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There are many many alternatives. 道なら腐るほどある

There are many many alternatives. 道なら腐るほどある

第8回 電車の中で寝転がる人、ボルタンスキーの神話

――2019年8月11日に見たものの全て

文:高島鈴 Aug 19,2019 UP

 その人はちょっとだけラッパーの田我流に似ていたが、田我流よりもがっちりした体型で、白いタンクトップに紺の短パンを履いていた。荷物はたったひとつしかなかった。書道部を舞台にした青春漫画『とめはねっ!』である。カバンなどはなく、本当に手に『とめはねっ!』1冊だけを手にしているのだ。しかも単行本ではなくて、コンビニでしか売っていないペーパーバック版だった。調べてみると2016年に発売されたもののようである。さっきふらっとコンビニに寄って買ったというわけではなく、何らかの意思によって『とめはねっ!』が選ばれたものと思われた。
 その人は、最初はドアの前に座り込んでいた。この暑さである。具合が悪いのかと思った。しかし、見た感じ顔色もよいし、表情も苦しげでないし、何よりのんびりと『とめはねっ!』を読んでいる。問題は全くなさそうに見えた。
 ドアによりかかっていたその人物は、不意に『とめはねっ!』を閉じて、ドアにくっつけるような形で床に置くと、そこへおもむろに寝転がった。片方のドアに頭、もう片方のドアに足が向く形で、電車の中で眠り始めたのだ。目を閉じ、まるで自宅の居間にいるかのように、その人はくつろいでいた。この段階でほかの乗客が動揺する気配があった。私も少し動揺した。しかし、その人はいっさい周囲に迷惑をかけていなかった。人の少ない電車で寝転がって何が悪いというのか。何も悪くない。
 何よりその人がしっかりしていたのは、駅が近づいた旨のアナウンスがあると、素直に起き上がってそばの空いていた椅子に腰かけ、人の出入りの完了まで待っていた点だ。電車が動き出し、もう次の駅までドアとドアの間に立つ人がいないと確信できてから、椅子を立ってもう一度同じ場所で寝るのである。椅子がないから床に座ったり寝たりしているわけではなく、床にこだわってそれをしているのだということが明らかだった。待っている間、その人は先ほどまで枕にしていた『とめはねっ!』を読んでいた。
 これを2度繰り返したのち、3駅目でついに人がどっと乗ってきたので、『とめはねっ!』を枕に寝転がれるスペースはほぼなくなってしまった。すると、その人は無理に寝転がることはせず、素直に椅子に腰掛けてそのまま『とめはねっ!』の続きを読み始めた。
 私はその人を見ながら、ざわつくべきじゃない、ざわつきたくない、と思いながらも、ざわつくことをやめられなかった。そして結局ざわついていた自分を反省した。
 あの人に対してざわついてしまった自分は、まだ追い出したいと思っていたものを追い出しきれていなかったのだと思う。自分が内面化した「電車の乗り方」からはみ出る人に対して、私は身構えたのだ。そして同時に「白いタンクトップであんな床に寝転がるなんて、背中が汚れるのではないか」という、みみっちい心配までしていた。別にタンクトップの背中が汚れていたところで問題はないのにタンクトップの心配をしたのは、自分の「身構え」から目をそらすための一種の「ずらし」だったのだと思う。タンクトップはあの人が身につけているものであり、あの人と密着しているが、あの人そのものではないからだ。あくまであの人のことは自分は許容しているのだと思い込もうとしていた。結局まだ私は都市の論理に馴致されきっている。
 一方で、ある程度周囲に配慮しながら漫画本1冊で自分の望む姿勢を取る人のやり方に、わくわくしていたのも事実である。空いた電車で寝転んではいけない差し迫った理由は何もなく、ただ目の前にあるものと少ない持ち物で狭い空間をよりよく利用するやり方は、本来望ましいものなのではないか。寝転がった先で誰かの足の間を覗こうとしているとか、今にも踏まれそうな場所で陣取っているとか、そういう加害/被害の可能性とはいっさい離れていた。横暴なことをしたくて寝転がっているつもりはなく、ただ寝たほうが快適だから、寝られる範囲で寝そべったのだ。そして読み物と枕というふたつの機能を有した『とめはねっ!』1冊だけを携えて、あの人は「電車の乗り方」を撹乱したのだ。
 なんだろうこの気持ちは、と思いながら、私は電車を降りた。『とめはねっ!』の人はまだ座って『とめはねっ!』を読んでいた。あの人がその後どこへ向かったのか、もしくは特にどこも目指していなかったのか、子細は何も知らない。

