Home > Reviews > Book Reviews > 自然なきエコロジー──来たるべき環境哲学に向けて- ティモシー・モートン(著) 篠原雅武(訳)
音響から環境へ、あるいは即興性へ──ティモシー・モートン『自然なきエコロジー』に寄せて
おそらくは、われわれは皆、ベートーベンの第六交響曲(田園)ではなくて、実験的なノイズ音楽を聞くようになったほうがいい。 ──ティモシー・モートン(1)
それ自体が即興的/断片的に綴られた『〈即興〉ノート』のなかで音楽批評家の間章は、即興をめぐる議論の神秘化を避けるための具体的なモデルとして、デレク・ベイリーの即興演奏とシュルレアリスムにおける自動筆記を挙げていた(2)。時代もジャンルも異なるこの二つの「モデル」を列挙したことは、意識に介入/検閲されることのない無意識の表出を自動筆記が目指していたように、即興演奏においてもまた、抑圧された無意識の領域を解放することが肝要であるという捉え方として受け取ることができる。それは他方では、意識に浸されることのない無意識を意識化できるということが前提になっており、作曲が意識的作業だとするならば、作曲に侵されることのない即興演奏、つまりは純粋かつ自然な即興行為を言祝ぐ価値観のもとにあるようにも思える。だがそれは截然と区別された「人間と自然」という二元論から「自然」を対象化するという、あまりにも人間的な視点に立ってはじめて言い得ることなのではないだろうか。そうではないはずだ。おそらく即興的実践は、演奏され聴かれるそのときにはすでに、いくらか「作曲」されてしまっている。
『自然なきエコロジー』の著者ティモシー・モートンは、エコロジーをめぐる思想が為すべきことは通常言われるところの自然へと回帰することではないばかりか、自然的なるものに言及しようとした途端に本来あるはずの「自然」を捉え損ねてしまうと警鐘を鳴らしている。たとえば彼は次のように述べる。
「自然なきエコロジー」は、「自然的なるものの概念なきエコロジー」を意味している。思考はそれがイデオロギー的になるとき概念へと固着することになるが、それにより、思考にとって「自然な」ことをすること、つまりは形をなしてしまったものであるならなんであれ解体するということがおろそかになる。固定化されることがなく、対象を特定のやり方で概念化して終えてしまうのではないエコロジカルな思考は、したがって「自然なき」ものである。(3)
かたちあるものの解体という「自然」な思考は、それがイデオロギー的になり概念へと固着することによって阻まれてしまう。そうではなくエコロジカルな思考においては「固定化されることがなく、対象を特定のやり方で概念化して終えてしまうのではない」ようなプロセスが必要とされる。であるがゆえに対象化された自然概念はもはや「自然」ではない。わたしたちが環境について語ろうとするとき、多くの場合は「自然」を前景化し中心へと呼び出すものの、まさにそのことによってわたしたちをとりまく背景としての「自然」は雲散霧消してしまう。しかしながらエコロジーの思想はこの「自然」にこそ接近しなければならないだろう。ここには人間とは明確に区別された客体としての自然を保護しようとする旧来のエコロジー運動や、自然のために人間の死をも受け入れなければならないとする全体主義的な環境至上主義(ディープ・エコロジー)とは異なる視座がある。「自然なきエコロジー」とはつまるところ、意識化に固着することなく無意識を捉える試み、より正確に言うならば、環境を対象化することなく「とりまくもの」として感得する試みのことなのだ。
