Home > Reviews > Album Reviews > RCサクセション- シングル・マン(デラックス・エディション)
彼らはそのころ交差点に立っていた。だが、舞台は寂しく、かつていた大勢はどこか別のところに行ってしまったようだった。無理もない。1976年4月23日にはラモーンズのデビュー・アルバムがお目見えとなるのだ。激流はロンドンに伝播し、同年10月にはダムドの「ニュー・ローズ」、そのよく月には「アナーキー・イン・ザ・UK」が世界を襲う。まさに、いまここから歴史的に、まだ誰もが見たことのない場所でその後の音楽に決定的な影響を与える大きなことがはじまろうとしているそのとき、“大きな春子ちゃん”に感情移入する人が少なかったことは容易に想像できる。
が、しかしそんな逆境のなか、いちどは激流に流されながら蘇った極めて希有な作品がRCサクセションの『シングル・マン』だった。先日、新曲“おじいちゃん”を発表したばかりの坂本慎太郎と話す機会があった。そのときRCの話になったのは、『暮らしの手帖』36号の「わたしの大好きな音楽」コーナーにフィーチャーされた彼の選んだ「歌詞が好きな日本の音楽」10曲のうちの1曲がRCの“わかってもらえるさ”だったからだ。それで、RCでいちばん好きなアルバムは? という話題になったとき、酔っていたので記憶はおぼろげだが、たしか『シングル・マン』で話は落ち着いたと思う。
まあ、「いちばん好きなアルバム」とは、そのときどきの心情や状況によって変わるものではあるが、RCのなかでこのアルバムがいちばん好きだという人は多いだろう。いまではすっかり名盤として広く認識されているが、しかし、ラモーンズのデビュー・アルバムの2日前にリリースされた『シングル・マン』は、リアルタイムではみごとな三球三振だった(すぐに廃盤になった)がゆえに、『シングル・マン』が1970年代なかばの日本(東京)という文脈のなかで書かれた文章、その社会においていかなる存在だったのかという評価の痕跡をぼくは見たことがない。いまにして振り返ればヒッピー的なるものの痛切な末期症状という解釈もできるかもしれない——、いや、しかし、これは時代から切り離され、リリースから数年後にタイムレスな音楽として広く評価された作品である。音楽もそうだが、このアートワークもタイムレスな魅力がある。だから、その出会いは十人十色で、感じる魅力、好きな度合いというのは人によって異なっていてしかるべきなのだろう。以下に書くのは、ぼくの感想文である。
ぼくは、ライヴのクライマックスで“スロー・バラード”を歌っていた時代にファンになったひとりなので、最初はそのスタジオ録音が収録されているから聴いてみたいと思って高校生のときに買った。そして、聴いているうちにほかの曲もどんどん好きになっていった。感情がとめどなく噴出する“ヒッピーに捧ぐ”がいちばん好きだったときもある。“やさしさ”や“甲州街道はもう秋なのさ”のようなヘルマン・ヘッセ風の屈折した内面を歌った曲も好きだったし、ここ数年はずっと“うわの空”が好きでいる。
“スロー・バラード”が入っているからといって、『シングル・マン』はまったく楽天的な作品ではない。アルバムを通して、不信、気まずさ、悲観、辛辣さ、そして愛情と憎悪が独白される。他者との関係に戸惑い、ときに苛立っているのは“ぼくはぼくの為に”や“やさしさ”、同時期に録音された“お墓”(のちに『OK』に収録)からうかがえる。なにしろ“ファンからの贈りもの”という、他者を拒絶する歌からアルバムははじまっているのだ。
ラモーンズのデビュー・アルバムとほとんど同時期に出てしまった『シングル・マン』は、その前年に出るべきアルバムだった。録音は1974年の秋からはじまって1975年の春には終わってる。しかしながら、所属事務所内のトラブルによってバンドは干され、完成から1年以上経ってからのリリースになってしまった。また、RC史上ではドラムをフィーチャーした最初のアルバムであり、音楽性を高めるべく200%の力を注いだ作品だったのに拘わらず、楽曲のアレンジやミックスに関してバンドは納得していなかったようで(編曲は井上陽水のミリオンセラー作『氷の世界』を手がけた元モップスの星勝)、そもそもこのリリースにいたる経緯自体も幸福とは言えなかった。しかしながら『シングル・マン』は、RC/清志郎の全作品のなかでも——ぼくの主観的な印象だが——5本の指に入る人気作だと思われる。
