことについて述べはじめると長々とした文章がさらにのびそうなので別稿にゆずる。

Joy Orbison, Beatrice Dillon & Will Bankhead - ele-king

 きたきたきたー! ファッション・ブランドの C.E がまたもやってくれます。彼らが仕掛ける2020年最初のパーティは〈Hinge Finger〉および〈The Trilogy Tapes〉との共催で、両レーベルからおなじみジョイ・オービソンとウィル・バンクヘッドが出演、さらに、先月〈PAN〉よりすばらしいアルバム『Workaround』をリリースしたばかりのビアトリス・ディロンが加わります。前売りチケットは出血大サーヴィスの1500円。これは行かない理由がありません。4月10日は VENT に集合。

C.E、〈Hinge Finger〉、〈The Trilogy Tapes〉共催によるパーティが VENT で開催に。Joy Orbison、Beatrice Dillon、Will Bankhead が出演

C.E (シーイー)による2020年度初となるパーティが、2020年4月10日金曜日に表参道の VENT を会場に、Joy Orbison (ジョイ・オービソン)、Beatrice Dillon (ビアトリス・ディロン)、Will Bankhead (ウィル・バンクヘッド)の3名をゲストに迎え開催となります。

洋服ブランド C.E が〈Hinge Finger〉(ヒンジ・フィンガー)、〈The Trilogy Tapes〉(ザ・トリロジー・テープス)の2レーベルと共催する本パーティのラインナップは、音楽プロデューサーDJ、英国の音楽レーベル〈Hinge Finger〉主宰の Joy Orbison、今年2月に初のソロアルバムをベルリン拠点の音楽レーベル〈PAN〉(パン)よりリリースしたばかりの Beatrice Dillon、そして Joy Orbison と共同で音楽レーベル〈Hinge Finger〉、個人として〈The Trilogy Tapes〉を運営する Will Bankhead の3名です。

Joy Orbison は昨年19年の9月にデビュー10周年を迎えた、英国を拠点とする音楽プロデューサー、DJ、そして音楽レーベル〈Hinge Finger〉の主宰です。昨年19年には Joy O 名義で、〈Hinge Finger〉から「Slipping」を、〈Poly Kicks〉から「50 Locked Grooves」をリリースした他、Overmono (Truss&Tessela) とのユニット Joy Overmono として「Bromley / Still Moving」をリリースし、Off The Meds の楽曲のリミックス「Belter (Joy O Belly Mix)」をてがけました。

Beatrice Dillon は、UKはロンドンを拠点とするアーティスト、ミュージシャン、DJです。前述した〈The Trilogy Tapes〉や〈The Vinyl Factory〉、〈Where To Now?〉、〈Boomkat Editions〉などより楽曲をリリースするほか、Call Super や Kassem Mosse、Rupert Clervaux との共作、多種多様なアーティストの楽曲のリミックスも行っている。今年20年2月には、Kuljit Bhamra や Laurel Halo、Batu、Untold、Kadialy Kouyaté、Jonny Lam、Verity Susman、Lucy Railton, Petter Eldh、James Rand、Morgan Buckley らが参加し、マスタリングを Rashad Becker がてがけた、自身のキャリア初となるソロアルバム『Workaround』を〈PAN〉から発表しました。

Will Bankhead はダンスミュージックのファンだけでなく多くの音楽愛好家が信頼をおく英国の音楽レーベル〈The Trilogy Tapes〉の主宰で、前述した Hinge Finger の運営を Joy Orbison と共同でおこなっています。イギリスのインターネットラジオ局、NTSではマンスリープログラムを担当しています。

C.E, Hinge Finger, The Trilogy Tapes present

JOY ORBISON
BEATRICE DILLON
WILL BANKHEAD

開催日:2020年4月10日金曜日
開催時間:午後11時〜
開催場所:VENT (https://vent-tokyo.net/
当日料金:2,500円
前売り料金:1,500円 (https://jp.residentadvisor.net/events/1402254

※20歳未満の方のご入場はお断り致します。年齢確認のため顔写真付きの公的身分証明書をご持参願います。(Over 20's Only. Photo I.D. Required.)

Norma Jean Bell - ele-king

 ビッグ・ニュースの到着だ。サックス奏者として70年代から活動をつづける一方、ムーディマンとともにデトロイト・ハウスを牽引してきたノーマ・ジーン・ベルが、2008年の「Do You Wanna Party ?」以来、12年ぶりに新作をリリースする。レーベルは彼女自身の主宰する〈Pandamonium〉。アリサ・フランクリンのヴォーカルをフィーチャーしたA面の “Got Me A Mann” も気になるが、B面のタイトルがフランス語なのは、かの地に暮らすブラック・ミュージック・ラヴァーたちへの目配せだろうか(彼女の代表作のひとつ「I'm The Baddest Bitch」はかつて〈F Communications〉がライセンス)。ともあれ、これは買い逃せない1枚なり。

artist: Norma Jean Bell
title: Got Me A Mann / Libre comme un oiseau
label: Pandamonium

tracklist:
A side: Got Me a Mann
B side: Libre comme un oiseau (Free as a Bird)

disk union

King Krule - ele-king

 乾いている。3枚めのアルバムとなる『マン・アライヴ!』において、これまでのキング・クルールの音楽にあった湿り気は後退し、とくに序盤、ザ・フォールのようなポストパンクを思わせるドライな音質とクールな攻撃性が前に出ている。オフィシャル・インタヴューでアーチー・マーシャルは「もっと乾いた音にしたかった。それはかなり意識してた。ギター・サウンドにせよ自分のヴォーカルにせよ、リヴァーブやエコーという点でもっとドライなものにしたかった」と発言しているが、あくまで意図的な変化であったことがわかる。ビート・ジェネレーションの文化への憧憬があったのだろう、キング・クルールには1950年代のアメリカにおけるモダン・ジャズやブルーズのスタイリッシュな引用があったが、ここでは、70年代末の英国まで時代も空間もワープしているようだ。オープング、“Cellular” におけるパサついた音質で素っ気なく繰り返されるビートや無機質な電子音、断片的なサックスのフレーズ。ギターは叙情的だが、かえって異化効果を高めている。あるいは、簡素きわまりないリズムとぶつぶつと乱暴に放たれるばかりのヴォーカルの組み合わせで始まる “Supermarché” はそのまま、“Stined Again” の混沌を導いてくる。ピッチを外したギターとフリーキーに交配されるサックス、音程を取らずに吐き捨てられるマーシャルの叫び──「またハイになってしまった」。そこでは無軌道な音たちが散らかっている。

 アルバムは後半に向かってメロウになり、“The Dream” のアコースティックでジャジーな響き、“Theme for the Cross” のピアノの音、“Underclass” におけるムーディなサックスの調べなど、穏やかさや甘さを感じさせる瞬間も少なからずある。しかしそれ以上に、“Alone, Omen 3” のノイズのなかでトリップするような体温の低いサウンドに耳を強く引きつけられ、強烈なまでにダビーな音響に酩酊させられる。重さや暗さはいつでもキング・クルールの音楽の危うい魅力だった、が、これまではもっと聞き手を包みこむような柔らかさを有していたと思う。『マン・アライヴ!』には、無調やノイズ、インダストリアルなビートに象徴される乾いた音によって容赦のない力で引きずりこむような、冷えたダークさがある。
 マウント・キンビーブラック・ミディなど、英国ではポストパンクを更新する若いアーティストが目立っているが(プロデューサーとして参加しているのは、マウント・キンビーやサンズ・オブ・ケメットを手がけているディリップ・ハリス)、キング・クルールもまたそのひとりに挙げられるだろう。前作『ジ・ウーズ』からその傾向を強くし始め、本作でより明確にその意思を見せているマーシャルは、そして、21世紀のジャンル・ミックスを踏まえつつも、ポストパンクの冷たい音を借りて彼の厭世観を深めているように見える。

虐殺が起こっている
陸で
海で
僕には見える
掌のなかに
(“Cellular”)

最下層にいる
社会の穴の奥深く
最後にきみを見たのはそこ
僕らはみんなその下にいた
戻って来るという感覚はたしかにあった
だけどそうはならなかった
(“Underclass”)

 「新世代のビート詩人」などとリリカルに形容されることも少なくなかったマーシャルは、しかし、『マン・アライヴ!』では路上のロマンを掲げるよりも、この世で起きている悲惨な現実をテレビを通して呆然と見ている。そして遠くで起きていることが、自分の身に迫っているものに感じられるのだとつぶやく。それは彼にとって、錯覚ではないのだろう。
 前作から本作までの間に、マーシャルはフォトグラファーのシャーロット・パトモアとの間に娘が生まれたことを公表している。本作に収録された楽曲は娘が誕生する前にできていたそうだから、ここで見られる厭世観は子どもを持つ以前のものだということだ。そうした失意はもちろん、これまでの彼の作品にも色濃く影を落としていた。しかしどうなのだろう。果たして、いまの世界は子どもが生まれるのが喜ばしいと思える場所なのだろうか。僕には、『マン・アライヴ!』のさらなる重さはこれから親になる世代の不安や混乱と同調しているように感じられる。そうした恐れは親にならない選択をした者にとっても同様で、世のなかの反出生主義のような流行りは、ある意味ではそれに対する逃避的なリアクションだろう。アーチー・マーシャルの音楽のなかでは、未来が明るく感じられないこと……が、ポストパンクの記憶と重なる。
 しかしだからこそ、かつて『シックス・フィート・ビニーズ・ザ・ムーン』というタイトルで死のイメージを持ち出していた痩せっぽちな少年はいま親となり、「生」にエクスクラメーションマークをつけて叫ぶのである。死を甘美に夢見るのではなく、むしろ過酷な生を選択するのだと。だから『マン・アライヴ!』は、不安や恐れを撒き散らしながらも、反出生主義のような「夢想」に反発する。どれだけそこが酷かろうと、まずは現実から目を逸らさずに絶望することから始めること。だから音は醒めてなければならなかった。
 ヘヴィな作品であるとはいえ、どうにか聴き手をなだめるようなところもある。“Alone, Omen 3” はメランコリックでダウナーな響きがやがてノイズに飲みこまれていくトラックだが、そのノイズのさなか、マーシャルは「きみは独りじゃない」と繰り返す。この世界に絶望しているのはきみだけじゃない、という逆説的な力──それが、明日をどうにか生き抜くために必要なものとして、暗闇からひっそりと鳴らされている。

