Home > Regulars > オキナワンデカダンス > コザの表と裏側 with 宮島真一
7月10日の参院選投票日を前に、私はイハ陣営からもアイコ陣営からもプチ逃亡を決め込んだ。都合よくコザでロックフェスがある。トリまで観たら夜9時だし、投票は無理だった、というテイで。が、常日頃もっと世の中を勉強しろと私にガミガミ言われているオタクのノンポリダンナが嬉々として、「高速入る手前で期日前投票が出来る」とほざいてきた。
コザ弾丸ツアー。那覇の自宅を出発し、期日前投票所に寄り、“いない”の3文字を、書き殴った。
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コザは、かつて沖縄本島中部にあった日本で唯一のカタカナ表記の市で、今は統合され沖縄市となっている
初めて沖縄を訪れた8年前、美しい海を堪能した後真っ先に訪れた街だ。10年間のロンドン滞在を切り上げようやく戻れた東京で日本のロックシーンを軽く嘆いていた私にとって、ORANGE RANGEやモンゴル800等異彩を放ちながら次々に出てきたバンドがコザの出身だったりコザで活躍していたからだ。
そこは広大なシャッター商店街であって、なにかしないとならないという空気は漂っていたものの、平日の昼間は退廃感しかなかった。
まだ1歳だった小さな娘は、沖縄の海に投げ入れられ、母親がゲラゲラ笑っているものだからそのまま魚のように泳ぐようになり、
ガジュマルの木の下では延々と、大人には見えないなにかと語り合っていた。翌年また訪れ、次は半年後、3ヶ月後と、すっかり沖縄病。こんなところで暮らせたら夢のようだと思ったけど、夢は夢のままがいいはずと、沖縄戦やいまだ続いている基地問題を知れば知るほど、住む場所ではなく訪れる場所だと、沖縄とはそういうところだった。しかし、311によって、それは現実となる。簡単に言えば放射能避難移住だが、決行するまで1年半、その間は血を吐くような葛藤があり、子どもなんて生まなきゃ良かったとさえ思った。仕事への執着が強く東京を離れる気は一切なかったからだ。
放射能汚染に関しては情報収集の努力はするものの、それらの正誤について判断出来ると思っていない。ただ我が家は、居住拠点の位置を変える条件が揃ったから、東京を離れただけのことだ。脚本家としての仕事は、311以降テレビドラマを観なくなったことに気付いてからは、多少吹っ切れた。と思い込むようにして。
沖縄の海にしばし癒されようと、ロング・ヴァケーションが始まるのだと。
ある程度は覚悟していたことだが、沖縄移住は易しいものではない。毎年多くが沖縄に引っ越し、8~9割が1年未満で引き上げるという。主な理由として賃金の安さが上げられるが、それだけではない。私たちはまず見た目、そして名字で、「ヤマト」もしくは「ナイチャー」として区別(差別)される。「いちゃりばちょーでー(会えば皆兄弟)」とうちなんちゅ(定義は人それぞれだが、ざっと、琉球民族の血筋ということだと思う)にもてなされ、その優しさに感激していた客人だったときとは変わって、気を使うことも求められる。70年前の沖縄戦終盤、日本兵によって自害を促された辛い過去は今も深く人々の心に刻まれている。
沖縄問題のひとつに、基地云々の抗議活動にナイチャーが躍起に成り過ぎる、というのがある。先日辺野古でのもめ事の際に、海上保安官が抗議市民に「腐れナイチャーや」と言い放ち、問題になった。他所から来てガタガタウルサいのはナイチャーばっかりだと真剣に言ううちなんちゅも少なくない。まあ、移住者は大抵沖縄の自然が好きなわけで、離島に橋をかけるなとかコンビニ作るなとか思うんだけど、うちなんちゅからしたら開発の何が悪い? と。そんなこんなはあるが辺野古での新基地反対についてはうちなんちゅも多くが反対している。ここで沖縄県民として、ナイチャーも含めて仲良く抗議活動が出来るかとハチマキ締めなおすも、ことはそう単純ではない。
ここのところの安倍政権のやり口によって、ヤマト全批判の論調が生まれた。時の施政者を糾弾するのであれば個々人が手が組めるのだが、全批判、である。
「あんたたちヤマトは、お上の言うこと聞くだけが能で、自分で考える頭がない」と親しくしていた年配の女性。
「でも多くの移住者が辺野古に対する抗議をがんばっていますよ」と返すと、
「迎合しないとここには住めないからね」
最初の1年は辺野古も県民大会にも足を運んでいたが、もう行かなくなってしまった。
全国紙と比べてなんと気概があることかと賞賛していた沖縄2紙については、やはり偏重が過ぎる。それは別に悪いことではない。ただ一般市民がその論調に引きずられることに気付かないのが問題なのだ。
日本のソメイヨシノを、接ぎ木で増えるクローンであり軍国主義の象徴としたコラムが一面に掲載され、私は沖縄タイムスの購読を止めた。
