Low(ロウ)のドラマー兼ヴォーカリストであるミミ・パーカーが55歳で亡くなったことを昨日の6日、海外のメディアが報じている。2020年より患った子宮癌が悪化しという。
1994年にデビューしたLowは、最初はスローコアと括られ、数少ない熱心なファンに支えられながら、しかし90年代を通じて、アメリカにおけるもっとも重要なオルタナティヴなロック・バンドへと発展した(最初の3枚はじつに素晴らしい)。途中から〈Kranky〉を拠点として、素晴らしい作品を何枚も発表している。とくに近年の『Double Negative』と最新作『Hey What』は傑出していた。
ミネソタ州ベミジー郊外の小学校で出会い、高校時代から交際していたという、パートナーでありバンドメイトのアラン・スパーホークは次のようにコメントしている。「友よ、宇宙を言語化し、短いメッセージにするのは難しいけれど、彼女は昨夜、あなたを含む家族と愛に囲まれて亡くなりました。彼女の名前を身近に、そして神聖に感じてください。この瞬間をあなたを必要とする誰かと分かち合ってください。愛はたしかに、もっとも大切なものです」
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サウス・ロンドンのジャズ・シーンで活動するミュージシャンの多くは音楽家育成機関のトゥモローズ・ウォリアーズ出身者で、なかにはエズラ・コレクティヴやネリヤといったトゥモローズ・ウォリアーズ内のメンバーで結成されたバンドもある。エズラ・コレクティヴは2012年に結成され、いまのようにサウス・ロンドン・シーンが注目を集める以前からこの界隈を牽引してきた存在だ。フェミ・コレオソ(ドラムス)とTJ・コレオソ(ベース)の兄弟を中心に、ジョー・アーモン・ジョーンズ(ピアノ、キーボード)、ディラン・ジョーンズ(トランペット)、ジェイムズ・モリソン(サックス)からなる彼らは、まずライヴ活動で評判を呼ぶようになり、2016年に初のEP「チャプター7」をリリース。バンド活動と並行してメンバーのソロ・ワークや別プロジェクトでの活動などもあり、バンドとしてのレコーディングの時間を確保することが難しく、ファースト・アルバムの『ユー・キャント・スティール・マイ・ジョイ』をリリースしたのはようやく2019年に入ってのことだった。
アフリカ系のコレオソ兄弟、ラテン系のジェイムズ・モリソン、アングロ・サクソン系のジョー・アーモン・ジョーンズ、ディラン・ジョーンズという多民族集団である彼らの特徴は、ジャズを基調とした上でルーツである民族音楽を融合している点。サウス・ロンドンにはこうした民族的なカラーを反映したミュージシャンが多く、アフロ、カリビアン、インド、中近東などさまざまなルーツとジャズを結び付けた音楽が生まれているわけだが、エズラ・コレクティヴの場合はリズム・セクションがアフリカ系のコレオソ兄弟ということもあり、アフリカ音楽のビートが骨格となることが多い。アフリカ音楽を取り入れたサウス・ロンドンのジャズ・バンドやミュージシャンではココロコやシャバカ&ジ・アンセスターズなどもいるが、エズラ・コレクティヴは純粋なアフリカ音楽やアフロ・ジャズというより、そもそもアフリカ音楽とファンクを結び付けたアフロビートが基盤となっていて、すなわち雑食性の高いミクスチャー・バンドである。
その雑食性の高さからアフロビート専門のバンドとも異なって、アフロ以外の音楽やリズムもふんだんに取り入れている。『ユー・キャント・スティール・マイ・ジョイ』においてはラテンやブラジル音楽、そしてヒップホップやブロークンビーツなどクラブ・サウンドも幅広く融合し、極めてダンサブルで明解なサウンドを見せていた。ダンサブルで明解というのはシャバカ&ジ・アンセスターズなどとは対極にあるもので、フェスやライヴなどで観客が踊ることを予め想定したような曲作りをおこなっている。生粋のダンス・バンド、クラブ・ジャズ・バンドと言えるのがエズラ・コレクティヴなのである。
そんなエズラ・コレクティヴが約2年半ぶりのセカンド・アルバム『ホェア・アイム・メント・トゥ・ビー』をリリースした。今回メンバー変更があり、トランペットがディラン・ジョーンズからイフェ・オグンジョビへ変わっている。イフェはナイジェリアをルーツとするミュージシャンで、モーゼス・ボイドの『ダーク・マター』(2020年)などに参加してきた。エズラ・コレクティヴには2019年6月のグラストンベリー・フェスの時点で既に参加しており、〈ブルーノート〉の企画作品『ブルーノート・リイマジンド』(2020年)でエズラが演奏したウェイン・ショーターの “フットプリンツ” のカヴァーから正式に加入した模様だ。
なお、ディラン・ジョーンズの方は現在、Pyjean(パイジャン)というグループで主に活動している。前作では5人のメンバー以外に楽曲によってココロコがコラボし、ロイル・カーナーとジョルジャ・スミスのゲスト・シンガーを迎えて歌モノのヴァリエーションも見せていたが、今回はゲスト・シンガー、ゲストMCの数も増え、サンパ・ザ・グレイト、コージェイ・ラディカル、エミリー・サンデー、ネイオが参加している。ちなみに、メンバーが部屋でセッションする光景を収めたジャケット写真は、セロニアス・モンクの『アンダーグランド』(1968年)の構図をモチーフにしたものだ。
アルバムの冒頭はヒップホップMCのサンパ・ザ・グレイトをフィーチャーした “ライフ・ゴーズ・オン”。アフロ・サンバを軸とした曲調で、アフリカのザンビア出身のサンパはこうしたトライバルなグライム調の楽曲にマッチしている。“ヴィクトリー・ダンス” は「勝利の舞」というタイトル通りアッパーでダンサブルな楽曲。アフリカ音楽というより、サルサのようなラテン音楽をベースとした楽曲で、ジョー・アーモン・ジョーンズのピアノ、イフェ・オグンジョビのトランペットもラテンの奏法である。レア・グルーヴとしても名高いハー・ユー・パーカション・グループの “ウェルカム・トゥ・ザ・パーティー” を彷彿とさせる楽曲で、“ライフ・ゴーズ・オン” での冒頭のざわめきもハー・ユー・パーカション・グループ風である。何せ50年以上も前のバンドなので、エズラ・コレクティヴがどこまでハー・ユー・パーカション・グループのことを知っているのかわからないが、どこか参考にしているのではないかと勘繰りたくなる。
コージェイ・ラディカルが「ジャズ・イズ・マイ・ウェイ」とMCする “ノー・コンフュージョン” は、アフロビートとグライムをミックスしたエズラ・コレクティヴらしい楽曲。ナイジェリア警察の腐敗や暴力を題材にしたフェラ・クティの “コンフュージョン”(1975年)を下敷きとしたような曲調である。収録時間は3分ほどと短く、途中で終わってしまうような展開だが、ライヴなどでは10分以上も続いていくようなグルーヴを感じさせる。
なお、リリース元の〈パルチザン〉はフェラ・クティのリイシューをおこなったり、息子と孫にあたるフェミ・クティ/メイド・クティの『レガシー+』(2021年)をリリースしていて、エズラ・コレクティヴのようなバンドをリリースするのも何かの縁かもしれない。
“ウェルカム・トゥ・マイ・ワールド” もハー・ユー・パーカション・グループの “ウェルカム・トゥ・ザ・パーティー” と繋がりがあるのか、アフロビートとラテン・ジャズがミックスしたような楽曲。ジェイムズ・モリソンのメランコリックなサックス・ソロがあり、エズラ・コレクティヴの売りのひとつであるホーン・セクションの魅力が大きくフィーチャーされている。“トゥゲザーネス” はレゲエ/ダブの色合いが濃く、同じサウス・ロンドンではサンズ・オブ・ケメットに共通するような楽曲だ。続く “エゴ・キラー” はスカ調の楽曲で、このあたりはロンドンを拠点とするダンス・バンドらしいところだ。
一方、メロウなホーン・アンサンブルを聴かせる “スマイル” は、グレン・ミラー楽団によるジャズ・スタンダードの “ムーンライト・セレナーデ” のテーマを基に、ジャズ・ヒップホップ的なアレンジを施したナンバー。ジョー・アーモン・ジョーンズのピアノ・ソロも聴きどころで、全体的にはムーディーなスイング・ジャズを下敷きとしながら、ピアノ・ソロだけは新主流派時代のハービー・ハンコックを思わせる感じとなっていて面白い。前述の『ブルーノート・リイマジンド』におけるウェイン・ショーターの “フットプリンツ” でピアノを演奏するのはハービー・ハンコックで、実際そこで聴くことのできるフレーズにもかなり似ているので、ジョー・アーモン・ジョーンズのなかに何らかの意識があったのかもしれない。
エミリー・サンデーをフィーチャーした “シエスタ” は、哀愁に満ちたスパニッシュ風味と透明感溢れる歌声により、かつてのクァンティックとアリス・ラッセルのコラボを思わせる。ストリングスとホーンのコンビネーションでメランコリックな旋律を奏でる “ネヴァー・ザ・セイム・アゲイン” も、ラテンやスパニッシュのアクセントを感じさせるナンバー。ゆったりとしたムードから一転して急速テンポへ移行し、イフェ・オグンジョビのトランペットが高らかなフレーズを奏でる。
ネイオのネオ・ソウル調のヴォーカルをフィーチャーした “ラヴ・イン・アウター・スペース” は、たとえば1970年代にディー・ディー・ブリッジウォーターが歌った “ラヴ・フロム・ザ・サン”(自身のソロ・アルバム、ノーマン・コナーズ、ロイ・エアーズのアルバムでもそれぞれ歌った)あたりを彷彿とさせる。スピリチュアル・ジャズとコズミック・ソウルの蜜月的なナンバーだ。今回もジャズ、アフロ、レゲエ、スカ、ヒップホップ、ソウルなどさまざまな要素が結びついたアルバムだが、そのなかでも特にラテンからの影響が印象深い内容となっている。
「1億年前、ルイジアナ州の中心部からやや南に空から大きな岩が落ちてきた。そう、その時はまだルイジアナとは呼ばれてないけどね。岩が落ちた衝撃で大きなくぼみができ、少しずつそのくぼみは埋まっていったものの、くぼみは依然としてくぼみのままだった。そこに水が溜まり、クーチー・ブレイクと呼ばれる沼になったんだ。この沼は海とは繋がっていなかった。このことに意味があった。その沼はペルシャ湾から200マイル離れていて、そこにいれば世界情勢には無縁でいられた。ローカルというのは常にそういうものだけど。沼では起きるはずのない不思議なことがよく起きていた。何人かの若者がクーチー・ブレイクでキャンプをしていて、彼らはそこにはあるはずがない花崗岩の大きな塊を見つけて登ってみた。彼らは洞窟を発見し、キクの花の陰に運命が潜んでいると考えた。大事なことは彼らがそこにじっと座り続け、クーチー・ブレイクの声に耳を傾けたことだった。彼らは成長してザ・レジデンツになった。彼らの音楽は記憶だけでできている。クーチー・ブレイクを覆う怪しい霧と不気味な形、そして意表をつく音の記憶で」
(Sonidos De La Noche『Coochie Brake』より)
ザ・レジデンツがソニドス・デ・ラ・ノーチェ(=夜のサウンド)名義で11年にリリースした『Coochie Brake』はバンドの成り立ちを題材にしたもので、これが契機となってザ・レジデンツの構成メンバーや彼らがルイジアナ出身であることが明らかになっていく。ヴォーカルのランディ・ローズが親の介護でバンドを離れていたため、曲はチャールズ・ボバックとボブが3ピース・バンドの振りをして録音。ギターとキーボード、そしてドラムだけの演奏にもかかわらず(1人2役のふざけたクレジットが笑える)、プレス・プラドーを思わせるマンボやエキゾチック・サウンドのダークサイドを掘り当てたサウンドがこれでもかと繰り広げられた。電子音がほとんど鳴らないのに、しっかりとザ・レジデンツ・サウンドに聞こえるのは不思議だったけれど、翌年からボバックはドローンをメインにソロ活動を活発化させ、ボブことノーラン・クックもデス・メタルのバンドに時間を割くようになる。チャールズ・ボバックことハーディ・ウィンフレッド・フォックス・ジュニアはそして、「医者がさっき薬物を投与した(笑)」とSNSに投稿して脳腫瘍であることを明かし、翌18年に他界。現在はボブとランディ・ローズの2人でザ・レジデンツを名乗り、『Leftovers Again?!』や『A Nickle If Your Dick’s This Big 1971ー1972』など主に未発表音源のアーカイヴをカタログに付け加えている。