interview with Kassa Overall - ele-king

 2019年にリリースされたジャズ・アルバムの中でも、ひときわ新しさと面白さに満ちた作品があった。カッサ・オーヴァーオールによる『ゴー・ゲット・アイス・クリーム・アンド・リッスン・トゥ・ジャズ』である。カッサはニューヨークで活動するジャズ・ドラマーだが、同時にラッパーやトラックメイカーとしての顔を持ち、『ゴー・ゲット・アイス・クリーム・アンド・リッスン・トゥ・ジャズ』にはそうしたふたつの要素が融合されていた。ヒップホップやエレクロニック・ミュージックを取り入れたジャズはもはや目新しいものではなく、そのスタイルも日々更新されている。そうした中で『ゴー・ゲット・アイス・クリーム・アンド・リッスン・トゥ・ジャズ』を見ると、ヒップホップの要素ひとつとってもエクスペリメンタルな要素が強いもので、メインストリーム的な色合いが強いロバート・グラスパーやクリス・デイヴなどとは異なっている。またそれだけにとどまらず、ビート・ミュージックからフットワークなどさまざまな断片が顔を覗かせるアルバムで、フライング・ロータスあたりに繋がるところも見出せるが、フライロー周辺のサンダーキャットカマシ・ワシントンらロサンゼルスのジャズとは明らかに異なる空気があって、そこはニューヨークならではのものだろう。シカゴのマカヤ・マクレイヴンのようなフリー・インプロヴィゼイション・スタイルともまた違っていて、エレクトロニック・ミュージック的なコラージュ感が強い。とにかく、グラスパーに代表される新世代ジャズの誰とも違っていて、それらのさらに一歩先を行くようなアルバムだったのだ。

 『ゴー・ゲット・アイス・クリーム・アンド・リッスン・トゥ・ジャズ』における新しさにスポットがあたりがちだが、カッサはジャズ・ミュージシャンとしてもさまざまなアーティストとの共演で研鑽を積んでおり、特に女流ピアニストでコンテンポラリー・ジャズの世界に大きな足跡を残した故ジェリ・アレンのバンドで活動してきたことが知られる。そうした人脈を広げながらジャズ界でのキャリアを重ね、『ゴー・ゲット・アイス・クリーム・アンド・リッスン・トゥ・ジャズ』には故ロイ・ハーグローヴはじめ、アート・リンゼイ、カーメン・ランディなどベテランや実力者が多数参加していた。昨年は現在の女性ジャズ・ドラマーの最高峰であるテリ・リン・キャリントンのグループにも参加している。

 そんなカッサ・オーヴァーオールがニュー・アルバム『アイ・シンク・アイム・グッド』を完成させた。『ゴー・ゲット・アイス・クリーム・アンド・リッスン・トゥ・ジャズ』は自主制作盤だったが、今回はジャイルス・ピーターソンの〈ブラウンズウッド〉からのリリースだ。それだけカッサが注目されている証でもある。今回もセオ・クローカー、ブランディ・ヤンガー、ジョエル・ロス、ビッグ・ユキなど注目すべき若手や精鋭ミュージシャンが多数参加しているが、驚くべきことに1960年代の黒人解放運動で勃興したブラックパンサー党に属し、社会活動家にして作家として活動してきたアンジェラ・デイヴィスがヴォイス・メッセージを贈っている。聞くところによればアンジェラはカッサのファンだそうで、今回のコラボが実現したらしい。このアンジェラの参加に象徴されるように、『アイ・シンク・アイム・グッド』はメッセージ性の高いもので、『ゴー・ゲット・アイス・クリーム・アンド・リッスン・トゥ・ジャズ』に比べて歌詞が重要な役割を担っている。その歌詞はカッサの体験やこれまでの人生を反映したもので、ある意味で彼の内面をさらけ出している。アルバムのリリースに先駆けて、単独来日公演が組まれて日本を訪れたカッサに、これまでの活動からニュー・アルバムのことなどを訊いた。

『ケアフル・マダム』で学んだことは、アート・リンゼイの音楽に対するアプローチだね。彼はテクニックやスキルという部分よりも、世界観という部分で一枚のアルバムを作り上げてしまうことができる。そうしたアプローチを見ることは、自分をよりクリエイティヴにしてくれた。

今回は単独公演での来日となりますが、日本は何度目ですか? 2018年にアート・リンゼイのツアーで来日していましたが。

カッサ・オーヴァーオール(以下カッサ):今回で4回目だよ。

結構来ているんですね。日本ではあなたの詳細な経歴がまだ伝わっていませんので改めて訊ねますが、どのような環境に生まれ、どんな音楽を聴いて育ってきたのですか?

カッサ:生まれは西海岸のワシントン州のシアトルさ。両親はジャズが大好きで、アマチュアでミュージシャンもやっていたんだ。そんな音楽一家で育ったよ。実家のリビングにはピアノ、ドラム・セット、サックスが置いてあって、ほかにもレコードや4トラックのマルチ・レコーダーもあって、子供の頃それらは自分にとっておもちゃのようなものだった。
その頃いろいろな音楽を聴いてたけど、ジャズだとマイルス・デイヴィス、セロニアス・モンク、ジョン・コルトレーン、チャーリー・パーカー、サン・ラー、オーネット・コールマンとかのレコードを父が聴かせてくれたよ。ほかにクラシックやフォークのレコードも聴いてたね。当時は1980年代から1990年代初頭にあたるけど、パブリック・エネミーやDJジャジー・ジェフなどヒップホップもよく聴いてた。その頃の流行だったからね。そんな具合にジャズやヒップホップ、ブラック・ミュージックなどが自分の中で混じり合って、だんだんと自身の音楽性が作られていったんだと思う。

音楽教育はどのようなものを受け、プロのミュージシャンとしてはどうスタートしたのですか?

カッサ:いまだ自分がプロのミュージシャンだとは思ってなくて、いまもいろいろ学んでいる最中さ(笑)。
楽器を初めて手にしたのは小学生の頃で、兄と一緒に演奏していた。兄がサックスを吹いて、僕はドラムをやったんだ。中学、高校と進む中、シアトルのストリートでいろいろ演奏する機会があって、音楽コンテストや小さなフェスに出たりしていたよ。その頃から音楽の道に進もうと考えていて、オハイオの大学に進学したときは音楽科を専攻したんだ。ほかの仕事をやろうと思ったことはなくて、唯一バイトでやったのがベースボール・スタジアムでのピーナッツ売りなんだ(笑)。
大学を卒業してからニューヨークに出てきたんだけど、最初はここに住もうと思ってたわけではなく、単にショーやライヴを観たりと観光で来たんだ。でも町の雰囲気などがとても気に入って、そのまま居ついてしまったという感じだよ。

あなたの作品にもクレジットされるカルロス・オーヴァーオールというのがお兄さんですか?

カッサ:そうだよ。

ちなみにオーヴァーオールというのは変わった姓ですが、これは本名なのですか?

カッサ:うん、本名はフルネームでカッサ・ポルーシ・オーヴァーオール。ほら。(パスポートを見せてくれる)

ご両親のルーツはどこになるのですか?

カッサ:ふたりとも生まれたのはアメリカで、母はウィスコンシン州のマディソン出身でヨーロッパ系のアメリカ人。父はミシガン州出身のアフリカ系アメリカ人さ。

あなたはジャズ・ドラマーであると同時に、ビートメイカーやラッパーとしての顔を持つ特殊なタイプのミュージシャンです。どのようにしてこうしたスタイルへとたどり着いたのでしょうか?

カッサ:そもそも最初ジャズはジャズ、ヒップホップはヒップホップと区別してやっていたんだ。実家の2階にはピアノやドラム・セットが置いてあって、地下室にビート・マシンやミキサーなどが置いてあった。物理的に楽器演奏とトラック・メイキングを一緒にやる環境ではなくて、ジャズとヒップホップはバラバラでやっていたんだ。ジャズは学校できちんと学ぶもので、一方ヒップホップは友だちと楽しみながらやるものと、そういった違いもあったしね。でも、それぞれずっと別にやっていく中で、ここ3、4年くらいかな、ジャズのこことヒップホップのここを繋ぎ合わせると面白いんじゃないかなと分かってきて、それでふたつのサウンドを一緒にやるようになったんだ。

自分が尊敬するアーティスト、素晴らしいなと思う音楽家は、だいたいみな音楽に人生を捧げて、真摯に取り組んでいる人たちなんだ。「ジャーニー(探求)」とはそうした人生を指しているんだよ。

同じタイプのジャズ・ドラマー及びヒップホップ系のビートメイカーではクリス・デイヴ、カリーム・リギンズ、マカヤ・マクレイヴンなどが思い浮かびますが、彼らについて何か意識したり、影響を受けたところはありますか?

