Home > Interviews > interview with Kazumi Nikaido - 歌が聞こえる
実家に帰って、僧侶としての生活をフィーチャーして来られる方は多いですけど、私としては家族の中で揉まれることがいちばん大変で。甥っ子や姪っ子も近所にいて、いまでこそ大きくなりましたけど、10年前は学校から帰るとむしゃぶりついてくるんですよ。いくら部屋にこもって作業なんかしてても。そのとき、それを差し置いてでも、私にはしたいことがあるんだろうか、この人たちのこのかけがえのない時間に遊んであげたいと思えてしまう。
■ブログで、赤ちゃんが生まれたけれど、もともと他の人のペースで暮らすのに慣れているので苦にならないというようなことを書かれてましたよね。そういうことかなとも思ったんだけど。
二階堂:そういうことかもしれないですね。それに慣れるのにも3、4年かかってるんですけど、慣れてからは、そういう委ね方を……
■ペースということは、”自分”ということですよね。
二階堂:そうそう。何かしていてもすぐに中断させられてしまう。「集中させて」というのが通用しない。でもそれを仕方ない、そういうものだと思って、限られた時間に集中するやり方を覚えたり…。
■どうしても、どうしてか、女の人はそうならざるを得ないことが多いと思うんですよね。
二階堂:ええ、ええ、そうですね。
■人に話しかけられてもまったく聞こえないくらい集中できるというのは羨ましい。
二階堂:とは言っても家族からはそういうふうに見えるかもしれないんですが……全然まだまだ勝手なことやってるように見えてるかもしれないんですけど、自分としては精一杯、他の人のペースで生きてるような気持ちなんですけどね。
実家に帰って、僧侶としての生活をフィーチャーして来られる方は多いですけど、私としては家族の中で揉まれることがいちばん大変で。甥っ子や姪っ子も近所にいて、いまでこそ大きくなりましたけど、10年前は学校から帰るとむしゃぶりついてくるんですよ。いくら部屋にこもって作業なんかしてても。そのとき、それを差し置いてでも、私にはしたいことがあるんだろうか、この人たちのこのかけがえのない時間に遊んであげたいと思えてしまう。おばあちゃんに対してもそうなんですよね。それを差し置いてでもしなくちゃならない作曲だとか、ブログを書くことにしてもそうですけど、そういうことがあるんだろうか? と。そのイベントには私じゃなくても代わりがいそうだけど、おばあちゃんには代わりがいない、というような秤にかけるような感じで。でもそれも“欲”なんですよね、自分の。それで喜んでもらいたいという欲望、自分も役に立ってると思いたいという欲望。だから必ずしも肯定できない。でもそうやってバランスをとるというのも自分には必要な試練だったというか、とても厄介なことだったんです。お寺の仕事と音楽を両立することは、「大変だけどそれはそれ」と思えたけれど、家族との生活、というのは葛藤だらけでした。
■お坊さんの仕事も“仕事”ということでしょうかね。
二階堂:うーん。もっと家事に近いですね。お花を活けたり、掃除をしたり、お客さんの相手をしたり。
■お寺をキープすること。
二階堂:ええ、それこそおばさんたちが玄関先で長い話をしていくんですよね。私が時間に追われている時に、ほんとにどうでもいい話をゆっくりとされるんですよ。そういうのもむげにも出来ない。できれば、自分の美学としてなるべく忙しいそぶりをみせたくない。でもそうやって、パソコンさえ広げなければどうにか成り立っている時間の流れに、パソコン開いたらもうひとり分、みたいな。でも家族にはパソコンの向こうは見えないから……。だから味方が欲しいなあとずっと思ってた。
■それで結婚?
二階堂:それもありますね。味方になってるかどうかはわかりませんが(笑)。若い人が家の中にいるというだけで嬉しい。
■え、若いんですか?
二階堂:いえ、私よりだいぶん上ですけど、でも机を運ぶ時に手伝ってもらったり、スイカを持って行ってもらったりとか。そういう時に頼める若手が欲しかったんです。家の中には私以外は年寄りだけなので、机を運ぶとき、あ、反対側がいない……という状態なんで(笑)。
■ははは。まさに高齢化ニッポンの縮図(笑)。でも、もともと東京より地元の方が好きだったんですよね?