ランディ・ローズが復帰し、ボバックが亡くなるまでの間に3人は自分たちの辿った軌跡を題材にした3本の大掛かりなツアーを行った。『ザ・ランディ、チャック&ボブ3部作(the Randy, Chuck & Bob Trilogy)』と名付けられたこれらのツアーは幽霊と死をテーマにした「Talking Light」(2010ー2011)、愛と性をテーマにした「The Wonder of Weird」(2013)、生と再生と輪廻と臨死体験をテーマにした「Shadowland」(2014ー2016)で、ボバックは体力が続かずに「Shadowland」ツアー中にグループを脱退。『So Long Sam 1945-2006(さよならアメリカ 1945-2006)』は「Talking Light)」ツアー中にキャバレー・ショーという体裁でバークレー美術館で行った「Sam’s Enchanted Evening(アメリカの魅惑的夕べ)」のライヴを記録したもので、2010年に4曲入りシングルとして限定配信されていたものの完全版。コンセプトはアメリカでヒットしたメジャー曲のカヴァー集となり、CD1はヴァイオリン2台とキーボードにアコーディオン、そして、ヴォーカルとパーカションという室内楽編成、CD2はそのリハーサル・デモ(=つまりスタジオ・テイク)を収録。『Meet The Residents』や前述の『Coochie Brake』と同じく基本的にはエレクトロニクスを重用しないザ・レジデンツのアコースティック・サイドである。
ステージの雰囲気はランディ・ローズに負うところが大きく、とにかく情熱的。畳み掛けられるダミ声のシャウトは80年代にパルコで観たライヴのそのままが蘇る。フィールド録音のフィリップ・パーキンスを正式メンバーに加えて録音された『The American Composer's Series』やエルヴィス・プレスリーを題材にした『The King & Eye』といったコンセプト・アルバムの類いとは異なり、好きな曲を気ままに取り上げたカヴァー大会の様相を呈し、MCも全部拾っているためにアット・ホーム感に満ちている。オーディエンスの反応もとても暖かい。“September Song”や“Mack the Knife”など演劇的な要素のあるミュージシャンならば気合が入るのも当然なクルト・ヴァイルの曲はやはり真骨頂。対照的に『ティファニーで朝食を』の主題歌“Moon River”やボビー・ジェントリー“Ode To Billie Joe”といった映画にちなんだ曲も説得力がある。ルイジアナ州の雰囲気が濃厚に漂うとされる“Ode To Billie Joe”はBサイドに回された曲ながらビルボード1位になった自殺の歌で、10年後に映画化されるまでビリー・ジョー・マッカリスターが自殺する前日に河に何を投げたのかという議論が絶えなかった曲でもある。ザ・レジデンツの音楽的ルーツのひとつなのだろう。
全体に60年代に対するノスタルジーが強く、ブライアン・イーノやブロンディーもカヴァーしたジョニー・キャッシュ“Ring of Fire”やドアーズからジーザス&メリー・チェインなどのカヴァーで知られるロック・クラシックのボー・ディドリー“Who Do You Love?”といった王道が手堅く取り上げられる。バート・バカラック作は2曲あり、ジーン・ピットニー“True Love Never Runs Smooth”とディオンヌ・ワーウィック“Walk On By”はどれも原曲に恐怖を吹き込み、不安を煽るアレンジが実にザ・レジデンツらしい。これらを聴いているとシクスティーズの能天気さにヨーロッパ流の悲壮感を植えつけていくというのがザ・レジデンツの基本的なアイディアをなしているということがよくわかる。意表を突かれたのはミシェル・ルグラン“The Windmills of Your Mind(風のささやき)”で、これも原曲のセンチメンタルなテイストは取り払われ、不安しかないザ・レジデンツ仕上げ。『池袋ウエストゲートパーク』の着メロでおなじみステッペン・ウルフ“Born to Be Wild”を室内楽にアレンジしたものはペンギン・カフェを思わせるところがあり、ロックからアンビエントへ移行したイーノのミッシング・リンクを聴いているかのよう(イーノが『Commercial Album』に参加していたことも最近になって明かされた)。77年にはライヴで演奏され、『Dot.Com』などにも収録されているローリング・ストーンズ“Paint It Black”も圧巻。これはもうかなり年季が入っていることが窺えて言うことなし。
ライヴ本編の締めくくりはやはり69年のクィックシルヴァー・メッセンジャーズ“Happy Trails”で、60年代にとらわれているわけではないと言いたいのか(タイトルも『1945-2006』だし)、中盤では郷ひろみ“Goldfinger'99”の元曲であるリッキー・マーティン”Livin’ La Vida Loca”もピック・アップ。それなりによくできているけれど、むしろ70年代以降は見事に空白だということが目立つばかり。これでエミネム“Lose Yourself”でも取り上げていれば現代にも目を配っているバンドに見えたかもしれないけれど、さすがにそこまでのキャパシティはなかった。彼らのモダンさはここが限界だったのかなと思うのはCD2のみに収録されているドナ・サマー“Mac Arthur Park”(78)のカヴァーで、17分を超える組曲を7分弱にまとめてディスコビートを抜いた弦楽中心のホラー・ドローンに仕上げている。これはアンチ・ディスコという意味ではなく、“Mac Arthur Park”からどれだけヨーロッパ的な感性を引き出せるかという試みなのだろう。ザ・レジデンツには“Diskomo”やイビサ・クラシックとなった“Kaw-Liga”といったディスコ・ナンバーがあり、ボバックは脳腫瘍を公表する時に『Freak Show』で声優を務めたスティーヴン・クローマンと結婚していることも公にし、ザ・レジデンツがゲイ・カルチャーと共にあったことも伝えている。“Mac Arthur Park”のドローン風カヴァーは、僕にはドイツのファウストとダブって見える。前々から僕は『Meet The Residents』とファウストの初期衝動は似ていると思っていて、クルト・ヴァイルの演劇的な感性を軸に諧謔性と悲壮感を同居させるためにアメリカからアプローチしたのがザ・レジデンツなら、ヨーロッパのインプロヴィゼーションに諧謔性を塗り込めたファウストが結果的に似たものになったのではないかと。60年代の熱気をエレクトロニクスに変換させることで80年代のオルタナティヴとなったザ・レジデンツに対して、ディスコ~レイヴ・カルチャーがひと段落してようやく90年代末に復活するファウストが共に00年代にそれなりの存在感を示したこともなんとなく符号に感じるところである。
文:小林拓音
まもなく来日を控えるクラック・クラウド。いまのインディ・シーンにおいてとても重要なバンドだと思うのでこれを機に紹介しておきたい。
ぼくが彼らの存在を知ったのは最近のことだけれど、カナダのカルガリーで始動した彼らについて、イギリスのメディアは4年前の2018年から賛辞をもって注目している。2枚のEPを合体した編集盤『Crack Cloud』が世に出たタイミングでもあった。まずは大手『ガーディアン』が「いかにして彼らはパンクを活用し薬物中毒を治療したか」との見出しで、まだ駆け出しのこのカナダのバンドのインタヴューを掲載。翌年には『クワイエタス』がバンドのさらなる背景に迫るインタヴューを敢行し、大きくフィーチャーしている。以下、それらの情報をもとに彼らの来歴をたどっておこう。
いわゆるフロントマン的なポジションを担うドラマー兼ヴォーカルのザック・チョイは、中国人の父とウェールズ人の母のもとカナダで生を受ける。11歳のとき、父を亡くした悲しみから酒に溺れ、ほかのドラッグにも手を出すようになった。依存症から脱するきっかけになったのは、おなじく父の遺したレコード・コレクションだったという。
なかでも大きかったのはブライアン・イーノだったようだ。その穏やかさに触れた彼は、イーノの「非音楽家」なるアイディアに惹きつけられる。おそらく、専門的な訓練を受けていなくても音楽はできるという考え方に勇気づけられたのだろう。かくして誕生したのがクラック・クラウドというわけだ。
メンバーは一応7人ということになっている。けれども表に立つ彼ら以外にも映像作家やデザイナーなど、クラック・クラウドには多数の人間が関わっている。アート表現と日常生活が一体になったその活動は、家であると同時にスタジオでもありヴェニューでもある、アルバータ州カルガリーのスペースではじまり、その後ヴァンクーヴァーのイーストサイド──アナキズムの歴史がある一方、ドラッグや貧困などの問題も根強かった地域──で継続されることになった(Casanova S.氏の情報によれば、そのイーストサイドもジェントリフィケイションによって破壊され、現在メンバーたちはばらばらに暮らしているらしい)。
このように彼らは──音楽性は異なるが、ゴッドスピード・ユー!ブラック・エンペラーのように──たんなるバンドというよりも、生活をともにする共同体という意味でのコミュニティなのだ。そのあり方は、カネとSNSのつながりだけが人間関係であるかのように見える現代において、じっさいにひととひとが助け合いながら生きていくこと、その可能性を模索するある種の運動だともいえるかもしれない。アナキストたちが自治を獲得しているコペンハーゲンのコミューン、「クリスチャニア」を彼らが訪れていることも、見逃すべきではないポイントだろう。
なんて部分ばかりを強調すると、なにやら過激な政治集団のように思われるかもしれないが、クラック・クラウドの核にあるのは「薬物依存症からの回復」と「メンタルヘルスのケア」だ。じっさい、クラック・クラウドのまわりには元ドラッグ中毒者だった者たち、あるいは現在その状態にある人びとを助ける仕事に携わっている者たちが集まっている。
たとえばキーボードのアリ・シャラール。パンジャブ系移民の親を持つ彼は、DVと人種差別を経験し、自殺願望にさいなまれ、チョイ同様ドラッグの深みにはまった過去を持つ。シャラールが「ぼくらはアート学生じゃない」と発言しているように、バンドをやることが生きていくことと同義であるような、ぎりぎりの場所から彼らは音楽を鳴らしているのだ。
そのことは、ファースト・アルバム『痛みのオリンピック(Pain Olympics)』(2020)のタイトルにもあらわれている。初期の特徴だったギャング・オブ・フォー的ポスト・パンク・サウンドをある程度は引き継ぎつつ、コーラスや電子ノイズの導入などにより音楽性の幅を広げた同作は、大いに称賛を受けることとなった。
それから2年。チョイの亡き父、すなわちバンド立ち上げのきっかけになった人物のことばからはじまるセカンド・アルバムは、音楽的にさらなる飛躍を遂げている。コーラス、管楽器、鍵盤の三つが重要な役割を担い、ほとんどの曲が起伏に富んだ展開を見せている。アーケイド・ファイアを引き合いに出しているメディアもあるが、初期のシンプルなスタイルからここまでアレンジの幅を広げたことは驚嘆に値するだろう。
ブラスが特徴的なサード・シングル “Costly Engineered Illusion” にせよ、女性の合唱ときらきらのギター、ラップ寄りの歌がうまい具合に調和する “Please Yourself” にせよ、ドラム・スティックが印象的な表題曲にせよ、とにかく祝祭性にあふれている。ぼくの英語力ではちゃんと歌詞を聴きとれないのが残念だけれど(対訳付きの日本盤を希望)、少なくともサウンドのみにフォーカスするかぎり、このアルバムはポジティヴな感覚にあふれている。きっと、共同生活とともに追求してきた「回復」の結果が本作なのだろう。
精神的に追いこまれ薬漬けになることは、けっして自己責任に帰せられるような個人の問題ではない。原因は、資本主義をはじめとする社会のほうにある。そこからの脱却の可能性を、コミュニティの実践をとおして垣間見せるクラック・クラウドの音楽は、すさんだ現代を生きるぼくたちにとって大いなるヒントとなるにちがいない。
文:Casanova S.