カッサ:うん、もちろんいま挙げた人に限らず、いろいろな人たちから影響を受けることはあるよ。でも僕の場合、前にも言ったようにジャズとヒップホップはずっと別々にやってきていて、最初からヒップホップのビート・パターンをドラムで実演するといったようなことはやっていなかった。そのあたりがクリスのようなドラマーとの違いで、ヒップホップに合わせてドラムを叩くというようなアプローチではなく、自分で演奏したジャズのドラムをサンプリングしてヒップホップのトラックで用いるというアプローチをしている。自分にとってジャズはあくまで生演奏で、ヒップホップはマシンを使ってビートを作るという具合に、やっぱり両者の間では違いがあるんだ。それら異なるものをコラージュして繋げていくというのが自分のアプローチなんだと思う。いろいろ影響は受けるけど、アプローチ方法は人それぞれなんじゃないかな。

そのジャズとヒップホップをコラージュするようになった、何か具体的なきっかけとかはあるのですか?

カッサ:アルバムの『ゴー・ゲット・アイス・クリーム・アンド・リッスン・トゥ・ジャズ』を作る前までは、たとえばヒップホップのトラックを作ってミュージック・ビデオでラップをしている僕の姿を見る人がいたとする。でもライヴハウスに行ったらもっとストレートなジャズを演奏していて、そうした僕のふたつの別々のスタイルを見た人は混乱するんじゃないだろうか、そんなことを考えてね。そこから自分は一体どんな音楽家なんだろうともっと考えるようになって、そのときにふたつのことを同時に一緒にやったら、人々からはもっとポジティヴな反応が得られるんじゃないかなと、そう思うようになったんだ。ミュージシャンとしての自分をもっとわかってもらえるんじゃないかと考え、そうしてジャズとヒップホップを繋げてやるようになっていったんだ。

以前トゥースペーストというヒップホップ・ユニットを組んでましたね。ここではどんな活動をしていたのですか?

カッサ:あれはエクスペリメンタルなヒップホップ・ユニットでね、元カノとちょっとだけやっていたんだ。だからあまり知ってる人はいないかもね。いい音楽をやってたんだけど。

ジャズ・ミュージシャンとしてはジェリ・アレンやケニー・デイヴィスと組んだタイムラインというグループで活動したほか、ヴィジェイ・アイヤー、アート・リンゼイ、セオ・クローカーなどと共演してきています。特に2017年に他界してしまったジェリ・アレンからの影響が大きいと思いますが、彼女との共演からいろいろ学びましたか?

カッサ:ジェリは偉大なミュージシャンで、亡くなってしまったいまでも彼女からは多くのことを学ばされる。昔一緒に演奏していたとき、ああしたらいいよ、こうしたらいいよといろいろアドヴァイスを受けて、手取り足取り教えられた。そのときはどういうことかわからなかったこともあったけど、いまそれがわかってくることがあるんだよ。

ジェリはあなたにとってジャズの先生みたいな存在だったわけですね。

カッサ:そうだね、先生、いや僕にとってジャズのゴッドマザーのような人だよ。

昨年はテリ・リン・キャリントンのグループのソーシャル・サイエンスにも参加し、アルバム『ウェイティング・ゲーム』もリリースしていますが、彼女との交流もジェリ・アレンとの繋がりから生まれたのですか?

カッサ:うん、テリもジェリ・アレンと一緒に演奏していたから繋がりがあって、ジェリが亡くなった後にその遺志を継ぐというわけじゃないけど、距離が近くなって、一緒にやるようになったんだ。

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良い音楽を作るためには生々しいトピックだったり、真実に基づいた経験についても触れなければいけない。そうしたリアルさ、複雑さがときにベストなものを作る。自分を振り返って、掘り下げた歌詞を書いていくことは、一種のセラピーのような行為でもあるんだ。

アート・リンゼイのアルバム『ケアフル・マダム』(2017年)では、あなたが現代的なビート感覚をもたらすなど重要な役割を担っていました。彼との活動があなたの創作活動にフィードバックされた点などありますか?

カッサ:『ケアフル・マダム』で学んだことは、アートの音楽に対するアプローチだね。それまでの僕のアプローチとはまた違うもので、彼の場合は音楽的なテクニックやスキルという部分よりも、世界観という部分で一枚のアルバムを作り上げてしまうことができるんだ。そうしたアートのアプローチを見ることは、自分自身をよりクリエイティヴにしてくれたと思うよ。

ファースト・アルバムの『ゴー・ゲット・アイス・クリーム・アンド・リッスン・トゥ・ジャズ』は、2019年のアルバムの中でもこれまでになかったジャズの新たな可能性を提示した素晴らしい作品でした。ジャズの生演奏とビート・ミュージックやヒップホップ、トラップやジュークなどエレクトロニック・ミュージックが融合し、フライング・ロータスなどを連想させる場面もありましたね。

カッサ:もちろんフライング・ロータスにも影響は受けている。彼は純粋なインストゥルメンタル・プレイヤー、即興演奏家ではないけれど、どうやって楽器を用いながらビート・ミュージック音楽を作っていくかというのは自分でやっていなかった部分なので、その面ではいろいろ影響を受けたと思う。『ゴー・ゲット・アイス・クリーム~』に関しては、フライング・ロータスのやってるジャズとビート・ミュージックとかの融合のまた別ヴァージョン、そんな面があるだろうね。フライング・ロータスのアプローチと僕のやっているアプローチには同じところもあれば、また違うところもある。そうした意味で別ヴァージョンということさ。

このアルバムではアート・リンゼイ、セオ・クローカー、カーメン・ランディなどのほか、ロイ・ハーグローヴとも共演しています。2018年に彼が亡くなる直前のレコーディングだと思いますが、どのようなセッションでしたか?

カッサ:素晴らしかったね。自分にとってとてもやりやすいものだった。ロイから本当に大きなインスピレーションを受けたわけだけど、彼は昔からニューヨークのジャズ・シーンの知り合いで、いつかコラボしたいねと言ってたんだ。なかなか機会がなくて時間がかかってしまったけど、こうやって一緒に演奏するときが巡ってきて、とても興奮したよ。彼がスタジオにやってきて、パーフェクトな演奏をしてくれて、2、3時間で全て録音することができた。
彼とレコーディングしたときは、まだアルバムとしてどうリリースするかまでは決まってなくて、いろいろ悩んでいた頃だったんだ。でも一緒にやっていい録音をすることができて、アルバムを出すのならこのタイミングだなと思ったんだ。そうした面でも彼の与えてくれたインスピレーションはアルバムを出すにあたってとても大きなものだったと思うよ。

ニュー・アルバムの『アイ・シンク・アイム・グッド』はジャイルス・ピーターソンの〈ブラウンズウッド〉からのリリースとなります。どのような経緯で契約を結んだのですか?

カッサ:『ゴー・ゲット・アイス・クリーム~』をリリースしたとき、ジャイルスにラジオでかけてもらいたかったからアルバムを送ったんだ。彼も気に入ったみたいでかけてくれてね。そうして『アイ・シンク・アイム・グッド』が完成して、ジャイルスを含めていろいろな人にサンプルを送ったんだけど、そんなときにたまたまツアーでヨーロッパに行くからインタヴューとかをセッティングしてもらえないかと彼に相談したところ、『アイ・シンク・アイム・グッド』もすごくいいから彼のレーベルからライセンスして出せないだろうか、という話になってね。そんな具合にタイミングが重なってリリースすることになったんだ。

アルバムには来日公演でも一緒のモーガン・ゲリン(サックス)、ジュリアス・ロドリゲス(ピアノ)に、前作でも共演したサリヴァン・フォートナー(ピアノ)、セオ・クローカー(トランペット)から、ブランディ・ヤンガー(ハープ)、ジョエル・ロス(ヴィブラフォン)など現在のニューヨーク・ジャズ・シーンの期待の若手プレイヤーまで、多数のミュージシャンが参加しています。特にピアノ/キーボードではジュリアスやサリヴァンのほか、ビッグ・ユキ、ヴィジェイ・アイヤー、アーロン・パークス、クレイグ・テイボーンと多彩な面々とセッションしていて、それぞれ持ち味の異なる鍵盤奏者との共演がアルバムをよりクリエイティヴなものに導いている印象を受けるのですが、いかがでしょう?

カッサ:そのとおりだね。ひとりの優れたピアニストと組んでアルバムを作ることも、それはそれで素晴らしいことだと思うけど、このアルバムに関してはたくさんの優れたアーティストたちと組んで、それを一枚の作品としてまとめたいと考えた。その方が聴いている人たちも退屈しないからね。

“ショウ・ミー・ア・プリズン”には公民権運動の活動家で作家でもあるアンジェラ・デイヴィスが電話越しのメッセージで参加して驚かされました。この曲は監獄と囚人を題材とした作品ですが、彼女はどのようなきっかけで参加したのでしょう?

カッサ:アンジェラは『ゴー・ゲット・アイス・クリーム~』を出したときから僕をサポートしてくれていて、中でも“プリズン・アンド・ファーマスーティカルズ”という曲がお気に入りだったんだ。彼女の地元のオークランドやサンフランシスコやのラジオ局でもよくかけてくれて、いい曲だと言ってくれていたんだ。それで今回の“ショウ・ミー・ア・プリズン”を作ったとき、その歌詞の内容が持つヘヴィーさ、シリアスさというものを、どうすればより効果的に伝えられるかなと考えて、アンジェラの肉声が入ったらとてもいいんじゃないかなとアイデアが浮かんだんだ。それで彼女にヴォイス・メールを頼んだところ、快諾してもらえて入れたんだよ。

どこでも活動できるという意味でバックパック・プロデューサーと言っているわけだけど、スタジオだけじゃなく友だちの家でも、泊っているホテルでも、気がむいたらどこでも音楽はできる。時間を気にすることなく、納得がいくものができるまで続けられるというのも利点。

ヴィジェイ・アイヤーと共演した“ワズ・シー・ハッピー”は前述のジェリ・アレンに捧げた曲です。この曲に出てくる「ジャーニー(歌詞カードの和訳では「探求」)」という言葉はあなた自身の音楽や人生についても降りかかってくるのではと思うのですが、いかがでしょう?