廃盤になったアルバムが音楽評論家の吉見佑子による再発運動によって正式に再発されたのは、日本のポスト・パンクが絶頂を迎える1980年のことだった。強烈な個人主義的告白——外面的な事件よりも内面的な心理への没入——を同調圧力の国に叩きつけているこのアルバムを、ぼくは聴き入ったものだった。そこには、集団の価値観や社会規範に打ち解けることのできない個人が世界とどう折り合いをつけるか、という葛藤が描かれている。そしてここが、ポスト・パンクに夢中だった高校生も入り込める、作ったほうでも予期しなかった共鳴点のようなものだったのだろう。“甲州街道はもう秋なのさ”におけるむき出しの疎外感は言うに及ばず、“ヒッピーに捧ぐ”における「豚どものを乗せて」というフレーズは、じつはパンクがヒッピーの改良版という説を裏付けてもいる。アルバム全体からは──初期のRCからバンドが解散するまで通底した反抗心とともに──どうにもならないやり切れなさが滲み出ているし、その救済として最後に“スロー・バラード”がある。それは美しい、無垢な恋愛感情かもしれないけれど、駐車場に停まった車のなかという閉ざされた空間における個人的なできごとに過ぎない。パンクやヒッピーにあった連帯(ソリダリティー)は『シングル・マン』においては排除されている。そしてそれを排除し、閉じていることが、この音楽作品に力を与えてもいるのだろう。
音楽的には、高校生のぼくにはひと世代前の「大人の音楽」に思えた。 “冷たくした訳は” や“ファンからの贈りもの”、“スロー・バラード”といった曲の背後にある清志郎にとっての重要な影響源=メンフィス・ソウルをぼくが本格的に聴くようになるのは、もっとずっと後のことだった。換言すれば、ぼくは清志郎から南部のソウル・ミュージックを教えられたことになる。もちろん自分の人生で最初に買ったソウルのアルバムは『Otis Blue』だった。(*)
高橋康治の『忌野清志郎さん』の巻末対談で言っていることだけれど、清志郎は、喩えるならシカゴ時代のフランキー・ナックルズのように、ひと時代前の音楽も、音楽に力があればどんな流行のなかでも通用することを身をもって教えてくれた人でもあった。これはリヴァイヴァル現象のことではない。リヴァイヴァル現象とは流行のことであって、そこに当てはまらない音楽、流行に敏感な人なら鼻にもかけないような音楽であっても光り輝くことができる……フランキー・ナックルズが1980年代の欧州ニューウェイヴに夢中な黒人の子どもたちに過去のものとされていたフィラデルフィア・ソウルの輝きを教えたように、ニューウェイヴに夢中な日本人の子どもたちに1960年代のメンフィス・ソウルのすばらしい光沢を伝えたのだった。(**)
サザン・ソウルとは「ゴスペルに根ざし、感情をむき出しにした音楽のことである」、「それは完全にヴォーカルの芸術である。ソウルは共通の経験、つまり聴き手との関係を前提としている。これはブルースにも見られることであり、歌い手が聴衆の感情を確認し、それを展開してゆく」、こう説明するのは高名な黒人音楽評論家のピーター・ギュラルニックが引用したイギリスの作家クライヴ・アンダーソンだ。
アンダーソンが定義する「ヴォーカルの芸術」という観点でいえば、忌野清志郎はまごうことなきソウル・ミュージシャンだったと言える。「世俗化されたゴスペルがブルースの“冒涜”を取り込み、ただひとつのもっとも重要な主題——愛の気まぐれ(the vagaries of love)——だけを扱った」音楽、しかしそれはリズム・アンド・ブルースの発展型で、すなわち魂の告白であると同時に、世俗的で作為的なものでもある。「ホーンが鳴り響き、二重の意味を含む歌詞があり、絶叫する歌手がいて、打ち鳴らされるリズムがある、そういう音楽」——オリジナルのソウル・ミュージックは「黒人の連帯を明確に表現していた」が、ただ先にも書いたように『シングル・マン』のそれは連帯を拒絶するものだった(「」内はすべてPeter Guralnick『Sweet Soul Music』からの引用)。
とはいえ、ぼくが高校時代に観た二回のライヴ公演は、政治的には無色で、曖昧な叫びだったかもしれないけれど、それゆえ大多数に対して連帯を呼びかけるものだった(19世紀のフランスの詩人にして蓄音機の発明者、シャルル・クロス風に言えば「大人たちを怒らせるため、子どもたちを喜ばせるため」である)。『シングル・マン』の内的葛藤が、外の世界に向けての力強いエネルギーへと転換されていった話は、先述の『忌野清志郎さん』に詳しい。人と違っていることは良きことだとされるその世界のなかで、ぼくたちは熱狂し、舞い上がった。ステージで熱唱している人が、その数年前に『シングル・マン』をつくっていたことは、ぼくにとっては切り札のカードのようなものだった。あんな寒々しさと熱い情熱を孕んだアルバムをつくった人がど派手なロックンロールをやっているのだから、ここにはその表面上の派手さ以上のなにかがあるに違いないと思わせたのだ。