クラック・クラウドは集団である。カナダ、ヴァンクーヴァーの同じ家に暮らし、共同生活を送る中で彼らは音楽を制作し、映像を生みだし、衣装を作り、アートを通し世界と向き合った(ヴィジュアル・アーティストにダンサー、フィルムメーカー、ありとあらゆるクリエイターがクッラク・クラウドの中には存在する)。別働隊、N0V3L、ミリタリー・ジーニアス、ピース・コードをその身に宿し、クラック・クラウドは牙を向く。ギャング・オブ・フォー、あるいはワイヤーのようなヒリヒリとした感触を持った2018年のセルフ・タイトルの編集盤『Crack Cloud』で話題になり、セリーヌのエディ・スリマンのショーの音楽に起用されるなどするなか、彼らの牙はずっとアンダーグラウンドで研がれ続けていた。
2020年のデビュー・アルバム、『Pain Olympics』はシニカルでダークなアルバムだった。相対する世界への抗い、蔓延するオピオイド依存の危機、エコーチェンバー、社会の腐敗、そのなかでもがく自己。直線的だった『Crack Cloud』からより複雑に音が組み合わされまるでSFのドラマ・シリーズのように世界が語られる。効果音のように響くシンセサイザー、腐敗した世界のなかで生まれた希望を祝福するかのように鳴り響くホーン、SF世界のアート・パンク、それを描いた『Pain Olympics』は紛うことなく傑作だった。
それから2年がたち状況がだいぶ変わった。『Pain Olympics』が書かれた家はヴァンクーヴァーの再開発による住宅事情によって取り壊され、同じ場所に住んでいたメンバーはそれぞれヴァンクーヴァー、モントリオール、ロサンゼルスに離れて暮らすようになり、プロジェクトの節目ごとに集まるようになった。
そのなかでパンデミックが起こった。クラック・クラウドのドラム/ヴォーカルであり中心メンバーのザック・チョイはロックダウンの時期を他のメンバーと切り離されて過ごすことになったという。この孤立した時期について彼は同時に解放されたような気分を味わえた時期だったとも語っている。子どもの頃に戻ったような気分だったと。アートとの関係、家族との関係、自分自身との関係、強制的に活動のほとんどを止められたために外的なプレッシャーを感じることもなく、自分自身と深く向き合うことができたというのだ。
あるいはそれがこの 2nd アルバム『Tough Baby』の出発点だったのかもしれない。このアルバムの温度や色や質感は 1st アルバムとはだいぶ変わった。1st アルバム同様にささくれだってはいるが、世界が色づいたようにカラフルになり、その手に構えられていた武器も下ろされているようなそんな気配が漂う(朝日が昇った後、ピアノ、トランペット、サックス、メロトロン、コーラス・ワーク、それは様々な楽器に彩られた世界だ)。1st アルバムが抗いの物語だとしたら、この 2nd アルバムで描かれる物語は、抗い生き残った後の世界でどう生きるのかということをテーマにしているのではないかというように感じられる。それはザック・チョイの内面に潜るような物語だ。
最初の曲、壁に囲まれた部屋のなかで響くテープの音声、“Danny's Message” に収められたその声はザック・チョイの父親の声だ。29歳のときに白血病で亡くなったダニー・チョイ、彼の声は告げる。「これから私が伝えることから、みながたくさんのことを学んでくれると願っている」「音楽は怒りを吐き出す最良の方法だ、全てを紙に書いてしまうんだ」。家族に向けて残されたメッセージの間に別の声のカウントが挿入される。テープの前の人間の声、そんなふうにして息子の物語の幕が開く。なめらかになだれ込む “The Politician” のザック・チョイの声は物憂げに優しく響き、ジリジリと進むベースがストーリーのラインを作り上げていく(そこで唄われるのは29歳のザックが生きるパンデミック以降の世界だ)。
あるいは “Criminal” の記憶の再生のようなサウンド処理のなかでその思い出はもっと直接的に唄われる。「彼はここにいない/俺が9つのとき死が彼を迎えに来たから/それ以来俺の心はひどくシニカルだ」。子どもの頃の思い出と成長するまでの出来事が入り交じり、過去と未来が行き来する。それはまるで物語の途中に挟まれる回想シーンのように曲のなか、アルバムのなかで展開していく。「結局のところ骨格はいつもクローゼットのなかにある」。インタヴューでザックが語ったこの言葉通り、そしてレコードに封入されているザック・チョイのメッセージの通りにこのアルバムは自己を形成してきた過去を受け入れ、向き合うということがテーマになっているのだろう。そうしてそれが癒やしとなり理解となり、やがて希望へと形を変えていくのだ。
こうしたテーマを扱った作品をザック・チョイ個人の活動ではなくクラック・クラウドという集団でやるということに大きな意味があるのではないかと私は思う。クラック・クラウドの音楽、とりわけアルバムはとても映画的/映像的で、曲をシーンとして捉えているような節がある。サウンド・コラージュを駆使し断片をつなげ、そうやってイメージを物語にしていく。そこで鳴っている音はカメラワークであってセリフであって、音楽ジャンル、さらには媒体の枠を越え展開していく(たとえばその断片はビデオのなかでおこなわれるダンスに、あるいはその世界観に形を変え広がっていく)。個人の体験を元に集団のなかで物語が作られて、つなぎ合わされたイメージの断片に因果関係が生じる。そうやってイメージが共有され自己を離れた客観視された物語ができ上がる。それは他者の物語で、そうしてその物語を通し自らの内面を理解する。それがクラック・クラウドの言う「セラピーとしてアート活動」ということなのではないだろうか。
あるいは “Please Yourself” のビデオとそのビデオに寄せられたメッセージこそがこのクラック・クラウドの考えを象徴するものなのかもしれない。2nd アルバムのジャケットにも使われているビデオのメッセージでクラック・クラウドは言う。
「子どもの頃、私のベッドルームは祭壇のようでした。壁に貼られたイメージは私がいかにそれらに憧れ、目標としていたかを示しています。このようなポップ・カルチャーの神格化は、たとえそれがでっち上げられたものであっても、自分自身の物語の感覚を強くしてくれました」
ベッドルームの壁に神格化された過去と未来(それは訪れなかった未来も含まれる)が張り巡らされ、その部屋の周りで映像と現実の世界の間にいる半実体の集団クラック・クラウドが踊り、音楽が奏でられる。それがジャケットに写る彼女の、そしてクラック・クラウドの音楽を求める私たちの周りにあるものだ。不安を抱く心を理解してくれるようなサブ・カルチャーとの連帯、それは誰かの物語で本物ではないが、しかしリアルを感じられる。それこそが心の支えになるものなのだ(だからこそ “Please Yourself” の声が合わさるその瞬間に心が震える)。
だが同時にクラック・クラウドはそれがメディア・インダストリーをパラドックスに陥らさせているとも言う。
「それは人びとのインスピレーションの源であると同時に、作られた幻想でもあります」
人生を救うエンジニアード・イリュージョン、そのパラドックスのなかにクラック・クラウドは生き、答えを探す。自分たちは何者であるのか、そして何者でありたいと願っているのか。
「アートとは、癒やしと発見のためのメカニズムです。アートから学び、成長する、私たちの文化ではアートを数値化し、認可し、製造する傾向にあります。しかしその根底にあるものは、人生を探求する形なのです。自分自身をより理解するために、人生の深淵を解き明かす方法を学ぶのです。そしてお互いに理解しあえることを」
「Tough Baby」と名付けられたこのアルバムはアートを通しクラック・クラウドがいかに生き、そしていかに理解への冒険を進めているのかを示している。不安が意味するもの、恐怖がもたらすもの、物語、音楽、映像を通しそれらを文脈化し、理解していく。理解への欲望、人生への探求、生きるということ、クラック・クラウドの音楽は断片化された世界を繫ぎ、連帯する人間の物語を感じさせてくれるのだ。
サウス・ロンドンを拠点とするギタリストであり、現在はビート・メイカー/プロデューサーとしても世界中で高い人気を誇る edbl。デビュー・シングルを発表した2019~2021年の作品をまとめた日本独自の編集盤『サウス・ロンドン・サウンズ』と、続く『ブロックウェル・ミックステープ』でここ日本でもブレイク。今年9月には、SANABAGUN. への加入も大きな話題を呼んだ注目のギタリスト、Kazuki Isogai との共作『The edbl × Kazuki Sessions』を。そして10月には、イギリスの新進シティ・ソウル・バンド、Yakul のヴォーカリストであるジェームズ・バークリーをフィーチャーした『edbl & Friend James Berkeley』をリリースと絶好調、勢いが止まらない。そこで今回、アルバム1枚を通しての初の共作者となった Kazuki Isogai と、彼とは同い歳で、お互いに注目する間柄だという Suchmos のギタリスト、TAIKING のふたりに、edbl の魅力について、そして現在の音楽シーンについて、ギタリストの視点から語ってもらった。
1曲目の “Worldwide” と、最後の “Left To Say”。ギターうめぇと思いながら聴いてました。
(TAIKING)
■edbl がつくるビートの良さ、おもしろさはどういったところですか?
Kazuki Isogai:サウンドがすごくカラッとしているというか。昔のヒップホップはもう少し重みがあった。edbl のサウンドは、まさにサウス・ロンドンっぽい、カラッとしていて、いい意味でボトム(低音域)が少ない感じ。でも、もの足りなさはなくて、その乾いた軽さがが心地いい。
TAIKING:同じ感想ですね。Kazuki くんとやってる『The edbl × Kazuki Sessions』、すごくいいね。特に1曲目の “Worldwide” と、最後の “Left To Say”。ギターうめぇと思いながら聴いてました。このカラッとした感じは、どうやって出してるんだろう? 自分の作品でも狙ってやってみるんだけど、全然カラッとならないんだよね。
Kazuki Isogai:edbl と話してると、ヒップホップとかR&Bがすごく好きで、やっぱりヒップホップがベースになっているビートではあるんだけど。サンプルパック(注:ドラムスやベースなどの音素材集)を使っても、イコライザーのかけ方がウマいんだと思う。僕がつくったトラックを渡して、戻ってくるときには、全部 edbl のサウンドになってるから。
TAIKING:特にカラッとした音、「デッドなサウンド」はアメリカ発の作品にも感じるけど、同じようにつくれない。難しい。
Kazuki Isogai:でもリヴァーブ(残響音を加え空間的な広がり感を出すエフェクト)はかかってるんだよ。けっこうウェットなんだよね。だからやっぱりサンプルの使い方がウマいんだと思う。まあ生音のレコーディングの話をすると、海外は全然違う。スタジオの天井の高さとか。
■edbl がもともとはギタリストであることは、ビート・メイクにどういう影響を与えていると思いますか?
