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Aaron Dilloway Japan Tour 2023@落合Soup (2023/2/11) ライヴ(デッド)レポート

Aaron Dilloway Japan Tour 2023@落合Soup (2023/2/11) ライヴ(デッド)レポート

文:仲山ひふみ Jun 16,2023 UP

§†**

「ノイズとは何か」という問いが「音とは何か」や「音楽とは何か」といった問いと同様に、その見た目の初歩性に反してかなり厄介なものであることは、現代の実験音楽とその周辺の言説にある程度以上慣れ親しんできた人々のあいだでは、おそらくほとんど常識と言っていいほどによく知られた事柄である。「〜とは何か」という本質主義的な問いの立て方が、すでにこの問いを袋小路へと向かうよう運命づけているのだと述べるだけでは十分ではない。困難は、音や音楽が問いの対象としてポジティヴなものであるのに対し、ノイズはネガティヴな対象であるということに存している。とはいえ、ネガティヴであるとは抽象的であるということを意味するのではない。ノイズは私たちが日常的に繰り返し耳にしているものでもあるし、間違いなく経験的な具体性を帯びた対象であると言うことができるのだから。

 「ノイズとは何か」というこの具体的すぎるがゆえに手に負えない問いに対して、いまあえて答えることを試みるならば、採れる道筋はおそらくひとつしかない。すなわち、最も素朴な答えから出発して、その失敗を確認しつつ、徐々に素朴でない答え方へと移行していくというやり方である。かくしてひとは次のように呟くことになる。ノイズとは少なくとも、音楽的ではない音のことだ。音楽的な音とは、音楽理論で音高(ピッチ)と呼ばれ、音響物理学では周波数(可聴域内の)と呼ばれる要素をもった音のこと、言い換えれば、リズムとして知覚されるよりも短い時間スケールにおいてある種の安定した反復構造を示すような音のことである。したがってノイズとは、そのような内的な反復構造ないしは周期性をもたない音のことである、と。反例を挙げるのはそれほど難しくない。スピーカーの配線を間違えた際に鳴るハムノイズは明らかに音高/周波数をもつが、それでもノイズと呼ばれている。また、身のまわりの(やや古い)電子機器から発されるビープ音や、オーディオ機器のテストの際に使用されるサインスイープ音も、純粋な音高/周波数を備えているにもかかわらず、むしろノイズとして聴かれることのほうが多いだろう。ゆえに、ある音がノイズであるか否かは、その音の内的構造としての周波数や倍音構造に即して決定されるのではなく(西洋音楽において非整数倍音をもつ金属的な音色がノイズないしそれに準ずるものとして扱われることが多かったという歴史的事実をひとまず脇に措くなら)、むしろその音にとっての外的な構造、すなわちその音がそこにおいて聴かれているコンテクストに即して決定されるのだと言われなければならない。
 だが、そのように言ってみたところで何も解決されはしないということに私たちはただちに気づかされる。実際にさまざまな音がノイズとして聴かれるのが〈いかなる〉コンテクストにおいてなのかを突き止めない限り、「ノイズとは何か」という問いは相変わらずひとつの謎として残り続けることになる。

 視点をずらしてみよう。一般にある音がノイズとして聴かれるのはその音が非音楽的なコンテクストにおいて聴かれる場合、またその場合に限られると述べるとき、私たちはノイズをいわゆる環境音と実効的に同一視していることが多いように思われる。たしかに、都市において聴かれる各種の心理的にストレスフルな環境音は、イタリア未来派のルイジ・ルッソロの「ノイズの芸術」のアイデアが典型的に物語るように、歴史的に見てノイズの具体例として真っ先に挙げられる類いのものではあった。しかしその一方で、田園的な風景のなかで聴かれる川のせせらぎや鳥の鳴き声といった環境音は、一九世紀のロマン派以来(古代ギリシアのピタゴラス派の「宇宙の音楽」以来ではないにせよ)「自然の音楽」という詩的メタファーによって枠づけられ、ノイズとは正反対の評価を受けとることも少なくなかったことが思い起こされる。付言しておけばR・マリー・シェーファーのサウンドスケープの思想における「保護」されるべき環境音とそうでない音とを分かつ差異も、こうした自然/人工という古くからある二項対立を参照して設定されている。事情がそのようなものである以上、歴史的に見てすべての環境音がつねにノイズの領域に属してきたと言うことはできないだろう。また、ノイズと呼ばれる音のなかに都市の環境音だけでなく、先に触れたような人工的に(意図的に)生成された電子音、とりわけカラードノイズと呼ばれるような音が含まれていることを考えるなら、すべてのノイズが(非意図的に生成された音という意味での)環境音の領域に包摂されるわけではないということも認めざるをえない。要するにノイズと呼ばれる音の領域は、環境音のそれとも電子音のそれとも正確に重なりあうことはないのである。

