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There are many many alternatives. 道なら腐るほどある

There are many many alternatives. 道なら腐るほどある

第11回 町外れの幽霊たち

文:高島鈴 Jul 04,2020 UP

※この記事にはゲーム「Night in the woods」のネタバレが含まれます。

 トンネルを抜けたら、そこは雪国だった……というようなことはなく、ただ「藤田孝太郎死ね」と書かれている。一応仮名にしてある。グラフィティを阻むためにトンネルいっぱいにペイントされたクソつまらん動物と子どもの絵、その端っこに、黒く細い線で書かれた七文字がぎりぎりと張り詰めていた。こんなに剥き出しの殺意であるのに、なぜかクソつまらん絵の邪魔にならない場所に配置されているのがなんともおかしい。これが誰の名前なのかは知らないし、誰が書いたものなのかもわからない。いたずらなのか切実な呪詛なのかもわからない。ただその殺意はここ1ヶ月、パンデミック騒ぎの渦中に出現して、あっという間にこの町に馴染んだのであった。どうにもならなくなっちゃったんだろうな、多分。

 わが「地元」──この名称を使うことにはそれなりのためらいがあるが、ひとまずそう呼んでみる──首都の郊外だ。治安もそれなりに悪く、洗練された場所では決してないが、ここを田舎と呼んだらただちに数千万の列島住人を敵に回すだろうというぐらいには、都市である。数分に一度来る電車がひっきりなしに大量の人間を運んできて、また運び去っていく。駅前には虫の巣みたいにビルがびっしり立ち並んでいて、夜中でも量販店の看板が光る。アジア圏からの観光客がドラッグストアで化粧品を品定めしている。遠くの花火はビルが邪魔で見えない……これは別にどうでもいい。早朝の駅前、信号待ちの交差点で、ドン小西によく似たやくざがわかりやすく舎弟を引き連れてでかい声で話している。「おい、パンツ売ってっとこ空いてねえのか? お前らお揃いで買ってやろうか?」「へへへ、マジすか、へへへ」……早く青に変わってくれないか、意識して無視しながら、真横が気になってしょうがない。
 自分は生まれてから今までの四半世紀、ずっとこの町を離れずに暮らしてきた。この町のことは「普通に好き」だ。嫌な思い出は何もない。いつも明るくて、家がつらいときには一人でふらふらと逃げこめて、だいたいのものはここで手に入る。それは多分、この町に友人と呼べる人がほとんど誰もいないことも関係しているのだろう。たとえ歩いている最中にこの町の人間が全員別人に入れ替わったとしても、自分は絶対に気がつかない。こんなに長い時間を過ごした空間であるけれど、私のコミュニティはない。私はこの町に「いる」はずだというのに、同時に「いない」のだ。
 パンデミックの渦中、私はこの自分がいる/自分がいない町を、何度も何度も無目的に徘徊した。閉鎖された家にいるのがつらいから、何も書けない抑鬱状態の中で新しいヒントを得るための施策は散歩ぐらいしか採択できなかったから……そういう理由から始まった徘徊だったが、歩き回るうちに、町の閉塞感のようなものを、生まれて初めて感じとるようになった。町を歩きながら「ここから出してくれ」と思ったのは、これが初めてだった。
 町の風景がぎくしゃくして見えた。休業中のシャッターや閉店のお知らせにまみれた通りに、臨時で出現した飲食店の屋台から漂う肉を焼く匂いが広がっている。人はいつもより少なく、誰かが咳をするとみながそっちを見る。
 おかしいのは町の方だけではなかった。歩いても歩いてもどこにもたどり着かず、何も新しいことを思いつかないことがこの上なく苦しい。あれだけ便利で豊かだと思っていた「地元」がのっぺりとした虚無に見えてきたことに、自分でもいまいち納得がいかない思いがした。そして同時に、歩いているうちに気がついた……自分は特定の道しか歩いていないのではないかと。だってさっきから同じ風景ばかり見ている。都市は家みたいに閉じていた。徘徊するための徘徊なのだから、どこへ足を伸ばそうとよいはずなのに、私は奇妙なぐらい、特定の位置まで来ると自ら引き返していたのだった。遠回しにお前はここから出られないよ、そうなってるんだよ、と言われているような気がしてぞっとしたが、ぞっとしているくせに私はまた同じ場所で引き返してしまう。
 家も町もクソ閉じている苦しさを吐露していたら、何人かの友人が「ホテルを取らないか」「うちに来ないか」と声をかけてくれた。私はその全てに死ぬほど感謝しながら、同時にその誘いに乗る想像が全くできず、全てを断ってしまった。断ってからぼろぼろ泣いた。こんなに自分が「ここ」に閉じ込められているなんて、これまで知らなかった。
 そういうとき、町外れにちまちまと書かれた「藤田孝太郎死ね」の落書きが私の視界に現れたことは、それなりに象徴的に見えた。どうしようもなくなっちゃったのだ。全部。

