木津毅
僕が住む地区の最寄駅の私鉄に特急電車が最近導入されて、それが通勤ラッシュの時間帯に走るものだから、追加の特急料金が払えない庶民はさらに混雑する普通電車に詰めこまれることになっている。毎朝ラッシュ時間に通勤する庶民のひとりである僕の母親はそのことにブーブー文句を言ってばかりだ。まあ腹が立つのは当然だと思うのだけれど、僕がひとつ気になるのは、その特急電車に乗れるだけの金銭的余裕のある庶民よりもやや裕福な人びとは、快適な車内の「窓」から混雑するホームに溢れる人びとをどのように見ているのだろうか。優越感? 罪悪感? それともやはり、窓の外の景色には関心を向けないようにしているのだろうか。自分より貧しい人びとが疲弊する姿には。
格差時代の極上エンターテインメント作たる『パラサイト 半地下の家族』には、象徴的に「窓」が登場する。全員失業している主人公家族が住む「半地下」の家の窓からは、立ち小便する酔っ払いや強烈な消毒薬を撒き散らす業者など、まあわかりやすいまでに「貧者」の風景しか見えてこない。いっぽう、主人公一家の青年が侵入することになる金持ち一家の豪邸には巨大な「窓」があるが、そこから見えるのは立派に整った庭園ばかりである。要は社会の現実──庶民たちの姿──が見えることはない。その豪邸は有名な建築家が「芸術的なタッチ」でデザインしたという設定になっているが、金持ちにとって貧者の現実が見えない世界こそが快適な空間ということなのだろう。実際、この映画のなかの金持ちは庶民の現実なんて知らないし、無頓着であるということが繰り返し描かれる。
『アス』や『ジョーカー』など格差社会をどのように娯楽映画のなかで見せるかというのが近年の一大トレンドとなっているが、そこで言うと韓国の異才ポン・ジュノが本領を発揮しまくった『パラサイト』は破壊的なまでの面白さ、娯楽性で最後までぶっちぎる快作である。アジアが世界のトレンドとなっている現在を踏まえてもカンヌのパルムドールを受賞したことは納得のいくところだし、アメリカでも外国語の映画としては記録的なヒットを飛ばしているため、アカデミー賞でどこまで行くかに注目が集まっている。金持ち一家が住む豪邸はセットだそうだが、まるで要塞のような造りになっており、そこに青年が侵入していく序盤のくだりだけでもアドベンチャー映画のようなスリルがある。ポン・ジュノ監督に本作について聞く機会があったのだが、格差構造を列車の水平方向で示した『スノーピアサー』(2013)とは対照的に、本作では格差が垂直方向で表現されており、その象徴としてカメラの縦移動が重要な箇所で大胆に挿入される。シンプルにカメラが縦に動くだけで興奮を呼び覚ます、その映画的快楽。的確なキャラクター配置と、豪邸に漂う得体のしれない不穏感、突発的に訪れるアクション。しつこいようだが、べらぼうに面白い。社会問題(気候変動の問題も入っている)を取り上げた映画がこんなに面白くてもいいのかと後ろめたく感じられるほどである。だがそこは、ポン・ジュノという作家がエンターテインメントとアートの境界を豪胆に破壊してきた成果だろう。

物語については、主人公の青年が金持ち一家に身分を偽って侵入し、その過程で「ある計画」を思いつくところまでに紹介を留めてほしいというポン・ジュノ自身による厳重な注意があり、まあ僕も本作についてはこれ以上プロットを知らずに観たほうが楽しめると思うので、具体的には記さない。ここから先は、物語の詳細やある仕掛けを示すいわゆる「ネタバレ」(好きでない言葉ですが……)は避けるものの、何も知りたくないという方は作品を観てから読まれることをお勧めします。
本作においてキーになっているのは、経済格差──階級──を示すものとして「匂い」が挙げられていることだ。「匂い」とは何か? それは身分を偽っても消せないものであり、貧者として生まれ落ちた者の屈辱的な宿命のようなものである。金持ちたちは貧者のリアルな風景を見ずに済んでいるのと同様、その「匂い」を避けて生きている。
と同時に、「匂い」とは(ジョン・ウォーターズの『ポリエステル』のような例外を除いて)映画では実際に観客が体感しえないものでもある。だから本作のなかで富者と貧者がお互いに知らず知らずのうちに出会い、そこに階級を分かつ「匂い」があったとしても、映画は表現形態においてそれを無効化する。そして、次第に普段厳重に住み分けられている階級の違う者たちがダイナミックに入り乱れることになり、そこでこそ映画はクライマックスを迎えるのである。