 加えて、ノイズの概念は近年では音響的なものの領域を超え出ていく傾向さえ示している。「ノイズという語を、ほとんどの場合引用符付きで、音とは関係のないさまざまな文脈においてしばしば情報と対立するものとして用いることはいまや当たり前のことになった」と、セシル・マラスピーナはその著書『ノイズの認識論』の冒頭で述べている。たとえば金融の分野で語られるノイズとは、「証券取引所でのランダムな変動に関連した不確実性」にほかならない。「ノイズは、経験的探求のほとんどすべての領域で、データの変動性の統計的分析に元から備わる概念となった」。現代的統計学における精度(precision)の概念が誤差すなわちノイズがそこに収まる幅によって定義されていることからもわかるように、ノイズは現代の知、科学的認識の手続きにとって付帯的なものではなく、むしろ構成的なものである。「ノイズという語の特別な意味はそれゆえ、統計的平均との関連での不確実性、確率、誤りといった考え方が被った方法論的な変容とそれらがまとった新たな科学的身分とをともに含意している。このような豊かさを背景として、サイバネティクスと情報理論においてその後になされたノイズの定義は、物理的エントロピーの概念と、より一般には不確実性、統計的な変動および誤差の概念を遡及的に取り込むこととなった」(Cecile Malaspina, An Epistemology of Noise, London: Bloomsbury, 2018, p. 1-2)。
 ならばそこからのアナロジーで音としてのノイズを、シグナルすなわち聴取者に何らかの情報を与える正常な音に対立する、いかなる情報も与えない異常な音だと定義すればよいのだろうか。少なくとも理念的な極限としてなら、そのような不可能な音の存在を仮定することも許されるだろう。だが言うまでもなくそのような定義からは、音響的な複製や生成の技術的過程で生じる純粋なトラブルとしての、再認不可能で複製不可能な(すなわち反復不可能な)音のようなもののみを〈ノイズなるもの〉のモデルとして特権化するような身振りが避けがたく生じてくる。それはノイズの概念を再び、可能的な聴覚経験の全体を吊り支える、それ自体は聴覚的に経験不可能であるような単一の点に、あるいはそうした全体に対する超越論的ないしは潜在的な裏地のようなものに変えてしまうことにつながるだろう。そのような「否定神学」的なノイズの概念を振りかざすことが、数学的極限としてのホワイトノイズに〈ノイズなるもの〉の超越的で実定的な理念を見てとる通俗化されたデジタル・ミニマリズムの素朴な態度と比べて、理論的にも実践的にも特段優れているわけでないことは言うまでもない。クリストフ・コックスが諸芸術における共感覚を唯物論的角度から論じる文脈で、ドゥルーズの共通感覚批判を引き合いに出しつつ、「感覚されうるものの存在ではなく感覚されるところのものを把捉する「諸能力の経験的使用」〔すなわち常識=共通感覚〕」に対立する、各能力の限界にまで行き着くことで「感覚されうるものの存在」を明るみに出すような「諸能力の超越論的行使」を称揚する際に陥っているのは、まさにこの種の危険であるように思われる(cf. Christoph Cox, Sonic Flux: Sound, Art and Metaphysics, Chicago, IL: University of Chicago Press, 2018, p. 212)。
 結局、ノイズを聴くことのうちで賭けられているのは、その可能的な経験(つまり可能的なノイズの聴取)といったものではなく、むしろ実在的な経験、事実性としての経験、つまり実際に聴かれた音のうちでその音が自己同一性を失い、何か別のものへと変形していくのを(それがどれほど短い時間に生じることであれ)聴く、聴いて〈しまう〉ということであるのだと思われる。だがそのような事実的に聴いて〈しまう〉ことの核には、不可能な音の可能性をそれでも信じきるといった神秘主義の行為とは何か別のものが存在しているのでなければならない。