Kazuki Isogai:僕も最近ビートつくるんですけど、「ギタリストが感じるビートの気持ちよさ」っていうものが、共通してあると思っていて。edbl も、頭の中で描いてるビートのイメージがあって、それをそのまま表現してるだけだと思うんです。やっぱり、彼がいるサウス・ロンドンのシーンからの影響が大きいんじゃないかな。
TAIKING:シーンからの影響、それがやっぱり大きいだろうね。
Kazuki Isogai:僕と TAIKING くんも、違うタイプのギタリストだけど、同じようなシーンにいるから、似たような感性になるし。edbl はサウス・ロンドンに住んでて、周りにはトム・ミッシュとかいるわけだから、自然とそのシーンのスタイルが身についてくる。だから僕らがマネしようと思っても、そこにいないから、その場の空気感を知らないから、なかなか難しい。ギタリストって、ロサンゼルスに行ったら、やっぱり少しLAっぽいスタイルになるもんね。
共演するきっかけになった “Nostalgia” って曲があるんですけど。edbl が弾くギターが、ちょっと思いつかないフレーズというか。どうやって弾いてるんだろうって。(Kazuki Isogai)
■いま、名前が出たトム・ミッシュが、いまの時代のギター・ヒーローと思えるのですが。
TAIKING:彼はなんか絶妙ですよね。ビート・メイカーでもあるけど、曲がちゃんと「立って」いる。そこが日本人にも聞きやすいのかなと。普通にメロディが素晴らしくて、やっぱり edbl と少し似てる。メロウなんだけどカラッとしてる。ふたりに共通して思うのは、ドラムの、ビートのサウンドの良さなんだよね。
Kazuki Isogai:そうだよね。ビートが良かったり、ドラムの音がいいと、それだけで曲が成り立つ気がしてて。ドラムの音が良くないと、あちこち音を重ねたくなったりとか、ドラムではじまる曲にできないとかあるから。
■先ほど出た、ギタリストならではのビート感の話ですけど、他の楽器奏者と話が合わないという場面もありますか?
TAIKING:好き嫌いの話だから、しょうがないという感じではあるけど。僕が気持ちいいのは、カッティングだったり、ペンタトニック(・スケール。ギターの基本となる音階)を弾いているときが多いんですけど、カッティングのときに、スネア・ドラムで締めて欲しいというのはある。
Kazuki Isogai:ポケット(気持ちいいリズムのタイミング)にハマるドラムはいいよね。僕は、めちゃくちゃリズムにストイックだった時期があって、PCで音の波形を見ながら、合わせてギターを弾くというのををやってた。1弦なのか、6弦まで当たった瞬間をジャストとするのか、そんなところまで考えながら。ソウライヴのギタリスト、エリック・クラズノーがライヴでユル~く弾いている曲がかっこよくて、それを波形で分析したりもしてね。そうやって研究してきていまは、リズムが「円」であるとしたら、自分も一緒になって回るんじゃなくて、引いたところからその円を見る感じでリズムを捉えてる。そうすると前ノリでも、後ノリでもいけるっていう。
TAIKING:その感じわかる。リズムに入り込んじゃったらダメで。客感的に捉えてないと、ウマく弾けないところがあるよね。
■edbl のビート、リズムの捉え方もおふたりに近いから、彼の音楽を気持ちよく感じるんでしょうね。
Kazuki Isogai:それこそ SANABAGUN. のドラマー、一平に近いかな。彼もヒップホップ・ベースのドラマーなんで、edbl に似ている。やっぱりヒップホップをルーツに持っている人のビートが好きなのかなって。
TAIKING:最近はでも、(ロックの基本となる)8ビートを求められることも増えてきてね。
■近年は16ビートの流行りが続いていますが、8ビートを弾く方がいま、難しくなっているということはありますか?
TAIKING:それは、いちギタリストとしての視点なのか、音楽シーンの一員としての視点なのかによって、話し方が変わるなと思ってるんです。ちなみに僕は最近、8ビート派になってきてて。16ビートからはちょっと離れようかなと。
Kazuki Isogai:8ビートってめちゃくちゃ難しいよね。ロックの人がやる8ビートと、僕のような違う畑の人がやる8ビートは全然違う。
TAIKING:それが最近、畑の違うギタリストが交わるようになってきてて、そこがまたおもしろいなって思ってる。
[[SplitPage]]メロウなんだけどカラッとしてる。(edblとトム・ミッシュの)ふたりに共通して思うのは、ドラムの、ビートのサウンドの良さなんだよね。(TAIKING)
■edbl は、ギタリストとしてはどういったタイプですか? リヴァプールの音楽学校でギターを習ったそうですが。
Kazuki Isogai:edbl と共演するきっかけになった “Nostalgia” って曲があるんですけど。edbl が弾くギターが、ちょっと思いつかないフレーズというか。どうやって弾いてるんだろうって。
TAIKING:うんうん、このギター、どうなってんのって感じ。
Kazuki Isogai:日本の音楽学校で「これ、いいよ」と教えられるものと、海外で教えられるものは全然違う。ビートルズなんかをずっと、子どもの頃から聴くわけだから、それは違うよなって。edbl のビートには、UKロックのカラッとした感じもあって。サウンドの方向性といったところで、何かUKロックとも通ずるものはあるかな。
TAIKING:共通点を感じるところ、あるね。
■ロックに代わってヒップホップが世界的には音楽シーンの中心となって久しいですが、ヒップホップ以前と以降でギターという楽器はどう変わったと思いますか?
Kazuki Isogai:僕は、15歳まで音楽は聴くけど、楽器はやっていなくて。RIP SLYME とか SOUL'd OUT といったラップが流行っていて聴いていた。でもギターが好きだな、レッド・ツェッペリン好きだなっていう思いもあって。自分のなかでヒップポップと、好きな音楽が結びつかなかったんですよね。
TAIKING:それ、すごくわかる!
Kazuki Isogai:でもその後、音楽の専門学校に行って、ジャズ・ブルースを学んだんですけど、ビッグ・バンドについて学ぶ際の教材として講師の人が聴かせてくれたのがソウライヴだった。ギターのエリック・クラズノーってロックっぽくて、入っていきやすくて。それで彼の、ずっとループに乗っているような感じのギターの存在、かっこよさを味わった。自分がやってたギターと、ヒップホップがちょっとそこで結びついた。
TAIKING:自分も、ギターという楽器と、どんどん新しく出てくるダンス・ミュージック、ヒップホップが結びつかなかったって話、めちゃくちゃわかる。僕はもうバンドやってたけど、高校の友だちとかはみんなDJをやりはじめて。ライヴ・ハウスじゃなくて、「クラブ行こうぜ」だった。同じ音楽なんだけど、ヒップホップには入り込めないなって、境目みたいなものがありましたね。それで僕の場合は、Kazuki くんみたいにリンクするところがないまま来ちゃってるんで。もちろんヒップホップも好きだから聴いてはいたけど。まあ自分のバンドが大きかったかな。
Kazuki Isogai:本当、Suchmos が出てきた瞬間に、日本の音楽シーンはすごく変わったからね。それまでもシーンはあって、僕もアンダーグラウンドでそういうシーンにいたからわかるけど、ただメジャーでやる人たちがいなかった。
■Suchmos の曲を聴いていて、TAIKING さんはワンループの上で弾くのが得意だと思っていたので、お話聞いて意外でした。
TAIKING:得意ということはないですね。どっちかというと、コード進行変われ、早く変われ(笑)と思って弾いてますから。いまソロでやってるのはバッキバキにコード変えるし、めちゃくちゃ転調するし。
Kazuki Isogai:TAIKING くんは、つねに TAIKING くんだからいいんだと思う。Suchmos で弾くときも変わらないから、そこがいいんだと思うし、ギタリストはそうあるべきとも思いますね。
■ヒップホップ以降は、音色とテンポ、BPMがより重要になっていると思うんです。edbl の音楽はテンポ感も絶妙なのかなと思うのですが。
Kazuki Isogai:速い曲でもBPM100とかですね。僕もロー・ファイ系のビートをつくったりするんですけど、最近はちょっと流行りのテンポが速くなった。ラッパーとやるときは、彼らが得意なBPMを求められることが多くて、93とか。ただビートの気持ちよさって、遅くてもドラムがタイトだったらノレるし、速くてもドラムがルーズだと速く感じなかったり。曲全体のテンションといったものも大きく関わってるんじゃないかな。だからそのときの体調とか雰囲気とかで、つくるものが変わるというか。つくる側からすると、そう思うんですけど。
TAIKING:個人的には、ユルいテンポはちょっと飽きたところがある。それで速くしようと、自分の曲ではまずはBPMからいじってみるんだけど、いい感じのノリを出すのは難しい。8ビートで 、BPM130とか125でいい感じの曲をつくりたいと思ったりするんだけどね。ウーター・ヘメルやベニー・シングスとか、フワフワ系の8ビートを得意にしてるオランダの人たちがいるんだけど、彼らの音楽とかいいなと思ったり。あと、ああいう曲つくりたいなと思うんだけど全然できないのが、ドゥービー・ブラザーズの “What A Fool Believes”。歌メロがすごいなって。それで言うと、日本ではやっぱり藤井風くんがすごい。いまライヴで一緒にやってるんだけど。
Kazuki Isogai:彼はバーでピアノ弾いたりもしていたんでしょ?
