Home > News > RIP > R.I.P. Krzysztof Penderecki - 追悼:クシシュトフ・ペンデレツキ
クラスターなる文言をはじめて意識したのはもちろんこのたびのコロナ騒動ではなく、じつはメビウスとレデリウスによるクラウトロックの大看板であるあのクラスターでもなく、ペンデレツキだった──かもしれない、といささかぼんやりした文末になったのは私は音楽にのめりこみだしたのは十代のころ愛聴したNHK FMの『現代の音楽』だったのは以前にも述べたが、ある日いつものように夜更かしの友のラジオに耳を傾けているとスピーカーのむこうから耳慣れない単語が聞こえてきた。現代の音楽にはトーン・クラスターと呼ばれる技法があり、切れ目なく、五線紙上の一定の領域をぬりつぶすかのような音(トーン)の塊(クラスター)は聴感上つよいインパクをのこすと番組司会者は述べられ、例にあげた作曲家のなかにペンデレツキの名前もあった。記憶はさだかではないが、おそらく東欧の作曲家を特集していたのであろう、ペンデレツキというツンデレした名前とともに消えのこったトーン・クラスターのことばの響きのかっこよさに中学生だった私はころりとまいった。前衛的な音楽に興味はめばえていたとはいえ、譜面上でくりひろげる難解な方法を理解できるはずもなく、そもそも譜面どころかその手のレコードが入ってくる気配さえないシマの一画にあってはトランジスタラジオがキャッチするヒットなナンバーがたよりで、それとて音の断片や片言隻句を跳躍台に想像の翼を広げなければ歴史に眠る音楽の鉱脈の尻尾はつかめない、そのような環境でトーン・クラスターの方法は名は体をあらしてわかりやすく、ロックもジャズも、1980年代なかごろだったので当時すでにラップもチャートにあがっていたが、雑駁にそれらを聴取する中坊には訴えかけるなにかがあった。
ブレスのない稠密な音の帯はつよさにおいてはノイズを、時間のながさではドローンを想起させ現象する音楽の前衛性を担保する。私ははじめてトーン・クラスターを認識したのは80年代なかばだったと書いた。当時の楽壇の趨勢はさておき、ミニマリズムをひとつの境に、このときすでにモダニティを体現するものとしての前衛はその歴史的役目を終えた観なきにもあらず、前衛らしい前衛といえば、万博のパビリオンがそうであるようにおおぶりでそのぶんかさばる感じがあった。そのような印象は作品に重厚なオーラをまとわせる反面音楽の顔つきをいかめしくもする。西ヨーロッパと北米という西洋音楽の中心地では音楽の前線の担い手は前衛から実験へと移っていた。前衛と実験の相違点については、私は幾度となく述べ、単純に腑分けできない両義性を前提に、作品の結果が予測できるか否かという基本的見地ひとつとっても、楽理の領域をひろげるほど新しくありながら細部までコントロールの利いた(結果が予測できる)音楽作品、いうなれば「全体音楽」としての前衛は、私がはじめてペンデレツキの音楽にふれたころには機能不全におちいりかけていた。とはいえときはいまだ1980年代なかば、共産圏と資本主義が対立した冷戦構図は人々の世界認識の土台をなし、ペンデレツキの故国ポーランドは東側の大国だった。むろんそこには歴史的な経緯がある、ポーランドのたどった数奇な命運はおのおので調べられたいが、前世紀二度の大戦に翻弄されたかの国の歴史は1933年生まれで、3歳年長の野坂昭如いうところの焼け跡世代にあたる作曲家の作品にも消せない影をおとしている。ポーランドでは戦後、ペンデレツキのみならず、ポーランド楽派の始祖ルトスワフスキをはじめ、作曲家集団グループ49の面々や同世代のグレツキをふくむ前衛派が台頭するが、その趣きは独仏伊と英米をのぞく欧州周辺およびスラブ地方に散発的に興った往年の国民楽派とかさなるものがあった。民俗と風土、すなわち国民国家を背景におくものとしての音楽。20世紀中葉のポーランドの作曲家たちの肥沃な作品の数々をこのことばに集約するのは乱暴だとしても、私が彼らに惹かれた理由のひとつにはピカピカにポストモダン化した西側諸国の失った翳りのようなものにあったのはまちがいない。それこそレトロスペクティヴの記号ではないかとおっしゃられると返すことばもないが、モダニズムの旨味も往々にしてそのような影の下にかくれているもの。前衛とは王道の影であるからこそ、ときに彼方まで伸張するのである(逆に短くもなったりするが)。
2020年3月29日日曜日、ポーランド南部のクラクフ、生地でもあるこの町の近郊で86年の天寿をまっとうしたクシシトフ・ペンデレツキがその前衛ぶりを歴史に刻印したのはなんといっても他界する60年前、26歳のころの“広島の犠牲者に捧げる哀歌 Tren ofiarom Hiroszimy”であろう。この10分にみたない激越な哀歌は冒頭で述べたトーン・クラスターのお手本でもある。
