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Aaron Dilloway Japan Tour 2023@落合Soup (2023/2/11) ライヴ(デッド)レポート

Aaron Dilloway Japan Tour 2023@落合Soup (2023/2/11) ライヴ(デッド)レポート

文:仲山ひふみ Jun 16,2023 UP

§**†

  かくしてライヴは終わり、私は小林さんとともにSoupを出て帰路についた。数日前に購入した聴覚保護用のイヤープラグのおかげで、耳鳴りはそれほどでもなかった。ライヴ後の耳鳴りこそノイズの(あるいはある種のエレクトロニカやテクノのイベントの)醍醐味だと言う人もいるが、私はそうは思わない。イヤープラグのおかげで尋常ならざるラウドネスに達していたディロウェイのライヴ後半部でも冷静に音の運動を追跡することができたのだし、帰り際に道路工事の音を聴きながらそれがまるでインダストリアル系の音楽(それも相当に音質が良い!)のように聴こえてくるなどという感覚を楽しむこともできたのである。たしかにそのような〈聴くこと〉の〈楽しさ〉をたんに強調してノイズ(・ミュージック)の無化的批判のエネルギーを等閑視するならば、カーンがケージについて述べたような汎聴覚性の罠に舞い戻ることになりかねないだろう。にもかかわらず他面では、繰り返しになるが、ノイズのライヴの興奮をファナティックな集団自傷行為のそれと融合させてしまうことに対して私たちは、そこに対抗‐アディクション的な反転可能性が依然として賭けられているのだとしても十分に慎重でなければならないのである。それはノイズの倫理、一般的な倫理ではなくノイズという特異的な場所に固有の倫理と関わる。

 キャンセル・カルチャーという言葉が叫ばれ、ノイズキャンセリング・イヤホンが人気を博している現在において、勇気をもって言表されなければならないのは、この世界のうちでただひとつだけ決してキャンセルされるべきでないものが存在するとすればそれはノイズである、ということだ。聴取が向かうべき空間は、そこが真の意味での〈正義〉の空間であるならば、ノイズを決して排除しない。ノイズの社会的キャンセルが正当化され、実行可能な計画までもが組まれるようになるとき、真のファシズムが開始されるだろう。それは政治的非難の常套句としての、言葉の綾としてのファシズムではなく、歴史的にかつて猛威を振るっていたそれと同じ本性をもつ、言葉の本来の意味におけるファシズムである。しかしそのような迫害のシナリオが現実化される前に、ノイズ自身がこのような真のファシズムに陥ってしまう可能性を孕んでいる。この危険について私は、ジャパノイズだけでなくノイズ一般の政治的属性の危うい曖昧性としてすでに触れておいた。