カッサ:ジェリ・アレンが亡くなってからのある日、ヴィジェイとディナーをしてたときにジェリの話になって、彼から「彼女は幸せだったのかな?」と訊ねられたんだ。そんな会話がもとになって生まれた曲なんだけど、ジェリは彼女の人生や時間を全て音楽に捧げているような人だった。音楽は自分の使命であると、そんな風に考えるとてもまじめな人だったんだ。いざ音楽から離れて、彼女自身の幸せとか楽しみがあったのかなと考えてみるんだけど、でもジェリにはそんな時間なんてなかったんだよね。自分が尊敬するアーティスト、素晴らしいなと思う音楽家は、だいたいみなジェリみたいに音楽に人生を捧げて、真摯に取り組んでいる人たちなんだ。「ジャーニー(探求)」とはそうした人生を指しているんだよ。

今回のアルバムはあなたの詩人としての才能が大きく表れていて、そこにはかつて精神疾患を患い、躁鬱病で学生時代に入院した経験が反映されています。そんな体験から生まれた歌詞が多いのですが、そうした過去を隠す人が多い中、どうして自ら発信したのでしょうか?

カッサ:僕にとってのメインのゴールは良い音楽を作るということなんだ。そのためには今回のような生々しいトピックだったり、真実に基づいた経験についても触れなければいけないなと思ったんだ。そうしたリアルさ、複雑さがときにベストなものを作る。これまでは作品の中で深く自分自身を掘り下げていくということをあまりしてこなかったけど、今回はそうしたディープなところに挑戦したアルバムだと思う。同時にそうやって自分を振り返って、掘り下げた歌詞を書いていくことは、自身にとっての一種のセラピーのような行為でもあるんだ。

アルバム・ジャケットには少年時代のあなたの写真を使っているようですが、それもかつての体験に繋がっているのですか?

カッサ:あれは彼女のアイデアだから、訊いてみてよ。(同席していたガールフレンドを指す)

ガールフレンド:私とカッサは7、8才の頃に知り合ったんだけど、学校で同級生のときに撮った写真がこれなのよ。この写真のカッサの表情がずっと私の中には残っているわ。とても優しく笑っているんだけど、その中にちょっとプライドも感じさせて、すごくいい表情なの。それから彼が着ているバスケットボールのジャージもすごく似合ってるわね。彼がアルバムのことを話してたとき、この写真がジャケットにいいんじゃないかなと思って、それで勧めてみたの。

あなたは自身についてバックパック・プロデューサーだと述べていますね。リュックなどにラップトップを入れてどこでも音楽を作り、行く先々でいろいろなミュージシャンとセッションするということなのかなと思いますが、『アイ・シンク・アイム・グッド』はベッドルームで作ったトラックが、街に出てミュージシャンたちとのセッションによって完成されたものと言えますか?

カッサ:そうだね、どこでも活動できるという意味でバックパック・プロデューサーと言っているわけだけど、スタジオだけじゃなくて友だちの家でも、泊っているホテルでも、気がむいたらどこでも音楽はできるんだ。それとスタジオだとどうしても時間に縛られるよね。そんな時間を気にすることなく、納得がいくものができるまで続けられるというのもバックパック・プロデューサーの利点だと思うよ。

Lorenzo Senni - ele-king

 ようわく待ちわびた日が訪れる。それまで〈Editions Mego〉などから作品を発表していたミラノの電子音楽家ロレンツォ・センニが、UKの名門〈Warp〉と契約を交わしたのはもう4年も前。以後彼は着々とシングルやEPのリリースを重ね、昨年の〈Warp〉30周年を祝うオンライン・フェスにも参加していたわけだけれど、他方で彼はレーベル〈Presto!?〉の主宰者でもあり、去年は BRF 名義で知られる東京のタショ・イシイによる力作『Dentsu2060』(紙エレ最新号114頁)を送り出してもいるが、ここへきてついにセンニ本人のフルレングスの到着だ。トランスなどを解体して転生させる彼独自の手法=「点描」がいかなる進化を遂げたのか、しかとこの耳でたしかめよう。

Lorenzo Senni
エイフェックス・ツインも認めた鬼才、ロレンツォ・センニ。
〈Warp〉移籍後初となる最新アルバム『Scacco Matto』を4月24日(金)にリリース!
トランス、レイヴ、ポップ、クラシックまで内包した点描エレクトロニック・ミュージック!
新曲 “Discipline of Enthusiasm” を公開!

イタリアのミラノを拠点に活動するロレンツォ・センニ。トランス〜レイヴを解体した彼にしか作り出せない最先端のサウンドによって注目を集め、エイフェックス・ツインがライヴセットでヘビロテするなど話題を呼んだ彼が、〈Warp〉からは初めてとなる待望の最新アルバム『Scacco Matto』を4月24日にリリースすることが決定し、同時に収録曲 “Discipline of Enthusiasm” を先行解禁した。

Lorenzo Senni - Discipline of Enthusiasm
https://www.youtube.com/watch?v=qNlbN_YZHFY

〈Warp〉からの初リリースとなったEP「Persona」から4年、彼はこの期間、ミラノを拠点にロンドンのテート・モダンやパリのポンピドゥー・センター、ヴェネツィア・ビエンナーレ2019他、様々な場所で展示やパフォーマンスを行って芸術分野を探究するアーティストとしての活動を行い、更に自身が率いるレーベル〈Presto!?〉からは日本人コンポーザー Tasho Ishi による作品『Dentsu2060』をリリースし、ここ日本でも話題になるなど、幅広い活動を見せてきた。

4月にリリースされる最新作『Scacco Matto』では、センニ独自の「点描」の技法が用いられている。制限を加えられ張りつめたサウンドは、ドラム抜きのリズムとメロディーが主体となり、その中で今作は楽曲としての構造がより鮮明になっている。こうした大胆なサウンドを提示しながら、彼はトランス・ミュージックを巧みに操り、予期せぬサウンドを発生させ、新しい音楽形態を作り出している。

トランス、レイヴ、ポップ、さらにはクラシックから参照された様々な要素は、デジタル化され、まるでベンディドットの技法(水玉模様の大きさや密度によって、さまざまな色合いや濃淡を表現する技法で、限られた色数でも表現できることから印刷技術などに用いられる)で描いたような世界を構成している。

アルバム・タイトルは、イタリア語で「チェックメイト」を意味していて、それぞれのトラックには必ず「対戦相手」が存在する──言うなれば、僕は自分自身とチェスをプレイしているようなものだ。楽曲が適切と思える形になるよう真剣に取り組んだ上で、そこから都合よく別のアプローチに切り替えた。『Quantum Jelly』以後、温めてきたアイデアをどこまで押し進められるか確かめたかった。それを実行するためには、自分で制限と規則を課す必要があったんだ ──Lorenzo Senni

レコーディングに臨むに当たって、常に自分自身が直前に打った手、すなわち「対戦相手」と相反する行動を取った。「対戦相手」に立ち向かわなければならない、という障害があることで工夫を強いられ、結果、予想もしなかった興味深い手段を採用することができたのだ。

これはアルバムのアートワークにも反映されている──使われているのは、アメリカの世界的写真家ジョン・ディヴォラによる画像だ。絵画のように美しいカリフォルニアの風景を老朽化した窓枠越しに撮影したもので、窓枠には黒い塗料で複数の丸を描いた水玉模様がついている。

Zuma #30 と名付けられたディヴォラによる写真は、輝かしく色鮮やかで感動的な夕暮れが塗料で毀損された壁で切り取られていて、僕にとってこの画像は、壮大な景色に境界を設けて見る者を現実の世界に引き戻すように思える。感情を込めた音楽を作って、種々の制限にかかわらず抽象的な文脈で理解されるようにしたいという僕の意図や、そうしたふたつの要素を同じ作品で共存させなければならないという要求に、この写真は完璧に合致するんだ ──Lorenzo Senni

センニはディヴォラの作品に自身の実践が表れていると考える。彼はダンス・ミュージックを破壊するのではなく、既存の価値に風穴を開けようとしている。ダンス・ミュージックをばらばらに粉砕し、その破片でチェスをプレイする──そうして緊張状態を生み出し、そこから最終的な解決を導こうとしている。『Scacco Matto』とはチェックメイトのことだ──それは努力と戦略と創造的な心理プロセスを経て到達するべき究極の結果だ。

待望の最新作『Scacco Matto』は4月24日リリース! 国内盤には2曲のボーナストラック “Win in The Flat World”、“The Shape of Trance to Come” が収録され、解説が封入される。

label: Warp / Beat Records
artist: Lorenzo Senni
title: Scacco Matto
release date: 2020.04.24 FRI ON SALE

国内盤CD BRC-633 ¥2,200+税
ボーナストラック追加収録/解説書封入

TRACKLISTING
01. Discipline of Enthusiasm
02. XBreakingEdgeX
03. Move in Silence (Only Speak When It’s Time to Say Checkmate)
04. Canone Infinito
05. Dance Tonight Revolution Tomorrow
06. The Power of Failing
07. Wasting Time Writing Lorenzo Senni Songs
08. THINK BIG
09. Win in The Flat World *Bonus Track for Japan
10. The Shape of Trance to Come *Bonus Track for Japan

interview with You Ishihara - ele-king

 石原洋の23年ぶりのソロ・アルバムは、一か八かの思い切った作品だ。聴けたもんじゃねーと思う人もいるだろうし、稀に見る最高作だという人もいるだろう。これをやれば受けるだろーとか、こういうことを言えば評価されるだろーとか、媚びたところはまるでない、いかなるトレンドともまったく無縁な、いまどきなんとも大胆な作品である。
 石原洋はアルバムにおいて、街の雑踏における音を蒐集し、生演奏によるロックの曲にミックスする。がやがやした雑踏の向こうから聞こえるロック・バンドの演奏──などと書くと詩情も覚えそうだが、ここで聞こえるノイズは、子供から大人までの生々しいクソ日常的な声、笑い声、奇声、ボソボソ声、あるいははっきり言葉が聞き取れる声であったり、電車のホームのアナウンスであったり、ロマンティックな要素の欠片もない。しかも、作品においてはこれら耳障りな声やノイズのほうがバンドの演奏よりも前景化されている。が、しかしこの“音楽”にはある種の快楽性もある……かもしれない。
 まあ、音楽における快楽とは普遍的ではないのだ。それはその人の世界の見方に関わっている。つまり本作『formula』には、不可避的に石原の世界観が投射されている。思いきり、まるで容赦なく。

