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忌野清志郎

BluesRockSoul

忌野清志郎

Memphis

ユニバーサル

Amazon

野田努 Dec 08,2023 UP Old & New
E王

 今年行ったトークショーで、ぼくよりも一回りも年上の人が、日本人が無理にブルースだのロックだのやることはない、日本には日本の素晴らしい音楽(音頭や民謡など)があるんだから、みたいなことを言った。話を面白くするための極論ではあったが、日本の音楽を語る上でこの勘違いはいまだにあるのかもしれない。というか、土着性への反動的な(過剰な)美化というのは、第二次大戦後にアメリカ文化の影響を受けた国なら多かれ少なかれあるのだろう。

 イギリスはアメリカと違って、ロックンロールとの有機的な文化的つながりがなかった。ジューク・ジョイントもダンスホールもなかった、ゆえに、ミュージックホールがその代わりとなった、という話がイギリスの文化研究にはあるとサイモン・レイノルズが書いていた。なるほど。たしかにイギリスにはアメリカと違ってソウル・ミュージックの背景のひとつである黒人教会もない。だが、しかし逆に言えば、アメリカのロックンロールからは “レディ・ジェーン” も “エリナー・リグビー” も生まれてはこない。ついでに言えば、“マザー・スカイ” も “アウトバーン” も生まれてはこない。アメリカのように、ロックとの有機的な文化的つながりがないからこそ、その接続部に彼の地の文化(トラッドやミュージックホール、あるいは戦後ドイツの反伝統主義など)が入り込んでいるわけだ。
 これと同じことが日本にも言えるのではないか。日本には、アメリカのような形でロックンロールが生まれる文化土壌などない。が、だからこそ、“ぼくの好きな先生” や “トランジスタ・ラジオ”が生まれたと。たとえこの論が、“トランジスタ・ラジオ” がではどれほど国際的に有名かという話に繋がったとしても、日本独自のロックのほうが、英米のパスティーシュを一生懸命目指してしまった和製ロックよりも結果国内では人気があり、いまも広く聴かれているのはひとつの事実である。(逆にこういうこともある。たとえばデイヴィッド・ボウイのヴォーカリゼーションにもっとも影響を与えたアンソニー・ニューリーは日本ではほとんど知られていない、とか。ただし、日本的になれば良いというものでもない。歌謡ロックのように毒にも薬にもならないスタイルもある。また、この議論の先には、K-POPとはその発想の逆転で、韓国的なものを徹底的に抜き取った上での西欧のR&B/ラップ/ユーロ・サウンドなどの組み替え……とか、どんどん話が逸れるので、以下、RCに戻りましょう)

 RCサクセションとは、分裂的なバンドだった。70年代末から80年代初頭のほんの数年間のことではあったが、彼らがローリング・ストーンズもどきを志向したとき、バンドのメンバーの年齢はもう30に差し掛かっていた。当時の感覚で言えばロックンロールをやるにはもうオーヴァーである。80年代初頭の人気絶頂期におけるファンの多くは10代だったが、演奏者たちは年が離れていたばかりか、村八分のようなバンドとは違って、若い頃から様式的なロックンロールを表現してきていたわけでもなかった。
 ところが、RC はそれを逆手に取った。主観的(本気)であり、大人であるがゆえに客観的(ユーモラス)にもなれたのだろう。メンバーは「ロックンロール・ショー」のためのキャラクターを演じ、じっさいライヴは演劇めいた要素も入ったエンターテイメントだった。しかもRCは、“現在”とノスタルジアをなかば強引に混同させもした。“トランジスタ・ラジオ”は1980年の曲だが、この時代、ラジオで60年代の西海岸ロックやリヴァプール・サウンドに耽っている高校生などまずいやしない。なのにこのバンドときたら、あたかも現在のものとして歌い、演奏した。高校生のぼくにとってそれはファンタジーだったわけだが、そのいっぽうでRCには現実との回路が間違いなくあった。
 いま思えばおかしなもので、時代のトレンドは「真実」の「ありのままの」自分たちを見せるパンク/ニューウェイヴだった。パンクのなかにはロックを演じるグラム的な要素がじつは多分にあったのだが、とにかくそんな時代のモードに混じって、ストーンズもどきのRCが超強力な磁石となって、ぼくのようなパンク信者の10代を惹きつけていったのも、このバンドは自ら作ったフィクションに内部反発するかのようなリアリズム、シニカルな社会批評をも同時に表現していたからだった( “ブン・ブン・ブン” がパンク・ソングでないわけがない)。これが「分裂的」と表現した根拠だ。もしRCが、ただのパロディだったらこんなにも熱狂しなかっただろう。リアリズム表現一辺倒だったら、高校生たちが笑ったり、踊ったりはしなかっただろう。
 話はそれだけじゃない。もうひとつの重要項目は、RCは、その時代、歌謡曲やニューミュージックなどで歌われていた作り物のラヴソングを嫌悪したパンク/ニューウェイヴ世代を前に、あろうことか「愛しあってるかい」などと(もっとも言われたくない言葉で)語りかけ、容赦なくラヴソングを演奏し、そして感情を鷲づかみにしたことだ。信じがたい話だが、彼らの音楽は不毛な人生を生きる無気力な10代を愛なしでは生きられない人間に変えてしまったのだ。そのマジックの中心にいたのが、忌野清志郎だった。

