「Man」と一致するもの

Cosey Fanni Tutti - ele-king

 『トゥッティ』のなかに一貫して存在している、不吉で、ゾッとするような、何かを引きずって滑っていくような感覚──いいかえるなら、すぐ側にまで迫りくる湿り気のある暗さが生む、閉所恐怖症的な強度。オープニング曲“トゥッティ”の単調なベースラインと機械的でガタガタと騒々しいパーカッションのなかにはそうしたものがあり、そしてそれはそのままずっと、クロージング曲“オレンダ”のもつ、近づきがたいような重い足どりのリズムのなかにも存在しつづけている。最初から最後までこのアルバムは、息苦しいほどの霧に、隙間なく包まれている。

 この霧をとおして、おぼろげな影がかたちを結んでいく──ときに現れた瞬間に消えてしまうほどかすかに、そしてときに水晶のような明るさのなかにある舞台を貫き、それを照らしだしながら。オープニング曲では、トランペットのような音が暗闇を引き裂いていく一方で、5曲目の“スプリット”における、音の薄闇のなかを進んでいく、かすかに光る金属の線のような粒子は、おぼろげだが、しかし距離をおいてたしかに聞こえてくる天上的な雰囲気をもったコーラスによって、悪しきもののヴェールを貫いてるそのメランコリックな美しさによって、そのまま次の曲“ヘイリー”へと繋がっていく。

 おそらくはきっと、メランコリーの感覚へとつづいていく、ガス状のノスタルジーのフィルターのようなものが存在していて、それがトゥッティのこのサード・アルバムに入りこんでいるのだろう。このアルバムは、コージー・ファニー・トゥッティの2017年の回想録『アート・セックス・ミュージック』のあとに作られる作品としては、またとないほどにふさわしいものとなっている。というのもそれは、部分的に、彼女の生まれ故郷であるイングランド東部の街ハルで、同年に開催された文化祭のために作られたものをもとにしているからだ。やがてロンドンにおいてインダストリアルの先駆者となるバンド、スロッビング・グリッスルを結成する前の時代を、彼女はその街を中心にして過ごしていたわけである。

 1969年における、パフォーマンス・アート集団COMUトランスミッションの結成からはじまり、スロッビング・グリッスルやクリス&コージーによるインダストリアルでエレクトロニックな音の実験を経由する、過去50年にわたる経験と影響関係を描いていくなかで、過去について内省し、ふかく考えるそうした期間が、『トゥッティ』という作品の性格を、根本的な次元において決定づけているようにおもわれる。その回想録や近年に見られるその他の回想的な作品をふまえると、トゥッティはこのじしんの名を冠したアルバムによって、ひとつの円環を──はじめてじしんの名義のみでリリースした1983年の『タイム・トゥ・テル』以来の円環を、閉じようとしているのだという感覚がもたらされる。

 だが、コージー・ファニー・トゥッティはまた、まとまりのあるひとつの物語のなかに収めるにはあまりに複雑で、たえずその先へと向かっていくアーティストでもある。たしかにトゥッティは、幽霊的な風景をとおって進むビートとともに、彼女の作品のなかに一貫して拍動している人間と機械の連続性のようなものを、じしんの過去から引きだしている。だが彼女にとって過去とは、みずからの作品を前方へと進めていく力をもったエンジンなのである。『タイム・トゥ・テル』におけるリズムは、捉えがたく、ときに純粋なアンビエントのなかに消えさっていくようなものだったが、それに比べると『トゥッティ』は、はるかに攻撃的で躊躇を感じさせないものとなっている。こうした意味で、この作品に直接繋がっている過去の作品はおそらく、比較的近年にリリースされた、クリス・カーターと、ファクトリー・フロアーのニック・コルク・ヴォイドとともに制作された、2015年のカーター・トゥッティ・ヴォイドでのアルバムだろう。とはいえこの作品と比べると『トゥッティ』は、より精密に研ぎすまされ、より洗練されたものとなっていて、その攻撃性や落ちつきのなさは、節度をもって抑えられている。

 ゾッとするような暗さをもつものであるにもかかわらず、そうした落ちつきのなさと節度の組みあわせのなかで、『トゥッティ』はまた、これ以上ないほどに力強い希望の道を描きだしてもいる。というのも、このアルバムが強力で完成されたものであればあるほど、そこらからさらに多くのものがもたらされるのだという兆しが高まっていくからだ。
(訳:五井健太郎)


A sinister, creeping darkness slithers through “Tutti” – the claustrophobic intensity of humid darkness that clings too close. It’s there in the grinding bassline and mechanical, clattering percussion of opening track “Tutti”, and it lingers on in the grimly trudging rhythm of the closing “Orenda”. From start to finish, the album is wrapped tight in a suffocating fog.

Through this fog, shapes take form – sometimes faintly, fading away as quickly as they appeared, sometimes piercing through and illuminating the scene in a moment of crystal clarity. On the opening track, a trumpet cuts through the darkness, while on “Split”, solar winds seem to shimmer matallic through the sonic murk, joined on “Heliy” by a celestial chorus, blurred but distantly chiming, a touch of melancholy beauty piercing the veil of evil.

There’s perhaps a gauzy filter of nostalgia to the melancholy that creeps into the Tutti’s later third, which is fitting for an album that comes off the back of Cosey Fanni Tutti’s 2017 memoir “Art Sex Music” and has some of its roots in work she created for a culture festival in her hometown of Hull that same year, which she based around her own early years before leaving for London with her then-band, industrial pioneers Throbbing Gristle.

This period of introspection and reflection seems to have informed “Tutti” on a fundamental level, drawing on five decades of experiences and influences from the founding of the COUM Transmissions performance art collective in 1969, through the industrial and electronic sonic experimentations of Throbbing Gristle and Chris & Cosey. Taken together with her memoir and other recent reflective works, there is a sense that Tutti is closing a loop with with this self-titled release – her first album solely under her own name since 1983’s “Time to Tell”.

But Cosey Fanny Tutti is also too complex and forward-thinking an artist to let that be the whole story. Certainly “Tutti” draws from the past, with the beats punding through the ghostly soundscapes a continuation of a man-machine heartbeat that has always pulsed through her work. However, for her the past is an engine powering her work ahead into the future. Where the rhythms of “Time to Tell” were subtle, occasionally dissolving into pure ambient, “Tutti” is far more aggressively forthright. In that sense, the release it hews closest to is perhaps the comparatively recent 2015 “Carter Tutti Void” work, produced with Chris Carter and Factory Floor’s Nik Colk Void. Still, “Tutti” is a more finely honed, more refined work, its aggression and restlessness tempered by restraint.

Through its creeping darkness, it’s in that combination of restlessness and restraint that “Tutti” also holds out its strongest line of hope, because as powerful and accomplished as this album is, it also extends the promise of more to come.

 十和田市現代美術館での毛利悠子さんの個展《ただし抵抗はあるものとする》の目玉作品であるインスタレーション《墓の中に閉じ込めたのなら、せめて墓なみに静かにしてくれ》の展示室にむかう廊下の壁面には映像作品《Everything Flows : Interval》を映写している。いや「いた」と過去形で書くべきなのは、毛利さんの個展は北の地に桜前線がおとずれるよりひとあしさきに十分咲きの桜のごとく好評のうちに先週末に千秋楽をむかえたからであり、私はまことに残念なことに会期中に彼の地をおとずれることがかなわなかったが、3月初旬に毛利さんとナディッフで対談したおり、ジガ・ヴェルトフの『カメラを持った男』(1929年)を抜粋再編したという《Everything Flows : Interval》を壇上で拝見した。毛利さんがなぜジガ・ヴェルトフの映画を題材にしたかは、私の能書きよりも個展の図録にして現在の彼女の思索の一端がかいまみえる展覧会と同名の著書を繙かれるのが近道だが、映画の黎明期をいくらかすぎ、20世紀モダニズム文化が花開いた時代に、ロシアを舞台に当時最先端の技法をもちい、映画を撮ることについての映画を撮ったジガ・ヴェルトフの、1932年の日本公開時の邦題を『これがロシヤだ』というモノクロ、サイレントのドキュメンタリーフィルムから毛利さんが抜いたのは、しかしこの作品を映画史の前衛たらしめたシーンよりむしろそれらのあいだをつなぐなにげない余白のような場面だった。その意図については、それだけでかなりの紙幅を割くことになる──ネットですけれどもね──のでここではたちいらない。ただひとことつけくわえると、フィルムは撮影者の意図しない映像をとらえることがしばしばある、この機制は映画にかぎらず、写真や録音物といった近代テクノロジーを媒体にもつ表現形式にはつきもので、その点で映像の初発的な偶然性をレコード、ことに実験音楽や即興音楽における記録のあり方に敷衍したデイヴィッド・グラブスの『レコードは風景をだいなしにする』(フィルムアート社)の論点にかさなるものがあると、私はそのさいもうしあげた。すなわち主たる対象にあたらないものが接続詞の役割をえて、作品の力動の淵源になっており、それをぬきだせばつくり手にひそむものがみえる(かもしれない)ことが過去の映像や録音物にふれるにあたっての旨味のひとつともなる。再解釈、再定義、再発見をふくむ聴取や視聴のあり方は眼前にそそり立つアーカイヴの存在に気づいたころにははじまっており、毛利さんをふくむ誠実な方々の表現はそこに内在する批評の感覚でアーカイヴを触知する、そのような作家の身体/感覚は90年代をひとつのさかいに十年期の終わりにはさらに深まっていった。

 ザ・シネマティック・オーケストラ(以下TCO)がグループをひきいるジェイソン・スウィンスコーの勤め先だった〈ニンジャ・チューン〉から『モーション』でデビューしたのは90年代と20世紀が終わりかけた1999年だった。いま聴き直すとアシッド・ジャズ、トリップ・ホップないしブレイクビーツなることばが矢継ぎ早に脳裏をかすめ、目頭を熱くさせるこのアルバムは、しかしいわゆるモダン・ジャズやスピリチュアル・ジャズを土台に、室内楽風のストリングスや緻密に構築したリズムを加味したことで、クラブ・ジャズがリスニングタイプに脱皮する画期となった──というのは大袈裟にすぎるのだとしても過渡期をうつしだしていたのはまちがいない。さらにTCOは世紀をまたいで3年後にあたる2002年のセカンド『エブリデイ』ではヴォーカル曲をふくむ構成で、先の傾向をより盤石なものとした。アリス・コルトレーン風のハープの爪弾きで幕をあけるこの作品は前作以上に曲づくりに重点を置き、起伏に富む曲調が名は体をあらわすかのごとき佇まいをしめしている。往年のソウル歌手フォンテラ・バスを担ぎ出し、音的にも意味的にも厚みを増したサウンドは今日までつづくTCOの音楽性の雛形にもなった。ゆっくりと立ち上がりじっくりと語りゆく音の紡ぎ方はさらに映像喚起的になり、なるほどシネマティックとはよくいったものよ、との慨嘆さえ漏らさざるをえない『エブリデイ』の扇の要の位置に置いたのが“Man With The Movie Camera”すなわち「カメラを持った男」と題した楽曲だった。

 私はこのとき、来日したスウィンスコーに話を聴いた憶えがあり、ジガ・ヴェルトフの映画についても質問したはずだが、昔のことなので記憶はさだかではない。それとも取材したのは次作のときだったか。いずれにせよ、『エブリデイ』の次作は2003年に世に出た。タイトルを『マン・ウィズ・ア・ムービー・カメラ』という。すなわち『カメラを持った男』だが、じつは2作目と3作目は前後関係が逆なのだった。『マン・ウィズ・ア・ムービー・カメラ』は表題のとおり、ジガ・ヴェルトフの同名作の全編にわたり音をつけた作品だが、もとはEU主催の文化事業で映画に生演奏をつけるプロジェクトの一貫として2001年におこなわれたものが2003年にレコードになったのだった。したがって『マン・ウィズ・ア・ムービー・カメラ』の演奏はライヴがもとで、耳をそばだてるとリズムのゆらぎも聴きとれる一方で音像にはスタジオ録音以上に奥行きが感じられる。映像と音を同時に再生すると楽しさもひとしおというか、YouTubeにも映画とサウンドを同時再生した映像があがっているので、公式か非公式かはぞんじあげないが、興味のある方はご覧いただくとして、そのなかでも『エブリデイ』に収録(再録)した表題曲“Man With The Movie Camera”からインタールード的な“Voyage”~“Odessa”を経て“Theme De Yoyo”にいたるながれは白眉である。その最後に位置する“Theme De Yoyo”はアート・アンサンブル・オブ・シカゴがモーシェ・ミズラヒ監督による1970年のフランス映画『Les Stances à Sophie』に提供したサウンドトラックからの抜粋で、原曲の歌唱はAEOCのレスター・ボウイーの奥方でもあるフォンテラ・バスが担当している。この背景が『エブリデイ』の“All That You Give”や“Evolution”へのバスの参加のきっかけだったと推察するが、おそらく同時並行的に進行していた『エブリデイ』と『マン・ウィズ・ア・ムービー・カメラ』へのとりくみがTCOをコンセプト主導型のプロジェクトから音楽的内実を備えた集団に脱皮させた、そのような見立てがなりたつほど2000年代初頭の作品は力感に富んでいる。

