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学生時代にアレン・ギンズバーグの詩集を読んでいたら、同級生の友人に笑われたことがある。要するにビート文学をいま読むことに意義はあるのか、ということで、当時そのことに腹が立ったのは図星だったからだろう。いまではいい思い出だ。ポスト・インターネット時代にこの国で生活をしていると、カウンター・カルチャーもビートもはるか遠い世界のことのように思えてくる。
ジャック・ケルアックの『路上/オン・ザ・ロード』の映画化にいま、喜ぶのは誰なのだろう。......いや、そのような問いは不毛なのかもしれない。「ビート文学の不朽の名作」を、「フランシス・フォード・コッポラが長年の苦難の末に実現した」ものなのだから、それだけでありがたいものなのだろう。が、どうしても気にかかってしまうのは、いまこれが、若者のための映画となり得るかどうかだ。「おっさんたちのノスタルジー」だと若者に言われたら、誰がどんな風に反論するのだろう。
実際、監督ウォルター・サレス、撮影エリック・ゴーティエの『モーターサイクル・ダイアリーズ』タッグによる風景映像はどこまでも瑞々しく、美しい。そしてその瑞々しさ、美しさがこの映画の最大の魅力であり、最大の問題点であるだろう。主人公サル、すなわちケルアックを『コントロール』でイアン・カーティスを演じたサム・ライリーにやらせるというのも、何だか周到すぎるように思える。絵に描いたような青春映画、ロード・ムーヴィーとして『オン・ザ・ロード』はあり、しかしこれ以外に映画化の着地点が思いつかないという点で、製作総指揮のコッポラは何も間違ってはいないだろう。全編にわたって生命力に満ちたジャズが流れ、インターネットが若者を部屋に閉じ込めてしまうはるか以前の物語が、「路上」に自由を求めた魂たちが活写される。結局このノスタルジックな輝きにどうしても抗えない僕は、同世代の連中に笑われても仕方ないのだろう。(そしてこれは、現在の洋楽受容問題とどこか似ている。)
映画は断片的なエピソードの積み重ねであった小説を再構築し、サルと破天荒なディーンとの関係を中心に据えることで、一種のブロマンス的側面をかなり前に出しているように見える。ここは今回の映画化では現代的なところで、自由を求めて旅に出るようなことが過去の遺産になったのだとしたら、当時の彼らの青春を観客と近いものにするために、そこにあるきわめて緊密な関係性を見せることは理に適っている。ただそれゆえに、ジャズ文体と言われた即興的な原作の持ち味はここにはあまりなく、ふたりの友情と愛憎の物語に回収されてしまう面もある。
だから、非常にアンビヴァレントな気持ちで映画を......ふたりの出会いと別れの物語を僕は観ていたのだが、映画の終わりでこの映画化の意義を「耳にする」。3週間でこの小説を書き上げたというケルアックによる、タイプライターの激しい打音。それ自体が、この映画の鼓動になっていくようだった。普遍的、なんて言葉は簡単に使いたくはない。なぜなら、ここにある「自由への渇望」も「路上」も、「魂の開放」も、過去の遺産になってしまった時代にわたしたちは生きているからである。けれども、タイプライターのその音は、おそらくいまもまだどこかで鳴っているものだ。
いまビート文学を回顧することは、ノスタルジーか、さもなければたんに歴史の確認なのかもしれない。しかしこの映画には、そのことを理解した上で、先達の創作欲求を深くリスペクトする。現代の路上はもはやインターネット上にあるのかもしれない、が、そこから何かを生み出す若い才能はきっと似た目をしている。
文:木津 毅