 神秘主義なきノイズとの出会いにたどり着くためにまずなすべきことは、ノイズを何らかのタイプの音として実体化したうえでこれを聖別するような、あらゆる身振りを退けることであると考えられる。かつてエドガー・ヴァレーズは「主観的には、ノイズとはひとが好まないあらゆる音のことである」と述べた。このような心理的観点からの定義の企ては、たしかに「ノイズとは何か」という問いを「ノイズを聴くとはどういうことか」という別の問いに適切に置き換えるという点では有益なものである。しかしこれは、ヴァレーズ自身「主観的には」という留保を付すことで仄めかしているように、ある音がそこにおいてノイズとして聴かれるコンテクストについて情動的観点からの限定を加えるものでしかない。聴覚文化研究者のマリー・トンプソンが強調するように、ノイズというカテゴリーには明らかに「望まれない音」以上の何かが含まれている。「ノイズなくしては音楽も、メディア作用も、音そのものさえ存在しないのだ」(Marie Thompson, Beyond Unwanted Sound: Noise, Affect and Aesthetic Moralism, London: Bloomsbury, 2017, p. 3)。そしてその「〜以上の何か」とはおそらく、ポール・へガティが宇宙背景放射を念頭に置きつつ次のように語る際に仄めかしているような、ノイズにおける除去不可能な何かのことである。「ビッグバンは音をもっている──それは決して取り除くことのできない最終的なスタティックノイズだ──それゆえ宇宙それ自体は(少なくともこの宇宙は)ノイズとして、残余として、予期されざる副産物として想像されうるのであり、そして最後の音はまた最初の音であることになるだろう」(『ノイズ/ミュージック』若尾裕・嶋田久美訳、みすず書房、二〇一四年、八頁、訳文変更)。仮に宇宙そのものに音量のようなものがあるとして、それを無際限に増幅していくなら、どの局の放送も受信していないラジオの音量を上げていったときのように、ついには何らかのスタティックノイズが出現するはずである。その音は初めからすべての局の放送の背後で鳴っていたのだが、そのことが気づかれるのはそれらの放送すべてが終わった後のことでしかない(したがってそこでは所与としての可能的な音響の超越論的枠組みがアプリオリに聴かれているわけではない)。ノイズの除去不可能性は究極的には、ノイズがもつこのような時間的に捻れた存在論的身分に関わっている。へガティが思い描く「最後の」聴取が、彼が肩入れする哲学者ジョルジュ・バタイユにおける宇宙的な夜、絶対的な無差異への脱自的没入というヴィジョンに引きずられた誇張的な提案である点には注意すべきだが、ノイズを宇宙論的に理解しようとするその姿勢自体は、沈黙をノイズの同義語として用いたジョン・ケージの思想を彷彿とさせるものでもあり興味深い。