 上記3作を初期のサイクルとすると、その4年後に世に出た『マ・フラー』は彼らの次章にあたる。花を意味する仏語を冠したこのアルバムでTCOはこれまで以上に歌に比重を置いている。前作につづきフォンテラ・バス、新顔のパトリック・ワトソンとルイーズ・ローズが客演した『マ・フラー』は映像喚起的というより音がイメージそのものでもあるかのように運動し、ジャズの基調色は後景に退いている。作品の自律性をみるひとつの指標である空間性が『マ・フラー』にはあり、それが彼らの代表作たるゆえんでもあるが、なかでもしょっぱなの“To Build A Home”はTCOの世界にリスナーをひきこむにうってつけである。TCOの首謀者スウィンスコーは最新のオフィシャル・インタヴューでこの曲について「当時あれを〈Ninja Tune〉に届けた時、彼らはああいう曲を期待していなくて戸惑ってた」のだという。ところがこの曲は「本当にたくさんの人に響いた」ばかりか、ストリングスやピアノなどのクラシカルな編成を効果的にもちいた編曲はTCOがアレンジによる色彩感、ときにくすみ、ときに鮮烈でもある色彩感を自家薬籠中のものとしたことを意味していた。

 まさに「ホームを建てた(Build A Home)」というべき『マ・フラー』をものしたザ・シネマティック・オーケストラだったが、しかし彼らはその後12年の長きにわたる沈黙期に入ってしまう。12年といえば、きのう生まれた子どもが中学にあがり、干支がひとまわりするほどの時間である。いかに居心地のいいわが家とはいえ手を入れなければならない箇所も目立ってきた。とはいえリフォーム代もばかにならない。悩ましいところだが、手をこまねいていてはますます腰が重くなる──おそらくこのような生活感とは無縁の地平で、スウィンスコーは『マ・フラー』以降のTCOの行き方を熟考し動き出した。

 そこには環境の変化も寄与していた。スウィンスコーは長らく住み慣れたロンドンを離れ、2000年代なかばにはニューヨークへ、その後ロサンゼルスに拠点を移している。実質的に「ホーム」を離れていたのだが、それにともない他者との共同作業を中核に置く音づくりの方法も必然的に変化した。結果、新作『トゥ・ビリーヴ』は歌への志向性で前作をひきつぎ、旋律線の印象度はさらに深まったが、それ以上に歌唱と編曲の多様性で前作をうわまわるレコードになった。そもそも前段の発言の直前にスウィンスコーはこうもいっている。「僕は自分のやったことを繰り返したくないし、繰り返すことに意味を見出せない」このことばは生き馬の目を抜く音楽業界でいかに誠実に音楽をつくりつづけるか、その決意をしめしたものともとらえられるが、発言はさらに音楽が生きながらえるにはスタイルにとらわれないことが肝要だとつづいていく。スウィンスコーの発言を裏書きするように、『トゥ・ビリーヴ』は形式よりもリズムや音響といった音楽の原理にちかい部分に注力し、何度聴いても聴くたびに滋味をおぼえる一作になっている。私はこのアルバムを最初、レコード会社主催の試聴会で、さらにレコード会社のストリーミングで発売後はCDで愛聴しているが、再生環境やデータの種類のちがいによらず、音の表情に相同性があるのは、細部の再現性に気を配っているからで、そのようにすることで各エレメントがパズルのピースをくみあわせるように聴覚上でぴったりかみあうのである。その意味で『トゥ・ビリーヴ』は人声から器楽あるいはサンプリングのいち音にいたるまでどれが欠けてもなりたたないが、なかでも、フライング・ロータスからサンダーキャットまで、現行のLAシーンと深くコミットするミゲル・アトウッド・ファーガソンの手になるストリングスの存在感はきわだっている。『トゥ・ビリーヴ』でスウィンスコーの片腕となったドミニク・スミスのひきあいで参加し、96テイクものトラックを提供したというアトウッド・ファーガソンは通常のオーケストラの編成ともちがう、何挺もの同種の弦をかさねており、意図的に帯域を狭くとったなかにそれらが輻輳することで、クラシック音楽をたんになぞるだけではない『トゥ・ビリーヴ』の音響感覚を特徴づける音響空間ができあがっている。この実験的なサウンドデザインが『エブリデイ』以来の登場となるルーツ・マヌーヴァや、LA人脈のモーゼス・サムニーや常連のタウィアの歌声と併走するとき、ザ・シネマティック・オーケストラの新章はふくよかなイメージの広がりとともに延伸する、その過程をこの目で確認する機会がちかづいているとは、なんともはやラッキーなことといわねばならない。

interview with Binkbeats - ele-king

 年頭のニュースでも取り上げられていたが、ユーチューブでのライヴ映像によってその名を一気に広めたビンクビーツ(本名:フランク・ウィーン)。ユーチューブのライヴ動画で、その超絶的な楽器演奏テクニックを知らしめたアーティストと言えばドリアン・コンセプトなどが思い浮かぶが、ビンクビーツの場合は全ての楽器をひとりで操るというさらなるサプライズがある。最近のジャズ系ではジェイコブ・コリアーもこうしたひとり多重録音をするアーティストで、昨年は〈ブレインフィーダー〉のルイス・コールのマルチ・ミュージシャンぶりも人々を沸かせたが、ビンクビーツの場合はJ・ディラ、フライング・ロータス、エイフェックス・ツイン、ラパラックス、アモン・トビンなどクラブ・サウンドやエレクトロニック・ミュージックをカヴァーしていて、たとえばマッドリブがプロデュースしたエリカ・バドゥの“ザ・ヒーラー”(2007年のアルバム『ニュー・アメリカ パート1』に収録)のカヴァーでは、サンプリングで用いられた琴の音色を実際に自身で琴を演奏して再現するといった具合に、その凝りようやマニアックぶりがハンパない。

 オランダ出身のビンクビーツは、それら2013年から2014年にかけてユーチューブで公開されたライヴ映像を音源化するほか、2017年より『プライヴェート・マター・プリヴィアスリィ・アンアヴェイラブル』という作品集をリリースし、これまで発表された2枚のEPをまとめたものが先だって日本でアルバムとしてCD化された。この中の“イン・ダスト/イン・アス”という曲には、〈ブレインフィーダー〉所属で同じオランダ人であるジェイムスズーが参加していて、彼のアルバム『フール』(2016年)にも参加していたニルス・ブロースが全曲に渡ってシンセサイザーを演奏しているなど、非常に興味深いアルバムとなっている。ビンクビーツ自身も『フール』には本名のフランク・ウィーンでパーカッション奏者として参加していて、ジェイムスズーとはいろいろと関わりが深いようだ。それから昨年発表されたDJクラッシュのニュー・アルバム『コズミック・ヤード』でも、“ラ・ルナ・ルージュ”という曲にビンクビーツがフィーチャーされていたことをご存じの方もいるかもしれない。そんな具合にいま注目すべきアーティストであるビンクビーツの、これが本邦初公開となるインタヴューである。

ジョン・ケージのような音楽を通して、何だって音楽になりうるし、どんなものだってパーカッションになるってことを学んだのさ。

日本にはあなたの経歴が多く伝わっていないので、生い立ちを踏まえていろいろお伺いします。あなたの拠点はオランダのユトレヒトですね。私も前に行ったことがあるのですが、ユトレヒト大学がある学生の町という雰囲気で、古くからの建造物も残っていて運河沿いの街並みはとても風情がありますよね。ユトレヒト古典音楽祭や大きなレコード・フェアもあったりと、音楽がとても愛されている印象を受けました。

ビンクビーツ(以下、B):そもそも俺が生まれたのはヘンゲローという町で、それからユトレヒトに引っ越したのはユトレヒト音楽院に行くためで、それ以来ここに住んでいる。ユトレヒトは非常に音楽シーンが活発で、俺のスタジオがある大きなビルには他にもたくさんのアーティストのスタジオが入っていて皆そこを拠点にしているんだ。

音楽とはどのように出会ったのですか?

B:初めて音楽に出会ったのがいつなのかははっきりとはわからないけど、母親が言うには家ではいつもラジオがかかっていたそうだ。両親は実際に楽器を演奏したりはしていなかったので、親の影響ではなかったんだろうけどね。俺が思うに、子供のころにはおもちゃの一本弦のギターやトイ・ピアノがいつもあったし、そしてもちろんだけどダンボール箱のドラムを叩いたりしていたからだろう。そして9歳のときに俺は初めてドラム・セットを手に入れて、それ以来音楽を作っているんだ。

子供のころはどのような音楽を聴き、またどんなアーティスから影響を受けましたか?

B:子供のころはロックにハマっていたんだ。俺はガンズ・アンド・ローゼズの大ファンでさ。それからセパルトゥラみたいな、もっとヘヴィなやつが好きになったんだ。そのころの俺はドラムしかやってなかったけど、次第にレイジ・アゲインスト・ザ・マシーンの曲に合わせてベース・ギターも弾きはじめた。高校生になってからハマったのはヒップホップ。モス・デフ、バスタ・ライムス、ア・トライブ・コールド・クエスト、ザ・ルーツとかさ。
俺の人生に影響を与えたミュージシャン、プロデューサーはメチャクチャいっぱいいるよ。ほんのちょっとだけ名前を挙げれば、J・ディラ、マッドリブ、フライング・ロータス、レディオヘッド、ビョーク、ジェイムス・ブレイク、そしてトーマス・ディブダール、ハンネ・ヒュッケルバーグ、ファイスト、さらにはジョン・ケージ、スティーヴ・ライヒ、クセナキス、ハリー・パーチのような現代音楽作曲家たち……キリがないね。

あなたの作る音楽にはジャズ、エレクトロニック・ミュージック、IDM、ビート・ミュージックなどの要素がありますが、それらはどのように吸収していったのですか?

B:ただ聴いているうちに吸収したんだと思うよ。君だってある特定のスタイルの音楽が好きになったら、それをいっぱい聴くだろう。そうなると自動的に、そのスタイルを多少なりとも自分の音楽に取り入れてしまうものさ。

あなたはマルチ・ミュージシャンで、ドラム、ベース、ヴィブラフォンなど様々な楽器を演奏しているのですが、これらはどのようにマスターしていったのでしょう? 音楽学校で学ぶとか、誰か先生に教えてもらったのか、それとも独学でマスターしていったのですか?

B:ドラムは子供のころにはじめたんだ。その延長線上でパーカッションをはじめて、高校卒業後にはクラシックのパーカッションを学ぶためにユトレヒト音楽院に行ったんだ。ひと口にパーカッションと言っても、とても楽器の範囲が広いんだよ。ドラムを叩くこと、マリンバ、ティンパニ、みんなパーカッションの一部さ。ジョン・ケージのような音楽を通してさらに広がって、何だって音楽になりうるし、どんなものだってパーカッションになるってことを俺は学んだのさ。
ギターとベースは子供のころに独学でやっていたけど、『ビーツ・アンラヴェルド』というカヴァー曲をひとりきりで再現演奏するシリーズ・プロジェクトのためにまたやりはじめたんだ。そのときにヴォーカルもはじめた。そう、ヴォーカルがいちばん新しい試みなんだよ!

エレクトロニック機材のスキルはどのようにして身につけましたか? また、DJなどはするのでしょうか?

B:俺は間違いなくDJではないよ(笑)。肩書きとしてはミュージシャンで作曲家なんだけど、10代のころにコンピュータの音楽ソフトを使って制作をはじめたんだ。ファストトラッカーのようなプログラムを使っていたな。後にフルーツループス、そしてキューベースを使うようになって、いまは主にエイブルトンを使って作業しているよ。これらのプログラムは音楽制作以外には使っていなかったね。でも『ビーツ・アンラヴェルド・シリーズ』以降、オーディオのミキシングに夢中になって、これらのプログラムをそれにも使いたいと思ってやってみたらとても上手くいったんだ。とは言え、自分自身を「ミキサー」とか「エンジニア」だとは思わないよ。そうなるには長い道のりがあることくらい知っているさ。

あなたのことをユーチューブで知った人も多いと思います。いま話に出た『ビーツ・アンラヴェルド』シリーズの映像となりますが、J・ディラ、フライング・ロータス、エイフェックス・ツインなどの曲をリアルタイムでカヴァー演奏していて、それを全くひとりで、同時に様々な楽器を使いながらやってしまうことに驚かされた人も多かったようです。いろいろあるメディアの中でもユーチューブでやったのが効果的だったと思いますが、こうしたパフォーマンスをおこなうアイデアはどのように生まれたのですか? また、ここでやっている曲はあなたの中でも特に思い入れのある曲ということでしょうか?

B:ユーチューブでのパフォーマンスは事故のようなもんだね。エイブルトンを使った音のループをコンサートのリハで試していたんだ。そのころ俺はエリカ・バドゥの“ザ・ヒーラー”をメチャメチャ聴いていたんだけど、それをリメイクしたら面白いんじゃないかと思ってさ。映画制作を学びたがっていた友達がカメラを持ってやってきたので、それを撮ってもらったんだよ。それがすっげえカッコいい出来だったんで、反響なんて考えずにネットに載っけちゃったんだ。そっから月イチで動画作って載っけることにしてさ。そう、そこから『ビーツ・アンラヴェルド』がはじまったのさ!

オランダは〈ラッシュ・アワー〉のコンピの『ビート・ディメンションズ』に象徴されるように、フライング・ロータスはじめLAのビート・シーンの音にもいちはやく理解を示した国で、〈キンドレッド・スピリッツ〉や〈ドープネス・ギャロール〉などはジャズ、特にスピリチュアル・ジャズを時代に先駆けてフォローしてきたレーベルです。ビルド・アン・アークやカルロス・ニーニョのいろいろなプロジェクト、それからドリアン・コンセプトも〈キンドレッド・スピリッツ〉からリリースされましたが、そうしたオランダの音楽シーンはあなたの音楽性の形成に影響をもたらしましたか?