『グエムル-漢江の怪物-』(2006)にしろ『スノーピアサー』にしろ『オクジャ/okja』(2017)にしろ、ポン・ジュノはふつう出会うはずのない者たちをある事態のなかで交錯させ、その状態のなかで「面白さ」を立ち上げる作家ではないか。「窓」からお互いの姿が見えないように社会がデザインされているのならば、その「窓」の内側に入りこんで階級の違う者たちを混淆させる。そこにこそスリルがあるのだと。だからこの娯楽作は、階級による住み分けが徹底された社会への抵抗である。そこで待っているのが喜劇なのか悲劇なのか、その両方なのかはわからないけれど、とにかくそこからわたしたちの冒険とドラマは始まるのだと告げている。
予告編
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三田格
『パラサイト』異論
『2001年宇宙の旅』も『ブレードランナー』も日本では公開1週間で打ち切りだった。どちらも二番館落ちしてからロングランを続けるものの、最初の頃は見た人が少なかったせいか、似たり寄ったりの感想しか目にしなかった。とくに『ブレードランナー』はシミュラークルという単語を使わずに議論がなされることはなく、アンドロイドと美術に話題は集中するばかりだった。ところが、糸井重里だけは論点が大きく異なっていて、タイレル社と下層労働者であるイジドアを対比して未来が格差社会になっている部分に着目し、「未来はあのように二極化するんだろうなあ」という感想を述べていた。いま風に言うならば「そこですか?」と突っ込みたくなるほど、場違いな感想に思えたものの、ほかの議論はすべて忘れてしまったというのに、いまとなっては「未来は二極化する」という指摘が最も強く僕の記憶には残っている。未来は格差社会。日本はまだバブルどころか、プラザ合意にも至っていない時期である。医者や弁護士をさして「儲け過ぎ」だというリベラル批判が多少は噴出し始めていたとはいえ、この時期にして「未来は格差社会」になっていくという設定に「なるほど」と思える感性はかなり稀有なものだったと驚かざるを得ないし、『ブレードランナー』が示したヴィジョンにどれだけ重層的な構造が畳み込まれていたのかということにも改めて感心してしまう。
『ブレードランナー』が舞台とした2019年の翌年、つまり、今年、格差社会を描くハイライトのように喧伝されているのがポン・ジュノ監督『パラサイト』である。試写会の時から注目度は群を抜いていた。1時間前から並んでも補助席しか取れなかった僕は宣伝会社の人と話していて、さすがに試写会場を大きくし、公開直前にもかかわらず試写の回数を増やさざるを得なくなってきたとも聞いた。普段は映画を観ないマスコミが関心を示さなければこうはならない。「格差社会」というキーワードはそれほど広く様々な人たちに意識されているということだろう。南アフリカやホンジュラスなどと比べれば日本は絶対貧困率で世界で74位とそれほど大きな格差があるとは言えないものの、この10年で格差はじわじわと広がり、相対的貧困率という別なモノサシをあてるとOECD加盟国中、メキシコ、トルコ、アメリカにつぐ世界第4位という数字が導かれる(5位はアイルランド、6位は韓国)。実際、佐藤泰志原作の「函館3部作」を皮切りに白石和彌『雌猫たち』や石川慶『愚行録』など日本でも少なからず格差社会をテーマにしたり、それを背景とした映画はポツポツとつくられてきた。『パラサイト』がそれらと違うのは、悲惨な現状を描写したり、わずかばかりの希望を示されるのではなく、どうやら富裕層に一矢報いるという展開が期待できそうだという予感だったろう。実際、オープニングからしばらくはそのように話は進んでいく。

