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イギリスの小説家のハニフ・クレイシによれば、ジョン・レノンの賢明さ──MBEの勲章を返上し、白い袋のなかに入って“コールド・ターキー”ような曲を歌うことで、誰よりも早く体制化されそうだったザ・ビートルズはその文化的死を免れたというが、忌野清志郎もまたタイマーズと『カバーズ』(あるいは1999年9月28日付けの英ガーディアンも記事にした“君が代”)などによってRCサクセションの制度化と文化的死を忌避したと言えるだろう。芸能人がいくら彼を褒め称えたところで、タブーに挑んだ彼のラディカルな作品は残っている。家で清志郎を聴くと子供はたいてい「セブンイレブンの人だ」と言うけれど、その人はこんな歌も歌っていたんだと、いつか知ることもあると。これがポップ・カルチャーというものの醍醐味である。
忌野清志郎『COMPILED EPLP ~ALL TIME SINGLE COLLECTION』は、先にリリースされたRC SUCCESSION の同名3枚組『COMPLETE EPLP ~ALL TIME SINGLE COLLECTION』に続く忌野清志郎デビュー50周年プロジェクトの第二弾。清志郎のソロ・プロジェクトのシングル集である。こうしたベスト盤には先述したような彼の反抗心や批評精神はあまり見あたらない。ここあるのは我らがロマン主義の英雄のヒット曲集であり(実際にはヒットしなかった曲も含まれる)、そしてその多くはラヴソングである。
ラヴソングは清志郎にとってテーマであり、最重要ジャンルのひとつだった。彼は死ぬまでそれを歌い続けた。それらは中東の難民に思いを馳せたりするloveではないが、慎ましい人生を分け隔てなく肯定するloveではあった。そしてそれはつねにどんなときであってもカネよりも重要なものとして彼は歌い続けた(山本太郎は「必要なのは愛とカネ」ではなく「愛と反緊縮」と正確に言うべきだった)。
ところが、いまや女性が結婚する条件はカネであると、先日ある学者から聞かされた。もちろんこうした傾向は昔からあったけれど、現代ではよりむき出しに、それが結婚の真っ当な理由としてなんの後ろめたさもなく通用しているという話で、これも新自由主義が支配する世界のひとつの場面なのだろう。こんな世界で、清志郎のロマン主義的恋愛ソングは、その純粋さゆえにますます重要であり、と同時に、カネがなければ恋愛もできなくなりつつある世界ではその純粋さはレトロに括られるかどうかの瀬戸際にもある。
晩年に歌った清志郎のloveは、カウンター・カルチャーの文脈におけるloveが多かった。60年代の精神が彼の拠り所だったし、たとえニューウェイヴを装ったとしても、おおよそ彼がそこから外れたことはなかった。そして彼のそのスピリットがもたらす音楽は、誰からもアプローチしやすかった。エリート主義でもなければポピュリズムでもなかったというのに大衆的だった。そんなわけで忌野清志郎は、伝統や現状をどうにも擁護できない、親や教師が望むような立派な大人になりたくない子供たちにとって「あんな大人になれたら楽しそうだな」と思えた模範でさえあった。もちろん服装以外のところで。
そう、あれは静岡の10代だったときのこと。ひとりで呉服町を歩いていた。江崎書店の前を通ったとき、聴き慣れた声が聴こえた。店に入って「いまかかっている曲」を買った。それが「い・け・な・い ルージュマジック」だった。その曲には、ぼくがその後の人生で何度も使うことになる「他人の目を気にして生きるなんてくだらない事さ」というフレーズがあった。
たしかに、好きなことを好きなようにやっただけなのだろう。曲のバックは80年代シンセポップだというのに、歌の部分は60年代ソウル。Baby~Oh~Baby~ってなんだよと、パンクに夢中な10代からしたら清志郎はすでにヘンな大人だったけれど、しかし彼は自信とユーモアを持ち合わせた他に類のない魅力的な歌声で、目的のない人生を送っていた10代に自信と、少なくとも恋愛という(それそれは重要な、世界に目覚める第一歩としての、後のカバーズなんかにも繋がる)目的を与えてくれた。それだけでも充分だ。
野田努