B:う~ん、実際のところ俺に影響を与えたものの大半はオランダ以外のものだよ。いま君が言ったアーティストとか音楽も、厳密にはアメリカなどほかの国から来ているよね。オランダで起きていることの中にもクールなこともあるけどさ、俺自身が音楽で目指していることに関して言えば、そっちよりイギリスやアメリカの音楽がベースになっているよね。それから北欧の国々からのインスパイアも大きいよ。でもオランダに住んで、プレイの場のほとんどがオランダで、多くのオランダのミュージシャンと共演をしているとなれば、全く影響を受けないわけにはいかないよ。恐らくその影響は潜在意識においてだと思うけど。

同じオランダ人ということで、〈ブレインフィーダー〉から『フール』をリリースしたジェイムスズーとはいろいろ交流があるようですね。あなたが『フール』にパーカッション奏者として参加する一方、あなたの“イン・ダスト/イン・アス”にはジェイムスズーがフィーチャーされています。彼とはどのようにして出会い、一緒に音楽を作るようになったのですか? また、あなたは彼のどのような音楽性に共感しているのでしょう?

B:ミッチェル(ジェイムスズー)とはネットを通じて知り合ったんだ。彼の“ザ・クラムツインズ”(2013年リリースのEP「イェロニムス(Jheronimus)」に収録)の動画を見つけて、そのサウンドとプロダクションにぶっとばされたんだよ。それまで彼のことは知らなかった。フェイスブックにメッセージをつけてそのビデオを投稿したら、それに彼が返事をくれたのさ。
彼は凄く創造力があってオランダ有数の音楽的天才だと思うよ。彼は音楽をダサくすることなく、不思議な感じにしたり、笑えるものにしたりできるんだ。“イン・ダスト/イン・アス”に彼を誘った理由は、俺が制作過程で煮詰まっていたら、ミッチェルが上手に曲をまるっきり作り変えたんだよ。そして俺は彼のやり方でそのまま彼に続けてもらったのさ。

ジェイムスズーを通じてフライング・ロータスや〈ブレインフィーダー〉の面々、ドリアン・コンセプトなどと繋がりはあったりしますか?

B:ミッチェルを通して、去年の11月にLAでドリアン・コンセプトには一度だけ会ったな。デイデラスザ・ガスランプ・キラーにも会ったことあるけど、何度も会ったことがあるわけではない。でも彼らは俺の音楽を知っていたよ。俺が彼らの音楽を知っているようにね。世界中のメチャクチャ多くの人たちが俺の動画をシェアしてくれて、特にミュージシャンの間でシェアされたから、彼らの多くも俺の動画を観たことがあるんだろうね。

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同じことの繰り返しで行き詰まる代わりに、違った角度での改善や発展をし続ける発想を得るには、気が多いことは大切なことだと俺は思うんだ。

これまであなたは本名のフランク・ウィーン(Frank Wienk)でいろいろなセッションに参加しています。ユトレヒトのビッグ・バンドのナランド(Knalland)の一員であり、パーカッション・ユニットのスラグワーク・グループ・ダン・ハーグ(Slagwerkgroep Den Haag)のメンバーで、フリー・インプロヴィセイション集団のザ・カイトマン・オーケストラ(The Kyteman Orchestra)にも所属するなど、実に幅広い活動をおこなっているのですが、そうした中でビンクビーツとしての活動は自身にとってどのような位置づけとなりますか?

B:ビンクビーツは自分で音楽制作して、ライヴで独演する、本当に俺だけのプロジェクト。俺がたくさんのいろんなことを同時進行させているのは本当さ。たとえばスラグワーク・グループ・ダン・ハーグは俺がメンバーのひとりで、いろいろなプロデューサーたちとのクロスオーヴァーなコラボレーション・プロジェクトなんだ。
いつだって音楽に対して俺は気が多いんだけど、同じことの繰り返しで行き詰まる代わりに、違った角度での改善や発展をし続ける発想を得るには、気が多いことは大切なことだと俺は思うんだ。その反面で、あんまり多くのことをやり過ぎてしまうとリスナーを混乱させてしまう。だから、ビンクビーツでやっていることとは違うけど、面白いなと思うことを見つけたら、本名を使ってそれをやったりするんだよ。

これまでのあなたのEPをまとめた『プライヴェート・マター・プリヴィアスリィ・アンアヴェイラブル』は、基本的にあなたが演奏する楽器の多重録音によるものですが、そうした中でパートナーとして、キーボード/シンセサイザー奏者のニルス・ブロースも重要な役割を占めています。彼はあなたのライヴ映像でも共演していますし、またジェイムスズーのアルバムやカイトマン・オーケストラでも一緒にやっています。彼とはどのようにして出会い、いろいろと共演するようになったのですか? また、あなたの音楽にとってどのようなパートナーと言えますか? 私が思うに彼はフローティング・ポインツのようなアーティストかなと? 対してあなたはひとりでリチャード・スペイヴンやスクエアプッシャーをやっているのかなと?

B:『プライヴェート・マター・プリヴィアスリィ・アンアヴェイラブル』はライヴでやっていることとちょっと違う。ライヴを観て聴くことと、CDを聴くこととは全く違う体験だと思うんだ。だからCDではもう少し多層的にしたり、もうちょっと手を加えたりする。ニルスはその手を加えるときに素晴らしい役割をしてくれるんだよ。彼は俺の良き友人であり共同作業もたくさんやっている。彼とはカイトマン・オーケストラを通じて出会い、音楽の趣味がとても似ていることがわかって友人になったのさ。
共同作業のはじまりは、ざっくりとした新しい曲をニルスのところに持っていって手伝ってもらうことが何度もあって、そこからだね。そして自分のスタジオに戻って、新たな素材を使ってその曲の制作作業を続けたんだよ。ときには彼に好きなようにしてもらったり、ときには特定の箇所の手伝いをしてもらったり。場合によっては“リトル・ナーヴァス”という曲でやったように、彼にソロを演奏してもらったり。必要となれば彼は素晴らしいソロイストになるからさ。
ニルスがフローティング・ポインツで、俺がリチャード・スペイヴンやスクエアプッシャーをやっているとの意味合いはわからないけど、褒め言葉して受け止めておくよ。ありがとう。

あなたは普段どのようにして作曲をおこなっているのでしょうか? “リトル・ナーヴァス”のライヴ演奏を見るように、ドラムやベースで作ったフレーズをループさせ、そこにいろいろな楽器を即興的に乗せていくというような?

B:新曲を作るときは、まずコンピュータで作りはじめる。それから選んだ楽器を鳴らして即興演奏をやって、それを録ってループして重ねはじめるんだ。“リトル・ナーヴァス”では、買ったばかりの緑のフルート・パイプのようなものを使ってはじめた。それにプログラミングしたドラムを乗せたけど、長い時間が経ってどんな意図でそれをやっていたのかわからなくなっちゃってさ(笑)。
ある晩、そのデモに合わせてベース・ギターで即興していたら、じわじわと主軸のメロディが浮かんできて、そこからニルスと一緒に多層的にして録音したんだけど、それでもまだ何か物足りなかった。ともかく最後に決め手として生ドラムを録音して、“リトル・ナーヴァス”をリリースした。だからそのレコードではニルスにソロをやってもらっていない。ソロを録音したにはしたんだけど、レコードには入れていないんだ。それはフェンダー・ローズで、何だか耳触りがしっくりこなかったのさ。
その後、ライヴ用に練習をしはじめたときに、彼はミニ・ムーグを使ってソロをやったんだ。それこそが足りなかった何かだったんだよ。でもレコードは既にリリースされてしまっていた。つまり、“リトル・ナーヴァス”の彼のソロ・パートはライヴでしか聴けないんだよ!

アルバムにはいくつかヴォーカルをやっている作品もあります。あなたはプロのシンガーではないと思いますが、とても味のあるいい歌声だと思います。内省的な感じはジェイムス・ブレイクやサンファあたりに通じるもので、“アース”のようにアコースティック寄りのサウンド、“リズミッコノミー”や“イン・ダスト/イン・アス”やのようにエレクトリック寄りのサウンドのどちらにもうまくフィットしていると思います。歌はあなたの作品にとって重要な要素ですか?

B:君が言うとおり俺はヴォーカリストではないけど、声を自分の使える楽器のひとつとして認識しているんだ。ヴォーカルが必要のない曲でも、より良くするにはヴォーカルを入れるべきと強く感じるときもあるのさ。
俺は曲にヴォーカルを入れたくて入れるんだけど、ヴォーカルははじめたばかりだし得意なわけでもない。他の多くの楽器と同じさ。俺は楽器によっては名人級に上手いわけでもないけど、それが曲のどの部分に必要かどうかはわかるし、その楽器が充分に機能するようにプレイはできる。

“ジェイクズ・ジャーニー”や“イニキティ”はテクノやハウス・ミュージック的なビートの曲で、フローティング・ポインツあたりとの類似点も見いだせそうです。オランダはこうしたテクノなども盛んな国ですが、やはりあなたの音楽への影響も大きいのですか?

B:いま君が言うような「テクノ」や「ハウス」は、俺にとって80~90年代に流行ったそれとは全然違う音楽になってきていると思うね。ロックにすっげぇハマっていた子供のころは、いわゆる四つ打ちがホント嫌いだったんだ。クラブ・ミュージックとは俺にとって四つ打ちのことだけど、でもでも後からだんだんクラブ・ミュージック好きになってきたのさ。それには人を心地よくダンスさせる力があるからさ。
“イニキティ”はハウスやテクノではなく、よりトラップをベースにしたつもり。ジェイムス・ブレイクの良いところを参考にしてトラップ・ビートと組み合わせて作ったんだ。

“ハートブレイクス・フロム・ザ・ブラック・オブ・ジ・アビス”はあなたとルーテンによるデュエット曲です。彼女(テッサ・ドウストラ)はとても個性的なシンガー・ソングライター/ギタリストで、あなたも彼女のアルバムにプロデューサーとして参加していますが、どのような交流があるのですか?

B:テッサは俺が『ビーツ・アンラヴェルド』をはじめる直前にメッセージをくれたんだ。彼女はいくつかのバンドでの俺のプレイを見てくれていて、何の制約もプランもない音楽を作りたがっていた。で、俺たちは多くの曲を手がけたんだ。未発表だけど、その全曲がまだ俺のハード・ディスクのどっかにあるはずだよ。そうしているうちに、俺たちは音楽制作の喜びを分かち合える素晴らしい関係だとわかったのさ。だから俺たちはそのまま音楽を作り続けた。
彼女が自身のアルバムを手がけていると教えてくれたときに、俺に聴かせてくれた数曲が素晴らしかったんで、手伝わせてくれるよう申し出たんだよ。同時に俺も自分の曲を制作中で、“ハートブレイクス・フロム・ザ・ブラック・オブ・ジ・アビス”に男性からではなく女性からの視点での歌詞が欲しかったから、彼女に書いてもらったんだ。そしてさらには俺とのデュエットも頼んだのさ。

“ザ・ハミング/ザ・ゴースト”にはミスター・アンド・ミシシッピというインディ・ポップ・バンドのリード・シンガーであるマキシム・バーラグが参加しています。彼女とはどのような交流がありますか?

B:“ザ・ハミング/ザ・コースト”は『プライヴェート・マター・プリヴィアスリィ・アンアヴェイラブル』の2枚目のEPに入っているけど、彼女のヴォーカルはあのEPで最後に録音したんだ! あの曲は歌詞もできていたのに、自分で歌入れしたらしっくりこなかったから、誰か適したシンガーが見つかるまで長いこと寝かせていたんだ。そんなころに俺のマネージャーでもありプロデューサーでもあるサイモンが、たまたまスタジオでミスター・アンド・ミシシッピと仕事をする機会があって、いいシンガーがいるからと彼がマキシムを推薦してくれたのさ。彼女の起用によって“ザ・ハミング/ザ・ゴースト”の仕上げはまるでマジックのように上手くいったよ。彼女の深く暖かい声はまさしくあの曲に必要だったのさ。

今後はどのような作品を作っていきたいですか?

B:ビンクビーツとしてのサードEPが完成して、この3月にリリースされたばかりだ。『プライヴェート・マター・プリヴィアスリィ・アンアヴェイラブル』は前の2枚のEPと合わせて三部作となるんだ。そのほかにいままでやってきたこととは違うプロジェクトやライヴを手がけているけど、さっきも言ったように同じことを繰り返し過ぎちゃダメで、そのことはアーティストとして成長するには重要なことだと思うんだ。まだ内容のことを詳しくは言えないけど、プロジェクトによっては爆音で鳴らすものがあれば、静かで瞑想的なものもある感じさ。
その次にはダンスのためのスコアと舞台パフォーマンスのためのスコアを書く予定で、すでに2本のドキュメンタリー用のスコアを書いている最中だし、たぶんもっと増えると思うよ。スラグワーク・グループ・ダン・ハーグの活動もあるし、ルーテンのセカンド・アルバムもあって、そこでは再びマキシムとの待ちに待った仕事もやっている。そう、たくさんの音楽が待ちかまえているんだ!

