Home > Reviews > Album Reviews > Richard Dawson- The Ruby Cord
洞察力の鋭いアーティストというのは往々にして預言的なものだが、それで言うと、ニューカッスルのストーリーテラーあるいはシンガーソングライターであるリチャード・ドーソンが『Peasant』(2017)で中世に注目したのは示唆的なことだったように思う。ここのところ、僕は気鋭監督による中世的な映画ばかり観ているような気がするのである。14世紀の作者不詳の詩を現代的な視座を加えて映像化したデヴィッド・ロウリー『グリーン・ナイト』、ヴァイキング伝説やスカンジナビアの神話をベースに10世紀を舞台にしたロバート・エガース『ノースマン』(ビョークが預言者役で出演)。少し前ではあるが大ヒットしたアリ・アスターの『ミッドサマー』だって、時代は現代でありながらも中世的な価値観の異世界に迷いこむ話だとも取れるわけで、それは何やら、テクノロジーやインターネットが隅々まで支配する現代社会からの逃避ないしは逸脱を志したものに感じられる。あるいは限られた者に富と権力がますます集中する社会が中世に巻き戻っているように思えるからかもしれないが……、ともかく、そこで音楽的に立ち上がるのがフォークロアである。デジタルのアーカイヴではなく、不特定の人間が伝承した歌や演奏だ。
ドーソンの『Peasant』がなかでも興味深いのは、「小作人」とのタイトル通り、庶民的な生活やその悲喜こもごもを描くのにこだわったことだ。中世といっても英雄や神々を称えるのではない。泥にまみれ、飢えや権力者の都合で駆り出される争いに苦しみ、その辺で生きて死んだ者たちが、彼の風変りなフォーク音楽に乗せて歌われた。だから『2020』(2019)でタイトルが示すようにコンセプトを現代に移したときも、ドーソンは徹底して小市民を取り上げた。鬱やゼノフォビアなどモチーフはけっして軽いものではなかったものの、ペーソスのあるユーモアや、何よりもエキセントリックな音楽と歌でわたしたち一般市民の生をどこか愛おしいものとして浮かび上がらせたのだ。
オルタナティヴ・メタル・バンドのサークルとのコラボレーション作を挟み、ドーソンのソロの新作『The Ruby Cord』は中世、現代ときて、どうやらSF的なヴィジョンも取り入れつつ未来を想像しようとしているようだ──わたしたち庶民の。ジャケットに描かれる人物像も何やら暗示的だが、ドーソンはここで本当に預言者に扮しているようなのである。
1時間20分ある本作はふたつに分かれており、まず前半の “The Hermit(隠遁者)” の一曲で40分ある。断片的な弦やハープのフレーズ、ブラシで撫でられる太鼓がサイケデリックに淡い揺らぎを立ち上げていくと、11分を過ぎた辺りでようやくドーソンのあの素っ頓狂な歌が入ってくる。核心を迂回し続けるようにメロディはふらふらし、ときに楽器の演奏が一切なくなるなかで、ドーソンはまさに中世的な自然の風景をやたらに細かく描写する。が、突如としてそれがどうやらヴァーチャル・リアリティの世界のなかの出来事であったことを匂わせ、メタヴァースなのかオンライン・ゲームなのかわからないが、世界が近代化される以前の風景とロボットが同時に成立する「世界」の美しさに彼は陶然とする。後半で入ってくるコーラスが穏やかで温かなものであればあるほどそれはうら寂しく響き、ハープや弦がエレガントであればあるほど現実味を欠いていく。ここで近未来におけるフォークロアをドーソンはでっち上げているのである。その大作志向、寓話的で謎めいた語り、逸脱的なフォーク音楽といった要素から『Ys』(2006)の頃のジョアンナ・ニューサムを連想するが、彼女が異界の幻想性を豊穣に生み出していたのに対し、ここで彼は、テクノロジーに取りこまれた「世界」の空虚さと隠遁という名の孤立を叙情的なアンサンブルの移ろいで滲ませる。
アルバム後半ではドーソンらしいバロック・ポップ、カンタベリー・ロック、トラッド・フォークのおかしなミックスを様々に聴くことができる。ただ、家族や愛犬、自分自身が気がついたら機械につながっているという話の “Thicker Than Water”、フットボールの観衆や気候変動を訴える群衆が展示されている未来の博物館を描いた “Museum”、滅亡後の世界を旅する “Horse and Rider” と、想像されるのは暗い光景ばかり。シンガーとしてのドーソンは半音が頻出するメロディを調子外れだからこそ人間味とともに歌えるタイプで、僕もそこに魅了されたひとりだが、本作では歌われる内容の痛ましさとのコントラストが際立っている。また、壮大なコーラスや弦の幻惑的な響きがかえって悲壮感を高めてもいるだろう。
率直に言って、本作のコンセプトがドーソンの音楽的なスタイルと合致しているかは判断しづらい。彼のシュールだが人懐こいユーモアに欠けるところはあるかもしれないし、つねに市井に生きる者の側に立ってきたからこそ、悲観的な未来しか思い描けなかったのかもしれない。ただそれでも、ディストピックなヴィジョンを持ちながら電子的な要素ではなくあくまでユニークで人間臭いフォーク音楽を奏でようとする本作は、未来がどれだけ酷いものであろうと、わたしたちの生命や人生は伝承歌として語り継がれているだろという逆説的な希望を仄めかしてもいる。
木津毅