 分裂的なRCサクセションは『BEAT POPS』で頂点を迎えると、それ以降は、それまでの惰性と試行錯誤との絶え間なき衝突と融合の連続だった。それであれだけの枚数の、最低でも聴くべき曲をいくつかは収録したアルバムを作り続けたことは、本当にすごいことだと思うし、たいへんだったとも思う。1990年、『Baby a Go Go』が出たとき、CDを六本木WAVEで見つけると、もちろん迷うことなく買った。ジャケットに写っている、残った3人のメンバーの表情は明るくはない。もう、なんとなくムードは伝わっていた。ぼくは部屋のなかで、RCは終わるんだろうなと思いながら、“あふれる熱い涙” や“ 忠実な犬” を何回も繰り返し聴いたものだ。

 『Memphis』を買ったのは、レコード棚がクラブ・ミュージックの12インチ・シングルでいっぱいになりはじめた1992年のことだった。これはもう、リリースの詳細を知ってから聴くのが楽しみで仕方がなかった。アメリカのロック史においても黒人音楽史においても重要な、南部ソウルを創造した歴史的な一部=メンフィスのブッカー・T&ザ・MG'sのスティーヴ・クロッパー、ブッカー・T・ジョーンズ、ドナルド“ダック”ダンほか、メンフィス・ホーンも参加のメンフィス録音、夢のような布陣を配したアルバムだ。分裂的なことなどない、原理主義者も納得するであろう“本格的な”サウンドになっているはず、そう期待を寄せながらCDの再生ボタンを押し、そして数分後にぼくは笑った。歯切れの良いリズムの、思い切りスタックス・ソウルのパスティーシュである1曲目の “Boys” には、しかし曲の最後に、「坊主が屏風に上手に坊主の絵を描いたんだったな、ボーイズ」というむちゃくちゃ面白い言葉遊びが待っている。たったそれだけで、これはメンフィスでは生まれようがない、日本のソウル・ミュージックになってしまっているのだ。

 清志郎は、『Memphis』の前年には、細野晴臣、坂本冬美との『日本の人』という唯一無二の傑出したアルバムをリリースしている。この共作は、それこそ演歌や民謡などの「日本」に「ワールド・ミュージック」から得たアイデアを組み合わせたもので、じつを言えばもっとも過小評価されている1枚でもある。ただ『日本の人』はロッキストが首を傾げるような、ロックの文法から外れたいろんな表情をもった作品で、“パープル・ヘイズ音頭” や“渡り鳥”のようなコミカルな一面もありつつも、清志郎が手がけた名カヴァー曲のひとつ“500マイル” や “アンド・アイ・ラヴ・ハー”、“恋人はいない” や “セラピー” のような、人生の儚さや切なさを歌った曲も印象的だったりする。対して『Memphis』はシンプルなアルバムで、清志郎のなかのロックのエネルギーが、しばらくの休息を経て回復したかのように脈打っている。“高齢化社会”のようにそれが多少空回りしている曲もあるけれど最終的には気迫で押し切っているし、“カモナ・ベイビー” は “Boys” と同様に、言葉遊び(カモナ・ベイビー→カモナベ=鴨鍋)を相乗効果とする痛快なブルース・ロックだ。  

