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セルビアのアンビエント・アーティストであるアブル・モガードの新譜『In Immobile Air』(https://abulmogard.bandcamp.com/album/in-immobile-air)がリリースされた。「不動の空気で」と名付けられたこのアルバムは、古いベヒシュタイン社製アップライトピアノの音を加工して制作されたアンビエント/ドローンである。アルバムはイタロ・カルヴィーノの短編小説にインスパイアされているようだ。印象的なアートワークは1983年生まれのイタリア在住のアーティスト、マルコ・デ・サンクティスの手によるドローイングで、彼が作り出したイメージは本作のフラジャイルなムードを見事に体現している。
この『In Immobile Air』に収録された全5曲、どの楽曲も静謐さと透明な哀しみが、微かな音響と音楽のなかで儚げに交錯している。この濃厚なノスタルジアに満ちたサウンドスケープは、名盤の誉れ高い『Kimberlin - Music From The Film By Duncan Whitley』を超えている。まさにモガードの最高傑作ではないか。
まずアブル・モガードのリリース歴を簡単に振り返っておきたい。彼にはある「謎」がある。モガードはドゥーム・サウンドの伝説的バンドであるアースの元メンバーであるスティーヴ・ムーアらが主宰する〈VCO Records〉から『Abul Mogard』(2012)、『Drifted Heaven』(2013)、Justin Wiggan、Siegmar Fricke らとの共作『Lulled Glaciers』(2014)などの初期作品をリリースした後、Walls が〈Kompakt〉傘下で運営するエクスペリメンタル・ミュージック・レーベル〈Ecstatic〉から2015年に『The Sky Had Vanished』と『Circular Forms』などの傑作アンビエント・アルバムをリリースした。以降、同レーベルから継続的にアルバムを発表している。
2017年には〈Ecstatic〉からマウリツィオ・ビアンキとのスプリット『Nervous Hydra / All This Has Passed Foreve』をリリースした。日本のアンビエント/エクスペリメンタル・マニアにモガードの名が知れ渡ったのは、このアルバムではないかと思う。
続く『Above All Dreams 』(2018)、『Kimberlin - Music From The Film By Duncan Whitley』(2019)などの〈Ecstatic〉からのアルバムもアンビエント・マニアから高く評価された。ちなみに2016年に〈Ecstatic〉から〈VCO Records〉時代の曲のコンピレーション盤『Works』もリリースされている。
それらのサウンドはどれも深いノスタルジアを湛え、まるでアンドレイ・タルコフスキーの長編映画『ノスタルジア』(1983)のイメージやサウンドを想起させてくれるような音響空間を生成していた。セルビアというヨーロッパのバルカン半島から発表されたアンビエントということもあり、聴き手のイマジネーションをおおいに刺激もした。そしてもうひとつ、われわれを強く惹きつけたことがあるのだ。
そもそも彼は誰なのか。
「セルビア出身の老齢の男性。長年勤めた金属工場を退職した後、自らの孤独を慰めるために、工場で聴こえた音をシンセサイザーで作りはじめた」というのが、その初期からレーベルなどによって提示されてきたモガードの基本的なプロフィールであり、人物情報だ。
だがこのあまりに魅力的な、かつできすぎといえる「インダストリアルな経歴」を持った人物像の真意はいまのところ分からない。事実かもしれない。そうでもないかもしれない。じっさい2017年にベルリンの Atonal で披露されたライヴでは彼の姿は光のスクリーンの向こうに隠れてはいたものの、その微かに見えるシルエットは流布されていたモガードの写真(高齢の男性の写真だ)から連想されるものとは異なっていたようなのだ。
もしかすると「モガード」という人物自体が虚構であり、存在しないかもしれないという可能性も十分にありえる。だがそのような偽装された経歴・匿名性は、この種のエクスペリメンタルな音楽にあってはそれほど不思議なことではない。
同時に彼の作り出してきたアンビエント/アンビエンスは、「長年金属工場を勤め上げた初老の男性が作り上げたアンビエント音楽」というコンセプトを十分に体現するようなサウンド/トーンだったことも事実だ。淡い霧のような音の持続は、インダストリアルな音が記憶の層に溶け合ったかのような音響空間を生成しており、深いノスタルジアを醸し出している。
事の真意ですらもモガードのアンビエント/アンビエンスの霧の中に溶け込んでいってしまっている。とすれば聴き手としては、その虚構の音響的時間の中に虚構ゆえの真実を聴きとり、充実したリスニング・タイムを送ることができれば十分だという見方もある。この種のエクスペリメンタルな音楽において、経歴疑惑問題は大きな問題ではないのだ。だが同時に「高齢の男性」というイメージによる操作がおこなわれていることも事実なのだ(エイジズム? 初期の頃に発表された初老の男性とは?)
とはいえ事実が明らかになっていない以上、これ以上の追求はできない。たとえ彼の真の経歴の真意=正体が業界内でのコンセンサスであったにしても、われわれ聴き手は一旦は受け入れるしかないのだ。アーティストが作り出した音を聴くこと。ただ、それだけだ。そう考えると、モガードの謎に満ちた経歴は、むしろ作品をただ聴いてほしいという意志の表れかもしれない。
それらをふまえた上で、もう一度、モガードの音を聴き入ってみよう。やはり彼のアンビエント/アンビエンスは圧倒的に素晴らしい。かつてのフェネスやティム・ヘッカーほどの分かりやすい先端性はないが、彼らのリスナーをも強くひきつける美しい音響を生みだしている。濃厚なノスタルジアは聴き手の聴覚とイマジネーションを深い霧を湛えた森に誘う。加えてアップライトピアノを用いたことによって、本作『In Immobile Air』ではクラシカルな要素も表出しはじめた。その結果、音楽と音響の境界線が溶け合っていくような感覚を与えてくれる。
『In Immobile Air』は非常に充実したリスニングを与えてくれるノスタルジア・アンビエントだ。謎に満ちた彼の経歴のことは、いまのところ詳細不明で良いのかもしれない。とにかくこの美しい音はここに実在するのだから。
経歴や物語に左右されず音を聴くことを彼は教えてくれる。モガードの音楽と存在は虚構と現実のあいだを彷徨いつつも、その果てにある音の空間に深く没入させてくれるのだ。そんな稀有なアンビエント・サウンドスケープがここにある。
デンシノオト