半地下の部屋を借りて暮らしているキム一家は大家にWi-Fiをケチられ、スマホを高く掲げて電波をキャッチしようとするも、天井に遮られてそれ以上「上に行くことがかなわない」。国策としてインターネットを普及させた韓国でネットに接続できないということは国民としてカウントされていないという定義にもなっている。貧乏なキム一家は内職でやっているピザ箱の組み立てにもダメ出しをされ、完全に窮地に追い込まれる。そのような状況を打開するべく長男のキム・ギウ(チェ・ウシク)は英語の家庭教師としてパク家に雇われるために急な坂道を「登っていく」。パク家はかなりの豪邸ではあるものの、韓国では11件以上の家を持つ富裕層が過去最多の3万8千人近くになったという報道が昨年末にあったばかりなので、パク家はそこまでの富裕層ではなく、後半の展開からも見て取れるように近隣と見栄を張り合うレヴェルではある。それでもキム・ギウにとっては別世界であり、観客にも家の間取りがどうなっているのかよくわからないほど家の面積は広い(550坪)。予想外のことが起きるのは(以下、ネタバレ)美術の家庭教師として雇われるために妹のキム・ギジョン(パク・ソダム)が「独島は我が領土」(独島=日本では竹島)の替え歌を歌う場面からである。教科書にも載っているほど韓国ではポピュラーな歌だそうで、過去にはK-POPのアイドルが口ずさんだだけで日韓関係に緊張が走ったこともある。ストーリーの中盤は誰しもが訝しく思ったことではないかと思うけれど、貧困層対富裕層ではなく、貧困層と貧困層の対立へと話は進んでいく。それはまるで領土の取り合いであり、この辺りから経済問題だけが問題意識にあるわけではないのではないかと疑いながら観ることになる。
格差社会を印象づけるために『パラサイト』では上下方向の移動がそこかしこに取り入れられている。ソファの上とテーブルの下だとか地下に降りるのはもちろん、エレベーターでダイニングに上がってくる動作はしつこいほど繰り返され、照明を地下で操作する仕掛けも笑わせてくれた。しかし、パク家の弟ダソン(チョン・ヒョンジュン)は上下ではなく、水平方向で妙な行動を起こす。ダソンは雨の日に庭の中央でテントを広げ、そこで一晩を過ごすのである。『パラサイト』という作品ではこの行動が実に際立っている。これが僕には海の真ん中にポツンと浮かぶ竹島(独島)に見えてしょうがなかった。この辺りからソン・ガンホ演じるキム・ギデクとイ・ジョンウン演じるムングァンはそれこそ竹島(独島)を奪い合い、韓国に領土を奪われた日本が逆上して話はクライマックスへと向かっているようにしか見えなくなってしまった。考えてみればポン・ジュノは必ずといっていいほど政治的な文脈を作品に持ち込んできた監督である。在韓米軍の脅威を怪物に喩えた『グエムル』しかり、格差社会のトップとボトムが裏で繋がっていた『スノーピアサー』しかり。そうなると『パラサイト』というタイトルもアメリカと安全保障条約を結び、核の傘で守られている日韓の軍事体制を指しているのではないかとさえ思えてくる。昨年、ピック・アップしたミキ・デザキ『主戦場』が暴いていたように日韓が政治的に揉めるように仕向けたのはアメリカであり、最終的に斬り付けられたのがパク・ドンイク(イ・ソンギョン)=アメリカだったと考えれば政治的ファンタジーとして実に面白い流れとなる。韓国の富裕層が日常的に英語で喋りたがるのかどうかは知らないけれど、パク家がやたらと英語を使いたがるのも気になったところだし。
アメリカ的な富の考え方が頂点にある限り、この世界の流れはどうにも揺るがないだろう。19世紀はいわゆる経済放任主義の時代であった。その結果が格差社会であったためにイギリスは逸早く「ゆりかごから墓場まで」をスローガンに福祉社会の建設を目指し、その挙句にイギリス病に陥った。いま再び新自由主義が経済放任主義(=市場至上主義)を理想とし、同じように格差社会が舞い戻っている。19世紀にはなかった福祉という仕組みがある分、21世紀の格差社会は19世紀よりもマシなはずである。人類は少しは進歩しているのだと思いたいというか。そして、福祉社会という仕組みがかつて考え出されたように、また新たなことを誰かが考え出さないとは限らない。キム一家が貧困から抜け出そうとアイディアをひねり出したように。が、キム一家が小金を得るようになった途端、それによって手に入る暮らしを手放せなくなり、自分たちよりも下の貧困層には冷たくあたったように、個人には期待しない方がいいと『パラサイト』は告げている。そして、最下層から富裕層へとドミノ倒しのように攻撃が開始されるというヴィジョンがいま、人々にショックを与えている(ちなみに右翼の大物、赤尾敏は竹島は爆破してしまった方がいいと主張していた)。
予告編


