 さて、あらためて確認しておきたい。ソウル・ミュージックとは、そもそもアメリカの黒人がその真正性と深い感情をコミュニティに伝達するために、主にゴスペルとリズム・アンド・ブルースを融和させ、即興的で、じつに抑揚のあるヴォーカルをもって発展させたスタイルである。それはある特定の時代と場所の産物で、公民権運動にリンクした文化現象だったが、音楽的には何よりも感情を高めることに特徴を持っている。『Memphis』を特別なアルバムにしているのは、ここにはウルトラ級の名曲、“雪どけ” と “彼女の笑顔” があることだ。この2曲、まず前者は、南部ソウルの深く美しい感情表現が奇跡的といっていいほど鮮やかに日本の風景のなかに落とし込まれている。“スローバラード” の系譜にある曲で、ここではソウル・ミュージックにおけるもっとも重要な主題である「愛」が、最初は控えめに歌われつつも最終的には銀河系よりも大きく膨張する。後者の “彼女の笑顔” にいたっては、清志郎にしか書けない、ブルース調の曲のなかに一瞬の破壊力が巧妙に込められている。なにせこの曲は、「何でもかんでも 金で買えると思ってる馬鹿な奴らに/見せてあげたい 彼女の笑顔」という、たったこれだけの言葉で、反権力、反資本主義、そして愛という、すべてを語っているのだ。
 歌が、大衆の内面と共振しうる物語の形式として機能できるのなら、これら2曲には、我らが物語がある。70年代末に歌っていたギターケースひとつの小さな部屋からはじまる物語(それは経済復興を遂げた敗戦国が表面的には欧米化するなか、取り残された、貧しくも奔放な人生のいち場面でありメタファー)、清志郎のなかでその物語がぶれたことなどいちどもなかった。 “彼女の笑顔” には、清志郎がRCサクセションで作り上げたこうした物語のなかに、メンフィスで暗殺されたマーティン・ルーサー・キング的な理想も歌われている。その的確な歌詞と力強さは、1992年という、いまだロックも更新され続け、いまだ新しかったテクノやヒップホップは毎月のように話題作を出していた年の音楽作品においては完全なアナクロニズムでレトロなアルバムだった『Memphis』が、いや、レトロであったからこそかもしれないのだが、それから30年以上経ったいまも、いや、これはムカつく話だが、愛よりもカネが猛威を振るっているこんないまだからこそ輝きを失っていないことが証明している。

 この12月、『Memphis』がジャケットを新たにアナログ盤としてリイシューされる。さらに同時に、アルバム・リリース後の「忌野清志郎 with Booker T. & The M.G.'s Tour」における武道館でのライヴを収録した『HAVE MERCY!』もジャケットを新たに追加曲ありで再発される。このときのライヴも、ぼくは武道館の二階席で見た。その光景をいまでもなんとなく覚えているけれど、なにせ30年以上前のことなので、だいぶ忘れてもきている。が、すでにクラブ・ミュージックの定番となっていた “Green Onions ” にはじまるこのライヴ盤を久しぶりに聴いていると、いろいろ思い出してくる。ああ、そうだった、ライヴでは、それこそ日本の童謡 “からすの赤ちゃん” をメンフィス・サウンドに接続させてもいるし、最高の悪ふざけ “つ・き・あ・い・た・い” をザ・MG'sといっしょにやってもいるんだった。それから、なんということだろう、あの “トランジスタ・ラジオ” も。日本でしか生まれようがなかったロックの名曲が、ロックンロール/ソウルの母国、ことに南部ソウルのレジェンドたちに演奏されたというのは、それはそれでまたロマンティックな話ではないだろうか。

野田努