 石原洋は、ゆらゆら帝国のプロデューサーとして広く知られている人物であり、オウガ・ユー・アスホールの『Homely』から『ペーパークラフト』までのアルバムのプロデューサーである。偏ってはいるが、音楽リスナーとしての造詣も深い人物で、アーティストたちからも一目置かれた存在だ。
 また、彼がかつてやっていたホワイト・ヘヴンやスターズといったバンドのアンダーグラウンドにおける名声は、その筋のマニアから聞いてもいる。それはまあ、ぼくなりの印象をもってわかりやすく言えばスペースメン3のようなバンドで(異論は認めます)、慣習に従えばサイケデリック・ロックと括られる。厭世的で、いわば精神的シェルターのような音楽だ。が、石原洋の『formula』は、あたかもそうした“ありがちな体験”を反転させているかのようだ。
 たとえば君はスペースメン3を聴いている。そのサイケデリック・サウンドへの没頭をはばむかのように、鳴り止まぬことのない生々しい猥雑な日常音が鼓膜を覆う。それは君の「スペースメン3の白昼夢に耽溺したい」という欲望を踏みにじるかもしれないが、実は、いままで覚えたことのない〝気づき〟をうながすことにもなる。
 これはエクスペリエンス=体験である。以下のインタヴューが、この風変わりな作品を理解する一助になればさいわいだ。石原洋はじつに親切に、作品についていろいろ話してくれた。あとは各自勝手に妄想すること。

〝遠さ〟というものをずっと考えていてね。自分とそれ以外との距離感というか。昔はアナログ時代の音の悪いブートレグとかあったじゃないですか。会場で録ったような。はるか遠くのほうで演奏をしているのをマイク1本で録っているような。近くの客の声のほうがでかく入っている。そういう感じがいいなと当時からなぜか思っていたんです。

まずは今回のソロ・アルバムを作った経緯を教えてください。

石原:何年も何もやっていなくて。やりたい方法が見つからないというか、どんなやり方をすればいいのかというのをずっと考えていたんですよね。

作りたいという気持ちはつねにあったんですね。

石原:どこかにはあったと思います。このやり方だったらできるかもしれないというのが思い付いたのが2年前。そこから動き出したという感じですかね。ただ、最初に思いついた時点でこの完成形は頭のなかにあったので。

いちどバンドで録音した音源に雑踏の音を加えていく。

石原:そうです。雑踏というイメージも最初にあった。それと実際の演奏をどういうふうに混ぜ合わせてどういうバランスでミックスしていくかというのが難しいことでした。
基本的に〝遠さ〟というものをずっと考えていてね。自分とそれ以外との距離感というか。昔はアナログ時代の音の悪いブートレグとかあったじゃないですか。会場で録ったような。音の良いやつもあるけど、すごいひどいものになるとはるか遠くのほうで演奏をしているのをマイク1本で録っているような。近くの客の声のほうがでかく入っている。そういう感じがいいなと当時からなぜか思っていたんです。ヴェルヴェットの音が悪いやつとか、ルー・リードの音が遠いやつとかありますよね。

なんでなんでしょう?

石原:それは……なぜかはよくわからない(笑)。もともとこれだと言って、バコンッと目の前に提示するやり方が苦手だったんじゃないかと思います。アーティストにしてもミュージシャンにしても、みんな「これが」「俺が」って言って出すじゃないですか、「俺を見ろ」という感じで。もともとそれが苦手だったんです。「表現」なので当たり前のことなんですが、それが強すぎるのが苦手だったんです。

それは自己矛盾ですよね。

石原:そうですね。でも凸型の表現が昔から苦手でした。もちろんいいものとか好きなものはいっぱいあったけど。

その〝遠さ〟には、いろんな表現の仕方があるのかもしれないですね。人のざわめきのなかに埋もれてしまうことというのは重要だったんですか?

石原:すごく重要でしたね。雑踏とかざわめきを僕はデータみたいなものだと思っているんです。インフォメーション。たとえばそこを歩いている人と一生会うこともないわけじゃないですか。みんなスマホをやりながら歩いていたりで、見えはしないけれど、そこに会話とかサブリミナルな情報とか、BGM、Wi-Fi、電波とかものすごい量のデータがひしめき合っている。そのなかに埋没しかかっているんだけど、まだ完全には埋没していない音楽という。
ある意味コンセプチュアル・アートという捉え方もできると思うんです。ジャケも含めて。でもコンセプチュアルではあるけれど、アートだとは思ってないですね。だから本当に日常。日常を切り取ったものという感じ。
これは感覚として10代の頃からあったなと自分で認識しています。なので、急に思いついて「これいいんじゃない?」みたいな感じで作ったわけではなくて、たぶん10代の頃からこの感じがずっとあったんだなというか。ただずっとそのやり方がわからなかった。

それはある種の陶酔感ですか? サウンドに陶酔するような。快楽というか。

石原:自分にとっては快楽的だと思います。

ホワイト・ヘヴンやスターズといったバンドではそれをやってこなかった。なぜですか?

石原:バンドというものへの幻想はがすごくあったんだと思います。ひとつの思惑を持って集まってきた人たちで、何かを作れるというような。あの時点ではああいうやり方しかできなかったといえば正しいのかわからないけれど、それがギリギリできることだったのかなと思います。

石原さんの感覚にもっとも近い既存の作品は何かありますか? 

石原:ひとつの切り取り方として、リュック・フェラーリの“ほとんど何もない”とか、ジャン=クロード・エロワという現代音楽の作曲家の作品とか。でも、これらはあくまでも現代音楽のアプローチであって。僕はどうしてもロックの属性からは逃れられない。聴いてみていいなと思うけれど、それらと同じような方法論でやろうとは思わない。だから、自分のやり方でやるしかなかったんです。

石原さんがそこまでロックにこだわるのは何故でしょうか?

石原:それはけっこうみんなに言われますね(笑)。ここまで何十年も音楽をずっと聴いていたら普通違うジャンルとかいろんなものにいくでしょという話は聞きますね。実際に聴いてないわけではないです。興味があって、ジャズとかクラシックとかそれこそクラブ系とかね……インダストリアルも好きでしたね。ただ、どんな聴き方をするかというと、それと自分の考えるロックとの接点という聴き方をしちゃうんですよね。たとえばフリー・ジャズとロックとの接点。クラブ・ミュージックとロックとの接点みたいな。

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これは感覚として10代の頃からあったなと自分で認識しています。なので、急に思いついて「これいいんじゃない?」みたいな感じで作ったわけではなくて、たぶん10代の頃からこの感じがずっとあったんだなというか。ただずっとそのやり方がわからなかった。

モダーンミュージックで働かれていたのは何年から何年頃までですか?

石原:80年代後半、86とか87とかじゃないですかね。それから90年代。それまではお客さんでしたね。行き出したのは20代前半。店でバイトをしはじめたのは20代後半でした。

レコードを好きになったのは何歳くらいのとき?

石原:洋楽ですけど、中1ですね。最初は深夜放送ですよね。上の世代と同じで、洋楽のヒット曲とか。それでT・レックスを聴いて。聴いたことがない音楽だったのでね。その頃は“Easy Action”かな。すごいじゃないですか(笑)。すごい曲があるなと思って。そこから洋楽、ロックを聴くようになった。それが73年くらいですかね。
当時でも洋楽を聴いている友だちってクラスに何人かはいますよね。中1のとき、ものすごいマニアックに聴いているクラスメートがいて、「何聴いているの?」と訊かれたから、「T・レックス」とかって。「帰りに俺んちこい」って言われて。行ったら、他にもうひとり友だちが来ていて、そこで聴いたことがないような音楽が流れていたんです。それがキング・クリムゾンでした(笑)。
「こういうのもロックなの?」って聞いたら、「これがロックだ」って言われて(笑)。その友人ふたりがすごくマニアだったので、プログレ、ジャーマンロックとか聴きましたね。で、毎日帰りにレコード屋に行って、「これがいいよ」とか「あれがいいよ」とかやって、彼らから教わりましたね。高知だったのでそういうマニアックな少年たちはめずらしかったと思います。

当時はレコード屋さんが日本全国どんな地方都市にもありましたからね。

石原:東京で生まれたんですけど、親の転勤で大阪に引っ越しになって、小学校のときに高知に引っ越したんです。高知で中高を過ごして、中高のときはその友人たちに影響を受けて、日本で出ていない輸入盤を買ったり、よりマニアックに聴くようになってしまったという感じです。

石原さんにとってプログレは大きいですよね。

石原:大きいと思いますね。リスナー体験としてはね。ハード・ロックよりは大きい。結局僕もプログレからドイツのロックを聴き出して、でも高校生になった頃だんだんドイツのロックがどれも同じに感じてきて、聴いてはいたけどいまひとつ違和感があったときにパンクがきた。ジャーマン・ロックとパンクとニューウェイヴの一部が10代の頃の僕にとってはいちばん大きかったと思います。1977年に『ホテル・カリフォルニア』にいった人とピストルズにいった人で残りの人生が違うという説もありますよね(笑)。

その頃には音楽どっぷりの生活を?