 この〈囚人の気持ち〉に浸りながらゲーム「Night in the woods」をプレイしたのも、何だか妙な縁だった。同作はアメリカの「ラストベルト」──かつて工業で栄えたが、今やそれも潰えてしまった地域──に属する田舎町「ポッサム・スプリング」を舞台にしたアドベンチャーである。プレイヤーは主人公であるメイ(同作のキャラクターはみな動物の姿で示される。メイはネコだ)を操作し、住人たちと語らいながら、町で起きている奇妙な事件に首を突っ込んでいくことになる。
 物語はメイが大学を退学し、2年ぶりにポッサム・スプリングへ戻ってくるシーンから始まる。ポッサム・スプリングは炭鉱の町だった。もちろん過去形だ。20世紀初頭に栄えた炭鉱は数十年前に閉鎖され、その後に作られた工場も今やほとんど残っていない。メイの祖父も父も炭鉱労働者だったが、父親は炭鉱閉鎖後にガラス職人などの職を転々とし、今は大資本スーパーの精肉コーナーで働いている。ゲームの中では住人たちの会話を幾度となく聞くことになるが、みな失業するか、不本意な非正規労働に苦労してしがみついている。いかに長く働ける仕事を見つけるか苦心する人たちがたむろする街角に、若者を海軍に勧誘する軍人がにこにこと立っている。
 街のあちこちに設置された炭鉱を開発した資本家たちの銅像や炭鉱労働者を描いた壁画は、今や全く顧みられていない。町議会はどうにか街に人を呼び戻すべく、街の「歴史遺産」的なものを探し求めたり、収穫祭をどうにか盛り上げようとしたりと試行錯誤しているが、それも振るわない。一方で町議会は、街の教会にホームレスの男性を寄宿させる計画について「イメージが悪くなる」と言って拒絶していたりもする。明らかに「おしまい」に近い状況を打開しようとする人たちが、架空の観光客や移住者のために、目の前にいる弱者を排除しているわけである。何度も見た光景だ。いつもどうすることもできない。
「終わった町」なのだ。ポッサム・スプリングは。そして同時に、メイにとっては無二の「居場所」であるはずだった。少なくともそれを期待して、メイは帰ってきたのである。

 「Night in the woods」のすさまじさは、その「終わった町」に暮らす人々の行き場のなさがぎちぎちとひしめき合っている点であり、同時にそれらの苦痛がメイの目から語られる点にある。
 メイはポッサム・スプリングでかつてのバンド仲間に再会する。軽薄で情緒不安定な大親友のグレッグ、グレッグと同棲する恋人の青年・アンガス、ぶっきらぼうでいつもタバコをふかしているビー。みんなこの2年で変わっていた。いい変化、と言うことは難しい。大人になって、この町がどういう状況にあるのか、自分がどう生きていくのかを考えるほかなくなってきたのだ。
 アンガスとグレッグはどうにか最低賃金で働きながら、別の町へ引っ越す計画を立てている。引っ越しを決めた背景はいくつもあるが、この町が決してゲイカップルに優しい場所ではないというのも理由の一つだ。「成長させてくれよ、メイ」……グレッグはメイにそう告げる。大人になるためには、この町を出なくてはいけない。ここにいたら望む変化を迎えられないことを、グレッグもアンガスも、そしてメイも、本当は痛いほどよく知っている。
 ビーは最近母親を失い、アルコール中毒で働けなくなった父親の所有する店を一人で切り盛りしている。かつてメイとずっと一緒にいてくれたビーも、メイに対しては複雑な気持ちでいるようだった。この店から、この町から、今も動けずにいるビーは、この町ではごくめずらしい大学進学者であったメイを憎まずにはいられなかったのだ。
 これらのダイアローグがメイの前に現れ、メイがそれに痛みを感じるのも、メイ自身の体があたたかくあいまいな「地元」の包摂から剥離し始めているからだ。中学の頃から漠然と抱えていた不安──もしかして全部が、最初から何もかもが、「終わっちゃってる」としたら? 自分が愛着を感じてきた風景の全てが無意味だったとしたら?──に耐え難い痛みを覚えてきたメイは、地元を出て進学した大学でその痛みを背負いきれなくなり、決壊し、最後の力を振り絞って「地元」に戻ってきたのである。ここなら痛みから逃げられるんじゃないかと信じた。でももうだめだった。昔と同じ目でこの町を見ることは、もうできない。目の前に広がる町は、すでに安住の地ではない。不安でいっぱいの現実だ。