Myriam Bleau - ele-king

 零秒の音楽は可能なのか。始まった瞬間に終わり、時間を超えて記憶の層に永遠に格納されるような音楽。色彩と線の交錯による時間の凍結のよう抽象絵画のごとき音響。例えるならあのサイ・トゥオンブリの絵画のような時間と空間を越境するようなアブストラクトな音楽/音響。そんな音響音楽を希求するのは、ただの夢なのか。
 いや、そうではない。例えば池田亮司、カールステン・ニコライ、そしてリチャード・シャルティエ、クリスチャン・フェネス、マーク・フェルなどのマイクロスコピックなサウンドアート作家・電子音響作家たちは、いずれもそのような不可能性を希求し追求してきたアーティストではないか。それらは21世紀的なコンピューター音楽による未来の追求でもあった。コンピューターと電子音とグリッチノイズによる人間を超えた細やかで繊細で多層的な強靭な音響たちである。
 今回、取り上げるカナダはモントリオールを活動拠点とするサウンド・アーティストであるミリアン・ブローのファースト・アルバム『Lumens & Profits』もまたそんなマイクロスコピック電子音響作品の系譜にある作品である。アンビエント/ドローンやインダストリアル/テクノ以降の先端的電子音楽においては珍しい作風ではないかと思う。

 リリースはUKの先端レーベル〈Where To Now?〉。同レーベルはこれまでも KETEV(Yair Elazar Glotman)、ニコラ・ラッティ(Nicola Ratti)、CVN、デール・コーニッシュ(Dale Cornish)、N1L、YPY、ルット・レント(Lutto Lento)、アゼール(Assel)、H.Takahashi、ベン・ヴィンス(Ben Vince)など2010年代のエクスペリメンタルな先端音楽の注目作のリリースを連発してきたが、ミリアン・ブローの本アルバムは2019年以降の電子音響のモードを体現している。せわしなく、かつ細やかに接続・変化していくマーク・フェル的なグリッチ音響は「テクノ以降の音楽的記憶」が一気に圧縮されているような印象ももたらすが、同時にデータの流動化というよりは、その音からは「モノ的」な存在感も増している。マテリアルな質感を有しているのだ。まずはライヴ動画を観て頂きたい。

 手とデバイス=モノを駆使することで彼女はマテリアルとデジタルの領域を交錯させたサウンドを生成している。レーベルも「彼女のハイブリッドな電子音は、文化的表現としてのパフォーマンスを探求し、ポップカルチャーの要素と音楽の歴史の傾向を再文脈化する」と書き記しているが、良く聴き込むとテクノのキック、ヒップホップのグルーヴ、エレクトロニカのサウンドなどの電子音楽の痕跡が解体され、細やかにスライスされてコンポジションされていることも分かってくる。結果、聴くほどに音楽の記憶が刺激され、同時に記憶が喪失する感覚も生れてくる。そこには00年代的な電子音響作品のコンピューターによるエラー=グリッチとは違う不思議な「身体性」が蠢いているように感じられた。彼女のパフォーマンス動画を観ても分かるように、マテリアルとデジタルの領域を再交錯させているのだ。その意味で同じくカナダ出身のニコラ・ベルニエ(nicolas bernier)(https://vimeo.com/48493242)の系譜に連なる現代の電子音響作家ともいえよう。いわば2010年代後半のミュジーク・コンクレートである。

 そしてミリアン・ブローのサウンドは、まるで鳥の鳴き声のように軽やかな電子音だが、そのサウンドは直観と構築の往復のように偶然と構築の両極を行き来している。断続的なキックは解体されたテクノのようだし、優雅な舞踏のようにスライスされた電子音の運動はポスト・グリッチ的で、短い数秒のサウンドの中にいくつもの電子音楽が圧縮されている。
 その意味で細切れに編集されたヴォイスとコードが鳴り響く2曲め“Constructivism”、細やかな音の粒子と時間が浮遊するようなアンビエンスが端正にミックスされる美しい3曲め“Hidden Centuries”、鳥の鳴き声のような電子音が軽やかに反復と非反復のあいだを行き来する4曲め“Vapid Luxury”などは本アルバムを象徴するトラックだ。
 むろん、これらの雰囲気はアルバム全トラックに共通する感覚でもある。時間軸を超えて音響を摂取するような感覚はマイクロスコピックな電子音響作品の系譜に連なるサウンドだ。中でも微細な電子ノイズが非反復的に構成されることでマーク・フェル以降の偶発的なグリッチ・サウンドを超越する電子音響空間を生みだす7曲め“Shapes”などは、そんな時間軸を超えて音響を聴くような感覚をもたらしてくれるニュー・マイクロスコピックなトラックに仕上がっていた。そして静謐なラスト8曲め“Darling”によって幕を閉じる。ミニマムに解体されたループは、どこかグリッチ化したヒップホップのトラックのように響く。

 そして本作のように00年代的な電子音響を基調にしつつも、そのスタイルもジャンルも解体されたような、いわばテクノ以降の音楽のエレメントが圧縮・再構成されている電子音響作品が、〈LINE〉や〈Entr'acte〉などのサウンドアート・レーベルからではなく、〈Where To Now?〉のようなクラブ・ミュージックを進化・解体する先端的なレーベルから発表されたことも重要に思える。
 2010年代前半のエクスペリメンタル・ミュージックと2010年代後半のエクスペリメンタル・ミュージックを繋ぐ存在とでもいうべきだろうか。電子音の欠片が高速で、軽やかに、優雅に、舞踏のように、踊り、駆け抜けていくようなサウンドを一気に聴取するような感覚をぜひとも体験して頂きたい。

JPEGMAFIA『Veteran』の衝撃とは何だったのか - ele-king

 ヒップホップは、個人のオリジナリティやアイデンティティを尊重するが、ひとつの音楽ジャンルとしてのヒップホップは、集団性によって更新されてきた。トレンドセッターが切り開いた方法論を共通のルールとするかのように、ヒップホップ・ゲームの競技場のプレイヤーたちが集団となって更新されたルールをフォローし、互いの似姿に多かれ少なかれ擬態し合い、互いのヴァースのみならずスタイルをもフィーチャーし合い、互いに切磋琢磨し、表現を洗練させ、ジャンル全体(あるいは各サブジャンル)を発展させる。隣の仲間が進行方向を変えれば自分も向きを変える、ムクドリの群れさながらに。数え切れないほどのビートが、フロウが、僅かな差異を積み重ねグラデーションを描きながら上方に堆積していく。より高み(ネクストプラトゥー)を指向して。しかし、そのような集団性のなかで、トレンドをセットするわけではないほどにアヴァンギャルドさを持ち合わせているがために、単独で逸脱する、ベクトルを異にする個体が、突如として現れる。
 たとえば2000年前後のアンダーグラウンド・ヒップホップの興隆の中でも、特にアンチ・ポップ・コンソーティアムやアンチコンの作品群の記憶が鮮烈に蘇るし、ゴールデンエイジにおけるビズ・マーキーやクール・キースを端緒に、ODB(オール・ダーティ・バスタード)の孤高を思い出してもいい。もっと近年ではクリッピングクラムス・カジノリー・バノンデス・グリップスヤング・ファーザーズシャバズ・パレセズらのビートとフロウがもたらす異化、ダニー・ブラウンジェレマイア・ジェイ、スペース・ゴースト・パープの変態性、そしてタイラー・ザ・クリエイターやアール・スウェットシャーツらオッド・フューチャー勢の快進撃がこのジャンルの外縁を示し、僕たちはその稜線を祈るような思いでみつめてきた。「ヒップホップ・イズ・ノット・デッド」と呪文のように繰り返しながら。特に近年、ネットというインフラ上で発光するエレクトリック・ミュージックの多面体と、その乱反射するジャンルレスの煌めきは、明らかに、ヒップホップの集団性からの逸脱を誘引する磁力として働いている。

 ルイジアナ出身の28歳のペギー(Peggy)こと JPEGMAFIA は、その乱反射を吸引し尽くし、自らが多面体化するのを最早留められなくなった如き異能の人だ。彼のオフィシャルでは2枚目のアルバム『Veteran』は、エスクペリメンタルなトラップ以降のビートをベースに、ローファイに歪ませたサウンドのバラバラの欠片やグリッチーに暴走するリズムをあちこちに地雷のように仕組んで、全体を多重人格的な──多声による──メタラップで塗り固めた怪作だった。
 メタラップというのは、前作『Black Ben Carson』収録の“Drake Era”に“This That Shit Kid Cudi Coulda Been”や、シングルの“Puff Daddy”、そして“Thug Tear”といったようにラップ・ゲームやリリックで歌われることをメタ視点で俯瞰する、人を食ったようなタイトル群を見ても明らかだろう。
 しかし彼がそのメタ視点を用いて差し出すのは、モリッシーをディスったことで大きな話題をさらった“I Cannot Fucking Wait Until Morrissey Dies”に代表されるような、ポリティカルなメッセージ群だ。初めはインスト音楽を作っていたペギーは、自分がラップすべき本当に言いたいことがあるのかという懐疑に捉われていた。多くのラップのリリックを聞いても、所詮皆同じことを歌っているだけではないかと。だがジャーナリズムで修士号を持つ彼は、アイス・キューブのやり方と出会うことで、ポリティカル・ラップに活路を見出したという。
 1990年にリリースしたファースト・ソロ・アルバム『AmeriKKKa's Most Wanted』において、フッドの現実を過激な言葉で描写したアイス・キューブは、実存というよりも、「アイス・キューブ」という視座を仮構してみせた。そして同アルバムのオープニング“The Nigga Ya Love To Hate”では、人々が「ファック・ユー・アイス・キューブ!」と叫ぶ様をフックとした。
 一方のペギーはオフィシャルのファースト・アルバム『Black Ben Carson』で、2015年に共和党から初の大統領選への黒人立候補者となり早くからトランプ支持を表明、現在アメリカ合衆国住宅都市開発長官を務めるベン・カーソンにあえて「Black」を付けて、リリックのなかで「white boys」を煽ってみせる。ここには確かに、キューブの方法論と通底するメタ視点が働いてはいないか。さらに後述するように、彼は表現のレベルにおいても、従来のコンシャス・ラップを俯瞰するように、異なる方法で実装してみせる。

 『Veteran』というタイトルは二重の意味を持つ。文字通りペギーは元空軍出身(=退役軍人/veteran)だということ。そして14歳から音楽制作を始めていた彼は、クリエイターとしてキャリアを積んでいるということ。自身、インタヴューで次のように語っている。曰く、この世界には誰にも知られることなく長い間音楽を作り続けている人間(=ベテラン)がいるし、『Veteran』収録曲の中にもどうせ誰も聞くことはないと思って作ったものもある、と。
 かつての MySpace はそのような音楽家たちが論理上は万人に開かれるインフラとして機能したし、SoundCloud や Bandcamp においてもその点は同様だ。しかし星の数ほど存在するアカウントの小宇宙を相手取り、衆目を集めるのは簡単ではない。『Veteran』は高評価で受け入れられたが、このようなメッセージ面でもサウンド面でもエッジィな作品が受け入れられたのは、たまたまタイミングが合ったからだと本人は分析している。
 しかし逆に、誰にも聞かれることがないと思っているからこそ、クレイジーな音楽が生まれる可能性もまた、存在するだろう。そしてそのようにして作られた音楽が世界に接続されうるメディウムとして、インターネットは、かつての人々が抱いた理想像の残滓を担保したまま、そこに存在し続けている。
 2019年3月9日現在ペギーの SoundCloud のアカウントにアップされている最も古い楽曲は“Fatal Fury”で、アップの日付は7年前と表示されている。総再生回数は6478回と、決して多いとは言えない数字で、5件のコメントが付いているがどれもこの10ヶ月以内だ。つまり、この楽曲は2012~2018年まで、具体的には『Veteran』のブレイクまで、ほとんど誰にも発見されずにインターネットの小宇宙の片隅に鎮座していたのではないか。
 しかしその〈黙殺〉にも関わらず/のおかげで、彼のエッジィな創作意欲は『Veteran』と名付けられた作品にまで昇華された。そう考えることはできないだろうか。この作品は幸運にも、巨大な迷宮として、その姿をはっきりと僕たちの前に示している。

 この『Veteran』という複雑に入り組んで先の読めない迷宮はしかし、いかにも平熱を保った表情で幕を開ける。冒頭の“1539 N. Calvert”は、ウワモノのメロウな響きが支配する耳障りの良いオープニングだが、そこかしこに痙攣するように乱打されるビートが顔を覗かせ、様々な素材からサンプリングされ引用される短い文言の断片や、多重人格さを披露するペギーのヴァースがジャブのように繰り出される小曲だ。だが決して、その喉越しの爽やかさに騙されてはいけない。いや、一旦は彼の策略に乗ってみてもいい。すぐにやってくる狂乱とのギャップを楽しむために。
 ODBの喉ぼとけの震えのループがトライバルなドラムを狂気に駆り立ててしまう2曲目“Real Nega”を前に、僕たちはどんな風に四肢を振り回しながら踊ればいいのか? しかも、ベッドルームで。というのも、彼の表現はクラブのダンスフロアよりも、僕たちの薄汚れたベッドルームで踊り狂う想像力を掻き立ててくれるからだ。これらのビートの雨あられに身を曝し、どうしようもなくエレクトするプリミティヴな欲求を必死に隠し薄ら笑いを浮かべながら、僕たちは終盤の子供声のようなハイピッチ・ヴォイスが煽るフレーズに頷くしかない。こいつは「ホンモノのxx」だ。
 続く“Thug Tears”でも、分裂症の残酷さが開陳される。冒頭のキックと逆回転で乱射されるグリッチの雨から、転がる電子音のリフとその間を埋め尽くすボンゴのリズムに楔を打つゴミ箱を叩くようなローファイなスネアに、僕たちのダンスステップはもつれる。今度は体を揺らさずに黙って聞いていろと? ペギーの透明感溢れるコーラスと捻くれたシャウトの対比をベースにしつつも、そこに次々と闖入してくるサンプリングされた文言の数々が、綿密にデザインされたコラージュの語りを駆動する。しかし突然ビートのスカスカな時空間を埋めるブリブリに潰れたベースラインが現れる中盤以降、今度はペギーの語り口は一気にクールを気取り、剃刀のフロウで溌剌とビートを乗りこなす。
 シングル曲“Baby I'm Bleeding”が匿う快楽。冒頭から僕たちのアテンションをコルクボードに画鋲で止めてしまうミニマルなヴォイスの反復の上に、ペギーのフロウが先行して絡まり、やがてキックとスネアが後を追うようにビートに飛び込んでくる瞬間のカタルシスよ。さらに1分35秒で聞かせるハードコアなシンガロングとEDMのアゲアゲシークエンスの超ローファイ版を挟み、またもやモードを変化させるキックとスネアの上で何が歌われているのか。もともとは“Black Kanye West”という曲名だったというヴァースは、「ペギーをキメる田舎者/俺は次のビヨンセさ/俺の銃には悪魔が憑いてる/ダンテのように切り裂く(カプコンのヴィデオゲーム、デビルメイクライのキャラクター)/絶対カニエのように金髪にはしないと約束するぜ(カニエ は2016年、ライブ中にトランプを賛美する演説をしてツアーの残り日程をキャンセル、その後金髪にして再びその姿を見せた)/その代わり俺はたくさんのスタイル(so many styles)を持ってるからペギーAJと呼んでくれ(WWEのチャンピオン、AJ Stylesと掛けたワードプレイ)」とのこと。分かった。しかしこの男が匿っているスタイルの数は「so many」じゃない、「too many」だ。