 周知のようにケージは、ヴァレーズの定義とはわずかに異なり、「沈黙とは私たちが意図していない音のすべてである」と述べている。「絶対的な沈黙といったものは存在しない。したがって沈黙に大きな音が含まれるのはもっともなことであり、二〇世紀にはますますそうなっている。ジェット機の音やサイレンの音、等々だ」(Douglas Kahn, Noise, Water, Meat: A History of Voice and Aurality in the Arts, Cambridge, MA: MIT Press, 1999, p. 163より引用)。意図していない音とはすなわち、偶然的な音、正確に言えば「望まれない音」であるのかどうかさえいまだ不確定であるような音のことである。だとすればケージによる沈黙としてのノイズの定義は、ヴァレーズの定義が引いた主観性という境界線を一歩だけ、しかし決定的な仕方で、踏み越えていることになる。というのも、意図されない音として背景ではつねに何かが鳴っており、そしてこの鳴り響く何かは、私たちにとって(主観的に)偶然的であるだけでなく、究極的にはそれ自身において(客観的に)さえ偶然的な、あるがままの事物の断片にほかならないからだ。ノイズをネガティヴな情動との関係によって特徴づけるのではなく、情動そのものへの無関係、情動へのインディフェレンツ(無関心=無差異)によって特徴づけること。私たちはここで「偶然的なものだけが必然的である」という哲学者カンタン・メイヤスーの思弁的なテーゼを思い出すこともできる。偶然的な音としてのノイズは、一見、聴取する私たちの意識に相関的に存在しているにすぎないもののように思われるかもしれないが、実際にはそうではない。私たちの聴取の志向的働き(意図)が存在していなかったときでさえ何らかの音が沈黙として存在していたのであり、それが音として鳴っていたことに事後的に気づくことを通じて、私たちはこの沈黙をノイズとして遡及的に聴取することになるのである。偶然性のヴェールによって守られたものとしてのノイズは、私たちの意識や思考に対して非相関的に振る舞うことができるほとんど唯一の知覚的な存在者だ。裏を返せば、沈黙としてのノイズというケージの考えを偶然性という契機を無視して理解すると、ダグラス・カーンが鋭く指摘するように、音楽家の主観的な意図(発言)を「音そのもの」から除去することには成功しても、聴くことができる=音であるという等式に従って、汎聴覚性(panaurality)というかたちで主観的な属性を客観的な音の世界の全体に再び投影することになってしまうのである(cf. Kahn, op. cit., p. 197-8)。ゆえに偶然性という契機は「存在としての存在」ならぬ〈ノイズとしてのノイズ〉から切り離せない。そしてそのような偶然的ノイズは、日常的なコンテクストでも十分に出会うことが可能な、規定された個体的な音である限りで(その個体性がどれほど不可思議な構造をもつにせよ)、超越論的ないし潜在的なノイズからは区別され、事実論的ノイズと呼ぶことができるものだろう。
(例。暴力温泉芸者の初期の作品に聴かれるようなサンプリングとサウンド・コラージュは、そこで鳴っている音そのものは日常的によく耳にするような、消費社会が生み出した一種の音響的な屑であり、再認可能で反復可能な音であるにもかかわらず、ノイズとして十分に聴かれうるものとなっている。そうした事態はそれらの日常的な音がどこかで聞いたことのある音、勝手に耳に入ってくるような音であって、それが鳴った瞬間に一定の注意とともに聴かれるような音ではないからこそ可能になっているのだと考えられる。またそれは別の観点から言えば、どこかで聞いたことのある、おそらくは繰り返し聞いたことのあるような音こそ、かえってそれを聞いた時間と場所を厳密に特定するのが難しいということでもある。暴力温泉芸者においてはさらに、サンプリングを元の音源から直接行わずに、ダビングもしくはローファイな環境で録りなおして音質をわずかに悪化させたものから行うことで、時間と場所についてより特定可能性の低い音像が作り出されている。一般にある音が自身の生成された状況についての情報を与えなくなればなるほど、その音はノイズに近づくと言える。これはたんに音源の現前性から切り離された音という意味での「アクースマティック」(ピエール・シェフェール/ミシェル・シオン)な音になっていくこととは異なる。というのも、ノイズへの漸近においては原因としての音源の特定可能性というより、結果=効果としての音自体の同定可能性が壊れていくことになるからだ(つまり、その音が何から出た音なのかがわからなくなるのではなく、その音が何であるのかということ自体がわからなくなる)。日常的な音は事後的にしか(一定の注意で)聴かれないことにより、聴覚的記憶のシステムにある時間的な捻れを発生させる。私たちが事実論的ノイズと呼ぶのはこの捻れの個体的に規定された諸事例にほかならない。イニゴ・ウィルキンズがマラスピーナと同様に確率論と情報理論の文脈を踏まえて「不可逆的ノイズ」と呼ぶものも、私たちが事実論的ノイズと呼ぶものと同様に、システムのなかでの情報の回復不可能な消失とその結果生じる時間的非対称性に強く依拠しているように思われる(Inigo Wilkins, Irreversible Noise: The Rationalisation of Randomness and the Fetishisation of Indeterminacy, PhD thesis, Goldsmiths, University of London, 2015, p. 37-8)。)