4月にうるま市で米軍属による暴行・殺人事件が起き、2紙とSNSでは一斉に米軍と日本叩きが始まる。シールズ琉球の女子大生は、「安倍首相と本土に住む日本国民は第二の加害者だ」と涙ながらに訴えた。
そこで多くの心優しき移住者たちは沖縄に迎合するのだが、私はしなかった。することで問題が解決するとは思わないからだ。
直後県議選があり、当選した革新系の新人議員が、「うるま市の事件で、風がこちらに吹きました」と、笑顔で取材に答えていた。
「私たちも悲しんでいます」というカードを持ち米軍勤務者が路上に立つムーヴメントが起きたが、「幸福実現党がやらせている」と、一蹴された。
日本国民、米軍等、ひとまとめにする想像力の欠如とも取れる糾弾の仕方は、怒りや憎しみが高じたことによるものなのかと、沖縄紙とSNSを閉じて、溜息をついた。
「怒りは限界を越した」とする人々の代表、イハ氏と、安倍内閣の大臣であるアイコ氏、その一騎打ちの参院選だった。
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コザはたまに行くが、交通手段が車しかないので、夜までいることは滅多にない。この日は友人が運営するゲストハウス「羊屋」にチェックインした。素泊まり2000円。沖縄はこういう安宿が多くて県内旅行が気軽に出来るのが楽しい。
誰をも踊らせてしまう沖縄民謡。
アメリカ統治下時代の影響を色濃く持つ骨太なオキナワンロック。
チャンプルーでユニークな琉球ポップス。
安室奈美恵、SPEEDなど存在感ハンパなかった沖縄アイドル。
沖縄に惚れた理由のひとつは間違いなく音楽だ。しかしここ数年、それが生まれて来る場所が空気が、気配はあるのだけど、見付けられてなかった。それにどっぷり浸かりたかった。
「最近言われることだけど、沖縄のロックを観光用にって予算がついてタダでライヴが観られるようになって、エンターテイメントにお金を出す人が少なくなってしまった。価値には対価を払わないと、育たない。そういう側面もあるかもしれない」
コザのことはこの人に聞こうと、宮島真一に会った。メインMCを張る『コザの裏側』は、ディープなタウンガイドを緩い笑いで紡いで人気がある深夜番組だ。ラジオの帯からテレビ、全島エイサー祭りの司会から観光大使と、すっかりコザの顔として名前を知らない人の方が沖縄では少ない。
宮島真一
「別にコザにこだわっているわけじゃなくてどこにでも出てくぜって強く思ってるけど(笑)、色々やらせてもらっているのと、場所を作ったので」
昨年シアタードーナツという映画館をコザの中心地に立ち上げた。
このミニシアター受難の時代に。
映画制作者でもある彼は、『ハルサーエイカー』、『ハイサイゾンビ』など、全国展開可能な良い映画をコンスタントに制作している。が、現代沖縄もやはりシネコン中心。
シアタードーナツ https://theater-donut.okinawa
「上映をお願いするよりも、もう映画館作ってしまおうと(笑)、必然的に。まず僕がこのあたりに映画館欲しかったし。昔はあったから入り浸ってたんですよ、ラジオとか懸賞にまめに応募して。映画、しかも映画館が好きでね。だから今は楽しくてしょうがないですよ。いろんな人が来てくれるし。映画って全てを巻き込む力があるでしょ」
彼が力強く語るのを聞いていると、好きなことを仕事にしては嫌いになるという悪い癖のある私はしばらく日本映画が嫌いだったのだけど、純粋に映画を映画館を好きだった気持ちが甦ってきて嬉しくなった。
「僕もその繰り返しですよ。嫌いにもなるし。でも好きっていうのが根本であって、いちいちそれを思い出す作業。ライヴハウス立ち上げたりラジオやったり、難儀しながらものを作るんだけど、行く先々に必ず映画がある。それに映画には音楽が必ず付いてくる」
コザは音楽が生まれる土地だと思っていたのだけど一体どこに?との私の問いに対する答えが、冒頭の彼の台詞だった。
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シアタードーナツの周りを歩いてみる。コザ/現・沖縄市の中心街、その昔はさぞかし栄えていたであろう商店街が整然と広がっている。
アメリカ統治下時代、軍人らが遊ぶ場所として栄えた。明日戦場に行って生きて戻る可能性はほぼないことを知る彼らは、湯水のように金を使った。民謡バーなど一晩で家が建つほどの、ドラム缶一杯のドル札を稼ぎ、殺気立った軍人らを満足させるライブで、毎晩賑わった。
その後沖縄は日本に復帰し、基地の規律も厳しくなり基地外での飲食も規制されるようになってからは、街は一気に活力を失う。シャッター商店街となり、地元の青年会を中心にもう10年も前から空き店舗貸し出し等町おこし事業が精力的にされてはいるのだが。那覇市から高速に乗れば30分と言えども、タクシーや代行で那覇に帰るには遠い。