 哲学者のジャック・デリダは、まさにファシズムとの浅からぬ関係をもつニーチェの生物学主義的思想の脱構築をその企図の一部として含む七〇年代半ばの講義において、教育制度を通じたある種の記憶や思考の枠組みの再生産および選択の問題を論じながら、同時代的に進行しつつあったDNAの発見に端を発する遺伝生物学の発展とそこでの「プログラム」概念の位置づけをめぐる問題も横目で睨みつつ、ニーチェにおける「耳の問い」、「耳の形象」、「耳の迷宮」への注意を促している(ジャック・デリダ『生死』小川歩人ほか訳、白水社、二〇二二年、六〇頁)。フランス語において理解することと聞くことの両方の意味をもつ動詞entendreを戦略的に戯れさせながら、ここでデリダが示唆しようとしているのは、哲学的思考もまたそこに根を下ろしているような言語的意味作用の隠喩的で類比的な層について、何らかの目的論的で実体的なシニフィエをその起源として前提せずに、むしろさまざまな「プログラム」の制度的-遺伝的な錯綜と相互汚染から生産される効果=結果として、思考一般にとってのこの層の不可避性をそれ自体隠喩的かつ類比的に語ることが、そこにおいてはふさわしい振る舞いと見なされることになるようなある場面のことである。「ニーチェは、概念的思考、その理解と拡張の規則は隠喩によって進むことを示しているのであり、彼はそのことを言表のように述べるのではなく、言表行為において述べるのです」(前掲書、八六頁)。純粋なものと推定された概念的思考のうちに混入する隠喩的ベクトルのある種の除去不可能性については、デリダが「白い神話」をはじめとする諸論文において指摘してきたものであり、それほど新鮮な論点ではないかもしれない。しかし私たちはそこで隠喩の生産とその理解/聴取とに関する一連の思考の働きが、耳というそれ自体特異的な隠喩的価値を帯びた感覚器官と結びつけられていることに注目するとき、またそれが進化論と遺伝生物学を含む現代生物学のさまざまな知見を考慮に入れることが当然期待されるような文脈において、「隠喩の自然選択」(同上)といったアイデアと並べられて──同じく七〇年代にリチャード・ドーキンスによって提案された「ミーム」の理論とも不思議な共鳴を見せるような仕方で──論じられていることに気づくとき、この使い古され摩滅しつつあるテーマないしトポスに新たな使用価値が宿りつつあることを認めざるをえない。おそらく耳はひとつの戦略素、「自身が話すのを聴く声」という自己現前性に支えられた現象学的意識のモデルに走った半透明の亀裂、思考のアプリオリな構造ないし経済の自然史的(したがってもはや分析的ではない総合的な)秩序への切れ込みがそこから入れられ、次いでこの秩序全体のトポロジカルな変形がそこから開始されることになるような、あの決定的な隠喩的対象のうちのひとつであるのだ。このハイパー自然史的な平面の上では、思考の経験的なレヴェルと超越論的なレヴェルとはたんに二重襞として扱われるだけではもはや済まないものとして、いくつかの特異点(固有名ないし隠喩)において識別不可能な仕方でショートサーキットされることになる。耳は意識であり、意識は脳であり、脳は制度であり、制度はミームであり、ミームは遺伝子であり、遺伝子は言語であり、言語は隠喩であり、隠喩は概念であり、概念はミームであり、ミームは隠喩であり、隠喩はノイズであり、ノイズはノイズであり、ノイズはノイズではないものであり、ノイズではないものはアディクションであり、アディクションは唾や痰であり、唾や痰はウィルスであり、ウィルスは埃や変形であり、埃や変形はテープであり、テープは息であり、息は音であり、音は耳であり、耳はノイズであり、ノイズは思考であり……かかる隠喩的回路のオーヴァードライヴにおいて〈生きること〉と〈思考すること〉と言語との関係は、もはや「生「と」死」や「生「とは」死「である」」といった定立的で対立的もしくは同一化的な論理に従って捉えられることはできなくなるがゆえに、またむしろそのような論理自体がこのオーヴァードライヴの生産する効果=結果であることを指し示すために、デリダはそれを接続詞も繋辞も取り払った「生死」(la vie la mort; life death)として名指すことになるだろう(cf. 前掲書、二四頁)。そしてその回路のうちには還元不可能な偶然性が働いていることが予期される。だからこそ私たちは「ノイズとは何か」という問いのリフレインを通じてノイズの経験の実在的諸条件について記述しようとする際に、ノイズの本質のノイズ的(偶然的)揺らぎによるジャンル的自己異化を考慮に入れて、これを生気論的エネルギーのたんなる賛歌によってではなく、耳の「生死」の次元において、すなわち個体的事例としてのノイズ・ミュージックの「ライヴ(デッド)レポート」の次元において記述することを望んだのだった。