『とめはねっ!』の人から目を離して乃木坂で降りた私は、国立新美術館のボルタンスキー展に向かった。
 ボルタンスキーはユダヤ系フランス人のアーティストだ。記憶や死にまつわる作品を多数発表している。これは個別具体的なテーマではなく、もっと抽象的で、何も確かなものを掴みとれないような、だだっ広い概念としての記憶と死だ。ボルタンスキーはユダヤ系医師の父とその友人からホロコーストの記憶を聞いて育ったため、ホロコーストがモチーフにされる作品も多いが、それはあくまでボルタンスキーの中で死とホロコーストが剥がせないほど近い位置にあるためであって、おそらくボルタンスキーのやりたいことはホロコーストについて何か言うことではない。ボルタンスキー自身の思い入れの表現以上に、ボルタンスキーがボルタンスキー本人、あるいは他者の記憶として提示しているものを通じて、観客は自分の中にも似たような記憶がすでにあることをふっと自覚する、この構造の方に工夫が凝らされている。
 例えばボルタンスキーがそのへんで適当に声をかけて撮影させてもらった少年の写真を年齢順に並べ、あたかも自分の成長記録であるかのように見せる「1946年から1964年のクリスチャン・ボルタンスキーの10枚の肖像写真」(1972年)、ある一家の古い家族写真が大量に並べられているが、そのありきたりな「家族写真的構図」からはその一家の歴史以上に自分の家の写真を思い出してしまう「D家のアルバム」(1971年)などがある。
 また、「死んだスイス人の資料」(1990年)という作品では、大量の錆びたクッキー缶(ボルタンスキー作品では古着に並んで多用されるアイテムだ)ひとつひとつに、スイスの新聞の死亡記事から収集されたスイス人の顔写真が貼り付けられている。一見ロッカー墓のようだし、箱を開ければこの顔写真の人たちの骨か遺品のたぐいが入っているのではないかと予感させるが、別にそんなことはない。ひとりひとりの顔写真を近寄って眺めてみても、そもそも誰なのか、どういう人物なのか、いっさいわからない。そして彼らは別に歴史的に重大な出来事と結びついた死を迎えているわけではない。ただ生きて死んでいったどこかの誰かである。かといって全くの無味乾燥なわけではない。全く知らない人を見ていると、記憶の中の全く別の誰かが引きずり出されてくる。私があまり人間の顔つきを判別できないから、というのもあるだろうが、メガネ、ショートカット、白髪、首に巻いたショール、というふうに容貌がパーツのレベルで認識されると、それはそのまま頭の中で同じ要素を持つ別の人間(身近な人間、あるいは自分)について想起する行為に繋がっていくのだ。それは死と目が合うことでもある。

 最も印象深く感じたのは、大量の電球をまっ黒い空間に配置した「黄昏」(2015年)である。会期中、初日は全て点灯しているが、光は毎日三つずつ消されていくそうだ。電球の影すら見えないまっ黒い部屋の中で、電球が川を流れる灯篭のように光る。じっと見ていると、頭の芯がじゅわっと溶けて、わずかにトリップするような感覚がある。〈今私は国立新美術館の展示室の一角に設けられた空間に置かれたたくさんの電球を見ている〉という、他者によって確認しうる状況説明が意識から遠のくのだ。死ぬときってこういう光の川を見るのかなあ、と何も意識せずにぽろっと思ったとき、ボルタンスキーの作品はこういう「なんとなく、死」という感覚をぐっと送り込むものなのだ、と「理解」した。