石原:ほぼそれしかないという感じですね。ただ、バンドを自分でやることに当時は興味がなかった。いまでいえばポスト・パンク──当時はそういう言葉はなかったんですけど──ポストパンクが出てきて、「これはもしかしたら誰がやってもいいんじゃないか」とは思いました。あのスピード感がおもしろかったですね。半年前に「これがいまいちばんすごい」って言われていたものが、半年したら「まだそんなの聴いているの?」って言われる感じになっていく速さ。あの頃に10代後半を過ごしたのはすごい影響あった。
 大学でこっちに来て、でも大学にはそんなに行かずにひたすら渋谷でレコードと本を買って。その時代って日本盤が出るのがすごく遅かったり、ほぼ出なかったり。情報だけは入ってきたけど聴けなかったので、大学というよりも、東京にレコードを買いにきたようなもんですよ(笑)。
 住んでいたのが横浜なので、東横線で渋谷にきて、渋谷をまわって大盛堂とかで本を買って、かかえて帰って、朝まで聴いて、昼寝るという暮らしをしていました。ほとんど大学にはいかず(笑)。友だちもひとりもいませんから。大学にも行ってないし、引きこもりですよね。
 そうやって誰かと情報交換もせず感想も言い合うこともなく、ひとりでひたすら聴く行為によって、けっこうオブセッションみたいなものが育まれる。「これはなんだ?」と思って自問自答しながら聴いて、自分のなかで腑に落ちるところをみつけて……そんなふうに人の助けを借りずに、それが何かというのを考えていく作業はすごく重要だったし、重要な時期だったなと思います。
でも当時、もしいまみたいなシステムがあったとしたらあのときほど驚かなかったでしょうね。たとえば雑誌でスロッビング・グリッスルのすごいのが出たって見かけて、YouTubeで聴いて「はぁなるほど」で終わっていたら、こんなことはなかったかもしれない。

当時、石原さんご自身の将来のことは考えていました?

石原:まったく考えてなかったです。何になりたいとかどうやって食っていこうとか、そういうことは考えたことがなかったですね。お金がなくなるとレコードが買えないなとか、頭の片隅にはありましたけど。食いもんとかどういでもよくなるくらい、そっちに必死で。

最初に働いたのがモダーンミュージックだったんですか?

石原;ちょこちょこしたバイトはやりましたけど、長期でやるということはなかったですね。ある日いきなり生悦住さんに「買い付けにいかない?」と言われて。単なる客なのに。「普通客に頼まないよな」と思ったんですけどね(笑)。
知識があったから何かいいものを買ってくると思ったのかな。それで行って帰ってきたら、「前のバイトがやめたので、ひと月でいいからバイトしない?」と言われて。

それはおいくつのときだたんですか?

石原:26かな。もうそのときには東京に引っ越して。働きはじめて、その前からバンドの真似事はやっていました。

もうホワイト・ヘヴンははじまってますね?

石原:はじまってましたね。同じ世代の友だちとけっこう何かの縁でばったり、80年代半ばに会って。暇だしバンドやるかみたいな感じ。NYパンクとかが好きなので、そういうのをやらないかという話で。ノイズ、アヴァンギャルド的な音楽も好きでしたけど、それを僕があらためてやってもしょうがないみたいな感じはありました。

いわゆるサイケデリック・ロックによく分類されますけど、追求されたんですか?

石原:83年か84年くらいまで、ぼくはずっと最新の音楽をずっと聴いていたんですよ。83年か84年にロックからほとんど「これは!」と思うものが出てこなくなった。「もう聴くものないな」と思って、何を聴けばいいのかと思っていました。そこで聴いていなかったものを聴こうと思って。そういやサイケデリックってあったけど、聴いたことがなかいから聴いてみたいなと思って、聴きだしたのが最初です。『ポストパンク・ジェネレーション』という本を読んだら、まったく同じことが書いてあってびっくりしましたね。83年84年で新譜を聴くのをやめて、いままで聴こうとも思わなかったバーズやラヴを聴いて、それを良いと思う自分がいましたね。そこからは一直線にもっとマイナーなサイケ、ガレージに。個々のバンドが、というよりそれが総体としてどういうものだったのかを知りたかった。

それがホワイト・ヘブンに繋がっていくわけですね。

石原:その頃何を考えていたかといま思い出すと、すごく難しいこと。演奏の速さみたいなことはずっと考えていました。具体的な速さではなくて、意識の速さ、自分の演奏しているときの意識の速さと、演奏している肉体とのズレみたいな。そういうことを意識しながらやったりしていました。それが一足飛びに言うと今回のことにつながるんです。雑踏をミックスしている最中に雑踏の、というかデータの集積が持っているスピード感、速さというのがただごとじゃないということをプレイバックしていてわかって。意識してないのに、データとしてのものすごい速度というのがあって、これは普通に音楽をのせても絶対はじかれるなという速さだったんですよね。そう考えるとそれはずっとテーマにあるかもしれないです。

楽器はけっこう練習されたんですか?

石原:本当に嫌ですね……(笑)。楽器は嫌ですね。友だちもみんな知っていますけど、持つのも嫌なので、練習がまず本当に嫌いなんです。高校のときにギターを買ったことがあって、ロックとか聴いていたし、ギターを買ったらすぐに弾けるんだろうなと思っていて、やってみたら全然弾けないじゃないですか。まぁ当たり前ですけど(笑)。2、3日やったんですけど、めんどくさくてすぐやめちゃって。それからもうやらなくなって。一応曲は作りたいので、曲を作るときに何か楽器がいるなと思い、それでまたギターを。ただ握り方とか、AとかCとかDマイナーとかそういうのがいまだに僕はわからないです。こうこうこうってスタジオのメンバーに押さえ方を見せて。みんなが集まってきて、「これなんとかマイナーセブンですね」とか言って(笑)。それで練習に入る。

坂本慎太郎氏とはどういうふうに知り合うんですか?

石原:最初はモダーンのお客さんですね。そのときは親しくはなかったです。ゆらゆら帝国とホワイト・ヘブンの対バン。一緒にやりませんかと誘われて。でもいまみたいな関係ではないです。2バンドでライヴをやりましょうということで誘われて。それが何年か続きましたね。クロコダイルとかが多かったですね。
まだゆら帝がインディーの時代なので、恰好もすごかった時代ですね。上半身裸とか、髪型もすごい髪型で。おどろおどろしくやっていたんだけど、実際に会ってみると普通に良識のある人だったので、その流れでプロデュースという話になったんですよね。

プロデュースははじめて?

石原:そのときははじめてですね。坂本くんがこういう感じにしたいと言っても当時普通のエンジニアってわからないじゃないですかと。CANみたいな感じにしたいと思ってもカンを知らないし、ミニマルとかジャーマン・ロックとか言ってもわからないし。ガレージのこういう音とか言ってもわからないから。そういうのを具体的に伝えて欲しいみたいな感じだった。それがだんだんと、どういうものを作りましょうかというような関わり方をするようになってきた。

石原さんご自身は自分がプロデューサーとしてやろう、続けていこうというような意識はありました?

石原:頼まれたらやるみたいな感じですよね。リミックスもそうですけど。まったく接点がなかったらどうかと思いますけど、何かできそうだったらやるという感じです。自分のなかには一部のポストパンクへの愛着があって、でもホワイト・ヘブンやスターズでは意識的にそれを出さないようにしていたんです。たぶん、ポストパンク的なアプローチはプロデュースのところで僕は出していると思う。ゆら帝後期とか、オウガとか、ポストパンク的な手法を使っているということが自分でもわかる。坂本くんなんかはパンク、ニューウェイブをまったく通らなかった人らしいので逆に新鮮だったのかもしれないですね。ソロになってからの彼の音楽とゆら帝を比べればわかると思います。それから、オウガにそっちが受け継がれていった感じはありますね。オウガの『Homely』は、もう1枚ゆら帝でやっていたらこういうのになっていたのかなと思います。

自分のバンドをやろうとは考えなかったんですか?

石原:スターズを辞めた時点でバンドをやるつもりはなかったです。

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今回のテーマは無関心とかアノニマスとか。そういうことはすごくありましたね。雑踏のなかに含まれている。「あのさー」とか喋っている人たちがスマホひとつで日々を送っている。そういった膨大な情報、データが背後にずっとあって。そうはいかなかった自分というのがそのなかに混じっている。

では、今回の作品に戻りますが、作業的にもっとも時間を要したのはどこですか?

石原:ミックスですね。演奏の部分は3日か4日で終わっています。雑踏のトラックが30〜40あるんですよ。細かく刻まれた雑踏をいろいろ録ってきたやつが。で、それを全部自分の家で聴いて(笑)。

雑踏は録った場所には意味がありますか?

石原:そういう意図が入らないように、いろんな人に声をかけて、録ってきてって頼んだんです。そうしたら、渋谷とか新宿とかいろんなところに行って、みんなが録ってきてくれました。それでも足りなくて、けっきょく最後は自分で行きましたけど(笑)。それをパソコンに入れて、聴いて、使う箇所を決めて、それを全部スタジオに送って……。

使える雑踏と使えない雑踏があるんですね。

石原:ありますね。まず音楽が入っているのはダメだし。有名な曲とかが流れているとかね。使えないものがすごくあった。音が小さすぎて聞き取れないとか。

でも東京はすごくうるさい街です。

石原:それをはじくのが大変でしたね。一昨年から録りはじめて、去年の春前からレコーディングに入りました。ミックスを半年やっていましたね。

ちなみにバンドの演奏はどうやって録ったんですか?

石原:普通にスタジオで。ピース・ミュージックですよね。中村(宗一郎)さんのスタジオですよね。

バンドでは何曲録ったんですか?

石原:7、8曲録りましたね。ボツになったのが2曲くらいあって。実際雑踏と混ぜたら使えないというのがありましたね、楽曲と雑踏のスピードの齟齬がキツすぎて。とくにアクセントがウラに入っている曲は使えなかった。

今回は全部を2曲にまとめましたよね。1曲のなかにもいくつかの曲がある。それはなぜ?

