Home > Reviews > Film Reviews > 魂のゆくえ
未来に希望が持てるかどうかは、次の世代のことを想像してみるとわかる。ますます肥大化する高度資本主義経済、広がる格差、暴走する政治、止められない気候変動……。2020年に生まれた子どもが働き盛りになる2050年をおもに科学の力で予想したときに、様々なデータが示すのは絶望的なものばかりだ。つまりたんなる主観とか思いこみではなくて、客観的な事実や計算で証明されたものだということ。それを知りながら、子どもをこの世界に産み落とすのは現代の罪なのだろうか? いま、思想やカルチャーなど様々な層でダークなムードが立ちこめているが、多くの人間が明るいイメージを未来に抱くことができないのは間違いない。
『タクシードライバー』や『レイジング・ブル』といった70年代からのマーティン・スコセッシ作品をはじめとして、シドニー・ポラック、ブライアン・デ・パルマといった大物との仕事(脚本)で知られる映画作家ポール・シュレイダーの監督・脚本作である『魂のゆくえ』は、現代というのがいかに憂鬱な時代であるかを語るのに、トランプ政権以降ますます重くのしかかってくる環境問題をまずその入口にしている。主人公はニューヨーク郊外にある小さな教会「ファースト・リフォームド」の牧師を務める男トラー(イーサン・ホーク)。教会は小さいものの由緒正しい歴史を持ち、長くそこにいるトラーはそれなりに信頼を得ているようだ。あるとき、彼は信徒の女性メアリー(アマンド・セイフライド)から夫がひどくふさぎこんでいるから話を聞いてやってほしいという相談を受ける。実際に夫マイケルに会って聞くところによると、夫婦は環境活動家であり、そのため授かった子どもが産まれることは喜ばしいことと思えないと吐露し始める。未来はどう考えても破滅的だろうと。マイケルは鬱を患っていた。
そこからトラーがたどる心境の変化や行動は、『タクシードライバー』を現代にアップグレードしたものだと言っていい。つい最近もプロットだけ見れば同作を彷彿とさせるリン・ラムジー『ビューティフル・デイ』があったばかりだが、『魂のゆくえ』はそちらよりも精神的に近い。すなわち脚本家本人の手によって、70年代後半のアメリカを覆っていた閉塞感を見事に捉えた名作を想起させる物語が生み出されているのだ。だがはっきりと異なる点があって、『タクシードライバー』が持っていたスコセッシが得意とするところのロック感覚がここには(当然だが)まったくなく、ひたすら静謐かつ重々しい空気に覆われている。髪をモヒカンにして鏡に映る自分とにらみ合ったロバート・デ・ニーロは当時における反社会的ロック・ヒーロー像に他ならなかったし、社会の底辺で犠牲になっている少女を救うというヒロイズムがそこにはいくらか乗っていたはずだ。ベトナム戦争の後遺症を引きずっていた作品とはいえ、その根底には、世界はより良い方向に変えられるはずだというカウンター・カルチャーからの精神がまだ流れていたように思う。しかし、『魂のゆくえ』のトラーの姿がTシャツにプリントされたり、ロック・バーの壁にポスターで貼られたりすることは絶対にないだろう。彼はひとり、よく整頓された清潔な部屋で酒に浸るばかりだ。『タクシードライバー』においてトラヴィスがベトナム帰還兵だったことと、本作のトラーがイラク戦争で息子を失くしていることも示唆深い対比だ。どちらもアメリカ政府の横暴の被害者なのだが、トラーの場合それが直接な体験と身体性を伴っていなかったためだろうか、ひたすら孤独に閉じこもっており、自身も抑鬱状態にある。
心を壊していたマイケルが銃で自殺してしまい、彼に少なからず同調していたトラーは遺言に従い環境汚染が進む港湾のほとりで葬儀をおこなう。合唱団がニール・ヤングの“Who's Gonna Stand Up?”を歌う――「地球を救うのは、立ち上がるのは誰だ? そのすべては、わたしとあなたからはじまる」――。そのことがメディアに報じられると、皮肉にも自身が所属する教会が環境汚染の原因を作っている大企業の寄付を受けていることがはっきりする。未亡人となったメアリーと交流を続けながらも、ますます内省を深めていくトラー。そして……。
この世界で子どもを持つことに深い罪悪感を抱くマイケル、自分の所属する組織が環境破壊に加担しているのは間違いだと気づくこととなるトラー、両者は世間的な価値観から言えば狂ってしまった人間だということになるのだろう。けれどもふたりは、良い世界であってほしいと――とりわけ次の世代にとって――願っているだけだ。現代で生き抜くためにはその願いを「なかったこと」にするしか方法はない。いま鬱は大きな社会問題だとよく言われるが、もしかすると、世界が良くあってほしいと思い悩む人間のことを「鬱」と呼ぶシステムになっているだけなのかもしれない。主人公が宗教に関わる人間であり、彼が壊れていく物語だということも、現代において何かを信じることの困難をよく表している。
映画は終盤のクライマックスに向けてスピリチュアルな問いに向かっていくのだが、これもまた、科学やデータでは絶望を乗り越えられない時代であることを示しているだろうか(トラーが神秘的な体験をするシーンはタルコフスキーの『サクリファイス』からの引用が指摘されている)。けれども癒着にまみれたキリスト教(教会)もまた、アメリカの民の救いにはならない。音楽を手がけたラストモードのアンビエントもまた厳かさを増していくが、当然キリスト教的な響きとはかけ離れたものだ。そのムードのなかいくらかドラマティックに訪れるラスト・シーンがトラーにとっての救済だと言えるのか、あるいはどこまでも世界を変えることの不可能性を示しているのか、その判断は難しい。
しかしながら、少なからずカウンター・カルチャーやアメリカン・ニューシネマの時代の当事者であったポール・シュレイダーがいま70歳を過ぎ、わたしたちが直面しているもっとも重い問題を見据えながら、軽々しい希望を抱くことができない映画を産み落としていることには恐れいる。いま次の世代のことを思いやることは、未来を良くしたいと願うことは、どこまでも絶望し、狂うことである。その重さを、静かな怒りを、わたしたちはここでただ受け止めるしかない。
予告編
木津毅