先月名護市(辺野古を有する、かつての大都市)のあまりの荒廃ぶりにすっかり落ち込んでしまった私は、暗澹たる気持ちで街を眺めていたのだが、気をつけて歩いているとそこには明確に確実に、変化があった。何かを生み出す荒廃の匂いがあった。
車を捨てよ、町を歩こう。
雑貨屋やレコード店、派手な色柄が並ぶ洋品店などを冷やかし、ライヴハウスの点在するパークアヴェニューまで出ると、路上ライブにBBQブースが出ていた。
一番街まで行き、今宵の宿泊先のゲストハウス『羊屋』おすすめの『りんりん』という飲食店を、手書きの地図を手に探すも見つからない。このあたりに人を呼び戻したと言われている人気焼き鳥店『鶏五郎』の前で途方に暮れていると、店員さんが『りんりん』まで連れていってくれる。なんという親切! 『鶏五郎』、飲み放題1時間770円。大にぎわいである。えっと、さっき、ミュージックタウン音市場あたりで60分飲み放題380円という看板も見ました。酒好きにはたまらない町、コザ。
『りんりん』に着いたはいいが、看板が『パナマ原人』……。表を貸してるということらしく、中に入っていくと一応店らしきものが。暗いし生活感溢れたスナック的趣きと営業気なさげな空気感。が、ここ沖縄で私たちやまとんちゅが満足出来る魚介類を出す店は少ない。隠れた名店であった。
話をそれとなく、先日起きた軍属の暴行殺人事件に持っていく。
「このあたりで飲んでいた米軍勤務の子たちは皆、礼儀正しくて優しい人ばかり。一部の犯罪者のせいで外出禁止まで出されるのはどうかと思うねぇ。金払いも良く本当にいいお客さんたちなのに」
そうなのだ、メディアで報道されるような反基地感情を強く露に出す沖縄県民は、一体どのくらいの割合なのだろうと、沖縄で生活していると常に意識させられる。オール沖縄とは一体何なのだろう。オールに属していない沖縄県民は非難の対象になるのだろうか。避難をする側は果たしていつも正しいのだろうか。闘うことが目的になっていないだろうか。
何軒かハシゴ酒をして、ゲート通りの『オーシャン』に入る。その昔Aサイン(本土復帰前の沖縄で米軍公認の飲食/風俗店に与えられた営業許可証)バーとして名を馳せた老舗だが、この夜は地元客らしき男性のみがマスターと参院選の話に終始していた。
すっかり夜も更けてゲート通りに出ると、この通りだけは軍勤務者で盛り上がっているようだった。
コザの空気が混沌としていることに、少し安心した。
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「だからさー、みんなでETを観ればいいと思ったわけ。小学生の自分は。違う者たちの友情とか普遍的なものが全部織り込まれていて、絶対観た方がいいって言うに決まってる! だから学校にETのレコードとスピーカー付きのプレイヤー持って行ってみんなに聴いてもらった(笑)。こういう、吸収するという作業を子どもの時にした方がいい。楽して生きたいから公務員になります、って子ばっかりになっちゃう。
戦争がすぐになくならないのであれば、子どもの教育をちゃんとやっていくこと。その点コザはいろんな人種がいて盛り上がることがあって、極端に何かを言うよりは、この空気に触れてもらうとこういう沖縄もあるんだと考えてもらえる。そういう街。若い子たちの価値観にもちゃんと寄り添える。地道にこういう活動もやってるので、もっと評価してもらいたいんだけど(笑)」
ピースフルラブロックフェスティバル https://peaceful-love-rock.com
『コザの裏側』収録終わりの宮島真一と、プレイヤーズ・カフェで合流した。この週末は沖縄市野外ステージで、ピースフル・ロック・フェスティバルが開催されていた。1983年から続いているロックフェスの草分けで、沖縄ロックの登竜門。
沖縄ロックの中心メンバーの一人であるかっちゃん(川満勝弘)はコンディション・グリーンのヴォーカル時代、ヘビを喰いちぎったりヒヨコをステージにバラまいて踏みつぶしていったり過激なパフォーマンスで知られる。米兵相手に育った沖縄ロックは、生半可なコピー・ロックであるわけがない。イギリスでようやく出会えたロックは、沖縄でも出会えるのだ。
マンドリルを纏いステージで座っていた宮島は、客席から現れた
かっちゃんから何かを受け取り、仮面を外し、バックステージへ消えた。確かに、何かを、託されていた。
音楽が生まれてくる渦は確かにあった。ただ客が少なかった。「PRするのが得意でない」とは宮島の言葉だが、演る側としては外にアピールすることよりも、コザのこの空気の中で生かされるものに向き合っているだけなのかもしれない。沖縄の地の力は強く、それ故に癒されたり傷ついたり、魔性の魅力があるのだ。