TAIKING:家族がね、ジャズ喫茶を経営していて。ピアノと、サックスもバキバキで。それでステージでは、お客さんからのリクエストを、「いま、YouTube で調べてやります」とか言って、すぐに弾いて歌ったりとかね。風くんを見ていると、ギターと鍵盤の違いを感じますね。僕はギターを弾くとき、フレットや弦を目で見て、形で見るタイプで。でも鍵盤は「見て弾く」というのがないから、自由度も高いし、ギターのように「小指が届かないからあの音は出せない」みたいなことがない。だからハーモニーのセンスみたいなものは違うはずだなって。
■“What A Fool Believes” も、マイケル・マクドナルドが鍵盤でつくるから生まれるメロディだと、よく言われますね。
TAIKING:そうだと思います。転調の仕方も含めて。そういった、転調のセンスとか、風くんもすごく似てる。
Kazuki Isogai:ギタリストって、音楽が好きでギターはじめたんじゃなくて、ギターがかっこいいから手にしたっていう人も多くて。音感もなければコードもわからない状態ではじめて。鍵盤の人は子どものころからやっている方もいて、音楽の捉え方がそもそも違うんだよね。
僕が意識しているのは、楽曲の顔にギターを持ってきたいっていうこと。僕の弾くリフが楽曲の顔になって欲しいなって、そこは意識してプレイしてる。(Kazuki Isogai)
■先日、サブスクなどで「ギター・ソロがはじまると曲を代えられる」という話題が盛り上がっていました。ただ僕は、エリック・クラプトンやエディ・ヴァン・ヘイレンといった往年のギター・ヒーローの時代とは違う形で、近年はむしろギターのサウンドが求められていると感じていて。edbl の音楽が人気なのも、ギターの用い方がウマいことが要因のひとつだと思うのですが、そのあたり、どのように捉えていますか。
TAIKING:ギター・ソロ云々の話はあまり気にしてないですね。ギター・ソロだけじゃなくて、間奏が敬遠されているのかなって。
Kazuki Isogai:そうそう。単純に曲の聴き方が変わってきてるだけで。そのアーティストが好きというリスナーじゃないと、間奏に来たら次の曲にとばされるよねって。
TAIKING:ギターという言葉がトレンドに乗ったのはいいことだと思います。ありがたいですけどね。
Kazuki Isogai:まあ本当に、昔と比べて、ギターは楽曲の顔になるものではなくなっているよね。だから僕が意識しているのは、楽曲の顔にギターを持ってきたいっていうこと。僕の弾くリフが楽曲の顔になって欲しいなって、そこは意識してプレイしてる。
■わかりやすいギター・ソロが主流じゃないだけで、ギターのトーン(音色など)の違いを楽しめるような人は昔より増えていそうですよね。ジョン・メイヤーがあれだけ人気があるっていうのは、リスナーのギターの聴き方も進化しているんじゃないかと思うんですけど。
TAIKING:ジョン・メイヤーについて言うと、独自の、自分のトーンをしっかり持っているっていうのと、結局ほとんどがペンタトニックで。世界3大ギタリストとかいろいろいうけど、みんなペンタトニックだなって。だから、ペンタトニック・スケールでしっかり「自分の歌」が歌えるかっていうこと。それで、しっかり自分のトーンと、自分のキャラクターをわかりやすく出せていることが大事なのかなと思います。
■カッティング派は不利ですね。
TAIKING:だからコリー・ウォン(ヴルフペックのメンバーでもある、新時代のカッティング・ギター・ヒーロー)が3大ギタリストに入ってきたら嬉しいよね。その枠、あるんだって。
Kazuki Isogai:コリー・ウォンはやっぱり衝撃だったと思うよ。ナイル・ロジャーズに代表される、シャキッとしたカッティングの究極版みたいで。
TAIKING:キャラクターもいいよね。ちゃんとセルフ・プロデュースできていて、見せ方もウマい。
Kazuki Isogai:ジョン・メイヤーの話に戻ると、彼は自分で歌うから、ギターの配置とかも絶妙なんですよ。TAIKING くんにも感じるところなんだけど。曲をトータルで、歌の隙間とか考えてギターを鳴らしているから。
TAIKING:クラプトンとか、Char さんもそうかな。
Kazuki Isogai:そうだと思う。だから僕、最近は歌詞をちゃんと理解して、ギター弾くようにしてる。それによって自分の弾くものが、けっこう変わってくるからね。
■edbl も実は歌うんですよね。なるほど、自ら歌うギタリストの特徴についても、よくわかりました。今日はおふたり、ありがとうございました。
待望の、ということばはこういうときのためにとっておくべきだろう。
渋谷のハチ公前で、大型スクリーンに映し出された “Terminal Slam” のMVを目撃したのが2020年1月30日の深夜0時。翌日、(現時点でも最新のオリジナル・)アルバム『Be Up A Hello』がリリースされた。すでに未知のウイルスについては報道されていたけれど、ダイヤモンド・プリンセス号の衝撃はまだで、このときはぜんぜん他人事だった。2か月後にはスクエアプッシャーの来日が控えている──その後の顚末はご存じのとおり。
あれから2年と半年。ほんとうに、待望の公演だ。しかも今回はハドソン・モホークまで帯同するという。豪華以外のなにものでもない。
会場に着くと、ちょうど真鍋大度がDJを終え、ハドソン・モホークのプレイがはじまるタイミングだった。スクエアプッシャーということで古くからのファンもそうとう来ていたはずだが、むしろ若者の姿のほうが目立つ印象を受ける。そりゃそうだ。ハドソン・モホークは2010年代のスター・プロデューサーのひとりである。彼をこそ目当てにしていた層もかなりいたのではないだろうか。

グラスゴーから世界へと羽ばたいた青年はまず、トゥナイトの “Goooo” で O-EAST に火をつける。一気に盛りあがるオーディエンスたち。アルバムなどで聴かれるとおり、やはりアゲるのがうまい。前半はそのまま昂揚を維持して突っ走る。中盤ではムードを変え落ち着いた曲も披露。新作『Cry Sugar』の表題曲的な “3 Sheets To The Wind” などを経て終盤へと突入し、再度アゲの路線へと復帰。最後は90年代の香りかぐわしい “Bicstan” で〆。都合1時間弱、緩急のついたパフォーマンスを披露してくれた。
しばらくは転換の時間。トム・ジェンキンソンがあれこれ機材をセッティングしている。BGMとして、彼のルーツを想像させるようなエレクトロ~ジャングル~ブレイクビーツがつぎつぎと流れていく。高まる期待。30分ほどが過ぎたころ、スクリーンに渋谷の街が映し出された。“Terminal Slam” のMVだ。

蘇るあの日の記憶。広告の暴力性をみごとアートとして表現したこの動画をいまあらためて上映することは、2年半という時間の経過をリセットする効果を発揮してもいた。今回のライヴがもともとは『Be Up A Hello』リリース後の来日公演であったことを思い出す。と同時に、今日のVJが同MVを手がけた真鍋大度であることを意識する。
ステージに登場するジェンキンソン。ベースを構えている。つぎつぎと彼らしい高速の曲が繰り出されていく。ハドソン・モホークとは対照的にずっと速いままで、ジャングルのビートもほぼずっと維持されていたように思う。
すさまじかったのは、どうやっているのかわからないけれど、中盤の一部の時間帯を除き、ひたすらベースでほかのサウンドまで鳴らしていたことだ。電子音楽家であると同時にベースを知り尽くした凄腕の演奏家でもあるという、彼のアイデンティティを申し分なく見せつけるパフォーマンスである。

もうひとつ、さすがだなと思ったのは、おそらく大半の曲が未発表か、もしくはその場で生成したものだったこと。昨年『Feed Me Weird Things』がリイシューされたのでもしや……と構えてもいたが、ショバリーダー・ワンのようなグレイテスト・ヒッツ・ショウではまったくなかった。聞き覚えのあるメロディやリズムの断片が何度か耳に入ってきたので、既存の曲もやっていたとは思うんだけれど、それとはわからないほどにアレンジが変えられている。スクエアプッシャーはあくまで前を向いている──ミニマルな四角形を基調とした真鍋大度による、これまたカッコいいヴィジュアルとのシンクロ率の高さ含め、とにかく楽しくて、途中からずっと踊りっぱなしだった。
終盤、『Be Up A Hello』冒頭のメロディアスな “Oberlove” がプレイされ、やっぱり2年半前のハチ公前を思い出してちょっとセンチメンタルな気持ちになる。アンコールでは “Come On My Selector” を披露、ファン・サーヴィスも忘れていなかった。
連日、報道では第8波を警戒する声があがっている。「グリフォン」だとか「ケルベロス」だとかいった変異株も話題になっている。けれどもこの日この時間ばかりは長いトンネルを抜けたような、2年半の狂騒がまるでなかったかのような感覚を味わうこととなった。ハドソン・モホークとスクエアプッシャーという、世代も作風もまるで異なる両者のパフォーマンスをともに体験できたことも、エレクトロニック・ミュージックのファンとして嬉しかった。待望した甲斐のある、素敵な一夜だったと思う。
ビョークの傑作と誉れ高い『ホモジェニック』のなかのもっとも重要な曲、“Joga”については、これまで何度か書いてきた。当時の彼女はプライヴェートで想像を絶する苦難(ストーカーによる殺害未遂と自殺映像)があったため、ロンドンを離れスペインで録音し、故郷アイスランドを思い作ったその曲において、ぼくがとくに心奪われたのは同曲のMVである。海沿いの丘陵地帯や草原、地殻がずれてマグマが見える(*アイスランドは火山の国)広漠とした風景のなかにひとり立ちつくしているビョークは、映像の最後で、クローネンバーグよろしく胸の中央に開いた黒い穴をがっと広げ、しかしその穴のなかに人工物ではなくあらたにまた自然(島)を映し出す。言うなれば、自然と一体化したその様は、その後のビョークのコンセプトにおける重要な道筋となった。
“Joga”は、ビョークの音楽性においてもひとつの出発点にもなっている。子どものころにクラシックを学んだ経験があるという彼女は、この時点でエレクトロニカとクラシックとの融合を試みているし、のちの名曲“All is Full of Love”にも繋がっている。近年で言えば、フルートと鳥のさえずりの前作『ユートピア』が、テーマ的にも音楽的にもまさにその傾向を強調した作品だった。アイスランドで制作された本作『フォソーラ』もまたしかり。
先行で公開された“Atopos”の、グロテスク(*)なMVを見れば話が早い。きのこに触発されたビョークの10枚目のスタジオ録音盤は、クラリネットの重奏とバリ島のカバー・モードゥス・オペランディによるレゲトン風のビートではじまる。立体的で、位相に凝ったミキシングで、音響的にもユニークだ。“Ovule”では、トロンボーンのそよ風がベース・ミュージックと一体化する。それからビョークが自らの声をサンプリングし、変調させ、プログラミングした“Mycelia”があって、アイスランドの合唱団による“Sorrowful Soil(哀しみの土)”が続く。菌類から名付けられたという前者は、手法的にはジュリアナ・バーウィックを思い出すかもしれないが、曲の構成は変則的で、反復はせず菌糸のように絡み合い、しかも音数は少ない。後者は、ほんのわずかにベースが入るものの、ほとんど合唱のみで構成されている。つまり、手法も趣も異なった“声”による2曲が連なっていると。そして、その後に続くのは、本作の目玉のひとつ、贅沢な弦楽器の重奏を配置した“Ancestress(祖先)。クラシックとエレクトロニカの融合という観点でも見事だし、ビョークのヴォーカルはメロディアスで力強い。
これら序盤の見せ場において、“Sorrowful Soil”と“Ancestress”の2曲には、環境活動家でもあった母の死に寄せた哀しみが関わっているという。と同時に、前作同様、ビョークの女性への思いが本作にも通底していることが仄めかされている。しかしながら、ビョークはリベラル主流派の代弁者ではない。ぼくがポップ・カルチャーに期待するのは、リベラル主流派さえもあきれかえるほどの異なる声だったりする。ぼくのような凡人には思いも寄らないような声を出すことは、監視し合い、萎縮した社会では難しかろうが、ビョークはいまもそれをやっているのだ。きのこになりきった彼女は、まさにウィアード(**)な存在で、彼女の音楽のなかにはオルフェウス的なるものがあることを確信させる。
ギリシャ神話におけるオルフェウスはいわば古代の音楽家だが、動物や木々さえも魅了する特異な音楽家だった。そればかりか、死者を蘇らせることだって彼には可能だったのだ。ここから導き出せるひとつの見解は、音楽には人が思っている以上に何かものすごい力があるということで、オルフェウスはだから八つ裂きにされるのだった。のちに歴史上、多くの芸術家のモチーフとなったオルフェウスを、合理主義のなれの果てである今日の社会に対峙させることは、詩人の直感としては間違っていないだろう。
異なる声は、我々のちっぽけな正義の臨界を超えたところから聞こえるものだ。『フォソーラ』は、これまでのビョークのカタログのなかでもっとも奇妙なアルバムで、ぼくの理解を超えている作品だ。気むずかしさはないが実験作だし、よくわからないが、もっていかれる。
フルートと声の“Allow”は前作録音時の曲という話だが、本作のある種異様な流れのなかにしっかりハマっている。森のなかを彷徨う“Fungal City(きのこ都市)”に次いではじまる“Trölla-Gabba”では、前情報にあったガバのリズムが曲の終盤に少しだけ出てくる。ロッテルダム・ハードコアのようなサウンドをやるのかと早合点したのはぼくだけではないと思うけれど、そのリズムをマッチョの欠片もない菌類の世界で鳴らす試みは、まあ、面白いといえば面白い。タイトル曲ではやはり曲の終盤に、今度はより大胆にガバのリズムを鳴らしている。アルバムを締めくくる子守歌のような“Her Mother's House”では、本作のテーマである「母系制」を確認するかのように、19歳の娘といっしょに母について歌っている。とどのつまり彼女は、家父長制にはなんの未来がないことを念を押すように言いたいのだ。
無神論者であるビョークはこの20年家族の礼拝にも出席せず、母親がニューエイジやスピリチュアルに心酔したときも逆らったと、ピッチフォークの最新インタヴュー記事(***)に書かれている。本作の詩的なるものも、決して論理性と相反するものではないとぼくは思っている。きのこ/菌糸類は本作におけるメタファーだというのが、すでに定説になっているが、それがなんのメタファーかといえば、答えはひとつではないし、リスナー各々が想像すればいいだろう。女性的な何かとリンクしているかもしれないし、より広義にしぶとい生命力であるとか、サイケデリックな扉かもしれないがただしこれは幻覚でも夢でもない。妖精物語でもファンタジーでもないし、クラブでもポップ・ソング集でもない。そんなように、いまひとつとらえどころがなく謎めいたこの作品には、だからこそ人間を人間たらしめているものが潜んでいるように思えてならないのだった。
(*)宣伝をかねていうと、現在絶賛作業中のマーク・フィッシャーの遺作となった『奇妙なものとぞっとするもの』の翻訳(訳者は五井健太郎)、同書においてフィッシャーは、ザ・フォール(マーク・E・スミス)を引き合いに出し、グロテスクなる言葉の意味について「古代ローマ期の人間や動物や植物が混ざりあった装飾的な模様」に由来すると説明している。
(**)さらにもう一発宣伝。『奇妙なものとぞっとするもの』とは「奇妙なもの」=「ウィアード(weird)なもの」とはいったい何なのかを彼の博覧強記をもって分析している本。12月2日刊行予定です。どうぞ、よろしくお願いします!!
