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Bright Eyes

Bright Eyes

The People's Key

ユニバーサル インターナショナル

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木津 毅   Mar 08,2011 UP
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 2002年のことだった。それまで自身の内面やその傷を歌っていたコナー・オバーストは、"カウボーイの大統領"に辛辣な言葉を投げかけながら、「僕にはブルーズがある! それが僕!」と叫んだ。思えば彼はそのとき、世のなかに対する混乱もフラジャイルな自分も震える声も隠さずに、しかし社会に目を向けて歌うことを宣言した。
 彼は"新たなディラン"と呼ばれるようになった。2004年には打倒ブッシュを目標に掲げた〈VOTE FOR CHANGE(変化のための投票)〉のツアーに参加した。2005年には忘れがたい名作『アイム ・ワイド・アウェイク、イッツ・モーニング』を発表した。あるいはまた、"大統領が神に話すとき"というタイトルのフォーク・ソングで物議を醸すことを勇敢にもやってのけた。「大統領が神と話すとき、神は石油価格の引き上げを提案するのか?」と、コナーはカウボーイ風の格好でテレビ番組で歌った。
 コナー・オバーストのプロテスト・ソングは、政治に意識的なミュージシャンが大人の振る舞いとして歌うそれではなかった。彼が暴動と化したデモの痛ましさを歌うとき、それは彼を通したものとして震えるような声と叫びで表現された。穏やかなカントリー・ソングの演奏はまるで、彼の声や感情をどうにかなだめようとしているように聞こえた。
 彼は必死に叫んでいた――「Make some noise!!」。それは、社会の不条理や不平等に対する偽りのない憤りであり、悲鳴のようでもあり、しかしそれを引っくり返すための号令だった。ブライト・アイズの音楽を聴くことは、その消えることのない緊迫感と向き合うことだった。
 だがそれは、当然本人にとっても消耗するものだった。2007年には、フロリダのスピリチュアル系のコミュニティと出会うことで訪れた心の平安を歌った『カサダガ』を発表した......それはそれまでの聴き手をやや戸惑わせるものだった。ニュー・エイジ的な思想に馴染みがあるとは言い難い日本人の僕にとっては、疲弊したコナーが霊媒師から受けた言葉にすがってしまったのではないかと不安になったものだ。それはどこか、かつてのカウンター・カルチャーにおける政治的な意識の高まりが、70年代に向かうなかでスピリチュアルや自己啓発に回収されていったことを連想させた。とはいえ、アルバム自体は、その底に変わらず醜悪な世界に対する失望と怒りが湛えられてあり、それが静かな迫力を生み出してもいた。

 政権は交代し、この2011年に久々のブライト・アイズ名義の作品が発表された。コナーを本作に向かわせる契機になったのは、アリゾナにおける違法滞在の外国人を取り締まる法案に反対する運動だった。その話は否応なくこのアルバムへの期待を高めさせる。
 実際『ピープルズ・キー』は、コナー・オバースト&ミスティック・ヴァレー・バンドやジム・ジェームズやM.ウォードらと組んだモンスターズ・オブ・フォークなど近年のサイド・ワークのレイドバック感に比べれば、実に力のこもったものだ。これまでの彼のサウンドの印だったフォークやカントリーは後退し、シンセがかなりの部分で活躍するポップ・ソング集になっている。ダンス・チューンですらあるシングル"シェル・ゲーム"は序の口で、ニューウェイヴ調のアッパーな"ジェジューン・スターズ"など音だけではブライト・アイズだとは思わないほどだ。『ピッチフォーク』のレヴューによると、制作の終盤においてオマハの親友を自殺でなくしたことが影響しているというバラッド"ラダー・ソング"は初期のエモと呼ばれた頃の作風を想起させもするが、それはアルバムのなかでは例外である。これまでのディスコグラフィのなかでももっとも多彩なサウンドが聴けるし、何よりラフで開放感のあるものとなっている。
 だが、これまでブライト・アイズを聴くときに必ず現れた緊迫感や迫力が、このアルバムには......ない。それはたんにコナー青年の思春期の終わりを告げるものであって、悪いことではないのかもしれない。が、デニー・ブルーワーというサイケ・バンドのフロントマンによる"シャーマニック・ヴォイス"なる演説あるいは説教で幕を開け、閉じる本作で歌われている言葉はスピリチュアルになるあまり難解で抽象的なものになりすぎていて、それは僕にはとても遠くのものに感じられる。"シャーマニック・ヴォイス"はアインシュタインやヒトラー、宇宙や悪魔に言及しながら愛や慈悲や人類の進歩について説き、コナーもそれに呼応するようにギリシャ神話やSFを引用しながらやはり愛や精神の問題について歌う。
 それはいま彼が本当に歌いたいことなのだろうか。ポリティカルであればいいということではないが、少なくとも僕には、2000年代なかばにはアメリカの若い世代の希望の象徴であったコナー・オバーストが歌うべきものではないように思える......いや、そんな風に「歌うべき」などと言われてしまう過剰な重荷こそが彼を縛ってきたのもまた、事実である。それが彼を内面の探求に向かわせたとも考えられるし、ある種の必然であったのかもしれない。文化においてそれが具体的な政治の力を得ることはつねに難しく、変化への欲望は内側に向かい、やがて焦点は精神の拡張というところにたどり着いていく――それはカウンター・カルチャーが歴史で経験したことでもある。しかし、それでも僕は聴きたかった。コナーがいまのアメリカをどんな風に見ているのかを。神と対話する大統領がいなくなっても、決して明るくも輝かしくもないアメリカの歌を歌う彼の姿を見たかった。

木津 毅