石原:実質1曲なんですよね。最初から最後までで1曲なんです。アナログ制作をまず考えたので、1回切れて、B面みたいなイメージ。そこでフェードアウトするんじゃなくて、カットアウトするということがすごく重要だったので、最後にブツっと終わる。その間の曲が1曲2曲3曲というふうな考え方はしていなかった。

全部で1曲。つまり1曲ですよね。

石原:その前があるかもしれない。うしろがあってもいいんだけど、ここだけを切りとったものが作品になったという感じですね。

この感覚を共有できる人がいるかどうかみたいなところはどう考えました? つまりこれをおもしろがってくれるのかどうかという。

石原:難しいなというのはわかりますけど、作品って自分が思ってもみなかった楽しみ方、思ってもみなかったような使われ方でもいいですけど、そういうことが起きるかもしれない。僕はこう思っているけどそうではない捉え方をする人がいればそれは面白いし聞いてみたいなと思います。
できてしばらくしてから、ウォークマンみたいなやつにこれを入れて渋谷のスクランブルから歩いてみたことがあるんですよ。どれが現実の音でどれが録音された音なのか本当に混ざってけっこうおもしろかったですよ。

死んでいくロックを描いたという言い方はできるんでしょうか?

石原:僕の感じでは更新という意味では83年くらいに死んでいるので、いまさら感があるんですけど。遠ざかっていくロックという気はしますよね。すでに実際には終わっているんだけど、記憶のなかからすらも遠ざかっていくものがあるじゃないですか。忘れ去られはじめている。

逆説的に言えば、石原さんがそれだけすごくロックに執着されているということですよね。

石原:それはそうですね。クラブ・ミュージックにいけなかった自分のコンプレックスとは言わないですけど、なぜ純感覚的にそっちにいった人がいるのに、自分はとどまらなきゃいけなかったんだろうというのは一時は自問自答していましたね。

ロックでなければいけない理由が石原さんのなかにはあったわけですよね。

石原:自分との関係性があまりにも一方的に深かったということがありますね。

しかしなぜすべてを1曲に? 全部で8曲という構成でもよかったんじゃないのかなという気がします。

石原:曲単位で曲を聴くというのが習慣としてあると思うんですけど、1曲目が良かったとか2曲目が良かったとかになると、もう一回聴いて、ちゃんと曲の構造、例えばベースのこのラインとバスドラの何拍め位置が、とかを聴きとろうとするようになっていく。そこが主眼ではなかったので。そういう聴かれ方はしたくなかった。
とにかく、こういうものが作りたかったとしか言えないです。曲単位で、3曲目がいいとか4曲目がいいという感じではない。

物語性がまったくないですよね。

石原:物語性がなるべく出ないようにしました。それでも多少は出てしまっている。

それはなぜ嫌なんですか?

石原:そういう質問をされるのはすごくわかります。ある種のヒューマニズム的なものに対する自分のなかでの折り合いのつかない感覚がずっと子どもの頃からあるんですよ。パンクのなかでもクラッシュとか、そういうのがいまひとつダメだったし。クラッシュが好きな人と話が合わなかった。僕はそっちにいかなかったんですよ。

クラッシュが好きだった人の音楽ではないですよね(笑)。

石原:今回のテーマは無関心とかアノニマスとか。そういうことはすごくありましたね。雑踏のなかに含まれている。「あのさー」とか喋っている人たちがスマホひとつで日々を送っている。そういった無数の人たちの発信受信する膨大な情報、データが背後にずっとあって。そうはいかなかった自分というのがそのなかに混じっている感じですよね。すでにその一部になってるのかもしれないけれど。

アイロニーはないんですか?

石原:アイロニーではないです。本当にリアルですね。これ(スマホ)に入ってないものは世界ではないと言われる可能性があるということでしょ。

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 最後に。このアルバムを聴く場合は、間違ってもPCなんかで聴いてはいけないし、安っぽいイヤフォンも避けたほうがいい。家のスピーカーで聴くのが最善である。

interview with Bernard Sumner - ele-king

 まずはバーナード・サムナーから今回の来日公演延期に関してのメッセージを。

 私たちは日本が大好きで、この決定をしなければならないことを残念に思っています。
しかしながら新型コロナウイルス感染症発症について不明確な部分が多く見られる現状から、東京と大阪の公演については当分の間延期とすることが最善であると考えました。これについてはファンの健康を危険にさらしたり、帰国時にウイルスを拡散する可能性の発生を避けたいという点も考慮しました。
この状況が解消され次第、できるだけ早く日本に戻ってくることを約束します。
バーナード・サムナー

We love Japan and are sorry to have to make this decision. However, with the uncertainty of the ongoing Coronavirus outbreak, we felt it was best to put our shows in Tokyo and Osaka on hold for the time being. As we would also hate to put our fan’s health at risk, or the possiblity of spreading the virus upon our return. We promise we will be back as soon as we can, once this situation has rectified itself.
Bernard Sumner

 さて、以下のインタヴューは、2019年10月9日水曜日、ニュー・オーダー(NO)のヨーロッパ・ツアー中におけるベルリン公演の際に録ったものである。このツアーのサポートアクトを務めたのは、中国・成都を拠点に活動するバンド、STOLEN(秘密行動)。石野卓球もリミックスで絡んでいる、いま注目のエレクトロニック・バンドである

 それで、昨年のベルリンといえば壁崩壊から30年を迎え、さまざまなイベントがおこなわれたわけだが、バーニーをはじめとするオリジナルNOの面々は、ジョイ・ディヴィジョン(JD)時代に初めてベルリンを訪れている。そもそも、前身のバンドの名がウォルソー(ワルシャワ)であり、東欧のイメージを好んでいるし、JDもナチスの慰安婦施設の名前から取られている。彼らにとってベルリンは特別な街である。

これがSTOLENの面々。マジ格好いいし、じつはこのインタヴューが載せられるのも彼ら経由でもあります。応援しましょう!

STOLENのようなバンドにとって、ごく普通のポップ・ミュージックをプレイするのは簡単なことだと思う。つまらない、どこに行っても聞こえてくるようなポップ・ミュージック、君も耳にするだろう? STOLENはメインストリームからはちょっと離れていて、少しだけ、より実験的なことをやろうとしている。勇気があるよね。

ベルリンでのライヴはいかがでしたでしょうか?

バーナード・サムナー(BS):すばらしかったよ! ベルリンでプレイするのは好きだね。ベルリンという街、ベルリンにいる人たちが好きだ。すばらしいヴァイヴを持っているよね。たぶん、みんなそう言うと思うよ。本当のことだから。
 ベルリンでのライヴは本当によかったよ。ベルリンの前にプラハとミュンヘンの2か所でライヴをやって、そのほかにも、このツアーがはじまる前にヨーロッパのサマーフェスに出演した。ソナーにも出演したね。このツアーでの最初のふたつの公演では、ちょっと苦労したんだ。大きな野外フェス会場ばかりでプレイした後だったから、屋内でのサウンドに慣れなければいけなかった。野外だと、音は空気中に散らばっていって、ドライな感じなんだけど、屋内でプレイすると、途端に会場内の音響が全部耳に入ってくる。だから最初の2公演では、音に慣れるのが難しかった。そして3公演目のベルリンでは、音と一体になることができた。とても楽しんでライヴができたよ。

2019年3月には、マンチェスターでのライヴ・アルバムもリリースしましたし、2020年3月には日本でのライヴも予定されています(※延期になりました)。とくにいまはライヴに力を入れているのでしょうか?

BS:そうだね。ライヴをたくさんやっているね。ライヴをあまりやっていないときは、みんな「どうしてライヴをやらないんだ?」って言うんだよ。そして、いま、ライヴをやっている。そうすると「どうしてレコーディングしないんだ?」って言われる。ファニーだよね。だから、ちょうどいいバランスを見つけるのが難しいんだと思う。新しい曲をつくろうかと思っているんだけど、バンド内ではまだちゃんと話されていないね。たぶん、いまはライヴ向きの体質になっているのかもしれない。いいホテルに泊まって、ライヴをやって、それがエキサイティングで、いいレストランで食事をして、すばらしい人たちに会ったり、僕らの音楽を好きでいてくれる人たちのためにプレイする。けっこういいライフスタイルだよね。だからライヴをやっているんだと思う。うん、本当にいい感じだよ。もちろん、本当にやりがいがある。
あと、ニュー・オーダーについてはこれを言っておかないとね。ニュー・オーダーの曲って本当に多いんだ。ジョイ・ディヴィジョンも含むととくに。みんなが好きな曲が何曲もある。どんなセットリストにしようか悩むね。それぞれをひとつのセットリストに組み込もうとすると長過ぎる。
 実際にプラハでは、1時間40分のライヴを想定していたんだけど、結局2時間のライヴになってしまった。いくつか長過ぎる曲があるからね。ニュー・オーダーはすでに、たくさんの曲を持っていて、新しい曲を書くと、本当に毎回、「どんなセットリストにすればいいんだろう?」って頭を抱えているよ。

新曲と過去にリリースされた曲を一緒にプレイするのは、難しいのでしょうか?

BS:今回のツアーでは『Music Complete』から3、4曲プレイした。過去の曲も新しい曲も両方演っている。そうだね、ジョイ・ディヴィジョンから3、4曲、『Music Complete』から3、4曲、あとは、ニュー・オーダーの初期の曲も3、4曲、それ以降の曲も3、4曲ってところかな。いつも選曲には苦労しているけど、楽しんでもいるよ。

STOLENをフロントアクトに起用したのは、もちろんマーク・リーダー氏との繋がりもあると思いますが、あなた自身もお気に入りだからだと思います。彼らのどんなところが気に入っていますか?

