Home > Reviews > Album Reviews > DJ Koze- Music Can Hear Us
DJコッツェと言えば、2000年代後半、私が『remix』誌の編集をやっていた頃、来日、もしくは電話取材でヨーロッパのテクノやハウスのアーティストに「いまそのプレイがおもしろいDJは?」と訊いたときに、かなりの確立で彼の名前がでることが多かった記憶がある。当時の卓越したDJプレイは〈コンパクト〉からのミックスCD『All People Is My Friends』(2004年)として記憶されている。ダウンテンポからテクノ、ハウスへと展開、それぞれの曲はたぶん他の人がかけたら意外とバラバラになりそうなものなのだが、ひとつのストーリーを秀逸に作り出していて、どこかコラージュ感のあるミックスCDでもある。同時代、例えば同じく〈コンパクト〉のミヒャエル・マイヤーのミックスCDなどにしても、当時と言えばDJプレイにしてもよりミニマルなスタイルが主流だったことを考えれば、それなりに衝撃を与えたことも腑に落ちる内容でもある。そのコラージュ・センスはドイツ産のミニマルなディープ・ハウスを土台にしながら、珍妙な音が交叉する前述の『Kosi Comes Around』や別名義のアドルフ・ノイズでリリースした、実験的なアンビエント作『Wo Die Rammelwolle』(2005年)にも存分に生かされている(ここでの彼のユーモアは、ちょっとKLF『Chill Out』を彷彿とさせる)。
そのDJプレイ、そしてアーティストとしてのコラージュ・センス、双方が垣間見れる、ある意味で彼のいいとこ取りとなるのがDJミックス『DJ-Kicks』(2015年)で、その出自でもあるヒップホップ色の強い作品で、サイケデリックなダウンテンポを中心にハウスやテクノへとつながれていく。その曲のほとんどは本人によってエディットが施されており、それらが「素材」と言うよりも「楽曲」として存在感をしっかりと宿しながら1枚のミックスCDとして彼の世界観でまとめられていた。ここでの世界観を構成する音の混ざり合いは、ミックスというよりも、さまざまな要素を塗り込めるように構築されていて、コラージュという感覚の方が相当しいと思う。しかもそこから浮き立つフィーリングは、おとぎ話の世界に迷い込んだJ・ディラがキノコにあてられて徘徊しているかのような、どこかユルユルととぼけてユーモラスな、メルヘンな感覚とでも言いたくなるサイケデリアがあり、それが彼のサウンドを強烈に独自のものにしている。
こうした彼のユーモラスなコラージュ感はまさしく、次作の『Knock Knock』(2018年)へと結実する。2009年に自身の〈パンパ〉を設立以降は、シングル単位では他のアーティストも含めてダンサブルで良質なディープ・ハウス・サウンドをリリースしつつ、自身の作品に関してはこうしたコラージュ~ダウンテンポへとさらに歩みをすすめている。まだハウスだった『Amygdala』(2013)から『DJ Kicks』を挟んでの前作『Knock Knock』(2018年)では、カットアップを効果的に援用した、ダウンテンポがアルバムの大部分を占めることになる。そしてその後、この作品で意気投合したロイシン・マーフィーとのコラボ、プロデュース作となった『Hit Parade』(2023年)がリリースされることになる。コロナ禍を挟んで制作され、彼のユーモア溢れる実験が詰まったサイケデリックなカットアップ・ダウンテンポのサウンドを、彼女の歌声によってポップ・ソングとして昇華させた、オリジナリティ溢れる作品となった。が、しかし、リリース直前、マーフィーのFacebook上でのトランスフォビアな発言が徒となり、作品自体の評価は失速……。