 ノイズに関するそのような強い偶然性、すなわち事実論性の仮定のもとでは、おそらく「私が聴いているのは何の音なのか」という問いを超えて、「私が聴いているのはそもそも音と呼ばれうる類いの事物なのだろうか」という問いを引き起こすような聴覚的‐音響的な出来事こそが、純粋なノイズとの出会いのメルクマールと見なされることになるだろう。このような出来事の概念は、環境世界のうちに折り畳まれた潜在的な〈生〉の線の反‐実現的な解放というドゥルーズ的な理解におけるそれよりも、日常的状況のうちには所属しえない実在的〈不死〉の輪郭の識別不可能な到来というアラン・バディウがその諸著作で描き出すようなそれにより近いと言える。バディウにおいて「出来事」とは、ある局所的な「状況」のうちでカテゴリー化され認識可能なものとなっている諸々の「存在」を超え出るものであって、ちょうど科学革命(パラダイム・シフト)を通じて立ち現れる諸概念間の共約不可能性がそうであるように、その「出来事」への忠実さを維持しようとする「主体」の助けを借りつつ、既存のカテゴリーを解体して新たな記述的手段を開発することで「状況」の再編成と拡張された認識可能性の出現とを準備するものである。それゆえ音にまつわるカテゴリーそのものの改訂可能性こそが、ノイズの純粋な現前化の核をなす。事実論的なノイズは、最初の聴取においては日常的な、再認可能で複製可能な音でありながら、最後の聴取においてはそうした普通の音がそこにおいてみずからの位置を割り当てられた現象性の枠組み全体が崩壊する可能性を指し示すことさえできるような、ある種の終末論的負荷を帯びた、独特な象徴的強度とアレゴリー的ギミックとを備えた音でなければならないだろう。サンプリングされ、反復可能となったデザインとしてのグリッチを私たちはもはやノイズとして聴くことはしないが、それでもサンプリングの使用法、さらには反復の手法そのものの内側で、ノイズ的としか呼びようがない予見不可能な出来事(それは必ずしも機械的なエラーではない)を「望まれない」仕方で到来させることの可能性は依然として残されていると言うことができる。手垢のついたものと見なされている音響的イディオムのうちに物質的に蓄えられたノイズ的なポテンシャルを解放し、そこに耳の注意が向かうよう促すことは、ジャンルとしてのノイズ・ミュージックと直接の関わりをもたずまたそれに隣接するジャンルで活動しているわけでもない多くのミュージシャンが、音楽史を展開させてきたかの単純さと複雑さとの弁証法に従って、各自の関心に応じて音楽の新たな次元を探求する際に本能的に行っていることですらある──ジャック・アタリの著作を引き合いに出すまでもなく、すべての音楽は(ノイズを好まない人々にとっては気の毒な話であるが)ある程度までノイズ・ミュージックであるのだ。かくしてノイズの本質性なき本質は、音のほとんど全領域にいわばノイズ的な仕方で、ある揺らぎとともに拡散される。音(のようなもの)としてのノイズがもたらす感覚的認知のプロセスの根本的な不安定化は、さまざまな分野を横断して現れる概念(のようなもの)としてのノイズの不安定な同一性と共振している(後者がマラスピーナの言う「認識論的ノイズ」だ)。「ノイズとは何か」という問いに答えるあらゆる企ては、それゆえ最後には必然的に挫折する。にもかかわらずこの問いを追求するなかで、またその追求のなかでのみ、ひとはノイズとしてのノイズを聴くことができる。だからこそ私たちは、ノイズとは非音楽的な音のことであるという素朴な直観から出発するにもかかわらず、音楽の内側でこそノイズを探求するという一見矛盾したものに映る、エラーを吐き出すことを約束されたプログラムをあえて走らせるような選択をしばしば行うことになるのである。──ノイズ・ミュージックというジャンル、この絶対的に無謀な企ての必然性はそこから導かれる。つねに新たなるうるささ、ラウドネスを音楽として発明しようとすることへの、放埓さと忠実さのあいだで揺れ動きながらも、決して譲歩されることのない、あの準‐普遍的な欲望。

Profile

仲山ひふみ/Hifumi Nakayama仲山ひふみ/Hifumi Nakayama
1991年生まれ。批評家。主な寄稿に「「ポスト・ケージ主義」をめぐるメタ・ポレミックス」(『ユリイカ』2012年10月号)、「聴くことの絶滅に向かって──レイ・ブラシエ論」(『現代思想』2016年1月号)、「加速主義」(『現代思想』2019年5月臨時増刊号)、「マーク・フィッシャーの思弁的リスニング」(『web版美術手帖』2019年9月5日)、「ポストモダンの非常出口、ポストトゥルースの建築──フレドリック・ジェイムソンからレザ・ネガレスタニへ」(『10+1 website』2019年10月号)、「「リング三部作」と思弁的ホラーの問い」(『文藝』2021年秋号)。また、手売り限定の批評誌『アーギュメンツ#3』(2018年6月)を黒嵜想とともに責任編集。

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