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Home >  News >  RIP > R.I.P. Damo Suzuki - 追悼:ダモ鈴木

RIP

R.I.P. Damo Suzuki

R.I.P. Damo Suzuki

追悼:ダモ鈴木

松山晋也、小柳カヲル Feb 13,2024 UP

追悼、ダモ鈴木さんについての回顧録

小柳カヲル

 ダモ鈴木さんの訃報は文字どおり青天の霹靂だった。今は悲しみというよりは言葉にならない虚無感しかない。彼の偉大な功績、とりわけカン時代の活動はすでにたくさんの方々がさまざまな角度から評論されているし、これからも数限りなくされるのは間違いない。そこで自分にしかできない追悼はなんだろうとあれこれ考え、仕事上とはいえ近しい関係だった私から見たダモ鈴木さんという人物を回想し、記録に残すことではないかという結論にいたった。そんなわけで個人的な追憶にしばらくお付き合いいただきたい。

 私がダモさんと初めて会ったのは、1996年の秋に東高円寺のU.F.O.CLUBで行われたシークレット・ライヴだった。古くから知られていた〈日本人ロック・ヴォーカリスト〉でありながら、日本での公演はこの日が初めてだった。開演前に楽屋の椅子に座りパイプをくゆらしているダモさんの姿をはじめて見たときの衝撃は、四半世紀以上たった今でも鮮明に覚えている。ダモさん本人による「きれいな空気もきれいなメシもありませんが」というカンの〈Doko E(何処へ)〉の歌詞を引用した口上からライヴは始まった。バックを務めるGHOSTのメンバーの演奏は圧巻で、公演の告知がされていなかったにもかかわらず会場はほぼ満員だった。そこにいる誰もが目の前で動き、肉声を発しているドイツ・ロックの伝説的ヴォーカリストに目が釘付けになっていたのは言うまでもない。終演後、帰りの電車がよくわからないというダモさんを、たまたま自宅が同じ方向だった私が小田急線で途中まで送ることになった。ダモさんのご実家は小田原方面、当時の私は藤沢方面。路線が分岐する相模大野駅でいったん下車し、ホームでハグしながら翌年から始まる新たな計画の協力を約束した。このことがきっかけでダモさんとの交流が急に近くなったように思う。

 翌1997年4月、新たなプロジェクト〈ダモズ・ネットワーク(のちのダモ鈴木ネットワーク)〉が始動した。日本では東京をかわきりに3公演が予定され、メンバーはダモ鈴木(ヴォーカル)、ミヒャエル・カローリ(ギター)、マンジャオ・ファティ(ベース)、マティアス・コイル(キーボード)、そしてドラムスには当初予定されていたヤキ・リーベツァイトに代わり、グルグルのマニ・ノイマイヤーがツアー直前に決定した。ダモさんによれば、マニさんのことは昔から名前だけは知っていたが、会うのはこのときが初めてだったという。いま思えばとんでもなく豪華な顔ぶれだったことを再認識させられる。ツアーそのものも実験的な試みがあり、ライヴを観に来た観客全員に観覧当日のライヴ音源を収録したCDが後日送付され、そのジャケットにはダモさんの肉筆による巨大絵画を小さく裁断した紙片がCD1枚1枚に設えられるという独創的なものだった。このときの演奏もかなり変わっていて、すべての曲は打ち合わせなしの即興で、カン直系のケルン・スクールらしい曲からフリースタイルのヴォーカル・パフォーマンス、果ては蕗谷虹児の児童唱歌「花嫁人形」まで飛び出し、興に入った観客をステージ上に招き入れて躍らせるなど、かなり規格外な様相だった。観客の多くは戸惑いながらもこの空間を心から楽しんでいた。このとき招待されていたダモさんのお兄様は、演奏が終わるやいなや物販ブースにいた私の元に来て「俺にはわからん」と苦笑しながら首をひねっていたのが印象的だった。そして2日目の東京公演の直前、ダモさんは携帯電話で「てっちゃん」と呼ばれる人物と親しげに話していた。通話の相手は〈フリー〉の山内テツ氏で、海外で活躍する同じような境遇の日本人ミュージシャンとして古くから交流があったと話してくれたが、彼の意外すぎるバックグラウンドを垣間見た瞬間だった。このときは知る由もなかったが、ふたりは数年後に横浜で共演することになる。