編成はヴァイオリン24艇、以下ヴィオラ10、チェロ10、コントラバス8の52の弦楽器群。それらがそれぞれの最高音や最低音を爪弾き弓で擦り叩き、場合によっては駒の後ろ側を弾いたりボディを打ちつけたりする、ペンデレツキはそれらの音を審美艇に空間に配置するというより一本の糸のように撚り合わせ、すると密集する音は塊(クラスター)となり意思をもつかのようにうねりはじめる。各楽器群は少数の班にわかれ、冒頭ではそれらにより音響をつみあげる書法をとるが、数秒後には退潮し、弱音から音の遠近を強調した空間性の高い表現へ、さらにまた音塊化した音まで、自在に闊達に変化する、にもかかわらず、全体に重力のようなものを感じるのは束になった弦の音がくっきりした輪郭を空間に描くからであろう。アヴァンギャルドクラシック──というのも語義矛盾だが──の名に恥じない名曲であり、未聴の方はなるたけ大音量でお聴きいただきたいが、“広島の犠牲者に捧げる哀歌”はペンデレツキという作家のもうひとつの特徴もひじょうにうまくいいあらわしている。ご承知のとおり、この曲の題名は第二次世界大戦時の広島への原爆投下による犠牲者を哀悼する曲であることを意味している。ところがペンデレツキがこの曲をわずか2日(!)で書きあげたとき、最初につけた題名は曲の長さを示す“8分37秒”とそっけないものだった。ケージの代表曲(?)“4分33秒”の向こうをはるかのごときそこはかとない野心も感じさせる題名だが、それが数度の国際コンクールへの出展を経て、私たちがよく知る当のものになった。その理由を、ペンデレツキは広島の原爆投下にまつわるドキュメンタリーをみたことにもとめ、そこに彼自身の戦争体験と共鳴するものをみとめたがゆえの変更だったと述べる一方でかならずしも政治的な見解を示すものではないと注意もうながしている。このことは“広島”がなんらかの言語的な主題(文学性)をもった標題音楽ではなく、真逆であることを意味する。と同時に、いちどでも意味を付与したものはもはやそれなしで語れないということばと事物の意味作用における厄介な関係性を暗示する好例でもある。むろんそこにはペンデレツキの音楽の映像を喚起する力をみなければならないのだが。あるいは大きな物語を記しうる最後の時代の国民作曲家が代弁する集合無意識とでもいえばよいか、いずれにせよこのような音楽とイメージのポジとネガが反転するような関係はポーランド楽派の重鎮にもうひとつの顔をあたえもした。
すなわち映画音楽の分野である。彼の名をサウンドトラックをとおして耳にされた方もすくなくないであろう。フリードキンの1973年の『エクソシスト』はじめ、キューブリックの『シャイニング』(1980年)、リンチ作品では1990年の『ワイルド・アット・ハート』や2017年放映のテレビ版『ツイン・ピークス』にも、名だたる監督の歴史的名作がサウンドトラックにその楽曲を収めている、その点でペンデレツキは映画音楽の作曲家でもある。もっともスクリーンにながれる彼の音楽はもともと映画のために書きおろしたものではない。たとえばキューブリックの『シャイニング』、ジャック・ニコルソン演じる主人公ジャックが冬のあいだホテルの管理人の職にありついたのを妻に電話で知らせるシーン。超能力をもつ息子ダニーはやがてむかえる惨劇を予知し、ホテルのエレベーターホールを血の海が満たすヴィジョンをいだく。この映像にキューブリックはペンデレツキの1974年の“ヤコブの夢/ヤコブの目覚め”をあわせるのだが、題名からおわかりのとおりこの曲の材料は聖書である。むろん教典はかならずしも現代人の人倫にかなうことばかりではないのでこれをもって瀆神的とはいえないし、禍々しさは美しさの陰画なのかもしれない。オラトリオの一種だとすると、1965年の合唱曲“ルカ受難曲”の緊張感の高さ、調性感の薄さこそ、ペンデレツキの作品にあらわれる宗教観なのではないか。そもそも私たちは“広島”について述べたさいに標題がもたらす錯覚に留意すしといっていなかった——などといった堂々めぐりにおちいりがちなのも、ペンデレツキの音楽の多面性に由来するであろう。『エクソシスト』のサウンドトラックがおさめる名曲「オーケストラとテープのためのカノン」(1962年)になぞえらえるなら、ペンデレツキは音と意味(言語)のカノンが通用した時代、モダニズム(前衛)の最良の時代を体現したひとりであり、70年代後半以の保守化の波にのみこまれた点でも前衛らしい道行きたどった作曲家だった。晩年は病の床に伏せていたというが、YouTubeには「Polymorphia」(この曲も『エクソシスト』のサントラに入ってます)をみずから振る元気なペンデレツキの動画があがっている。ご覧いただくと、作曲家がいかにして弦楽器から多様な響きをひきだしたか、苦心の一端がかいまみえよう。“広島”のころはこんな弾き方すると楽器がいたむからと楽団に演奏を拒まれたこともあったという。いまではそれが現代の音楽を代表する一曲となり、世界各地の舞台にかかりつづけている。私は読者諸兄には機会があれば“広島”の譜面を手にとっていただきたい。音楽があらわすものの奥行きと広がりを視覚的に理解するとともに、そこにいたる課程に思いを馳せれば、前衛とは発明の異名でありその道ははてしないとおわかりいただけるであろう。ざんねんながら、クシシトフ・ペンデレツキの前衛の道は2020年3月29日をもって途切れた、いや途切れたかにみえて、20世紀音楽の歴史のピースとして、恐怖をよびおこすフィルムのいちぶとして私たちの日々に潜在し、凡庸な響きにあきあきした耳を未聴の領野や誘いだそうと働きかけることはおそらくまちがいない。
松村正人