BS:彼らのことは大好きだね。とてもいい奴らだよ。彼らに会う前にマークが彼らのアルバムを聴かせてくれたんだ。何度も何度もね。いいバンドだよね。とても勇気のあるバンドだと思う。STOLENのようなバンドにとって、ごく普通のポップ・ミュージックをプレイするのは簡単なことだと思う。つまらない、どこに行っても聞こえてくるようなポップ・ミュージック、君も耳にするだろう? どうしてか聞こえてくるよね。みんな、ファスト・フードを食べるように、ファスト・ミュージックを消費しているんだと思う。こんなにもファスト・ミュージックが溢れているなかで、STOLENはメインストリームからはちょっと離れていて、少しだけ、より実験的なことをやろうとしている。勇気があるよね。だからおもしろいんだ。彼らは中国において、レフトフィールドの先駆者だ、たぶん、アジアのなかでもね。
 最近は、どこだろうが場所に関係なく、若いバンドが成功するのは難しい。本当に難しいと思う。僕もかつては若いバンドだったわけで、成功へのはじめの一歩を踏み出すことがどんなことなのかわかっている。どこから彼らが現れようが、STOLENのような若いバンドをサポートできるのはいいよね。

ベルリンに初めて来たときのことを憶えている。僕は長い長い道を歩いていた。その道の最後には帝国議会議事堂があって、巨大な建物なんだ。建物の円柱のひとつに赤い何かが書かれているのを見つけた。近付くとそこには、誰かがスプレーで書いた「MUFC」という文字があった。そう、「Manchester United Football Club」。うわー、僕より先に、誰かがマンチェスターからここに来たんだ! と思ったよね。

1980年代に初めてベルリンを訪れたジョイ・ディヴィジョンと、ベルリンでプレイしたSTOLENに類似性は感じますか?

BS:いや、どのバンドもすべて、同じではないんだ。当時、僕らは本当に大変だった。未来がまったくわからなかった。

(ここで、バーナードはニュー・オーダーの「東京新木場 ニュー・オーダー 一寸先は闇」と日本語でプリントされたとツアーTシャツを見せてくれた)

 ──要するに、ジョイ・ディヴィジョンだった当時、僕らは何が未来なのか見えなかった。未来への手掛かりを何も持っていなかった。イアン(・カーティス)の死とともにあんな波乱万丈な未来が待ち受けているなんて、僕らの身に起きたすべてについて、本当に知る由もなかった。でも僕らは前に進んだ。僕はいま、ここにいる。本当にサヴァイヴァーのような気分だよ(にこりと笑って)。
 たくさんの人たちが死んでいった。イアンが死んで、マーティン・ハネット(音楽プロデューサー)、ロブ・グレットン(マネージャー)、そしてトニー・ウィルソン(〈Factory Records〉オーナー)やマイケル・シャンバーグ(MVプロデューサー/フィルムメイカー)も死んだ。そうだね……本当にショッキングだったよ。みんな若くして死んでしまって。嗚呼、神様! 僕らは大丈夫だよね……神の微笑みを我らに(笑)!
 そうだ、このTシャツは(日本語で)「誰に未来がわかるんだろう?」って書いてあるっぽいよね。ジョイ・ディヴィジョンとして僕らがベルリンでプレイした当時、未来が僕らに何をもたらすのかわからなかった。おそらく、STOLENにとっても同じだと思う。彼らの未来には、困難もあるだろうけど、良い先行きが待ち受けていると思う。最近は、音楽でインパクトを及ぼすことは難しい。何かユニークなものを持っていないとね。
 若いバンドにとって大事なことは、楽しむこと。自分たちがやっていることを大いに楽しまなければならない。そうでなければ、いま頃、普通の仕事に就いているかもしれない。たくさんの若いバンドが音楽をキャリアのように思っているけど、音楽はキャリアなんかじゃない。音楽とは自由である。自由であり、日常生活の退屈から逃れることだ。何かを表現すること、啓蒙すること、可能にすること。音楽とはそういうものだと僕は思っている。
 音楽とは、束縛から解放されることだ。なぜ、若いポップ・バンドは自ら、彼ら自身に囚われているのか? 音楽とは、抵抗でもある。精神的な枠や壁に抵抗すること。調和への抵抗。でも、暴力的だったり、政治的に秩序を乱すようなことではない。僕にとって、抵抗とは、クリエイティヴィティを通じて、人びとに楽しいことや喜び、幸せを与えながら、自分自身を自由にすることを意味している。

来年の日本でのライヴの抱負を聞かせてください。どんなライヴになるのか楽しみにしているファンも多いと思います。(※もちろん、延期になってしまいましたが、載せておきます)

BS:日本食を食べること(笑)! ごみごみした東京のストリートを散歩したり、皇居の周辺を散歩したり。そして、音楽。もっとも重要なことは、日本の熱心なファンに僕らの音楽を届けること。彼らは、僕らの音楽をどう楽しむのかわかっているよね。日本のオーディエンスはすばらしい。日本にまた戻れるのは、良いことだね。久しぶりだし。そうだね、ファンの皆が待っていた何かを、音楽を届けるのが、抱負だね。

2019年8月、ぼくたちはジョン・サヴェージの著作『この灼けるほどの光、太陽そしてその他の何もかも ──ジョイ・ディヴィジョン、ジ・オーラル・ヒストリー』の日本語版を出版しました。あの本の表紙の写真はベルリンで撮られています。ベルリンという街に対する特別な感情があるように思いますが、いかがでしょうか?

BS:以前からマーク・リーダーはベルリンにいて、〈Factory Records〉のベルリン特派員だった。マークを通じてその頃からすでにベルリンとのコネクションはあった。マークがコンタクト・ポイントだった。なぜなら、マークは元々マンチェスターに住んでいて、イアンとロブ・グレットンの友人だったんだ。マークはジョイ・ディヴィジョンを早くからKant Kino(映画館)に出演させてくれていた。僕らはとにかくどこでもいいから、ライヴがやりたかったんだ。そして、ヨーロッパ各地でプレイし、ベルリンはそのうちのひとつだった。
ベルリンに初めて来たときのことを憶えている。僕は長い長い道を歩いていた。その道の最後には帝国議会議事堂(現在の国会議事堂)があって、巨大な建物なんだ。僕はそれを見ながら歩いていた。そして、建物の円柱のひとつに赤い何かが書かれているのを見つけた。近付くとそこには、誰かがスプレーで書いた「MUFC」という文字があった。そう、「Manchester United Football Club」。うわー、僕より先に、誰かがマンチェスターからここに来たんだ! と思ったよね。当時、帝国議会議事堂は荒廃していて、弾痕だらけだった。
ベルリンは、先の大戦と東ドイツの影響で、とても興味深い街だった。たしか、ブランデンブルク門は壁に囲まれていたと思う。たぶん、合っていると思うけど、ブランデンブルク門は東ドイツ、帝国議会議事堂は西ドイツだったと思う。
独特な風景だった。もし君が壁を見に来て、東ドイツの国境警備隊が君を見つけたら、検問を受けるだろう。マークと一緒にチェックポイント・チャーリー(国境検問所)を通って東に入り、他にも2ヵ所行った。かなり不思議だったんだけど、西ドイツから車で入ったとき、実は両方の回廊を通るんだ。僕は当時、ウィーンから西の回廊地帯と東の回廊地帯の両方を通った。つまり、文字通り、回廊だったんだ。壁に囲われたような道。本当にクレイジーなメンタリティーがいつもそこには隣り合わせていた。ただただクレイジーだったね。東と西のあいだにはノーマンズ・ランドとして知られる地帯があった。有刺鉄線が張り巡らされ、もし誰かがその地帯を越えようものなら、自動発射銃に撃たれるだろう。野蛮に見えた。クレイジーだと思った。僕にはどうしてそうなったのかわかる。東に入ろうとする西の奴らを徹底的に排除するためさ。ロシア人による話だけどね。まあ、僕はそれが本当だとは思っていないけど(にこりと笑って)。
もし、冷戦時代について知りたいなら、『寒い国から帰ってきたスパイ』(ジョン・ル・カレ著)という小説が僕のおすすめだよ。

Oto No Wa - ele-king

 デンマークのレーベル〈Music For Dreams〉が2017年にスタートしたディガーによるコンピレーション・シリーズ「Serious Collector Series」。その最新盤は日本のアンビエント。タイトルは『音の和』(Selected Sounds of Japan1988-2018)。話題になった2018年の『環境音楽』に続くカタチで、Jアンビエントがまたまた世界にプロモートされる。
 アルバムを監修したのは、和モノブームにひと役買っているKen Hidakaをはじめ、Max Essa、Dr. Robといった曲者たち(原宿Bar Bonoboで毎月開催しているイヴェント、Lone Starの3人)。発売は3月27日で、アナログ盤、CD、デジタルでのリリースになる。
 『音の和』には、1988年から2018年までの音源から14曲が選曲されているが、あともう少しで来るであろう「90年代リヴァイヴァル」も先取りしております。リトル・テンポや横田進、井上薫なんかも入っていて、うーん、これは興味深い内容です。ぜひ、チェックしましょう。


トラックリスト
1. Yoshio Ojima - Sealed
2. Olololop - Mon (orte Remix)
3. Kazuya Kotani- Fatima
4. Schadaraparr- N.I.C.E. Guy (Nice Guitar Dub)
5. Little Tempo - Frostie
6. Karel Arbus & Eiji Takamatsu - Coco & The Fish
7. Kentaro Takizawa - Gradual Life (Album Version)
8. Yoshiaki Ochi- Balasong
9. Kaoru Inoue - Wave Introduction
10. Little Big Bee - Scuba (Original Version)
11. Coastlines - East Dry River
12. Susumu Yokota- Uchu Tanjyo
13. Chillax- Time And Space
14. Takashi Kokubo - Quiet Inlet

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