『シングル・マン』で残念なのは、 “レコーディング・マン(のんびりしたり結論急いだり)” があまりにも短いことだ。RC史上もっとも実験的な曲、ビートルズにおける “レヴォリューションNo9” 、ファンカデリックにおける “Wars of Armageddon” になりえた曲だったが、1分ちょっとしかないからインタールードのようになってしまった。
それはそうだが、この時代のバンドの音楽的な野心の高さの証跡でもある。ほかにも “夜の散歩をしないかね” という基本はブルース・ロックだが、RCには珍しくジャズ風にテンションコードを加味した曲もあって(ピアノを弾いているのは加入前のGee2wo)、これがまたじつにムードのある良い曲なのだ。“大きな春子ちゃん” は “ぼくの好きな先生” 路線のRC流フォーク・ソングのユーモアと牧歌性のある曲で、“うわの空” は“ぼくの自転車のうしろに乗りなよ” 路線のRC流サイケデリック・ソングだ。自分の好みという点で言えば、この4曲はほんとうに好きな4曲である。メロディが好きだし、後者2曲の日常的な非日常チルアウト・フォーク・ソングに関しては、そこはかとない寂しさがぼくには心地よく感じられる。“うわの空” の後半の展開はややピンク・フロイドっぽいとは思うのだが、この曲の歌い出しの「君は〜空を飛んでぇえ〜」という歌詞とメロディのコンビネーションはすばらしいとしか言いようがない。
今回発売された「デラックス・エディション」、2枚組のうち1枚はオリジナル盤で、ZAKによるリマスター。もう1枚には、“スロー・バラード”と“やさしさ”のシングル・ヴァージョンをはじめ、“わかってもらえるさ”(そして“よごれた顔でこんにちわ”)のZAKによるリマスターほか、“恐るべきジェネレーションの違い (Oh,Ya)”と“甲州街道はもう秋なのさ~ANOTHER MIX~”の未発表ヴァージョンに加え、テレビ神奈川の番組「ヤングインパルス」における1976年4月25日のスタジオ・ライヴ(三田格編集の『生卵』には、この番組のことをチャボ宛てに綴った清志郎の手紙が掲載されているのだが、そうか、このことだったのか!)から6曲がZAKによるミキシングのもと収録されている。そのなかには“ぼくの眠るところ”という未発表曲がある。このライヴ演奏が思いのほか良かった。冬の時代のRCに思い入れがある人には興味深い内容かもしれない。ぼくは『シングル・マン』の録音がはじまる前——たいした活動もなかった頃——に清志郎が書いた日記、『十年ゴム消し』を愛読したひとりだ。あんな風に生きられたらいいなぁと憧憬したものだった。
(*)永遠の青年、ニック・ヘイワードが在籍したことで知られるヘアカット100なるUKニューウェイヴ・バンドのファースト・アルバムのジャケットに、メンバーのなかでひとりだけアフリカ系がいるが、彼こそは、1967年12月10日のオーティス・レディングら7名を死亡させた飛行機墜落事故における犠牲者のひとり、オーティスのバックバンド、バー・ケイズのドラマー、カール・カニンガムの実弟、ブレア・カニンガムである。ちなみにバー・ケイズのメンバーはこのとき全員まだ10代だった。ブレア・カニンガムも一流のドラマーとなって、渡英し、ヘアカット100での活動を経ると、一時期プリテンダーズでも叩き、なんと再結成したギャング・オブ・フォーでも演奏した。その後は、ポール・マッカートニーのバックバンドに加入し、数年にわたって活動をともにしている。
(**)メンフィス・ソウルの奥深さに触れることができたのは清志郎を聴いていたからだ。いつか鈴木啓志さんにあらためて書いてもらいたいところだが、ここは若い読者のために少しだけ註釈を。1955年2月にメンフィスのメシック高校で10代のエルヴィス・プレスリーが演奏したときを、グリール・マーカスは、その後のティーンエイジャーの世界の風景を完璧に変えた「ビッグバン」と呼んでいる。そして、その何年後かあとにメシック高校の舞台に立っていたのが、スティーヴ・クロッパーやウェイン・ジャクソン、ドナルド・ダンたちだった。また、人種差別/分離が根強かったメンフィスにおいては、黒人用のブッカー・T・ワシトン高校があった。ここの卒業生に、〈スタックス〉が誇る天才オルガン奏者、ブッカー・T・ジョーンズがいた(ほかにもアイザック・ヘイズ、デイヴィッド・ポーター、ウィリアム・ベル等々)。やがて彼らが交わって、人種差別を公然と批判するバンド、ブッカー・T・アンド・ザ・MGズが生まれる。政治的ユートピアとしてのレーベルとバンドがいるなか、デイヴ・マーシュが「卓越したバラード歌手であり、リトル・リチャードの精神を受け継ぐ真のロッカー」と最大限の賛辞を送ったオーティス・レディングが、1956年から頂点にいたエルヴィスを引きずり下ろすかのように登場する。ちなみに、「ガッタ、ガッタ、ガッタ」というリフレインはオーティスの真似だと言われているが、そもそもこれはオーティスのジェイムズ・ブラウンの模倣にはじまっている。
野田努