(***)余談だが、このインタヴューで、ビョークが(『ストレンジャー・シングス』でリヴァイヴァルしている)ケイト・ブッシュへのシンパシーについて言及しているが、たしかにいま『Hounds of Love』を聴くと、同作が20年先を走っていたことを思い知らせれるし、最近のビョークにもっとも近しいアーティストのようにも思える。「ストレンジャー・シングス」で知った人も、聴いてみてください。
パンクは何度も死んで何度も生き返っている、ということはパンクは死なないということか、スペシャル・インタレストはその最新版のひとつ。ニューオリンズのこのパンク集団は、なんらかの理由でギリギリのところを生きている疎外者たちのために、いま、パンクにレイヴを混ぜ合わせて未来に向かっている。
文化的な文脈において彼らをマッピングするなら、以下のようになるだろう。1970年代後半の、アメリカ西海岸のパンク・ロックのそのもっとも初期形態のザ・スクリーマーズには2人のゲイが、彼らの影響下に生まれたデッド・ケネディーズには黒人が、そしてザ・ジャームスにはゲイと女がいたことが象徴的なように、そこは人種的にもジェンダー的にもマイノリティーの坩堝だった。ことにバンド内におけるこうしたミクスチャーは西海岸の初期パンクの特異な点で、未来的な特徴だった。クィア・パンクとブラック・パンクが共存するスペシャル・インタレストは、その良き継承者である。
そう考えると、70年代の西海岸のパンクと併走するカタチで、NYにおいて人種的にもジェンダー的にもマイノリティーのユートピーとして成り立っていたアンダーグラウンド・クラブ・カルチャーがパンクと結託するのも時間の問題だったと言える。そもそもパンクのライヴの、そこにいる誰もが好き勝手に踊るというところもレイヴっぽかった。
スペシャル・インタレストの3枚目のアルバム『Endure』は楽曲も多彩だが、曲のテーマもいろいろで、えん罪で刑務所に投獄された黒人革命家についての曲があるかと思えば「午前6時にクラブを出て行く女の子たちへのラヴ・ソング」もあって、また別の曲ではアメリカなんかくそ食らえと叫んでいる。猛烈な勢いをもって現代のパンク・バンドは逆境を生きている(Endureしている)人たちを励ましている。ジョン・サヴェージは、パンクとは、marginal(欄外/隅っこ/ギリギリ)を生きる勇敢な人たちのためにあると言った。素晴らしいことに、いまここに真性のパンクがある。注目して欲しい。

メンバー:アリ・ログアウト(Alli Logout)、マリア・エレーナ(Maria Elena)、ネイサン・カッシアーニ(Nathan Cassiani)、ルース・マシェッリ(Ruth Mascelli)
日本のみんなには、曲を聴いて、日本ではどんなことが起こっているのかを考えてみてほしい。自分たちの周りにいる人びとが何と戦っているのか、私たちはどのようにお互いを大切にすることができるかをね。
■この度は、取材を受けてくれてありがとうございます。『The Passion Of』から聴いていますが、スペシャル・インタレストのバックボーン、コンセプトにとても興味があります
アリ:今日はアメリカでのショーの初日で、いまみんなでショーの前にカフェでコーヒーを飲んでるところなんだ。だから、みんなで一緒に質問に答えるね。
■スペシャル・インタレストの原型は、マリアさんとアリさんがニューオリンズに移住し、最初は2人ではじめたそうですね。で、ルースさんとネイサンさんと出会った。何を目的として4人組のバンドとして始動したのかを教えてください。
アリ:そう。最初は私とマリアの2人で、ギターとドラムマシンとパワードリルからはじまった。テキサスではじまったんだけど、ニューオリンズのフェスに出るために2人で曲を作るようになったことがそもそもの出発点だね。で、テキサスからニューオリンズに引っ越したときに、マリアが2人のイタリア人の友だちを集めてくれたというわけ(笑)。ルースとネイサンは私たちよりもずっと前からニューオリンズに住んでいて、彼らとはニューオリンズに引っ越してきてから出会った。
ルース:ぼくは、以前マリアがいたバンドの大ファンで、彼女らのためにTシャツをデザインしたことがあって、マリアとはそれをきっかけに知り合った。
マリア:私はネイサンのバンドの大ファンだったから、彼らのショーをテキサスでブッキングしたりしていた。じつは私がルイスとネイサンに声をかけたのは、ザ・スクリーマーズ(**)みたいなバンドをやりたかったからなんだけど、でも結果的には、スクリーマーズみたいなバンドとはほど遠いバンドになってしまった(笑)。
■なぜニューオーリンズに移住したのでしょう?
アリ:さっき言ったマリアと一緒にフェスで演奏するためにニューオリンズに行ったんだけど、そこでたくさんのクールなクィアの人びとに出会ったんだよ。もうひとつの理由は、ニューオリンズのオーサ・アトーっていう人が作っていたジンの大ファンだったから。『Shotgun Seamstress』という黒人を取り上げたジンなんだけど、それを読んだとき、すごくエキサイティングな気持ちになって、この街だったら私らしくいられるなって思った。
■バンド誕生の背後にはいろんな思いがあったと思いますが、そのなかのひとつに憤怒があったとしたら、それは何に対しての憤怒だったのでしょうか?
ルース:なにか特別な憤怒があったというより、もっといろいろな感情があった。
マリア:むしろ物事のあり方について意見を持たずに生活することのほうが、すごく難しいと思うんだよね。それはつまり、物事のあり方について語らないアートを作ることのほうが難しいということでもある。だから、アートを作っている限り、自分が思っていることが表現されるのは、ある意味避けられないことなんだよ。それが憤怒かもしれないし、ほかの何かかもしれない。
アリ:私自身は、計画的に音楽を作ることはあまりない。自分の周りではいろいろなことが起きていて、自分がそれに対していま何を思うかが自然に出てくる。サウンドや歌詞は、それが作られる時間や場所で変わってくるんだ。
マリア:面白いことに、私たちはインタヴューで、「なぜ歌詞が政治的なんですか?」って訊かれることはあっても、「どうして政治的じゃないんですか?」って訊かれることはないんだよね。歌は常に欲望によって書かれているものだっていう仮定は、どうして成立してるんだろう。そして、その欲望がセックスや愛についてのことだけに限られているっていうのも、考えてみたらおかしな話だよね。
■そうですよね、音楽には、もっと多様なトピックはあるだろうと。ちなみにスペシャル・インタレスト結成前から、すでにみんな音楽活動をしていた?
ルース:ぼく以外は、みんなバンドをやっていたよね。
ネイサン:ぼくはニューオリンズで、Mystic InaneとPastyというふたうつのバンドで演奏していた。その活動を通じてアリとマリアとルースに出会った。
マリア:ネイサンのバンドって、めちゃくちゃかっこよかったんだよ。ネイサンが入ってたバンドは、お遊びじゃなくて本物のバンドだった(笑)。
■アメリカにおいて、クィア・パンクやブラック・パンクのシーンというのは、いまどのようなカタチで発展しているのでしょうか?
アリ:局所的に発展してると思う。
マリア:アメリカってすごく大きいから、他の国々に比べるとシーンが地区で分かれているんだよね。それって過去のアンダーグラウンドのアートの世界もそうだったと思う。
ルース:前よりも、そういったシーンにアクセスしやすくなってきているというのもあるんじゃないかな。インターネットもあるし。
アリ:マリアが言った通り、アメリカってすごく大きいから、シーンが州や街で分かれていると思う。でもここ10年で、アメリカのアンダーグラウンドのクィアの音楽シーンではすごく面白いことが起こっている。とくにニューヨークはそうだよ。ハウス・オブ・ラドーシャとか、ジュリアナ・ハクスタブルとか、いろんなクールなアーティストが出てきてるし。正直カリフォルニアはわからないけど。少なくとも、ここ10年では私が面白いと感じた音楽はカリフォルニアにはないように思う。でも、ニューオリンズにも本当に美しくて奇妙なアート・パンク・シーンが存在しているし、そのなかでスペシャル・インタレストが成長できたのもシーンの広がりがあったからこそなんだ。ここ数年のアメリカのアンダーグラウンド・シーンはかなりすごいよ。さまざまな地域でシフトして、どんどん広がっている。
[[SplitPage]]面白いことに、私たちはインタヴューで、「なぜ歌詞が政治的なんですか?」って訊かれることはあっても、「どうして政治的じゃないんですか?」って訊かれることはないんだよね。
■音楽面でとくに参照にしたバンドや作品はありますか?