 そのスタイルの多声性は、ビートのサウンドにも、リズムにも、旋律にも充満している。そして勿論ラップのサウンドにも、ライムにも、デリヴァリーにもだ。そしてメッセージという観点で見れば、前述の通り、いわゆるコンシャス・ラップと呼ばれうる、ポリティカルなスタンスを表明するライムが混沌としたサウンドに包囲され異彩を放っている。しかし彼曰く、彼はそれをコンシャス・ラップの括りではなく、「イケてる」曲として援用できるというのだ。そう聞いて想起されるのは、次の事実かもしれない。パブリック・エネミーがあれだけ人気を博した大きな原因のひとつは、彼らのヴィジュアル面を含めた方法論が「イケて」いたからだ。しかしペギーのアプローチはそれとは異なる。
 モリッシーを直接的にディスったことで話題となった“I Cannot Fucking Wait Until Morrissey Dies”では、その直球なタイトルそのまま、右翼的発言を繰り返し、ジェイムズ・ボールドウィンをデザインしたTシャツを売るモリッシーに対し「俺は左翼のハデスさ、フレッシュな.380ACP弾で武装した26歳のね」と怒りを爆発させる。しかしそれはあくまでも「イケてる」方法でだ。確かにビートを牽引するシンセのアルペジオがポップかつ美しく、音楽的な洗練とペギー自身の歌唱の先鋭さが、ある種のコンシャスなメッセージに含まれる鈍重さを無化してしまうようだ。
 他にも“Germs”ではトランプをメイフィールドのようにのしてしまいたいと批判するし、“Rainbow Six”でも銃とフラッグを掲げて集会を開くオルタナ右翼をからかう。それらはどれも、サウンドや歌唱の徹底的にエクスペリメンタルな展開のなかにあって、多重に張り巡らされたレイヤーのひとつとして、受け取られる。
 かつてタリブ・クウェリは、コンシャス・ラッパーとしてレッテルを貼られることへの違和感を指摘した。一旦そのイメージが付いてしまうと、リスナーを著しく限定してしまうことになるというのだ。しかしペギーのやり方はどうか。厳めしい顔で説教めいたライムをドロップするでもない。パンチラインとしてリフレインするでもない。あくまでもそれらは多くのレイヤーのうち、次々と通り過ぎていく一行として、表明される。そしてその言葉が発される声色やフロウも、それを支えるビートも、音楽的かつ現在進行形のテクスチャーが担保された──こう言ってよければ──「ポップさ」に満ちている。イケてるコンシャス・ラップとは、そのような多才さ=多重人格性の所以と言えるのではないか。

 しかし、、、数え上げればキリがないほど、このアルバムには豊かな細部が溢れている。折角なのでもういくつか数え上げておこう。またもや逆回転攻勢のアトモスフェリック・コラージュ・アンビエントの上で、何度目か数え切れないが明らかにペギーがロックを殺す瞬間を目撃できる“Rock N Roll Is Dead”。ペギー流のイカれたメロウネスが炸裂する“DD Form 214”では、ドリーミーなフィメール・ヴォーカルやウワモノを提出したそばから、下卑たキックと割れたベースのコンビネーションがくぐもったニュアンスを加えるために、いつまで経ってもドリームに到達できないという、つまりイキ切れない一曲。シャワーでパニック発作に襲われた際にレコーディングしたという“Panic Emoji”では、文字通りシャワーの環境音と並走するメロウなアルペジオにブーミンなベースがこれまでないエモい、エクスペリメンタル・トラップチューン。パニック発作に襲われ「俺は厄介者で/使えない奴だ/最悪だ/苦しい」と嘆く抑えたフロウが悲痛に響く。
 最後にもう一度触れておきたいのは、ペギーのサウンドの質感だ。たとえばノイジーなアンビエント・ラップ“Williamsburg”では、アクトレスことダレン・カンニガムばりに粗いヤスリで磨かれたノイズの層が、ビートにこれでもかと言わんばかりに馴染んでいる。組み合わされているサウンドのひとつひとつが、元々そのようなロービットな音像で、生まれ落ちたものであるかのように。しかしローファイをデザインするとき、ここまで馴染みのよい肌理を見つけ出すことのできる所以は? それこそが、JPEGという非可逆圧縮方式をその名に持つ彼の、天賦の才なのだろう。
 繰り返し、繰り返し、決して飽くことなくイメージをJPEG変換するように、サウンドの粒子は荒く膨張していく。この奇才の脳内に溢れ返るロービットの想像力に押しつぶされないよう、僕たちは、本作を噛みしだく、噛みしだく。

DJ Marfox - ele-king

 いやー、待ってました。前回2016年の来日公演を泣く泣く逃してしまったので、喜びもひとしおです。リスボンで独特のアフロ・ポルトギース・サウンドを展開し続けるレーベル〈Príncipe〉(昨年おこなわれたショウケースの模様はこちらから)、その親分たるDJマルフォックスが再来日を果たします。迎え撃つのは speedy lee genesis、Mars89、Mitokon と、熱い夜になるのは間違いなし。3月22日は渋谷 WWWβ へゴーです。

Local X1 World DJ Marfox

リスボン・ゲットーから世界へと切り込む現代アフロ・ダンス・ミュージックの先鋭〈Príncipe〉のボス DJ Marfox を迎え、《Local World》が再始動。ローカルからは speedy lee genesis、Mars89 (南蛮渡来)、Mitokon (TYO GQOM) が出演。

多様化が加速する社会を背景に、WWW にて繰り広げられる新しいローカルとワールドのインタラクティブなパーティ《Local World》が第12回目を迎え、2019年最初の開催が決定。ゲストにはリスボンの都市から隔離された移民のゲットー・コミュニティで1980年代のアンゴラに起源を持つクドゥーロを起点にアフリカ各都市の土着のサウンドと交じり合いながら独自のグルーヴを形成、Nervoso をゴッドファーザーとし、DJ Nigga Fox、Nídia、DJ Lilocox、Niagara 等の若手を次々と排出、〈WARP〉からのコンピレーションのリリースでも注目され、アフロ・ポルトギースによるコンテンポラリーなダンス・ミュージックとして世界へ切り込む草分け的レーベル〈Príncipe〉よりシーンの立役者でもある DJ Marfox が登場。ローカルからの文脈というDJのアートフォームを通じフレッシュな様式美を捉える speedy lee genesis、ブリストルの〈Bokeh Versions〉からのEP「End Of The Death」の高評価を皮切りに、中国デビューやパリコレのデビューなど躍進を続ける Mars89、南アフリカを訪れ、そのサウンドとカルチャーを発信し、KΣITOとの新パーティ《TYO GQOM》でも活躍する Mitokon が出演。近年のベース・ミュージックとの融合からカリブを経由しヒップホップやハウスへも浸透、グローバルな展開を見せ、勢い余る新世代アフロの圧倒的なエナジーとグルーヴを体感してほしい。

Local X1 World DJ Marfox
2019/03/22 fri at WWWβ

OPEN / START 24:00
ADV ¥1,800@RA | DOOR ¥2,500 | U23 ¥1,500

DJ Marfox [Príncipe / Lisbon]
Mars89 [南蛮渡来]
speedy lee genesis
Mitokon [TYO GQOM]

※You must be 20 or over with Photo ID to enter.

詳細: https://www-shibuya.jp/schedule/010806.php
前売: https://jp.residentadvisor.net/events/1234468

「この街、そしてその郊外、プロジェクト(低所得者用公営団地)、スラム街から発信される100%リアルなコンテンポラリー・ダンス・ミュージックをリリースする」

リスボンのゲットー・サウンド 特集@RA
https://jp.residentadvisor.net/features/2070

Local 1 World EQUIKNOXX
Local 2 World Chino Amobi
Local 3 World RP Boo
Local 4 World Elysia Crampton
Local 5 World 南蛮渡来 w/ DJ Nigga Fox
Local 6 World Klein
Local 7 World Radd Lounge w/ M.E.S.H.
Local 8 World Pan Daijing
Local 9 World TRAXMAN
Local X World ERRORSMITH & Total Freedom
Local DX World Howie Lee & Nídia
Local X1 World DJ Marfox

https://twitter.com/wwwb_shibuya
https://www.facebook.com/WWWBShibuya
https://www.instagram.com/wwwb_shibuya

DJ Marfox [Príncipe / Lisbon]

ポルトガルの首都、リスボンを拠点に活動する DJ Marfox は、近年かの地で盛り上がりを見せているアフロ・ポルトギース・ダンス・ミュージック・シーンの中心人物。元々は DJs Do Ghetto というクルーで活動、その後 Pedro Gomes や Nelson Gomes と出会い、彼らと共にレーベル〈Príncipe〉を始動。自身や DJ Nigga Fox、Nidia などの所属アーティストによる、クドゥーロ、バティーダ、キゾンバといったアフリカ諸国の音楽をルーツに持つ作品を発表する。これまでに〈Lit City Trax〉、〈Warp〉からもリリースされ、TUnE-yArDs や Panda Bear などのリミックス手がけ、2017年のEP「Chapa Quente」〈Príncipe〉は FACT Magazine、Mixmagの「Album Of The Month」として賞賛され、ここ数年はヨーロッパとUKで幅広くツアーをしながら、アメリカ、モスクワ、ブラジルを訪問し、日本、韓国、中国といった東アジア・ツアーも行っている。

https://soundcloud.com/dj-marfox
https://djmarfox.bandcamp.com/releases


speedy lee genesis [Neoplasia]

SPEEDY LEE GENESIS はフレッシュな様式美を捉えるDJです。メインパーティーは NEOPLASIA (東京) です。

https://soundcloud.com/slgene/ethmix


Mars89 [南蛮渡来]

Mars89 は現在東京を拠点に活動している DJ / Composer である。 2016 年にEP「East End Chaos」をリリース。 そして、それを足がかりに 2017 年に「Lucid Dream EP」を Bristol を拠点とするレーベル〈Bokeh Versions〉からダブプレートとカセットテープというフォーマットでリリース。 ダブプレートはリリース後即完売。2018 年にはアジア・ツアーや大型フェスへの出演を経て、〈Bokeh Versions〉から 12インチ「End Of The Death」をリリース。Resident Advisor のレビューでは 4.0 を獲得し、あらゆるラジオで繰り返しプレイされた。Tokyo Fashion Week 2017A/W ではキービジュアルとなった映像の音楽を、2018S/S では Growing Pains の Show の楽曲を担当。Bristol の Noods Radio ではレジデントをつとめている。

https://soundcloud.com/mars89


mitokon

2008年に初めて南部アフリカの地を踏みしめて以来どっぷりとアフリカにのめり込み、南アフリカを中心に毎年アフリカへ通うようになる。その間にアフリカの若者たちが作る洗練された音楽に出会い、その面白さに感動。アフリカで次々と生まれる新しい音楽やカルチャー、希望を日々追いかけ、まだ日本ではあまり知られていない現行アフリカ音楽の情報をSNSや音楽誌、ウェブコラムへの寄稿等で発信し続けている。2017年にDJ活動を開始。Gqom やクワイトなど南アフリカのダンス・ミュージックを中心にプレイし、アフリカの強烈なグルーヴに人々を巻き込み、踊らせている。


Taquwami - ele-king

 トーフビーツやセイホーなどからリスペクトを集め、ジェシー・ルインズのリミックス盤にも参加、ハウ・トゥ・ドレス・ウェルやラパラックスなどの来日公演にも出演してきた日本のプロデューサー、Taquwami が限定盤CDをリリースする。タイトルは『31』で、昨年10月にライアン・ヘムズワースの〈Secret Songs〉から毎日1曲(!!)というペースで発表してきた曲をまとめたもの(新曲も追加収録)。発売日は未定だが、3月21日に決定しているリリース・パーティにて先行発売される。会場は CIRCUS Tokyo で、RLP や荒井優作、新進気鋭のTakao、昨年末に食品まつりによるリミックス入りの7インチを出した NTsKi が出演。春分の日はこれに決まり!

