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ポール・トーマス・アンダーソンの映画『インヒアレント・ヴァイス』に、ジョアンナ・ニューサムがナレーター/登場人物として現れたことはちょっとしたサプライズだった。同作は大雑把に言って近年大作志向だったP・T・アンダーソン監督がポップを、言い換えれば「俗」を久しぶりに取り戻した作品だと見なせるが、その案内役に必要だったのがニューサムの声(と、カンの“ヴァイタミンC”!)だったというのが興味深い。そこで求められたのは誰もが思い浮かべる『イース』(2006)のジャケットの超然とした佇まいではなくて、60年代の理想が潰えたそのあとの、退廃と幻惑のLAへの導入としてあの甘みがかった声が召喚されたのである。
そしてその縁でP・T・アンダーソンが監督した先行シングル“サポカニカン”のヴィデオ・クリップはさらに驚くべき……いや、胸を掴まれるものだった。90年代終わりごろの監督作のファンはみな泣いてしまうのではないだろうか。なんてことのない、ブレる手持ちカメラでニューサムそのひとが歌う姿を映すオーソドックスなスタイルのヴィデオだが、そこでの彼女とカメラの親密な視線のやり取りにはたしかな熱がこめられている。舞台は森ではなく、街だ。悪戯っぽく跳ねるピアノと、ふくよかなブラス、そして3分のところで堰を切ったように押し寄せる切ないメロディの高まり……。彼女はそこでハープを持たず、「歌姫」でもなく、ただひとりの女性としてそこにたたずみ、微笑み、歌い、弾み、そして最後は夜の街に颯爽と去っていく。カメラはただその毅然とした背中を見送るばかりだ。
そのシングルの、ヴァシュティ・バニヤンよりもローラ・ニーロを連想するアーバンな響きもそうだが、どこかアンタッチャブルな聖性を纏っていたこれまでの彼女のイメージを鮮やかに更新する一枚である。ハープは鳴っている。だがそれだけではない。“リーヴィング・ザ・シティ”ではメロトロン、“グース・エッグス”ではハモンド・オルガン、“ワルツ・オブ・ザ・101st・ライトボーン”ではアコーディオン……曲ごとに楽器とスタイルをアレンジを変えて――衣装を変えて、その幻惑的な声をじゅうぶんに響かせる。ニコ・ミューリーやダーティ・プロジェクターズのデイヴ・ロングストレスといった華やかなアレンジャーもここではあくまでニューサムの声の引き立て役だが、3枚組の大作だった前作『ハヴ・ワン・オン・ミー』よりコンパクトな分、楽曲のレンジは広いように感じられる。11曲52分という近作を思えばずいぶんオーソドックスなパッケージとも相まって、ポップ・シンガーとしての顔がずいぶん前に出ている。これほどくっきりと彼女の生身の表情が見えるアルバムは初めてではないだろうか。
もちろん、そこはジョアンナ・ニューサムである、「ポップ・ソング」と気安く呼ぶにはアレンジは入り組み複雑で、何よりドラマティックな展開を見せる楽曲が多い。タイトル・ナンバー“ダイヴァーズ”は本作ではもっとも長尺の(それでも7分少しだが)、ハープとピアノが巻き起こすうねりで聞かせる一曲、そして終曲“タイム、アズ・ア・シンプトン”ではオーケストラと小鳥の鳴き声を従えてシンフォニックな飛翔を演出する。だがいっぽうで、トラッドのカヴァー“セイム・オールド・マン”やカントリー風味の“ワルツ・オブ・ザ・101st・ライトボーン”の素朴な愛らしさは、聴き手と彼女自身をごく近い地平へと導いてくれる。
『イース』の頃の過剰にアイコニックな佇まいはいま思えば、戦時下における聖女の役割を負わされていた部分もあるのだろう。ジョアンナ・ニューサムのアルバムを聴くときの何とも言えない緊張感は、ここではずいぶん緩和されている。“サポカニカン”のヴィデオが胸を打つのは、そこでの彼女が10年前の「女王期」よりも確実に年を重ねた姿を晒しているからだ。フリー・フォークの歌姫だと……アメリカからのある種の逸脱を象徴する存在だと見なされていた時期も、少なからずあったのかもしれない。だがそれは忘れてしまおう。いま彼女は街に両足をつけ、ひとりの女として、歌うたいとして、そのなかに渦巻く感情のドラマツルギーでこそわたしたちを魅了する。
現在、NPRにて『ダイヴァーズ』のフル試聴を実施中。
日本時間10/23(金)22:00まで!
木津 毅