 周知のとおり音楽について語るうえで、そして書くうえで避けることができないのは、隠喩の暴走であり、自走である。このことはノイズ(・ミュージック)に関してはいっそう激しく当てはまるかもしれない。というのもノイズとは、それをまさに聴いているときにはそれを音として同一化することが困難であるような、時系列的な捻れを孕んだ出来事の名であるからだ。ノイズにおいて聴覚的なものと音響的なものとは天空と大地のごとく分離される。音を聴くことと音が鳴ることの自然な統一性、二項のあいだの相関性に時間的な亀裂が走り、「いま私が聴いたのははたしてひとつの音だったのか」という問いあるいは〈問い以前のもの〉を残すとき、私たちはノイズの経験をもつのだと言える。このような経験、混じり気のない唯物論的な経験に対して私たちがなしうるのは、隠喩を駆使しながら、そして隠喩が焼き切れるまでそれを使いながら──おそらくそこにデリダがかろうじて留保していた「脱構築の脱構築不可能性」が他の意味において脱構築されてしまう時間、ブラシエ的な意味での「絶滅」の時間が見出されることになる──、より正確な記述のためのカテゴリーを探すことでしかないだろう。「音であるにはあまりにもうるさすぎる」(ラウドネス)、「聴かれるにはあまりにもおぞましすぎる」(アブジェクション)といった過剰さを特徴とするノイズの経験は、私たちの耳という入力端子への超過電流の流れ込みとして隠喩化されうるかもしれない。その場合、私たちの耳-回路という隠喩的図式のなかにオーヴァードライヴが生じていることになる。言葉はもはや入力された値をそのまま出力することはなくなり、すべての意味‐音色は強度的‐内包的に歪む。次に試みられるのは、隠喩的図式をオーヴァードライヴさせて得たこの思考を、再び隠喩的回路に流し込むことで、フィードバック・ループを生じさせることだろう。ノイズの経験を記述するために用いられる隠喩的カテゴリー(たとえば「耳」「痰」)を幾度となくダビングし、それ自身の内部での準-音響的経験(いわば〈隠喩の耳鳴り〉)の記述にまで適用するとき、ついには聴覚的経験を言説的に表現するものとしてのテクストそのものが物質的な次元でハウリングし、ループし始めるだろう。どんなライヴを聴いたのか、そこで誰が演奏していたのかということさえ、もはや私は忘れ始めている。ただそこで私の耳を襲った音たちが、無数の軋るような隠喩的図式、ミームとアディクションの唸りを上げるような運動に変換されて、私の脳内を駆けめぐっているだけだ。ひとつの言説として出力するにはそれらの信号をもう少し増幅してやる必要があるだろう。録音、再生、再録音。そのようにして「いま私が聴いたのははたしてひとつの音だったのか」という〈問い以前のもの〉が、「結局のところ、ノイズとは何なのだろうか」というひとつのほどよく素朴で、素面な、流通可能で売買可能な形式の問い‐商品へと成形されていく。だがその商品化された問いの下では、依然として〈問い以前のもの〉が地下道を走りまわるネズミの群れのごとき、小さく聴きとりづらい、それ自体で複数のものである唸り声を上げている。物質的時間が劣化の名のもとに種々のノイズを刻み込む以上、テープループによる反復は悪無限の牢獄ではない。隠喩は永遠に隠喩であるわけではない。「欲望機械は隠喩ではない」(ドゥルーズ&ガタリ)。

 ノイズの隠喩をノイズの隠喩で焼くと、隠喩の燃焼でノイズそれ自身が生じる。ノイズについてのノイズはひとつのイディオムを、歌を生む。テープが(ヴァイナルが、CDが……)徐々に磨耗しながら、同じ歌の文句を問いとしてループさせる。歌が歌い尽くされるまで、問いが問い尽くされるまで。

 そして、昔々あるところに。まだ春が近づく気配も感じられない静かな夜のことだった。外出先から帰宅したばかりの私はどういうわけか無性に初期の暴力温泉芸者(中原昌也)のアルバムが聴きたくなり(文はここで途切れている)……。

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追伸:この記事は当初ライヴ・レポートとして執筆されていたものの、徐々にノイズについての原理的な考察としての性格を強め、それに伴い字数も大幅に増えたために、コラムとして掲載されることになった。しかし記事内で述べられているように、ノイズについての十全な理論的考察は個体的で実在的な音響体験の記述から切り離せないため、当初のライヴ・レポートの内容と枠組みはそのまま残されている。したがってこの記事は拡大されてはいるものの純粋なケース・スタディ(事例研究)として読むことも可能であれば、圧縮されてはいるものの完全な一般理論として読むことも可能なものとなっている。どちらの解読格子を採用するかは読者の好みに委ねられる。

Profile

仲山ひふみ/Hifumi Nakayama仲山ひふみ/Hifumi Nakayama
1991年生まれ。批評家。主な寄稿に「「ポスト・ケージ主義」をめぐるメタ・ポレミックス」(『ユリイカ』2012年10月号)、「聴くことの絶滅に向かって──レイ・ブラシエ論」(『現代思想』2016年1月号)、「加速主義」(『現代思想』2019年5月臨時増刊号)、「マーク・フィッシャーの思弁的リスニング」(『web版美術手帖』2019年9月5日)、「ポストモダンの非常出口、ポストトゥルースの建築──フレドリック・ジェイムソンからレザ・ネガレスタニへ」(『10+1 website』2019年10月号)、「「リング三部作」と思弁的ホラーの問い」(『文藝』2021年秋号)。また、手売り限定の批評誌『アーギュメンツ#3』(2018年6月)を黒嵜想とともに責任編集。

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