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アカデミー賞のノミネートが発表されると「あーもうバレンタインの季節だー」と妙な焦燥感に駆られるのですが、映画好きにとっても忙しい季節の到来ではないでしょうか。「海外の映画が入ってこないー」というのは定番のボヤキですが、最近は意外にけっこう入ってきているかな、という気もします。まさかズビャギンツェフの過去作が観られると思ってなかったし、ゴダールの3Dもあるし、ヌリ・ビルゲ・ジェイランもようやく入ってくるはずだし、むしろそのスピード感について行くのに必死です……が、今年もたくさん、映画館で映画を観ましょう。
というわけで、現在公開中、あるいは間もなく公開の注目作をいくつかご紹介。
ブレイディみかこさんの『ザ・レフト UK左翼セレブ列伝』のケン・ローチの項を読んだ方には、あるいはケン・ローチのフィルモグラフィを追っている方には、この映画について説明することはあまりない。80を目前としたイギリスの至宝が、相も変わらず、持たざる者たち、貧しき者たち、労働者たち、庶民たち……の尊厳について見つめるばかりである。舞台は内戦後の1930年代のアイルランドで(つまり『麦の穂を揺らす風』(2006)の後)、故郷の片田舎に庶民たちが集うホールを作った実在の活動家ジミー・グラルトンの半生を取り上げている。とはいえ、原題を『JIMMY’S HALL』(ジミーの集会所)としていることからもわかるが、この映画の中心はグラルトン以上に「ホール」である。そこでは金のない村人たちが芸術やスポーツを学び、詩を朗読し、政治について議論し、そして週末にはダンスをしに集まる。もっとも重要なのは、これはそのホールを「再建する」話だということだ。明らかにローチ監督は、現代のイギリスに……世界に向けてこの史実ものを撮っている。貧しき者たちへの教育がますます失われてゆく時代にあって、その場所をいまいちど「手作りで」生み出そうというのである。たとえ焼き払われようとも。
ケン・ローチの映画では、何よりも「彼ら」の顔がどのように見えるかということに最大の注意が払われている。たとえば『エリックを探して』(2009)でのエリック・カントナを含めるおっさんたち、『明日へのチケット』(2005)でのセルティック・サポーターの少年たち、そして『ケス』(1969)でむっつり黙っていた少年が自分の鷹について語りはじめるときの、胸の奥から何か熱いものが生まれてくるときの表情。本作での美しいシーンはなんといっても老若男女がホールでダンスに興じるところで、彼らの生きた顔たちを見ていると、いつまでもこの時間が続けばいい……と思わずにはいられない。『ルート・アイリッシュ』(2010)の厳しさにはいくぶん慄き、『天使の分け前』(2012)での切実な優しさにはため息をついたが、本作にはそのどちらもがあり、そして、別れのシーンはローチ監督からのメッセージが含まれているようでなんとも切ない。エルマンノ・オルミやアキ・カウリスマキ、そしてローチといったヨーロッパの大御所監督たちの近作を観ていると、そこにあるのは失われていくふるき良き理想主義のように見えてしまうことがある。けれども彼ら自身は僕の勝手な寂寥感をよそに、そんなこと知ってるぞ、だからどうした、という頑固じじいの佇まいでその信念を曲げることはない。
精神分析の映像化でありつつ、同時に対話と友愛の物語。ハンガリー生まれのユダヤ人にして「民族精神医学の確立者」であるジョルジュ・ドゥブルーの著作を基にしているが、彼が実際に行った、第二次大戦後すぐのモンタナ州で精神を病んだアメリカン・インディアン(ネイティヴ・アメリカンという呼称のない時代だ)の対話療法について描く。デプレシャン作品における、これまでのようなずけずけとした言葉の応酬は抑えられ、かわりに、じつに丁寧にじっくりと「他者」へと分け入っていく過程が描かれている。そしてまた、アメリカという20世紀の大国のなかで、ふたりの異邦人/マイノリティが出会い、別れるというある「縁」についての映画でもある。
この、アメリカを舞台としたフランス映画のふたりの辛抱強い対話を思い返しながら、いまフランスで起きていることを思う。そこには何か、「他者」あるいは「異邦人」を理解しようとする態度が決定的に足りていないように感じられる……。自らの内面の混乱に苦しむインディアンに扮するベニチオ・デル・トロはいまなお、アメリカのなかで自らをマイノリティだと感じるという。だから本作でわたしたち観客が見つめるのは彼の苦難そのものであり、そして、この映画では本質的な意味での癒しを探求しようとする。
ポップ・アート時代のアメリカで絵画〈ビッグ・アイズ〉シリーズを世に放ち人気を博したウォルター・キーンの作品は、じつはすべて妻マーガレットが描いたものだった……という、ティム・バートン監督久しぶりの実話もの。で、搾取される妻=DVものとも言えるし、著作権マーク©への大いなる皮肉もこめられているだろうけれど、バートン作品として見るとこれは『ビッグ・フィッシュ』(2003)と似た構造なのではないかと思う。つまり、あるホラ話がアメリカの歴史を作った、というのである。バートンはいつでも、そうした作り話が現実を動かしうる力について描こうとしてきた。しかしながら、ホラ話が現実と折り合いをつける『ビッグ・フィッシュ』と比べると、現実がホラ話を打ち負かしてしまう本作の顛末を、バートン作品としてどういう変化と見なせばいいのだろう。60年代のアメリカを突き動かした「嘘」を、告発したいのか懐かしみたいのかの判断が非常に難しく、バートンのあの時代への複雑な感情を見る思いがする。
話はやや逸れるけれど、今年のアカデミー賞で最多ノミネートとなったアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督の『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』(http://www.foxmovies-jp.com/birdman/)がティム・バートンの『バットマン』(1989)のメタ映画となっているのも、何とも興味深い話である……『バードマン』はヒーローものを演じたかつてのスター(虚構のヒーロー)が、ブロードウェイのアート作品での成功(実際的な俳優としての評価)を得ようとする話、らしい。どちらが偉いのではなく、どちらも混乱しながら共存するのがアメリカということなのだろうか。
こちらもアカデミー賞ノミネート。『ビフォア~』三部作は言うに及ばず、リチャード・リンクレーターは時間がつねに不可逆であることを逆手にとって、その「瞬間」をロウな感触のあるものとして立ち上げることに長けている。『ビフォア~』3部作ではそれぞれ「ある一日」を描くことでそれ以前と以降がシームレスに、しかしはっきりと異なる世界になり得るということを示していたが、この映画では、ある家族の物語を12年にわたって同じキャストで撮りつづけている。それは大変な労力と時間を要するということ以上に、もっと単純な映画の問題として、絶対に「撮り直せない」。そのことは少年時代(原題は『Boyhood』)が二度と戻らないことをあっさりと、しかし強く宣言する。ここで映されているのは、ほとんどが誰の身にも起こるような些細な出来事の積み重ねに過ぎないが、しかしそれこそが映画的な呼吸になっていく。
主役に抜擢されたエラー・コルトレーン少年がどこか不格好な思春期を経て、しかし本当に精悍な青年へと成長しているのには無条件に胸を打たれるものがある。この映画は21世紀のアメリカにおいて、落ちぶれていく中年ではなく真っ直ぐに育っていく少年を描くということには大変な手間がかかるということの証明でもあるが、だからこそ一際瑞々しい輝きを湛えているのだろう。
予告編文:木津毅