 大阪公演の翌日は、会場近くの美術学校のアトリエでCDジャケット用の巨大絵画が制作された。床一杯に敷き詰められた大きな紙に向かって色とりどりの絵具やスプレーを振り回し、ツナギ姿のダモさんは熱心に絵に取り組んでいた。作業の途中で、私は都合ですぐに大阪を去らなければならない旨を伝えたところ、まるで子どもでも抱きかかえるかのように両手で私を持ち上げ「ありがとう」と言ってくれた。

 ダモ鈴木ネットワークは同年に若干のメンバーチェンジをし、米国シアトルでの公演を手始めに世界ツアーを始め、1999年には一新したラインナップで再来日をとげた。この時の演奏も特異なもので、ステージと観客スペースの境界線があいまいになり、人々が入り乱れる白熱ぶりだった。こうしたお祭り騒ぎのようなライヴ形態は継承され、音源は2枚組CDとして毎回リリースにされた。カン脱退後のダモ鈴木にとって〈ダモ鈴木ネットワーク〉は、〈ドゥンケルツィッファー〉、〈ダモ鈴木バンド〉に続く3番目のプロジェクトで、この中でもっともインプロヴィゼーション色が強く、参加ミュージシャンも毎回入れ替えられていた。回を重ねるごとにミュージシャンを現地で起用する傾向が強くなり、しまいには世界各地のバンドにダモさんひとりがヴォーカリストとしてゲスト参加するような〈ネットワーク〉形態へと変わっていった。そのコラボレーション相手は欧米のネオ・クラウトロック・バンドにとどまらず、ネパールのローカル・バンド〈カトマンズ・キラーズ〉、インドの〈ホーリー・ヘッド・ハンターズ〉などじつにグローバルで、現地ミュージシャンたちと違和感なく溶け込んだダモさんの記念写真がメーリングリストを通じて幾度となく送られてきたものだ。当時、私が所属していたレコード会社で、ダモ鈴木関連のアルバムの輸入とディストリビューションを担当していた。仕事中にケルンから国際電話がかかってきて「50歳になったよ」などという報告をダモさんから直々に受けたこともあった。インターネットがまだ普及していなかった時代ならではの話だ。あるときは事務所に突然ふらっと現れて、空腹だというからラーメンを作ってあげたこともあった。2006年のツアーでは末の息子さんと来日され、そのとき東中野にあった拙宅に父子で宿泊していき、芋焼酎をいっしょに飲んだのも良い思い出だ。こうしてダモさんが来日(はたまた帰国とするべきか?)のたびに私はライヴを訪れたり、いっしょに食事をしたり、ときにはスタッフとして働いたりした。

 ふり返ってみると、ダモさんはあまり昔を語りたがらない人だった。特にカン時代のことを私の前で話題にしたことがほとんどない。おそらく何度も質問されてきたことだろうと思ったから、あえてこちらから取材のような質疑応答をするつもりもなかった。もしかしたらダモさんはそんな雰囲気が居心地よかったのかもしれない。こんなふうにつかず離れずの関係が続いたが、2013年に高円寺で会いファミレスに行ったのが最後になってしまった。そのとき翌日から行くという温泉旅行について楽しそうに話していた笑顔が忘れられない。そして、これはいつのことだったか正確には思い出せないが、何かの新しい取り組みについて話しているときに「何年かかってもいいんだ。10年かかっても、20年かかっても実現できれば。私の動きはゆっくりだから」というような発言があった。ああ、この人は年齢やいろいろなしがらみに制限されず行動できる人なのだなと感銘を受けたものだ。このようなダモさんの姿勢は今の自分の生き方の指標になっているといっても過言ではない。そしてダモ鈴木というひとりのミュージシャンが残した遺伝子は、多種多様に変化し現在の音楽シーンのいたる所に影響をおよぼしているのは間違いない。だから今後もまったく無縁な音楽を聴いたとき、なにかの拍子でダモさんの幻影が見えてしまうことがあるかもしれない。そのたびにあの屈託のない笑顔を思い出してしまうだろう。ダモさん、本当にありがとうございました。安らかにお眠りください。

松山晋也、小柳カヲル

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