 私は個別具体的な人間の営みが好きだ。
 冒頭に書いた『とめはねっ!』の人にざわつき、同時にわくわくしてしまったのは、あの人の『とめはねっ!』および電車という空間の利用法が「共有されたルール」に毒されていない、極めて個別具体的な振る舞いだったからだ。本当に素直に、ただその場にいる人間の視点だけを持っていた。
 ルールに従う行為は、免責を意味する。その空間で何か問題が起きたとき、その場に存在しないはずの、ルールを作った者にも責任が流れていくのである。ルールの全てが悪いとは絶対に言わないが、同時にルールには「作った側」と「従う側」というヒエラルキーがあり、それぞれの内側でも関与の程度に差があることを常に意識せねばならない。そうなると、結局責任はうやむやになりがちだ。悪いこともいいことも、結局「場」でわかちあえなくなっていく気がする。
 本当はもっと気軽に責任を負い合ったほうがいいとずっと思っている。隣にあなたがいたから、目の前でそういうことが起きていたから。そういう考え方をもっとスムーズに実践したい。

 ボルタンスキーは神話を作ろうとしていた。神話は誰が作ったのかもわからない、大きく、長く尾を引いた概念である。例えば「アニミタス(白)」(2017年)では、チリの砂漠に設置した大量の風鈴が風に揺れる映像を用いたインスタレーションである。チリの砂漠であることは確かだが、そもそも砂漠のどこなのかはもはやほとんど誰も知らないし、風鈴はいずれ風化するだろう。たどり着いてこの場所を見る必要はどこにもないのだ。ただ、どこかに死者を祈る地があるらしい、という伝聞だけが漠然と語り継がれていく。当該の地が滅び去ったあとも語りだけが続いていく。
 神話が産まれて、何の意味があるのだろうか。ボルタンスキーがやっていることは、個別具体的な個人の死とは真逆のものを産む行いではあるが、同時に私たち鑑賞者がボルタンスキーの神話を信じるとき、最終的には個別具体的なものとしてその結論を受け取ることになるのだろう。ボルタンスキーが作り上げた神話は死者への祈りであり、死者への祈りにまつわる神話を私が受け入れ、誰かに渡していくのなら、私の中に思い起こされるのはすでに死んだ人についての具体的な記憶なのだ。本当はわれらのすぐそばに、常に親しい死者、隣人としての死者がいる。い続ける。

 このふたつのできごとについて「ぐるっとつながった」のは翌日のことである。ボルタンスキーは親友とふたりで鑑賞したが、当日はあまり展示の内容に関して話し合うこともなく、『とめはねっ!』の人について話すこともなく、ただ美術館を出て、「このへん何があるかよくわからんよね」と言って土地勘のある川崎まで行き、タピオカを飲み、駅ビルで日傘を購入するか迷って結局買わず、疲れて入ったカフェで閉店間際までしゃべり、帰りに本屋へ寄って『進撃の巨人』の新刊を買って帰宅した。その日の話題の中心は表現の不自由展であり、天皇制だった。
 本当はこのコラムでも表現の不自由展について書きたかったのだが、今の自分にとってはあまりに重く、結局こうして違う話題を選ぶに至ったのである。しかし、問題としてはどこかしらで地続きなのだろう。地に足をつけて手が届く範囲の対象に身軽に責任を負うことと生活のなかに死者の存在を組み込むことは、他者に誠実に向き合うという線で私の中では連結しているが、表現の不自由展で発生したテロや作品に対するあまりにも見苦しい攻撃は、この流れの対極にあるように思えてならないからだ。
 どうすればいいのかわからない。特にオチとして言えることもない。ただ今のところ私のリアルはこういう形で雑に縫い付けられていて、毎日それなりに困っている。

参考文献 滝沢英彦著『クリスチャン・ボルタンスキー──死者のモニュメント』(水声社、2004年)

Profile

高島鈴/Takashima Rin高島鈴/Takashima Rin
1995年、東京都生まれ。ライター。
https://twitter.com/mjqag

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