Taquwami “31” Release Party

東京を拠点に活動するプロデューサー /ビートメイカー、Taquwami が昨年10月に Ryan Hemsworth のレーベル〈Secret Songs〉から毎日1曲ずつ、全31曲をリリースするという前代未聞の企画を敢行。
その音源をコンパイルし、未発表の新曲2曲をボーナスに加えた限定盤CDリリースの決定に伴い、リリース・パーティ&CDの会場先行発売が急遽決定。
Taquwami のライヴは2017年の6月以来、実におよそ2年ぶり。是非お観逃しなく。

日程:3/21(木・祝日)
会場:CIRCUS Tokyo
時間:OPEN 18:30 / START 19:00
料金:ADV ¥2,900 / DOOR ¥3,400(別途1ドリンク代)
TICKET:e+ / RA / Peatix

出演:
Taquwami
RLP
荒井優作
Takao
NTsKi

以下のフォームから前売り受付中↓
https://www.artuniongroup.co.jp/plancha/top/news/taquwami-31/

Artist: Taquwami
Title: 31
Label: PLANCHA / Secret Songs
Cat#: ARTPL-114
Format: 2CD(初回プレス限定盤)
※ボーナス・トラック2曲収録
※各曲のアートワークによる32Pブックレット
※日本のみでCD化

Release Date: TBA ※2019/3/21レコ発にて先行発売
Price (CD): 2,300yen + 税

DISC 1
01. Ag 光
02. Chura
03. YDA
04. 雲凹
05. Ultra Sad
06. Liltra Sad
07. Moon Light, Bamboo
08. White Smoke, Turtle
09. Think
10. Wade
11. Long Kigo I
12. Long Kigo II
13. Long Kigo III
14. Long Kigo IV
15. Long Kigo V
16. Stay

DISC 2
01. 海e6b5b7
02. 空e7a9ba
03. 山e5b1b1
04. 森e6a3ae
05. 風e9a2a8
06. Mikai
07. Unjyo
08. Apple
09. Kyoui
10. Shukufuku
11. Yasuraka
12. Teni Ireru
13. I Can Change / Only In Dreams
14. Happiness / The Bluffer
15. Pierce
16. Drift (Bonus Track)
17. Bye (Bonus Track)


RLP:

東京出身のビートメイカー/DJ。
プロデューサー・コレクティヴ、“COSMOPOLYPHONIC”のCo-founder。


荒井優作 / Yusaku Arai:

1995年生まれ、神奈川県在住。
パキッた自我を解き解すべく活動。


Takao:

92年生まれで東京に住んでいます。主にPCで音楽を製作しています。
楽器を弾くのも好きで、ピアノをときどき弾いています。最近は去年買ったウィンドシンセを弾いたりしています。
作品としては、2018年に初のアルバム『Stealth』を〈EM Records〉からLP / CD / Digital配信 でリリースしました。URL:https://emrecords.bandcamp.com/album/stealth
また、Masahiro Takahashi 主催のコンピレーション・アルバム、『Sound Journal:Do-Nothing』に参加しました。URL:https://soundcloud.com/takaoo/good-timessound-journal-do-nothing
Masahiro Takahashi さんとは今年の1月に Liquid room で行われた蓮沼執太フィル《ニューイヤーコンサート2019》にサポートをお願いして一緒に出演しました。
Taquwami さんの新作『31』のCDリリースおめでとうございます! 二年ぶりとなるライブも非常に楽しみであります。よろしくお願いします!


NTsKi:

京都出身のSSW/プロデューサー。シングル「H S K」「Fig」「真夏のラビリンス」「Tree Song」「1992」をセルフリリース。どこか不気味さの漂うボーカルと多様な音楽性が混在するトラックは唯一無二であり、個人での制作以外にロサンゼルスのレーベル〈TAR〉から食品まつり a.k.a Foodman とのコラボ楽曲を発表した。また blue OG natsuki 名義でラップも行うなど、あらゆる枠を飛び越えシームレスに活動している。


ブラック・クランズマン - ele-king

 エミネムの伝記映画『8マイル』(02)で自堕落な母親役を務めていたのはキム・ベイシンガーだったけれど、彼女はスパイク・リーの『ドゥ・ザ・ライト・シング』(89)が公開された年に、同作がアカデミー賞を取れないのはおかしいとステージで発言し、そのことがヒップホップ・コミュニティからの信用を得た結果のキャスティングではなかったかと僕は勝手に推測している。スパイク・リーはその後もアカデミー賞にはかすりもせず、ついに2016年には同賞をボイコット、その翌年に俊英の黒人監督バリー・ジェンキンスが『ムーンライト』で作品賞を受賞したことはいまだ記憶に新しい。そして、ついに今年、スパイク・リーが初めてアカデミー賞で脚本賞を得ることになったものの、作品賞が『グリーンブック』だったことに抗議して会場から出て行こうとしたとも伝えられている。『ドゥ・ザ・ライト・シング』がスルーだった年に作品賞を受賞したのが『ドライヴィング・ミス・デイジー』で、『グリーンブック』が似たような設定の話だったことも彼を憤慨させた一因となったのだろう。リーはしかし、受賞スピーチで400年の歴史を振り返り、感謝の意を表した上で「レッツ・ドゥ・ザ・ライト・シング(正しいことをしよう)!」を連呼し、会場の感動を誘う。今回の受賞に関して世界中の反応があまりにも芳しくない『グリーンブック』は登場人物のモデルとされたドン・シャーリーの遺族からも「ウソだらけ」と内容にクレームが入っているらしく、『帰ってきたMr.ダマー バカMAX!』(14)がヒドいを通り越していたピーター・ファレリーにはもうシリアスにも従来のコメディ路線にも道はなく、次はよほどのことを考えなければ未来はなさそうな気配。不思議なことに昨日のNHKニュースもスパイク・リーどころか『グリーンブック』もほとんどスルーで、外国語部門及び監督賞のアルフォンス・キュアロン『ローマ』ばかりが取り上げられていたこと。壁の建設を進めようとするトランプにハリウッドが反対の意志を表明するなら、去年のデル・トロに続いてメキシコ系のキュアロンに作品賞をあげた方が確実なメッセージになったことは確かで、イラク戦争に抗議して『ハートロッカー』を受賞させたハリウッドはどこへ行ってしまったのだろうかという感じ。

 スパイク・リーの新作がそして『ブラック・クランズマン(BLACKkKLANSMAN)』。カンヌでは『万引き家族』に抑えられてグランプリに甘んじた政治サスペンスである。プロデューサーが『ゲット・アウト』を成功させたキー&ピールのジョーダン・ピールだったので、オファーを受けた当初、リーはコメディ映画だとばっかり思っていたそうだけれど、僕もかつてKKKに加入した黒人がいたとか、そのようなアイデンティティ・クライシスを扱った話だとばかり思っていた(キー&ピールはアメリカではコメディアンとして大成功した二人組で、『ゲット・アウト』はむしろイレギュラーな方向性を示した作品。楳図かずおが『まことちゃん』から『おろち』に乗り換えたというか)。オープニングは『風と共に去りぬ』。続いてアレック・ボールドウィン演じるボーリガード博士が人種隔離を強く訴えるスピーチ。ボールドウィンは現在、『サタデー・ナイト・ライヴ』で延々とドナルド・トランプのモノマネを担当し、トランプ本人にツイッターで攻撃されているコメディアン。ダブル・ミーニングというにはあまりにあからさまな演出である。そして、デンゼル・ワシントンの息子、ジョン・デヴィッド・ワシントン演じるロン・ストールワースが警察の面接を受け、コロラド州コロラドスプリングスに黒人刑事が誕生するところからやっと話は始まる。実在の人物であり、原作は彼が後に書き下ろした回想録。ストールワース刑事はストークリー・カーマイケル改めクワメ・ツレの演説会に潜入し、黒人たちが暴動を起こす可能性は低いと判断し、その過程でローラ・ハリアー演じる活動家のパトリス・デュマスと恋に落ちる。町山智浩の解説文によるとデュマスのモデルはアンジェラ・デイヴィスだという。確かにそんな風貌である。ストールワース刑事と同僚のフリップ・ジマーマン(アダム・ドライヴァー)は黒人たちよりもむしろ白人の急進団体であるKKKを危険視するようになり、ストールワースが電話でKKKに入会を申し込み、ユダヤ人であるジマーマン刑事が支部に潜り込むことになる。ここからは誰がどう観ても、実際に潜入捜査を続けるジマーマン刑事が主役。ストールワースとジマーマンはKKKの動きを監視し、その構成員たちを調べていく。そして、ストールワースが入会したことを祝うためにKKKの最高幹部デヴィッド・デューク(トファー・グレイス)が街にやってくることに……。

 ここ数年、シカゴで起きている抗争をミュージカル仕立てで描いたスパイク・リーの『シャイラク』(15)はとんでもない駄作だった。リーにはチーフ・キーフたちの周辺で起きていることが理解できていないし、同作がシカゴ市長によって上映中止に追い込まれたのも致し方ないことだった。それ以前に『25時』(02)も『セントアンナの奇跡』(08)も絶対にリーが取らなければならなかった作品だとは思えず、『オールドボーイ』(13)のリメイクを除いて2010年代に入ってから5作も日本未公開が続いているということはそれだけリーの力量が落ちたことの証しなのだろう。実際、『ブラック・クランズマン』もサスペンスとしてはやや盛り上がりに欠け、見せ場がしっかりとつくられた作品には思えなかった。『ドゥ・ザ・ライト・シング』と比較するのは酷かもしれないけれど、身体性が著しく後退し、頭だけでつくっている場面が多いことも残念なところではある。しかしというか、ひとつの問題に絞り切れないのもリーのいいところで、ひたすら正義を追求するだけではなく、これまでの作品でもそうであったように黒人と白人が会話を途切らせないことがそのまま見せ場になっていたと考えることも可能ではある(話し合いがリーにとってどれだけ重要なことかはバスの中で会話が続くだけの『ゲット・オン・ザ・バス』(96)に最もよく表れている)。KKKが『国民の創生』を上映しながら憎悪を掻き立てていく一方で、黒人たちの集会でも同じように老人(ハリー・ベラフォンテ)の話に耳を傾けながら白人への憎しみを募らせていく場面はいわばどっちもどっちとして描かれていたのに対し、それよりも黒人と白人が協力して、この場合は警察が団結してことに当たれることがリーにとっては大事なファクターをなしていたのだろう。最後の最後までそれは理想的な展開を遂げ、いささか食い足りないぐらいであった。あるいは言いたいことのすべてを作品に昇華できなかったリーはその思い余る念を実際のニュース映像という形で最後に補足する。2017年にヴァージニア州シャーロッツビルで起きた白人至上主義者たちとそれに反対する人たちの衝突が延々と映し出され、冒頭で仕掛けたようなアレック・ボールドウィンにトランプを重ね合わせるというギミックへと転化する余裕もなく、その映像はある意味では映画として成立させた作品を否定しかねないほど巨大なる現実としてのしかかってくる。そして、その映像の中にトファー・グレイスが演じていたKKKの最高幹部デヴィッド・デュークの姿があり、本人がいまだ健在であることを示された時に信じられないほどの虚無感がもたらされる。少なくとも僕にとって『ブラック・クランズマン』はすべてがそのための伏線であったかのように感じられるほどだった。

映画『ブラック・クランズマン』予告編

What’s the point of indie rock? - ele-king

 2019年になったいま、日本のなかで、あるいは世界の他の国々のなかで生まれている、もっとも刺激的で、また文化的な意義をもった音楽を思い浮かべてみるとき、ただちに気づくのは、どうやらそこにインディー・ロックのバンドは入ってきそうにないということだ。ヒップ・ホップやダンス・ミュージック、あるいはアイドル音楽でさえもがいま、定期的に、誰も予想していなかったような新しいアイデアを、この世界にたいしてはっきりと表明している。そのいっぽうでインディー・ロックは(あるいはより一般的にいってロック・ミュージック全般は)、刺激的で文化的な音楽の場から引きこもってしまい、ジャズに似たポジションを占めることになっている。つまりそれは、ニッチな世界のなかでは実験的な可能性を残しているものの、そうした世界を超えた先での影響は断片的なものにとどまり、より文化的な意義をもった音楽の形式によって、たいていの場合ノスタルジーに溢れた楽観的な雰囲気とともに参照されたりサンプリングされたりするという、そんなポジジョンに置かれているわけである。
 
 2018年におけるインディー・ロックのハイライトを振りかえってみるとそこには、1990年代の影が覆いかぶさっているのが、ありありと見てとれる。そこにはヨ・ラ・テンゴ、ザ・ブリーダーズ、ガイデッド・バイ・ヴォイシズ、クリスティン・ハーシュ、ロウ、ジェフ・トゥイーディー、そしてスティーヴン・マルクマスといった、いずれもその当時に高い評価を受けたアルバムをリリースしているバンドが登場してくるわけである。そうしたアーティストたちの多くは、ブライアン・イーノが「農夫たち farmers」と分類した者たちである。彼らは同じ土地の一角で何年も何年も仕事を続け、その土地を豊かで生産的なものに維持してはいる。だが彼らが新たな領域へ踏みこむことはけっして起こらない。インディー・ロック界には多くの農夫たちがいるが、カウボーイはごくわずかしかいないのである。
 
