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赤いやつの進撃
橋元優歩
「アルカのノイズって、世間に爪を立ててるんだと思うんだよね」と言うのは隣でPCを叩いている編集長だ。
まったく、筆者にもそうとしか聴こえない。
作風が変化したというほどではないが、このアルバムはどこか威嚇的で、外に向かって刃物を振りまわすようなかたくなさがある。神経に障る音が次々と落ち着きなく現れ、ビートからは快楽性が剥がれ落ち、メロディはなかなか形を成さない。しかし閉じない展開の中で発信者の心拍数は上がりつづける。OPNの余裕、コ・ラのふてぶてしさともまったくちがう──それはちょうど、手負いの生き物が「爪を立てている」姿を彷彿させる。
そしてたいてい、そんなふうにしてつけられた傷は世間の側にではなく自分に残るのだ。本作『ミュータント』は、24、5にもなろうという人間にしてはあまりにピュアな、闘争意識と傷を全身に貼りつけたアルバムである。そしてそれは、正体不明のプロデューサーとして『&&&&&』の奇怪な生物(http://www.ele-king.net/review/album/003367/)の向こうにハイ・コンテクスチュアルな音を揺曳させていた頃のアルカに比して、むしろ痛ましいほどにみずみずしい。
アルカことアレハンドロ・ゲルシは、ベネズエラ生まれのプロデューサー。政情不安と神秘の残るかの国で多感な時期を過ごし、高校時代にニューロの名で楽曲制作をはじめ注目を浴びるが、その後アルカを育んだのはニューヨークのアンダーグラウンドだ。音楽、映像、ファッション、多様な文化や性が混淆したトレンドの一大発信地として知られるパーティ〈GHE20G0TH1K〉などを通じ、ミッキー・ブランコやケレラといった、その後の一時代を築いていくことになるヒップなシンガーたちと出会ったばかりか、カニエ・ウェストの6作め『イーザス』への参加を請われることになった。その後のビョークとのコラボレーションや、オルタナティヴR&Bのアイコン、FKAツイッグス『LP1』(2014)などへの参加といった活躍は詳述するまでもない。
しかし年端もいかないまま、アンダーグラウンドから突如世界的なステージに上げられたゲルシは、ただ時のプロデューサーとして以上の混乱や葛藤を抱え込むことになったようだ。メディアからの取材もほぼ受け付けないから、その思いの在り処は、ただ音と、そして彼に伴走するジェシー・カンダによる造形からしか量ることはできない。
関節の崩れた真っ赤な塊は、腐敗した実の表面のように膨張あるいは萎縮して、しかし関節こそが身体の謂となるベルメールの人形にせまるほど、われわれにそれの存在を思い出させる。デビュー・アルバム『ゼン』における「ゼン」とは、sheでもheでもある自身の分身だったが、それがただオルタ―・エゴの類、つまり人格や精神としてだけではなく、分「身」としてジャケットに写る体を与えられたことは興味深い。性的なアイデンティティをめぐる若き苦悩があったということを知っていても知らなくても、ゲルシにとって身体こそが重要な表現の命題であるのだろうということを多くの人が感じただろう。そして、今作リリース前に、能面のような頭部を持つ赤い塊と、露出させた肌にハーネスで武装を施した本人のヴィジュアルが公開されたときに、そのテーマはよりはっきりとした。
しかし、ゲルシはそれを「ミュータント」と呼ぶのか──突然変異体であると? もし自身をそう認識し、リプリゼントするのだとすれば、『ミュータント』はすさまじい自己肯定と、それと同程度の自己否定を含んだ、やはりなかなかにへヴィで痛ましいアルバムだと言わざるをえない。
ヒップホップに軸足を置きながらも、クラシカルなピアノの素養もあるゲルシだが、それがジェイムス・フェラーロやゲームスなどとともに〈ヒッポス・イン・タンクス〉周辺のアブストラクトな音像を伴って表われていたこれまでのEPや『ゼン』を聴くと、彼の境遇やアートワークをふくめ、彼がなぜカニエやビョークといったハイ・カルチャー志向のセンスに好まれるのかということが察せられる。しかし、たとえばノイズといっても、アルカはインダストリアルに興味があるとか、クリックやグリッチといった方法を検証したいといった研究肌のノイジシャンではない。当人にもさほどノイズという意識はないだろう。とても感覚的で、若いエネルギーがそのひとつひとつの音に過剰に情報をつけくわえ、ノイジーさを生みだしている。
2、3分ほどの短いトラック群には、“シナー”のようにビートとテーマが溶けてしまったようなインダストリアルな断章もあれば、“セバー”のチェンバロのように旋律が押し出されたものもあり、全体としては楽曲というよりはこのミュータントの挙動に付随するSEのようだ。もしくはサウンドトラック。その進路には天然の光はなく、金属の花々が咲き、赤い生命体は自らの収まるべき場所を求めて破裂や収縮を繰り返す……そんな妄想をゆるすほど、たとえば“サイレン・インタールード”から“エクステント”への流れなどには、とくに映像喚起的なものがある。物語と情感と映像を収める装置、楽曲というよりはそうしたメモリのようにトラックが並び、ひとつひとつに罪や痛みの名がラべリングされている。
かつてネット・カルチャーにおけるラディカリズムを、ポスト・インターネット的な感性で描き出す若き才能として認識したアルカだったが、それだけではむしろ時代に消費されてしまっただろう。アルカがなにか素通りできず、シーンの空気をざわつかせるのは、そうした時代性を持つという以上に、これだけ正面から、存在証明という古めかしく大上段なテーマ性を抱えてのたうっているからで、われわれは結局、それに向かいあう人間への興味を捨てきることはない。
傷がつけられるのは身体を得てこそだ。爛れ、膿んだ赤い塊から新たな生命の萌芽を見ることができるのか、見れなかったとしても、このときゼンが生き、ミュータントが動いていたことを、未来覚えている。
橋元優歩