二階堂:うーん、どうなんですかねー。もちろんいまは東京に戻りたいとは全然思ってないですけど……
■若い時には自分探しとか居場所探しをするものですけど、二階堂さんの場合は「選べなかった」というところがあるわけですね。
二階堂:そういうことは考えないようにしたと思うんですけど、そりゃあツアーでアメリカに行ったり、スコットランドに行ったりして、いいなあ、そういうところにぽーんと行けたらいいなあと、何度か思うことはありましたけどね。スペインとか、そこで芸術をやっている友だちと何日か暮らしたりしてたら、そういうところで暮らせたらいいなあとか思いますけど、またひがみですよね。「家捨てちゃおかなあ」って本気で思ったこともありましたけどね、でもそれは現実的に性分として出来ない。うっとうしいとか言いながらも、家族を断ち切る勇気なんて全然ないので、結局は家にいることを選んで、そこから出来ることを作って行くということでしたね。
■兄弟の少ない家族で大事にされて自由に育ちながら、大人になってみたら家族にいろんな形で縛られざるを得ないというのは、いまの日本社会ではけっこう多いと思うけれど、昔の家族主義時代とは違って、この人生の前半と後半を自分の中でつなげて行くことはけっこう難題になるんじゃないかと思うんですよね。ことに”後半”が早く来た場合には。そういうふうに考えると、『にじみ』には、“いろいろあってしまう”人生を前にした時に頭の中をひっくり返されるような発想があちこちにあるんですよねえ。
二階堂:それは仏教の話を聞かされている感覚なのかもしれないですね。普通に俗世間に暮らしていて、たまに仏教の話を聞いたらひっくり返されて行くというか。たぶん私はひっくり返したいなと思っているんだと思います。自分が仏教の話を聞いた時に気持ちいいんです。「お前はなにがしでもないよ」とか「わたしらにはどうすることもできない」とか言われたりすると、ちょっとすうっとする感じ。お寺に話を聞きにくる方ってお年寄りがほとんどなんですけど、布教師の先生にコテンパンにやられても笑ってるんですよね。例えば「あんたがた、お嫁さんの悪口ばっかり言っとるけど、自分のことは一個も反省せん。自分の物差しだけで考えるから」みたいな、そういうことを言われて笑顔になってるおばちゃんたちと、私の歌を聴いて笑顔になってる人の顔が似てるんですよね。
■そういうふうにひっくり返されることで、ある部分、すごく楽になるんですよ。でも一方で、これで楽になっていいのか、という気持ちもある(笑)。
二階堂:(笑)楽になり方が問題なんですね。
■だらしなくなるのではなくて……
二階堂:ええ、あくまでも自戒の気持ちというのは持ち続けるものだと思うんですよ。例えば浄土真宗の場合は肉も魚も食っていい、妻帯もいいんですけど、それはそういうことを止めることが出来ない自分の浅ましさを受け入れなければいけないということなんです。逆に「私は肉も魚も食べません、だからきれいなんです」と思う気持ちの方が悪いということなんです。人を蔑んでしまうでしょ?自分のダメさを分かることで低いところにいられる、そのことが強いということなんです。
■ああ。背伸びしてるよりは転びにくそうですね。
二階堂:そうなんです。そういう発想を持っとく方が楽というか。人を責めてなんとかするよりは……。
■だからメッセージソングではないのに、なにかそういうものがあるような作り方になるんですね。
二階堂:そうだと思います。そうは言ってもすぐ”ちくしょう”とか思うわけですよ。全然ちゃんとなれないんで、「なれない」ということを受け入れて行くしかないんですね。
■けっこうよく怒るそうですね。テレビ見ながらとか……
二階堂:そうなんですよ。すぐ怒る。
■そういうのは仏教的にはどうなんですか?
二階堂:怒らずにはいられないのが私たち、ということですね。
■仏教徒も闘う時には闘うもんね。
二階堂:ええ。だから生きている間には悟りは得られない、というのが浄土真宗の考え方なんです。禅宗のお坊さんはまた考え方が違うとは思うんですけど。
■そういうようなことを音楽に意識的に託したい、と?
二階堂:そうですね。若い人はお寺においでと言われてもたぶん来ないから、私の歌で少しでもそういうことを伝えられたらいいなと思いますね。私は一仏教徒なんです。伝道者である前に。だから自分で言ったこととかコラムに書いたことについて、「これって仏教的にどうなん?」なんて照合したりしてる。で、「これって結末が仏教的にちがうかも」とかね(笑)。
■えー。まだまだだなとか? 俗っぽいぞ、と?
二階堂:ええ(笑)。いや、俗っぽくていいんですけどね。歌を出すときも、そこに仏教的解釈が一つ欲しい。“女はつらいよ”だったら”同じ過ち繰り返す”とか、「いつのまにやら現在でした」なら”気づいたような気になってそれも案外まとはずれ”とか。
■ああ、そこがねえ! そのフレーズが頭の中で回っちゃうんですよ、私。
二階堂:え?
■いや、私、毎日「気づいてる」からなあ。毎日、新たに「気づいた」と思ってる。
二階堂:あはは。そうなんですよ。ありがとうございます。聞いてる人の生活のワンシーンワンシーンで、一節一節が来るような、そんな歌が作りたいんです。例えば「暇なら来てね」という時に「お暇なら来てよね」というフレーズが出てくるというような……
■なるほどー。「暇なら来てね」というフレーズはたしかに、あのフレーズなしには思い浮かべられないかも。気持ちよいフレーズということですね。
二階堂:そうそう。晴れた空をみたら「はーれたそらー」って浮かぶとか。そういうのが作りたいなーと。そういうことを田舎の片隅で、売れるとか売れないということとは関係なくやっていたら、高畑監督の耳にとまって、「いまのすべては過去のすべて」というフレーズがたくさんの人に届く機会が生まれた。そしていろんな人の今や過去に届く可能性が増えた。
■ええ、最後になりましたが、ジブリから話が来た時にはどうでしたか?
二階堂:(笑)あー、いや、いよいよ来たか! って。
■いやまったくそうですよね(笑)。
二階堂:ずっと「なんちゃって」で言ってたことが実現してしまったんですけどね。届くところに届いたという気持ちがしています。映画とともにあの歌を聴いてもらって。
■『かぐや姫』の話はどのように思いますか?
二階堂:監督もおっしゃるように、月に帰るというのはまさに死だなと。命がふっとわいてきて、年齢とは関係なく突然断たれる、若い方が先に逝っちゃうというのも、皇子たちが次々に寄ってくる、欲深かったり嘘を塗りこめて自分を良く見せようとすると言うのも仏教の法話のようだし、姫が自分の存在についていろいろ葛藤するのも仏教的だと思います。これはもう作るべき方向、見ている方向は完全に一致してるぞと。『にじみ』をあれだけ聞いてくださった方なので信頼してだいじょうぶ、「まかせてください!」という感じでしたね。
■『にじみ』での“メッセージ”がさらに深まる契機担ったという感じですね。二階堂さんの暮らしと、その中から歌になる生と死がどんなふうにつながっているのか分かった気がします。今日はありがとうございました。
取材・文:水越真紀(2013年12月28日)