それから2年、前作からは8年ぶりに届けられたDJコッツェの新作『Music Can Hear Us』は、やはりロイシン・マーフィー作品のプロデュースに手応えがあったと見え、ほぼ歌モノと言っていいアルバムになった。前半にはダウンテンポ、そして終盤に真骨頂とも言えるダンス・トラックを携えており彼の集大成といった趣もある。タブラがエキゾチックな空気感を浮き立たせるインスト曲からはじまり、次いでアフリカはサハラ砂漠周辺のいわゆるデザート・ブルースの要素を強く感じさせる “Pure Love” は、先行カットされデーモン・アルバーンをフィーチャーし話題となった。アルバム全体は、こうしたさまざまなローカリティの音がコラージュされているが、しかしながらそれが決してワールド・ミュージック的な現地の音とのハイブリッドといった感覚のサウンドになることはない。あくまでも漂う要素といった感覚で、それは蜃気楼の向こう側というか、夢のなかで見たここではないどこかと言った感触を醸し出す。このあたりのバランス感覚が彼のコラージュ・センスの肝要な部分で、メルヘン・チックな世界観も相まって、夢で見た存在しない地に強い懐かしみを憶えるような、そんな郷愁が本アルバムを貫き、アルバム全体を魅力的なものにしている。
デーモン・アルバーン以外のシンガーは比較的、彼の周辺、〈パンパ〉やドイツ/オーストリアのアーティストが多く起用されている。コズミックな電子音が後ろを飛び回るフォーク “Der Fall”、コッツェ流のデンボウ・トラックと言えそうな “Die Gonddel” では、〈パンパ〉からアルバムをリリースするシンガー/プロデューサーのソフィア・ケネディがドイツ語で歌い、また同じく〈パンパ〉リリース組からはアダが参加し “Unbelievable” では歌声も披露している。アルバム前半のハイライトと言えそうな、ウォーミーでメロウなダウンテンポ “Wie schön du bist” では、普段はフォーキーな音楽性の、ザ・デュッセルドルフ・デュスター・ボーイズが参加。この曲は、初期のカニエ・ウェストやJ・ディラを彷彿とさせる早回しのヴォーカル・サンプル・ループが印象的だが、このサンプル・ネタはドイツのSSW、ホルガー・ビーゲが1978年に発表したアルバム『Wenn der Abend kommt』に収録の “Bleib Doch” からの一節だそうだ。またこうしたドイツ語の歌詞の他にも、〈ニンジャ・チューン〉のソフィア・クルテシスが歌う “Tu Dime Cuando” や、ソープ&スキンことアンヤ・フランツィスカ・プラシュクが歌う “A Dónde Vas?” “Vamos A La Playa” といった楽曲は、スペイン語の歌詞となっている。単にソウルのネタを持ってくるのではないこうしたネタ選びや、音としての多言語の歌詞は前述のアフリカやアジアだけでなく、その中心のない本作の無国籍感を補完、世界観を作り出す秀逸な要因となっている。
アルバム終盤に収録されている先行シングルとしてリリースされた “Brushcutter” は、マーレー・ウォーターズのルーディーな歌声が響き渡り、比較的DJコッツェにしては珍しいレイヴィーなブレイクビーツ・ハウス。同じくシングル・カットされている “Buschtaxi” は、その痙攣するブレイク(往年の長めのやつ)がピーク・タイムへと一気にフロアを引き込むテクノ・トラック。ギターのカッティングが心地よいアフロ・ハウス “Aruna” という、ラスト前の3曲は本作のダンスフロアへの対応も適切であることを証明している。
しかし、驚いたのはラスト・トラック “Umaoi” である。この楽曲にはアイヌの伝統歌「ウポポ」を継承する、北海道は旭川拠点の女性ヴォーカル・グループ、マレウレウが参加している。ガムランを彷彿とさせる鉄琴が印象的なイントロに続いて、その優しげな歌声にベースラインが入ってくると、メロウなダウンテンポへと収束する。その歌声は音が停まるとともに夢から覚めてしまったような、そんな温かな余韻をこのアルバムにもたらせている。
郷愁とユーモアに彩られた独自の世界観を作り出す、サイケデリックで縦横無尽なコラージュ・センス。DJコッツェは、彼の強烈なサウンドの個性を発する実験的サウンドを同居させながら、ポップ・ソングとして楽曲を成立させる、唯一無二のスタイルをここで完成させたと言っていだろう。そういえばこのコラージュ・センス、無国籍感、たまに見せるすっとぼけているのだか確信犯なのだが一瞬わからなくなる感じは、どこかホルガー・シューカイを思い出す。ぜひ本作が気にいったらシューカイがテープ・コラージュで作り出した1979年のファースト・ソロ『Movies』を聴いてみることもオススメしたい。
河村祐介