 この閉じた町に充満した不安から、いかに逃げ切れるのだろう。プレイしながら川端浩平『ジモトを歩く』(御茶の水書房)を思い出した。
 同書の著者である川端浩平氏は岡山出身で、長い間アメリカやオーストラリアで日本を対象とした地域研究を行ってきた研究者である。川端氏は長い海外生活ののちに岡山へ戻り、友人の親が経営する会社で働き、週末には在日コリアンの人々に話を聞きながら、10年かけて「ジモト」のエスノグラフィを書き上げた。
 タイトルの「ジモト」とは、異化して見つめ直した地元のことだ。腐るほど見てきた地元を丹念に歩き、人に出会い、話を聞くなかで、今まで目に入ってこなかったものの存在が立ち上がってくる。このプロセスを経て、「地元」は「ジモト」へ再構築される。
 これは一面には苦しい作業だ。これまで自分と癒着していた人や風景を引き剥がし、他者化し、対象を批判していく行為は、当然ながら大きな痛みを伴うだろう。例えば川端氏が務めた会社では、北朝鮮バッシングを含んだジョークが「労働の潤滑剤」として機能し、職場という集団への貢献として受け止められていた。川端氏はそのような現実逃避的な営みを、他者から、そして自分の内側からも他者性を奪い去っていく行為であると批判している。この批判は「地元」の生暖かいサークルから一歩出ていく行いに他ならない。容易にできることではない。
 しかしながら川端氏は、「むしろ今までよりも自分が育ったまちが面白い場所へと変わっていく注1」希望の可能性をはっきりと示している。それは「町おこし」や「地域ブランド」のような資本主義/市場原理におもねった「価値の再発見」などでは決してない。「「このまちには何もない」と思って後にしたジモトや自分が生活している場所に、実は存在している何かを発見すること注2」であり、それは「夢をみることのできる地域社会(注3)」を探求するための重要な手がかりなのだ。
 夢をみること。それは叶わない想像に身を委ねて目の前の虚無を無視しようと試みることではなく、そこそこ遠い将来に関する明るい想像を、「現実的に」巡らせられるだけの余裕を持つことである。そしてこれは、個人の問題ではなく、常に社会環境の問題だ。