 このことは、そうしたアーティストたちが間違っているということを意味するわけではないし、まして彼らが、否定的な意味でノスタルジックだということ意味するわけでもない。彼らがいかにザ・フーやチープ・トリックや、その他の過去の古典的なロックを参照しているかを聴いてみればわかることだが、ガイデッド・バイ・ヴォイシズは、あからさまにノスタルジックなバンドである。だが彼らがそうした要素を操作するやり方は同時に、みずからを記念碑的な何かへと変えようとするロックのもつ傾向を、まったく意に介すことのないものだ。ガイデッド・バイ・ヴォイシズの素晴らしく多産なソングライターであるロバート・ポラードにとって、ロックはつねに動きつづけるものであり、そしてそのバンド名にもあるとおり、ひとりの「ガイド」としての彼がもっている理念は、まったくラディカルなものでありつづけている。すなわち、ロックの曲を生みだすことなど簡単なことであり、誰にだって可能なことなのだというわけだ。

 それじたい皮肉な話だが、ノスタルジックなものはまた、われわれが過去に夢見ていた未来のヴィジョンを想起させるものでもある。ヨ・ラ・テンゴの『ゼアズ・ア・ライオット・ゴーイング・オン』のいくつかの曲は、クラウトロックのもつ流れるようでモータリックな未来主義をふたたび取りあげていながら、しかしどこかで、物悲しい雰囲気に取り憑かれてもいる。クラウトロックのような音楽が当初われわれに約束していた未来に、いったい何が起こってしまったというのだろうか。やはり90年代からの難民のひとりである音楽プロデューサーのジェフ・バーロウも、ビークの『>>>』において、ヨ・ラ・テンゴと同じような領域を探求している。じっさいのところもはやロックとは見なせないほどに、進歩的で実験的なロックやエレクトロニカの領域へと進んでいるといいうるこのアルバムの特徴は、次のような重要な問いを喚起するものだ。すなわち、インディー・ロックがいままでとは異なった何かをやるとすぐに、別のカテゴリーに分類されてしまうのだとしたら、ではいったいどうやってそれは、いまより以上の何かに変化することを望んだらいいというのだろうか。 

 2018年のもっとも優れたインディー・ロックのアルバムであり、ことによればその年のベスト・アルバムともいえるものだったのは、ロウの『ダブル・ネガティヴ』だった。そのなかに集められた曲はどれも美しく、たがいに絡みあい、歪曲しあい、引き裂かれあっている。この作品は、いっぽうで幻惑的で、スリリングで、爆発的な斬新さをもつものでありながら、同時に、ロウのその長いキャリアのなかの他のどんな作品より、巧妙かつ控えめなものになりえている。われわれが習慣的に「ロック」と呼んでいるものからあまりにも遠ざかっているがゆえに、にわかには認めがたく、別の何かに分類したくもなるが、しかしにもかかわらず彼らの作品は、その核心部分においてひとつのロック・アルバムであり、ひじょうに洗練された美しいものとなっているのである。

 いったいどうすればインディー・ロックが、2019年において意義のあるものとなるのかを理解するためには、ここであらためて、それがどのようなものとして開始されたのかについて考えてみるべきだろう。おそらくそこには、それぞれに重要なものといいうる三つの点が存在している。

 第一に、インディー・ロックはメインストリームなポップ・カルチャーから距離を取り、そのなかに見られる強迫観念的で弱い者いじめ的な消費にたいするトップダウン式の命令から距離を取った空間を提供するものだ、という点が挙げられる。ポップ・カルチャーはひとを疲れさせるものである。それがかたちづくっている機械はすべてを飲みこみ、搾取して、その金属製の顎のなかに入ってくるありとあらゆるものを抜け殻に変えて吐きだしていく。そうしたものにたいし、1980年代におけるその誕生の時点でインディー・ロックは、(それじたい不完全で、多くの場合困難を抱えたものではあったわけだが)オルタナティヴなインフラや、理念や、美学をつくりだすことによって、パンクが中断してしまった空間をふたたび取りあげていたのわけである。

 そして第二に挙げられるのは、メインストリームなものから離れた世界は、これまでにないような魅力をもつオルタナティヴな存在でなくてはならない、という点である。インディー・ロックは、万人受けするようなやり方で物事を組織する必要はないのだということを示すものでなくてはならない。そしてだからこそ問題は、音楽さえあればそれだけでいいということにはならないわけだ。

 ミュージシャンたちがじっさいに演奏する音と同じくらいに、音以外の部分でのその表現や、それと分かるような目印がとなるものが、音楽にとって重要な要素となってくる。他のどんなミュージシャンよりもデヴィッド・ボウイが今日的な意義を保ったままであるその理由の大部分は、ジェンダー規範がことさらに保守的なものだった時代のなかにあって、男性性の再定義にたいし、彼がどれほど寄与したかという点にこそある。2018年の年末アンケートのなかで、多くの評者がソフィーやイヴ・トゥモアのようなジェンダーの揺らいだエレクトロニックなエイリアンの出現を賛美しているのを見ればわかるとおり、ボウイの遺産はいまやあきらかに、ロックというジャンルの範囲を超えて広がっている。

 インディー・ロックが1980年代に自立したものとなっていったのは、パンクのDIYという理念や、それがもっていた場所や時間についての現代的な感覚が、1960年代や70年代の音楽をノスタルジックなかたちでふたたびじぶんたちのものにすることと融合するなかでのことだった。ザ・スミスなどというバンド名のもつ、キッチンシンク派的な単調さと、モリッシーのグラジオラスの花にも例えられる波打つような派手な動きや、ジョニー・マーのリズミカルなギターの旋律との対比は、1980年代のマンチェスターにおける灰色をした郊外の団地の只中で、美しいものを熱望する憂鬱さをあらわしている。その音楽とイメージによって、それまで誰にも承認されることのないままに過ごしてきた者たちによってじっさいに生きられている現実と、彼らのもつロマンチックなものにたいする渇望を同時に表現することによって、ザ・スミスは、以上のような点をはっきりと象徴するバンドだったといえる。

 欧米では、ロックはだんだんと、白人による伝統的で文化的な庶民的表現にすぎないものとして、安易なかたちで見放されていくことになる。そんななかでインディー・ロックも、白人のミドルクラスによる庶民の表現という曖昧な役割を担っていくことになる。UKのエンド・オブ・ザ・ロードのようなフェスにひしめいている溢れるような白い顔の群れがはっきりと示しているように、こうしたジャンルの音楽は、だんだんと文化や人種が混淆したものになっている国家の多様性にたいして語りかける言葉をもってはいない。こうした問題は部分的に、有色人種のアーティストたちーーとくに黒人のアーティストたちーーが、インディー・ロックの分類の外に置かれ、「ブラック・ミュージック」として分類されるジャンルのなかに組みいれられているからだといえる。LAを拠点にしたシンガーソングライターであるモーゼス・サムニーの音楽はたとえば、両者からの影響によって特徴づけられるものであるにもかかわらず、ほとんどの場合インディー・ロックというよりソウルと呼ばれている。パンクの遺産を非白人アーティストのために解放することを目指したロンドンのデコロナイズ・フェスティヴァルによって、ロックの白人性にたいするバックラッシュは進んでいる。こうした傾向はやがて、トラッシュ・キットやビッグ・ジョニーのようなバンドを介して、インディー・ロックのなかにも広がっていくはずである。

 そのアルバム「ビー・ザ・カウボーイ」を多くのライターが2018年のベストにあげていた日系アメリカ人のシンガーソングライターであるミツキの人気は、彼女の音楽的才能だけではなく、そのアイデンティティーにも由来している。彼女のよくできたギター・ロックのなかには、ことさらにラディカルなところがあるわけではない。だがその音楽が、斬新でユーモアがありつつ、感情をさらけだすような正直さでじぶんじしんを表現するスキルをもった、非白人で女性のアーティストの視点から生みだされているという事実によって彼女は、いまのアメリカをかたちづくっているように見える攻撃的な白人男性たちからなる世界にうんざりしたオーディエンスに訴えかける声となっているのである。ミツキはじしんの弱さをさらけだして表現していくことを恐れないが、いっぽうでその歌詞は、ある意味でひとを元気づけるような、そんな世界観を提示するものでもある。クリスティン・ハーシュによる素晴らしいアルバム「ポッシブル・ダスト・クラウズ」のなかに聞かれる、自己を引き裂くような1990年代のジェネレーションXに特有のパニック発作のような調子と比べると、ミツキは、希望のかすかな光や慰めを提示している。そしてそうしたものこそが彼女の世界を、よりぞっとするような時代のなかで育ってきたファンたちにたいしてアピールする場所へと変えているわけである。

 根本的に白人的かつ男性的なものとしてのインディー・ロックにたいする批判は、たとえば日本のような、アジアの国の音楽を取りあげる場合、そのまま当てはまるものではない。もし西洋のオーディエンスが包括性や異種混淆性をいまよりももっと評価するようになっていけば、きっと日本は世界にたいして、多くのものを提示することができるようになるはずだ。だが、エレクトロニカやポップ・ミュージックの界隈では、じぶんたちが何をすべきなのかが自覚的に推し進められている傾向にある一方で、日本のインディー・ロックはいまだに多くの点で、イギリスやアメリカの音楽に頭の上がらない状態にあり、じぶんたちが崇める欧米のアイドルたちの美学を模倣し、それに適応することに夢中になっている。

 2018年の日本でリリースされたなかで、もっとも優れたインディー・ロックのアルバムはおそらく、ルビー・スパークスによるセルフタイトル・アルバムだろう。この作品は、まるで1995年のUKで製作されたかのような音を聴かせるものなのだが、いずれにしても美しく、魅力あるアルバムである。同様のことは、彼らと同じシーンにいる仲間たち、たとえば去年の夏にパンキッシュなシングル曲「バッド・キックス」をリリースした活きのいいバンドであるDYGLについても当てはまる。どちらも日本の音楽シーンにエキゾチックで斬新な何かをもたらしてはいるが、それは彼らがその音楽によって、当の欧米それじたいのなかでもはや失われてしまった欧米らしさを、わずかに漂わせているからだ。いっぽうで、インディー・ロックの周辺に位置しているクラン・アイリーンやクジャクのようなバンドは、サイケデリック・ロックやノイズ・ロックといった日本に固有の力強い伝統から多くの要素を引き出すことによって、Jポップのメインストリームにたいするオルタナティブを、よりはっきりと日本文化のなかに根づいたかたちで提示しているが、しかしそうしたバンドはいまだ、ニッチななかでもさらにニッチな場所に留まっている。

 インディー・ロックが日本のなかで、欧米の音楽と関係しないままでは立ち行かないような状態にある理由のひとつは、おそらく、それがもつ三つ目の価値に関連しているはずである。インディー・ロックがメインストリームから離れた空間を提供するものであり、そしてそうした場所が物事のあり方にたいする魅力的なオルタナティブをもたらすものなのだとしたら、定義上それは、いずれにしろ何かしらのレヴェルで、メインストリームなものと敵対するような関係のなかに入っていくことになる。いうまでもなく、日本のアーティストたちのなかで、あえてそうした関係のなかに入っていこうとする者たちは、ほとんど見られない。ルビー・スパークスやDYGLのようなバンドがやっているのは、Jポップ的なメインストリームなものに肩をすくめてみせることであり、そしてその上で、海外に慰めを求めることだ。だが、日本におけるインディー・ロックが、たんに「メジャーに行くほど有名ではないロック・ミュージック」以上の何かを意味するために必要なのは、お行儀のよさや寛容さを捨てさることであり、みずからを、支配的な自国内のポップ・カルチャーにたいするより明確な批判へと変えていくことなのである。

 より露骨にいっておこう。ロバート・ポラードがいっていることにもかかわらず、日本の場合であれ、他のどこかの場合であれ、インディー・ロックというものはもはや、わざわざそれを生みだそうと思うような音楽ではないのだ。いまの人々の生活のなかには、グループになって集まって曲を作ったり、練習したりするような自由な時間はない。みなリハーサルやレコーディングのために使う金をもっていないし、(とくに日本の場合に見られることだが)自腹を切ってライブをするのに使うような金をもっていない。いま現在でもっとも取っつきやすく、だからこそすぐに新たな才能を吸収していくことにもなる音楽は、じぶんの部屋のラップトップ上で、ひとりで聞くことのできるような音楽なのである。

 インディー・ロックはいま、1980年代や90年代におけるその全盛期にあったような意義を失ってしまっている。だが歴史にその身を委ねる必要などないのだ。アーティストたちがじぶんたちを取りまく世界に目覚め、そこに介入し、それに立ちむかい、それを批判して、その世界から疎外されている人々のありようを表現し、そして失われた過去の夢をふたたび取りあげることによって、あるいはじぶんたちじしんのまったく新しい何かを鍛えあげることによって、オルタナティヴなものを作りだすために動きだすことができるなら、インディー・ロックはきっと、人々との繋がりを保ちつづけ、彼らにたいし、ホームと呼べるような音楽的な空間をもたらすことになるはずである。 

What's the point of indie rock?

text : Ian F. Martin

The year is 2019. Try to think of the most exciting, culturally relevant music happening in Japan or the rest of the world is right now and the chances are it's not an indie rock band you're thinking of. Hip hop, dance music, pop, and even idol music regularly throw new and unexpected ideas out into the world. Meanwhile, indie rock (and rock music more generally) has retreated from the conversation and now occupies a position similar to jazz, where experimentation is possible within its niche, but its influence beyond that is fragmentary, referenced and sampled with what is often a wistful air of nostalgia by more culturally relevant musical forms.

Looking back over the indie rock highlights of 2018, the shadow of the 1990s looms long, with Yo La Tengo, The Breeders, Guided By Voices, Kristin Hersh, Low, Jeff Tweedy and Stephen Malkmus all releasing well-regarded albums. Many of these artists are what what Brian Eno would categorise as “farmers”, working the same patch of land year after year, keeping it fertile and productive but never really raiding new territory. Indie rock has many farmers and very few cowboys.