ルース:ぼくたちは、本当にたくさんの種類の音楽に影響を受けているんだ。それをぶつけたり、混ぜ合わせてサウンドを作っているから、たくさんいすぎて誰から答えたらいいのかわからない。何か面白いものを作っているよういう点で影響を受けているのは誰か挙げるとすれば、ポーラ・テンプルかな。彼女のプロダクションは参考にしてる。あとは、アジーリア・バンクスのファースト・アルバム。“Yung Rapunxel”のドラムサウンドなんかはすごくカッコイイと思うから。それ以外だと、外でたまたま聴いて、ずっと頭に残っているようなサウンドからインスピレーションをもらったりもするよ。
■アリさんは、 アサタ・シャクール(**)の自伝を読んで曲を書くようになったとある取材で話しています。過激なテロリストであった彼女の何があなたの情熱に火を付けたのでしょうか?
アリ:歌詞を書いていた最初の頃に読んでいたのがその本だった。私が(精神を病んで)病院に入院していた時期だったんだけど、本のなかには彼女が病院(
女性矯正施設)で警察から苦しめられていたストーリーが書いてある。自分が同じ空間にいたから、その部分にとくに心を動かされたんだよね。彼女の人生のストーリーは、すごく大きなインスピレーションになった。
■デビュー・アルバム『Spiraling』の冒頭の“Young, Gifted, Black, In Leather”は、Quietusのインタヴューにおいて、アリさんのなかの「ブラックネスとクィアネスが交差する唯一の瞬間」だと説明されています。パンクやグラムに多大な影響を受けたスペシャル・インタレストの音楽面にテクノやハウスのようなダンス・ミュージックを取り入れた理由も、そこに「ブラックネスとクィアネスが交差する瞬間」があるからということも大きいのでしょうか?
アリ:あえて意識したわけではなかったけど、自分たちがいままで聴いてきた音楽、演奏してきた音楽がそういった音楽だった。だから、自分たちの音楽がよりダンサブルになるのは時間の問題だったんだと思う。私たちのサウンドは、ドラムマシンや使う楽器を変化させることで、どんどんスケールを広げているし。それに、あらゆるジャンルの音楽はブラック・ミュージックから派生し、発展している。そういうものに影響されているわけだから、クィア・ミュージックのなかにもその要素があると思う。
でも、自分たちがブラックネスとクィアネスが交差する瞬間のようなサウンドを作るということを目標に真っ直ぐ進んでいるとは思えない。私にとっては、自分たちの音楽はまだまだ変化している途中の段階にいるように感じるし、まだぶらついているように感じるんだよね。これからもずっと今回のようなサウンドを作り続けていくのかはわからないな。
■いまの質問と重なるかもしれませんが、『Endure』は、1曲目の“Cherry Blue Intention”、それに続く“(Herman's) House”から、じつにパワフルなダンス・サウンドが続きます。そして、3曲目にはパンキッシュな“Foul”。この流れはバンドの真骨頂に思いましたが、あなた方からみて、パンクとダンス・ミュージックの共通点は何なんでしょうか?
ルース:音楽の歴史のなかで、レイヴやテクノやハウス・ミュージックもアンダーグラウンド・ミュージックだった。そして、人びとはそういった音楽を使って自分たちのシーンを作り上げてきた。パンクもダンス・ミュージックも、みんなで楽しみを共有する音楽であるというところが共通点だと思う。サウンドを聴くことももちろん楽しいけれど、ショーの現場で、複数の人たちが一緒にその音楽を経験するということが、どちらのジャンルの音楽にとってもいちばんの醍醐味なんじゃないかな。みんなで音楽を楽しみながら、その場でエナジーが生まれることは、共通点のひとつだと思うね。
■先行で発表された“Midnight Legend”も、とても良い曲で、音楽的にはスペシャル・インタレストの新境地だと思いました。攻撃性だけに頼るのではなく、ハウシーで、ポップな回路を見せたと思いますが、ミッキー・ブランコをフィーチャーしてのこうした新しい試みは、スペシャル・インタレストにとってどのような意味があってのことなのでしょうか?
アリ:その曲は、すごく自然に生まれた。私は、あの作品はハウシーでポップというよりは、よりシネマティックなサウンドに仕上がったと思う。“Midnight Legend”を聴いて新境地だと思うのはまだまだ早いよ(笑)。私たちは、次のシングルを聴いてみんなを驚かせるのが楽しみでしょうがないんだよね(笑)。次に来るのは“Herman’s House”なんだけど、あれを聴いたら、スペシャル・インタレストはいったいどこに進もうとしているんだ!?ってさらに混乱すると思う(笑)。でも、どの変化も計算したわけじゃなくて、すべて自然に起こったことなんだよ。今回のアルバムは、そうやって出来上がったたくさんの種類のサウンドが詰まってる。そのひとつとして、このポップっぽい曲をまず人びとに聴かせるのは、みんながびっくりして面白くなるだろうなって思ったんだよね(笑)。新しいように感じるけど、いろいろな要素が混ざって音楽ができてるっていう点では、じつはすごく私たちらしいんだ。
ルース:それは本当に自然の流れで、ぼくたち自身、10曲も似たような曲を連続で聴きたくはない(笑)。だから、ヴァラエティ豊富なサウンドが出来上がっていったんだと思う。
Endureって、じつは未来に向かって突き進んでいることを意味していると思うんだよね。何かに向かう前向きな姿勢。
■私たち日本人にはリリックがわからないのが歯がゆいのですが、今作の歌詞に込められたメッセージで、とくにこれだけは日本のリスナーに知ってほしいという言葉(ないしはテーマやコンセプトなど)があれば教えてください。
アリ:すごくディープな質問だね。答えるのが難しい。スペシャル・インタレストはアメリカ人であることについて、すごくユニークでありながらもリアルな視点を持っているバンドだと思うんだよね。アメリカのなかでクィアである自分たち、そして黒人である自分の視点を持っている。私たちが互いに求めることができるのは、耳を傾け、自分の状況を理解することだと思うんだ。私たちは、みんな苦労をたくさん経験しているけれど、その苦労の仕方は人それぞれ違うし、持っている能力だってみんな違うから。だから、お互いのストーリーを聞いて、みんながそれを聞き合って、世のなかどこでもいいことばかりじゃないんだということを理解し合える。
日本のみんなには、曲を聴いて、日本ではどんなことが起こっているのかを考えてみてほしい。自分たちの周りにいる人びとが何と戦っているのか、私たちはどのようにお互いを大切にすることができるかをね。『Endure』は、いろいろな悲しみを理解し、それを表現しているアルバムだよ。日本のみんなには、アルバムを聴くことで日本のストリートで起こっていることを知ろうとし、それを理解し、それに共感してもらえたら嬉しいな。
■アルバムは後半、“My Displeasure”〜“Impuls Control” 〜“Concerning Peace”と、非常にハードに展開します。この構成にはどんな意図があるのでしょうか?
マリア:このアルバムはパンデミックのあいだに書かれたから、その期間の経験や状態がそのまま形になっているんだ。深呼吸をするような瞬間や、深い喜びを感じる瞬間、じっと耐える瞬間。そういった経験が、アルバムのなかで展開しているんだよ。
■なぜ「Endure=不快さや困難を耐える/持ちこたえる」という言葉をタイトルにしたのでしょうか?
アリ:endureという言葉には、文字通りすべてが含まれていると思う。私たちは自分の感情を感じなければならないし、それを乗り越えていかなければならないし、そこから成長していかなければならない。endureって、じつは未来に向かって突き進んでいることを意味していると思うんだよね。何かに向かう前向きな姿勢。
ネイサン:じつはぼくたちは、ボツにしたけど“Endure”というタイトルの曲も作っていたし、endureって言葉は“Herman’s House”(***)にも出てくる。
ルース:バンドが成長を続けるって意味にも感じられるし、ぼくはendureって言葉が好きなんだよね。この言葉からは耐えるという意味だけじゃなくて、進化の可能性を感じる。
■とくに尊敬しているハウスやテクノのDJ/プロデューサーを教えてください。
アリ:私たち、これからジェフ・ミルズと同じフェスに出る予定なんだけど、それが楽しみでしょうがないんだ。それが本当に起ころうとしているなんて信じられない。
ルース:ジェフ・ミルズは最高。ジェフはもちろんだし、デトロイト・テクノって本当に刺激的だよね。DIY精神が感じられるし、自分の目の前で起こっていることに向き合って、未来を見ている感じ。
アリ:ドレクシアもそのひとり。あと、私たち全員が大ファンなのはポーラ・テンプル。それから、グリーン・ヴェルヴェット。まだまだたくさんいるけど、いすぎていまは答えられないな。
■質問は以上です。どうも、ありがとうございました!