 メイにとってのポッサム・スプリングも、すでに「ジモト」へと剥離し始めていた。メイは地元/ジモトを歩き回り、自らの心を苛む存在〈幽霊〉の影を追ううちに、奇妙な敵と対峙することになる。敵とは「町の繁栄」というすでに失われた虚像の実現に固執する保守的な「おじさん」たちだ。そのような人々が町の裏でカルト教団を形成し、廃炭鉱の陥没穴に棲まうという神「黒いヤギ」の生贄として、町に貢献しないと判断した無職の若者やホームレスたちを殺害していたのである。黒いヤギの飢えさえ満たせばこの町は再生するのだと、やつらは信じ込んでいた。
 メイとこのカルト教団との対立は、極めて象徴的なものである。まずこのカルト教団について重要なのは、やつらの根城がポッサム・スプリングの郷土史を研究する「史学会」であることだ。カルト教団が拾い上げようとしている歴史とは、各地に残された炭鉱経営者の銅像に象徴されるような、炭鉱と工業で栄えた輝かしい過去である。いかにも権力者が好きそうな話だ(「明治日本の産業革命遺産」とやらを思い出してしまうではないか!)。実際には管理の不備による大規模な爆発事故や、ストライキを起こした炭鉱労働者たちの虐殺など、ポッサム・スプリングの歴史には凄惨な事件がいくつも起こっているというのに、それらが拾われることはない。地域を愛していると本気で誓えるやつらだからこそ、すでにそこにあるものに盲目である。
 一方でメイと旧友たちが追う〈幽霊〉は、この町で悲劇的な死を遂げた一人の人間に関する伝承である。メイが〈幽霊〉の正体として目星をつけるのは、不可解な死を遂げたとされ、たびたび幽霊話のタネになってきた炭鉱労働者「リトル・ジョー」だった。
 〈幽霊〉は確かに生者を脅かす。しかし、秩序を撹乱する〈幽霊〉話というもの自体、虐げられた人の声が強者を脅かす一つの抵抗運動であり、誰からも耳を傾けられない声を可視化する仕組みであり、最も弱い人たちの歴史そのものではなかったか。つまりメイたちの〈幽霊〉の追跡は、まさにカルト教団が積極的に掲げようとする「栄光の歴史」に捨象された人の声を拾う行為なのである。メイの祖父が炭鉱におけるストライキの主導者であったことが発覚する流れが挿入されるのも、この「栄光の歴史」/〈幽霊〉の声、という対抗軸を強調する。
 メイは別に真面目な過去の探索者ではない。リトル・ジョーの墓だって勝手に暴いてしまったし、そもそもメイにとって〈幽霊〉は頭の中に入り込んで自らを脅かす者として想定されていた。それでも結果的にメイが〈幽霊〉の声に連なる人たちの擁護──すなわち町の中でも立場の弱い人たちの側に立ったのは、メイがこの町を徘徊し、飛び回り、そこにいる人と話を続けたからではないか。それはメイを操ってあちこちを歩いたプレイヤー自身がよく知っていることだ。メイの不安の源はこの町をめぐる暗い歴史としての〈幽霊〉であったが、同時にメイをこの世につなぎとめる重りとなったのも、この町で途方に暮れる〈幽霊〉予備軍たち──つまり現在進行形で資本家や権力に追い詰められている友人たちなのだ。〈幽霊〉とは強い不安であり、「そこにいる」ことで不思議とわれらを温めてくれる希望であり、これらがないまぜになった「現実」そのものであった。
 最後、メイたちはカルト教団から「逃げ切る」ことに成功する。「打ち破る」と言うほど積極的な攻勢ではなく、ただ追ってくるカルト教団を撒いて、炭鉱の外へ出ていくのである。弱いものを切り捨てて立ち上がる「栄光の歴史」から、〈幽霊〉予備軍たちが抜け出していく。これは間違いなく、ひとつの希望だ。
 メイがこれからどうするのかは描かれない。ただ、両親にこれまで自分に起きた奇妙な経験──全てが虚無のかたまりにしか見えないような強烈な恐怖と痛み──について語ることを初めて約束し、自らの状況を語りによって他者に開いていく可能性を示唆して、物語は幕を閉じる。物事はすぐには好転せず、不安は続く。それでもメイは〈幽霊〉とともに立った。だからこれはハッピーエンドなのだ。メイはもう、この痛みが虚無ではないことを知っている。

 本、どうやって持ってけばいいんだろうな。一箱にあんまりたくさん詰めると引っ越し屋さんが腰を痛めそうだから、何箱にも分けないといけないだろう。机はどうしよう。出ていくなら処分して行けと言われているが、この大きさの家具を処分したことがないからやり方がわからない。そもそもうちエレベーターないしどうしよう。のこぎりで解体するとか? ちょっと現実的じゃない。ていうか誰かルームシェアできる相手を探さなきゃいけないんじゃない?
 最近引っ越しのことばかり想像している。金も行くあてもなく、出ていく覚悟もまだ決まっていないのに、何をどう詰めてどこへ持っていくか考え、安そうな物件を検索している。

あたしは、超でかい巨人になって、
みんなを抱えて、
どっか安全なとこへ連れてっていきたい。

でもあたしは信じたい。
逃げられるってことを。

 メイは旧友たちにそう語る。巨人というなれやしない存在に仮託した、「逃げる」ことの不安定な非現実的イメージと対比されているのは、あいまいではあるが現実的に必要とされている逃走である。メイは後者を「信じる」と言った。信じる。それしかできないことはすごく多いけれど、それはものすごく大事なことだ。
 「マジ100億欲しい……100億あったら誰でも救えるじゃん……」と言いながら、私は今日も物件を調べる。不安と希望で構築されたひとつの現実たる私も、〈幽霊〉の側に立っている。

注1 川端浩平『ジモトを歩く』(御茶の水書房、2013年)245頁。
注2 前掲注(1)。
注3 前掲注(1)。


Profile

高島鈴/Takashima Rin高島鈴/Takashima Rin
1995年、東京都生まれ。ライター。
https://twitter.com/mjqag

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