That doesn't make these artists wrong or even nostalgic in a negative sense. Guided By Voices are openly nostalgic in how they hearken back to The Who, Cheap Trick and other classic rock of the past, but the way they operate is also disdainful of rock's tendency to turn itself into a monument. Rock, for GBV's ridiculously prolific man songwriter Robert Pollard, is a constantly moving thing, and his guiding ethos remains a radical one: that writing rock songs is easy and anyone can do it.

It's ironic too, perhaps, but nostalgia can also remind us of future visions that we dreamed of in the past. Several tracks on Yo La Tengo's “There's A Riot Going On” revisit the sleek, motorik futurism of krautrock, but they're haunted by an air of melancholy. What happened to the future that this music originally promised us? Fellow '90s refugee Geoff Barrow explores similar territory on Beak's “>>>”, an album that some might argue pushes so far into the territory of progressive or experimental rock and electronica that it can't really be considered indie rock anymore. This raises the important question that if indie rock is immediately recategorised as soon as it does something different, how can it ever hope to become more than it is now?

The best indie rock album of 2018, and possibly the best album of the year full stop, was Low's “Double Negative” – an album that takes a collection of beautiful songs and twists, contorts and tears them apart. It manages to be as subtle and understated as anything Low have done in their long career, while at the same time dazzling, thrilling, explosively fresh. It's so far from what we conventionally think of as “rock” that it's tempting to discount or reclassify it, but it's nevertheless a rock album at its core, and it's an exquisitely beautiful one.

To understand how indie rock can be relevant in 2019, it's worth taking some time to think about what indie rock is for to begin with. There are perhaps three things it can do to be of value.

The first is that it provides a space away from mainstream pop culture and its obsessive, bullying, top-down dictates to consume. Pop culture is exhausting: it's a machine that eats up, grins down and spits out the empty husks of all who enter its metal jaws. At its birth in the 1980s, indie rock picked up where punk left off by building an alternative (albeit imperfect and often troublesome in its own way) infrastructure, ethos and aesthetic.

Secondly, this world away from the mainstream needs to be an attractive alternative. It needs to show that things don't have to be the way they are in a way that feels relevant to people, and for that, music alone isn't always going to be enough.

Music is just as much about representation and identification as it about the actual sunds the musicians are making. The reason David Bowie, more than any other rock musician, remains relevant is in large part because of how he helped redefine masculinity in an age where gender norms were particularly conservative. With 2018 year-end critics' polls lauding gender-fluid electronic alien visitations like Sophie and Yves Tumor, it's clear that in many ways Bowie's legacy has outrun the rock genre.

When indie rock began to come of age in the 1980s, it did so by wedding the DIY ethos and contempory sense of place and time of punk to a nostalgic reappropriation of the music of the 1960s and '70s. The contrast of the kitchen-sink drabness of a band name like The Smiths with Morrissey's gladioli-waving camp and Johnny Marr's chiming guitar lines expressed a melancholy longing for beauty amid the grey housing estates and suburbs of 1980s Manchester. The Smiths meant such a lot because the music and image articulated both the lived reality and the romantic aspirations of people who had never felt recognised before.

In the West, rock is increasingly easily dismissed as merely the traditional cultural folk expression of white people, with indie rock taking the even more dubious role of folk expression of the white middle classes. The sea of white faces that populates indie music events like the UK's End of the Road festival makes it clear that the music doesn't speak to the diversity of an increasingly culturally and racially heterogeneous nation. Part of the problem is that people of colour – especially black artists – are often classified out of indie rock and into genres coded as “black music”. The music of LA-based singer-songwriter Moses Sumney is more often described as soul than indie rock, despite being informed by influences of both. There has been a backlash to rock's whiteness, with London's Decolonise festival seeking to reclaim the legacy of punk for nonwhite artists, and this may yet spill over into indie rock via bands like Trash Kit and Big Joanie.

The popularity of Japanese-American singer-songwriter Mitski, whose album “Be the Cowboy” topped many writers' 2018 polls, owes as much to her identity as it does to her talent as a musician. While there's nothing particularly radical about her well-crafted guitar rock, the fact that her music comes from the perspetive of a nonwhite, female artist combined with her skill at articulating herself in a fresh, funny and emotionally honest way makes her a powerful voice for audiences tired of the aggressively white, male world America seems to have become. While she is unafraid of dwelling on her own frailties, Mitski's lyrics also offer a worldview that is on some level empowering. Compared with the self-lacerating, 1990s Generation X panic attack of Kristin Hersh's excellent “Possible Dust Clouds”, Mitski offers a glimmer of hope and comfort that makes her world an appealing place to fans growing up in these more frightening times.

The critique of indie rock as being something fundamentally white and male is less straightforward when we look at music in an Asian nation like Japan. If Western audiences are coming to value inclusiveness and heterogeneity more, Japan could have a lot to offer the world. However, electronic and pop-adjacent acts are still driving the agenda, while Japanese indie rock is still in many ways tied to the apron strings of British and American music, its artists hung up on trying to imitate and match the aesthetics of their Western idols.

Probably the best Japanese indie rock album of 2018 was Luby Sparks' self-titled debut album – a beautiful and charming record that nonetheless sounds like it could have been made in the UK in 1995. The same is true of fellow travellers like the effervescent DYGL, who dropped the punkish “Bad Kicks” single last summer. These are both bands who bring something exotic and fresh to the music scene in Japan, but at the expense of offering the West little musically that it doesn't already have in spades. Drawing more from Japan's own powerful tradition of psychedelia and noise-rock, bands on the fringes of indie rock like Klan Aileen and Qujaku offer an alternative to the J-Pop mainstream more recognisably rooted in Japanese music culture, but bands like these remain as yet very much a niche within a niche.

One reason indie rock might struggle in Japan without an umbilical relationship with Western music could be related the third aspect of indie rock's value. If indie rock is to offer a space away from the mainstream, and if that place is to offer an attractive alternative to the way things are, it is by definition entering into what is, at least on some level, an antagonistic relationship with the mainstream. Needless to say, this is something few artists in Japan seem willing to do. What the likes of Luby Sparks and DYGL do is shrug at the J-Pop mainstream and look for comfort overseas, but what indie rock in Japan needs if it is to ever mean anything more than simply “rock music that's not popular enough to be on a major” is to become less polite, more intolerant, and let itself become a more explicit critique of the dominant domestic pop culture.

More broadly, despite what someone like Robert Pollard says, indie rock in Japan and elsewhere is no longer a particularly accessible form of music to make. People's lives don't have the free time to gather as a group to write and practice. People don't have the money to spend on rehearsals, recording and (in Japan) pay-to-play live shows. The most accessible music, and therefore the kind that absorbs new talent most readily, is the music that you can make alone in your room on a laptop.

Indie rock is clearly not as relevant as it was in its heyday in the 1980s and '90s, but it needn't consign itself completely to history. If artists can wake up to the world around them, engage with it, confront it, criticise it, articulate people's alienation from it and work to build alternatives – whether reviving lost dreams from the past or forging fresh ones of their own – indie rock will continue to connect with people and give them a musical space they can call home.

Stereolab - ele-king

 90年代におけるクラウトロック再評価の筆頭、ステレオラブ。そのポップかつアヴァンギャルドなサウンドがいまの時代とリンクしていると考えたわれわれは昨年、レティシア・サディエールへのインタヴューを試みたわけだけれど(英語版はこちらから。日本語訳は紙エレ22号に掲載)、どうやらその読みは外れていなかったようだ。2009年の活動休止以降、ティム・ゲインもレティシアも精力的に活動を続けてきたのはご存じのとおりだけど、なんとこの5月、彼らはふたたび集い合い、ステレオラブとして10年ぶりに活動を再開する。それにあわせて、旧譜7タイトルがリイシューされることも発表された。第一弾として5月3日にセカンド『Transient Random-Noise Bursts With Announcements』とサード『Mars Audiac Quintet』が発売される。ステレオラブ自身の主宰する〈Duophonic〉と〈Warp〉との共同リリースとなっている点も感慨深い(熱心なファンなら、かつて『Aluminum Tunes』が〈Warp〉から出ていたことを思い出すだろう)。新たにデモ音源なども収録されるそうなので、すでに持っている人も要チェックです。

STEREOLAB

10年ぶりに再始動をしたオルタナティヴ・ミュージック界の皇帝、
ステレオラブの7タイトル再発キャンペーンがスタート!

90年代に結成され、クラウトロック、ポストパンク、ポップ・ミュージック、ラウンジ、ポストロックなど、様々な音楽を網羅した幅広い音楽性でオルタナティヴ・ミュージックを語るのに欠かせないバンドであるステレオラブ。代表作のひとつとしてあげられる『Emperor Tomato Ketchup』というタイトルが示す通り、まさにオルタナティヴ・ミュージック界の皇帝とも言える彼らが、10年ぶりに再始動を果たし今年のプリマヴェーラ・サウンドにジェームス・ブレイクらと並びヘッドライナーとして発表されたニュースに続き、7タイトル再発キャンペーンを開始した。今回の再発は〈Duophonic〉と〈Warp〉の共同リリースとなっている。

トレーラー映像
https://youtu.be/nYDtWdyIUiQ

その第一弾リリースとして、リマスターが施された本編とボーナス音源の2編から構成された『TRANSIENT RANDOM-NOISE BURSTS WITH ANNOUNCEMENTS [Expanded Edition]』(1993年)、『MARS AUDIAC QUINTET [Expanded Edition]』(1994年)の2タイトルが2019年5月3日にアナログ、CD、デジタルと各種フォーマットでリリースされ、CDは帯付き国内仕様盤でリリースされることとなった。

2枚のアルバムはメンバーのティム・ゲインが監修を行い、電気グルーヴのマスタリングも手掛ける Bo Kondren (Calyx Mastering, Berlin)の手によってリマスタリングが施され、ボーナス音源には別ヴァージョンやデモ音源が収録されている。

また、初回生産限定アナログ盤は3枚組のクリア・ヴァイナル仕様となり、ポスターとティム・ゲイン本人によるライナーノートが封入される。また、スクラッチカードも同封されており、当選者には限定12インチがプレゼントされる。

今後は『Emperor Tomato Ketchup』、『Dots and Loops』、『Cobra and Phases Group Play Voltage in the Milky night』が2019年8月、『Sound-Dust』、『Margerine Eclipse』が2019年11月にリリースされることが予定されている。

label: Duophonic / Warp Records / Beat Records
artist: Stereolab
title: Transient Random-Noise Bursts With Announcements [Expanded Edition]
release date: 2019/05/03 FRI ON SALE

https://www.beatink.com/products/detail.php?product_id=10128


[TRACKLISTING]

Disk 1
01. Tone Burst
02. Our Trinitone Blast
03. Pack Yr Romantic Mind
04. I'm Going Out Of My Way
05. Golden Ball
06. Pause
07. Jenny Ondioline
08. Analogue Rock
09. Crest
10. Lock-Groove Lullaby

Disk 2
01. Fragments
02. Jenny Ondioline [7"/EP Version - Alternative Mix]
03. Drum - Backwards Bass - Organ [Jenny Ondioline Breakdown Full Version]
04. Analogue Rock [Original Mix]
05. Pause [Original Mix]
06. French Disco [Early Version Mix]
07. Jenny Ondioline Part 2 [Breakdown Mix]
08. Fruition - Demo
09. I'm Going Out Of My Way - Demo
10. French Disco - Demo
11. Lock Groove Lullaby - Demo
12. Jenny Ondioline - Demo
13. Pause - Demo

label: Duophonic / Warp Records / Beat Records
artist: Stereolab
title: Mars Audiac Quintet [Expanded Edition]
release date: 2019/05/03 FRI ON SALE

https://www.beatink.com/products/detail.php?product_id=10129


[TRACKLISTING]

Disk 1
01. Three-Dee Melodie
02. Wow And Flutter
03. Transona Five
04. Des Etoiles Electroniques
05. Ping Pong
06. Anamorphose
07. Three Longers Later
08. Nihilist Assault Group
09. International Colouring Contest
10. The Stars Our Destination
11. Transporte Sans Bouger
12. L'Enfer Des Formes
13. Outer Accelerator
14. New Orthophony
15. Fiery Yellow

Disk 2
01. Ulan Bator
02. Klang Tone
03. Melochord Seventy-Five [Original Pulse Version]
04. Outer Accelerator - [Original Mix]
05. Nihilist assault Group - Part 6
06. Wow and Flutter [7"/EP Version - Alternative Mix]
07. Des Etoile Electroniques - Demo
08. Ping Pong - Demo
09. The Stars Our Destination - Demo
10. Three Longers Later - Demo
11. Transona Five - Demo
12. Transporté Sans Bouger - Demo

  1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37 38 39 40 41 42 43 44 45 46 47 48 49 50 51 52 53 54 55 56 57 58 59 60 61 62 63 64 65 66 67 68 69 70 71 72 73 74 75 76 77 78 79 80 81 82 83 84 85 86 87 88 89 90 91 92 93 94 95 96 97 98 99 100 101 102 103 104 105 106 107 108 109 110 111 112 113 114 115 116 117 118 119 120 121 122 123 124 125 126 127 128 129 130 131 132 133 134 135 136 137 138 139 140 141 142 143 144 145 146 147 148 149 150 151 152 153 154 155 156 157 158 159 160 161 162 163 164 165 166 167 168 169 170 171 172 173 174 175 176 177 178 179 180 181 182 183 184 185 186 187 188 189 190 191 192 193 194 195 196