アリ:ありがとう。日本には本当に行ってみたいから、来年行けますように。
(*)ザ・スクリーマーズ(The Screamers)は、パンク前夜の1975年にLAに登場したプレ・パンク・バンド。ギターなしの、シンセサイザーとドラムによるテクノ・パンクの先駆者で、バンドの2人の主要メンバーはゲイだった。
(**)アサタ・シャクール(Assata Shakur)は、60年代のブラック・パワー・ムーヴメントにおいて、米国政府との武力闘争を辞さない黒人解放軍(BLA)の元メンバーで、銀行強盗や市街の銃撃戦によってFBIの最重要指名手配テロリストのリストに載った最初の女性であり、トゥパック ・シャクールの義理の叔母でもある。
(***)“Herman’s House”は、ルイジアナ州立刑務所に41年間独房で監禁されたアンゴラ スリーとして知られる、黒人革命家の一人、ハーマン・ウォレスへの頌歌。
サン・ラーとその相棒であったサックス奏者のジョン・ギルモア亡き後(それぞれ1993年、1995年に没)、彼らの楽団のアーケストラはサックス奏者のマーシャル・アレンによって引き継がれている。マーシャル・アレンは1958年にアーケストラに加入し、ジョン・ギルモアとともに楽団の柱としてサン・ラーを支えてきた。当時の彼らはシカゴを拠点としていて、その後ニューヨーク、フィラデルフィア、カリフォルニアと拠点を移すとともに、ヨーロッパやエジプトなどでもツアーをおこなっている。そんなマーシャル・アレンは1924年生まれの現在98歳。間もなく100歳を迎えようという彼が、現役で音楽活動をおこなっていることにまず驚かされるが、個人の演奏のみならずアーケストラという総勢20名ほどの大楽団を束ね、世界中をツアーし(2014年に来日公演をおこなっている)、そして新作まで発表してしまうのだから恐れ入る。
マーシャル・アレン率いるアーケストラとしての最初のアルバムは、1999年リリースの『ア・ソング・フォー・ザ・サン』となる。〈ストラタ・イースト〉などの仕事で知られるジミー・ホップスやディック・グリフィンも加わったこのアルバムで、アレンは作曲家としてほとんどの楽曲を書いた。その後はフェスなどのライヴ音源や昔の録音物を発表することはあったものの、基本的にライヴ活動が主である彼らのスタジオ録音盤はずっと途絶え、2020年に発表された『スウィアリング』が20年ぶりの新録アルバムとして話題を呼んだ。
『スウィアリング』の楽曲は表題曲を除いてすべてサン・ラーが書いたもので、すなわち過去半世紀にも及ぶアーケストラの代表的なレパートリーを新しく再演したものであった。演劇ではシェイクスピアやチェーホフなどの古典がいまも新たな解釈を交えて再演され続けているが、サン・ラーの音楽もそれと同じで、時を超え、演奏者を超えてずっと演奏され続けている。コール・ポーターやグレン・ミラーなどジャズには多くのスタンダードの作曲家がいるが、一見すると前衛音楽家に見られがちなサン・ラーが書く楽曲も、対極にあるようでじつはそうしたジャズ・スタンダードと同じなのである。
この度発表された『リヴィング・スカイ』は、『スウィアリング』から2年ぶりとなるアーケストラの新録だ。録音は2021年の6月、フィラデルフィアにあるスタジオでおこなわれた。演奏メンバーは『スウィアリング』を基本的に継承し、1970年代に加入したノエル・スコット、マイケル・レイ、ヴィンセント・チャンセイ、1980年代加入のタイラー・ミッチェル、カッシュ・キリオン、1990年代加入のデイヴ・デイヴィス、エルソン・ナシメント、2000年代加入のデイヴ・ホテップといった具合に、さまざまな年代や人種のミュージシャンが参加している。逆に『スウィアリング』に参加していたダニー・レイ・トンプソンやアタカチューンは録音後に他界していて、アーケストラのメンバーの変遷もある。そのように時代によってミュージシャンの入れ替わりがあっても、サン・ラーが提唱した音楽や思想を継承していくのがアーケストラである。
なお、このアルバムはサン・ラーのほか、サン・ラーとの共演経験があるドイツの前衛音楽家/作家/劇作家/映像作家のハルトムート・ゲールケン、サン・ラーのツアーにも関わっていたトルコの音楽プロデューサー/プロモーターで、今回のリリース元である〈オムニ・サウンド〉の設立者であるメフメッツ・ウルグという3名の故人に捧げられている。また、アルバムのアートワークを手がけるのはシカゴを拠点に活動する音楽家/プロデューサー/ヴィジュアル・アーティストのデイモン・ロックスで、彼はかつてサン・ラーの未発表音源を用いたサウンド・アニメーションを制作したり、ブラック・モニュメント・アンサンブルというグループを率いてアルバムをリリースすることでも知られる。
収録曲はこれまでのアーケストラのレパートリーと、マーシャル・アレンが新たに書き起こした楽曲、そしてショパンやスタンダードのカヴァーが織り交ぜられた構成となっている。リズム・セクションやホーン・セクションなどは『スウィアリング』と大差ないものの、今回はストリングスとパーカッションの人数が増えた点が特徴である。
そうしたなかでまず目を引くのは、サン・ラーの名作のひとつである “サムバディ・エルシーズ・ワールド” のインスト版となる “サムバディーズ・エルシーズ・アイディア”。原曲は1955年初演で、アルバムとしては1971年の『マイ・ブラザー・ザ・ウィンド・ヴォリュームII』に収録されており、ジューン・タイソンによるクラシックの声楽的なヴォーカルが印象的だった。このエキゾティシズムに富む楽曲を、今回はゆったりと神秘的なムードで演奏する。パーカッションによるアフロ・キューバン的なモチーフと、ピアノとワードレス・ヴォイスによる宗教的な雰囲気は、たとえばキューバのサンテリアを連想させるものだ。
“デイ・オブ・ザ・リヴィング・スカイ” でマーシャル・アレンはコラを演奏しており、アフリカの民族音楽のモチーフが大きく表われている。ストリングスとホーンによる土着性に富む演奏はとても瞑想的だ。“ナイト・オブ・ザ・リヴィング・スカイ” もミステリアスでエキゾティックなムードに包まれ、コズミックなパーカッションとシンセサイザー使いが随所で見られる。1950~60年代のマーティン・デニーやアーサー・ライマンなどのスペースエイジ・ミュージック、古典的なSF映画の音楽やジャングルなど未開地を舞台としたミュージカル、B級のモンド音楽などのエッセンスが詰まったよう不思議な作品だ。
“マーシャルズ・グルーヴ” はブルース形式のモーダルな楽曲で、ホーン・セクションがレイジーで不穏なムードを演出する。アーケストラならではのスペイシーなアレンジも加えられ、ビッグ・バンド・ジャズに前衛的なスパイスを振りかけたような楽曲だ。一方で “ファイアーフライ” はグレン・ミラー楽団のようにムーディーなジャズ・オーケストラだが、そのなかでマーシャル・アレンのアルト・サックスがフリーキーな唸りを上げて異彩を放つ。続く “ウィッシュ・アポン・ア・スター” はディズニー映画でも有名なスタンダード・カヴァー。こちらも基本的にはムーディーなバラードであるが、調子はずれなサックスが絡むことによって、水と油が交わるような演奏となっている。
そんな調子でショパンの “前奏曲第7番イ長調 op28-7” も(“ショパン” のタイトルで)演奏している。異色のカヴァーだが、実はこれもサン・ラー・アーケストラのレパートリーのひとつ。これまでにもライヴ録音などでは披露してきたが、今回が初めてのスタジオ録音となる。アーケストラは至って大真面目に演奏するなかで、唯一サックスだけが異質なブロウを繰り広げる。こうした本気とも冗談ともつかないユーモア精神も、サン・ラーの世界の魅力のひとつである。
アルベルト・ファン・アッベ。現在の電子音響/電子音楽を捉える際、この名を覚えておいて損はない。1982年生まれ、オランダはアイントホーフェンを拠点に活動を展開する彼が生み出すサウンドには、精密かつ大胆な電子音響が渦巻いている。いわばゼロ年代において格段に進化した電子音響の、さらなる深化がここに「ある」のだ。
ファン・アッベは20年以上にわたってミニマルな作風のインスタレーションからハードコアでアシッドなムードを漂わすテクノ・トラック、新たなテクスチャーを模索する電子音響に至るまで、電子音楽の全領域をカヴァーする活動を展開してきたアーティストだ。
2016年にセルフ・リリースしたアルバム『Champagne Palestine』を送り出している。2022年に〈raster-noton〉を継承するレーベル〈raster〉からリリースした『Nondual』を発表した。このアルバムはピアノとマシニックな電子音響が硬質に交錯し、透明な美しさと機械的なサウンドが交錯するアルバムである。
EPのリリースも多いが、なかでも2022年には実験音楽のネット・レーベル〈SUPERPANG〉からマックス・フリムー(Max Frimout)との共作「Morphed Remarks」をリリースしていることを忘れてはならない。
現在、これほどまでに音響の生成と独創的で刺激的なコンポジションを追求している電子音響作家は稀といえよう。ある意味では00年代から10年代に音響の進化=深化を推し進めてきたベルリンの〈raster-noton〉、日本の〈ATAK〉などの電子音響作品レーベルを継承するような作風なのだ。電子音の生成的コンポジションの追求と実践とでもいうべきか。
先に書いたようにアルベルト・ファン・アッベは、かつての〈raster-noton〉を継承するレーベル〈raster〉から音源をリリースしているわけだが、レーベル・オーナーであるオラフ・ベンダー=ベイトーンからの手厚いサポートを受けている。
まず、オラフ・ベンダー=バイトーンと VA x BY という名義で『Dual』をリリースした。さらにソロ名義でのアルバム『Nondual』も発表したのだが、この『Nondual』でもオラフ・ベンダーは、ミックスダウンなどにも関わっている。〈raster〉の力の入れようがわかるというものだ。
私見だが、アルベルト・ファン・アッベの音にはドイツ的ともいえる強固な建築性もまた根底にあるように思える。その硬質なサウンドはポスト・テクノ、ポスト電子音響にふさわしく、オラフ・ベンダーがアルベルト・ファン・アッベに惹かれるのも確かに納得できよう。バイトーンもまたテクノ的な律動と電子音響的な鋭いテクスチャーの融合でもあるのだから、アルベルト・ファン・アッベのサウンドに共振するのかもしれない。
しかし今回、紹介する新作『General Audio』は、〈raster〉からのリリースではない。あのシフテッド(Shifted)が主宰するベルリンのエクスペリメンタル・レーベル〈Avian〉から発表されたアルバムである。〈Avian〉はシフテッドや SHXCXCHCXSH など尖った電子音楽を送り出している尖鋭的なレーベルだが、そのカタログにアルベルト・ファン・アッベが加わったことは記念すべきことではないか。
コラボレーターがスピーディー・Jことヨヘム・パープ(Jochem Paap)である点にも注目しておきたい。ヨヘム・パープは90年代初頭に〈Plus 8〉からのリリースで知られるようになったテクノのベテランだが、その後〈Warp〉のA.I.シリーズに名を連ねたりピート・ナムルックのレーベルから作品を発表したり、早くからアンビエントとの接点を持っていた。そのようなヨヘム・パープと現代最先端の電子音響作家アルベルト・ファン・アッベとのコラボーレーションは、ある意味で「事件」といえるかもしれない。
じじつ本作『General Audio』はその名のとおり電子音響の広い領域をその音響生成によってカヴァーするかのごときアルバムに仕上がっていた。ノイズ、リズム、ドローンが生成し、リスナーの聴覚を拡張するかのごとくコンポジションされているのだ。
このアルバムの音響には「ラジオの送信機のメンテナンス用に設計された1950年代のテスト機器と測定器」を使用されているという。その音響を合成することで、ドローンと緻密で抽象的なリズムによるトラックを構成しているのだ。硬質さと柔らかさがミックスされているような独特なサウンドの秘密はこの制作方法にあるのかもしれない。
アルバム全7曲のオープニングを飾る “220Lock-in” はメタリックな電子音響によるドローンだ。どこか KTL を思わせる硬質な持続音は実にクールであり刺激的である。
2曲目 “WZ-1Wobbel Zusatz” と4曲目 “Rel 3L 212c LC-pi” は反復と不規則の「あいだ」を往復するような抽象的なリズムとノイズを生成していく曲だ。このトラックのムードはアルバム全般に通じるもので、アルバムを象徴するような曲といえる。
3曲目 “Pegelmesser” はアルバム中での極北といっていい極限の音響を展開する。シャーッという機械的かつ透明なノイズが高密度で持続する。じっと聴いている恍惚となってくるほど。
5曲めに収録された16分に及ぶ5長尺 “Wandel” は不規則なリズムに、透明な光のようなドローンが交錯し、そしてどこか日本の能のようなムードだ。
6曲目 “SR 250 Boxcar Averager” は機械の音のような無機質な持続音が鳴り響き、そこに真夜中の騒めきのようなノイズが交錯する。深夜の工場から発する無人の音のごときインダストリアル・アンビエント・トラックだ。7曲目 “Nim Bin” は素早く鳴らせる規則的な音に、遠くから聴こえる太鼓のような不規則と規則の両方を行き来するような音が重なり、遠い空間を感じさせてくれるような音響を実現している。
全7曲、独特の「間」をもった電子音響が展開されていた。うねるようなパーカッシヴ音、透明な持続音、細やかで刺激的な電子音などが交錯し、聴き込むほどに深い沈静と聴覚が拡張するような感覚を得ることができた。静謐さを漂わせているウルトラ・ミニマルな電子音響作品として実に秀逸なアルバムといえる。アルベルト・ファン・アッベとJochem Paap。このふたりのサウンドが高密度で融合し溶け合い、美しくも無期的な音響空間が生成されているのだ。
いずれにせよアルベルト・ファン・アッベは、たとえばフランスのフランク・ヴィグルーとともにゼロ年代の拡張的な電子音響を継承・実践する貴重な電子音楽家だ。彼の作品はこれからも電子音響を深化させ続けるに違いない。まさに現在注目の電子音響アーティストである。