1968年に英国ロンドンで生まれ、現在は米国テキサス州ヒューストンのライス大学で教鞭を執っている人文学的環境学者ティモシー・モートンは、2007年に刊行された彼の実質的なデビュー作『自然なきエコロジー』のなかで、こうした「自然」をいかにして語るかという問いを追求している。エコロジカルな思想、つまり環境について考えることがなぜ必要なのかといえば、グローバルな規模で発生している環境汚染や地球温暖化、あるいは度重なる異常気象などによって、わたしたちがこれまで自然なものとして自明視してきた環境が、否応なく思考せざるを得ない対象として迫り来る状況が訪れているからである。むろんこれまでにもエコロジーをめぐる思想は少なくない議論を積み重ねてきているのだが、本書のユニークな特徴として、エコロジーについて語るために数多くの芸術的実践を、たとえばロマン主義時代の小説や詩から、20世紀の前衛的な芸術あるいは大衆的な映画、さらにとりわけジョン・ケージ、リュック・フェラーリ、アルヴィン・ルシエ、フェリックス・ヘス、AMM、デイヴィッド・トゥープといったいわゆる実験音楽やノイズ・ミュージックなどの先鋭的な音楽実践を引き合いに出していることが挙げられる。それは固着化した「自然的なるものの概念」に対して芸術が流動的かつ非概念的な領域をもたらすからに他ならないが、同時に単なる美的なるものは固定化と概念化の発生源にもなりかねない。この危うい道筋をいかにして通り抜けていけばよいのか。そこで鍵概念となるのが「アンビエント詩学」である。
アンビエント詩学は「とりまくもの」を通して「自然」へと接近するための手がかりである。ラテン語の「どちら側にもあること」を意味するamboが語源になっている「アンビエンス」は、「周囲のもの、とりまくもの、世界の感覚」といった意味を有するが、それはモートンによれば「なんとなく触れることのできないものでありながら、あたかも空間そのものに物質的な側面があるかのごとく(……)、物質的であり物理的でもある」(4)という。わたしたちをとりまく「アンビエンス」は、物体として、あるいは通常の意味での客体として触れることができるものではないが、非物質的な想像上の産物であるわけでもなく、むしろ空間がそうであるように物質的かつ物理的なものである。それはわたしたちが無視し得る背景であるとともに注意深く気にかけることのできる実在でもあり、この意味でブライアン・イーノの提唱したアンビエント・ミュージックを強く想起させる。環境を遮蔽するBGMであるミューザックとは異なりアンビエント・ミュージックが環境の独自性を際立たせるとき、そこにはモートンが言うところのアンビエンスが浮上するだろう。そしてモートンはアンビエント詩学の重要性をその「当惑させる質感」に見出していく。「アンビエンスの当惑させる質感は、私たちを越えたところには「外側」としての自然と呼ばれる「もの」があるという信念を麻痺させ、作動できなくする」(5)。アンビエント詩学に触れるとき、わたしたちは自然や環境を「外側」として受け取るのではなく、むしろわたしたちの内部にさえ浸透した「とりまくもの」としてのありようを垣間見る。
ここにはアンビエント詩学としての芸術的実践を通して、人間の眼差しによって客体化された自然を相互包摂的に人間へと取り込み、「人間と自然」という二元論が瓦解する瞬間にわたしたちが立ち会うだろうことへの感覚が伺える。そしてモートンはそのような「とりまくもの」を語るための準備段階として、アンビエント詩学の主要な要素であるという「演出」「中間」「音質」「風音」「トーン」といった用語を検討していく。たとえば「中間的なもの」について彼は次のように述べている。
中間的な言明によって指し示すことのできるメディアの一つが、声か書くことそれ自体の、まさにその媒質である。音楽の音は、たとえばバイオリンという媒質によって聴くことができるようになるので、中間的な音楽の一節を聴くとき私たちは音の「バイオリンらしさ」つまりは音質を意識するようになる。(6)
話し声を「中間的なもの」として捉えるとき、わたしたちは声が運ぶ言語的なメッセージではなく声の肌理とも言うべき音の響きに、あるいはそれが鳴り響く身体や空間に、意識を向けることになる。同じように「中間的な音楽」においては、メロディやハーモニー、リズムといった記号化し得る要素よりも、まずはその音楽を可能ならしめている媒体としての音質、つまりは音響が聴き手に意識される。ここからは90年代からゼロ年代にかけて音楽とその周辺で交わされてきた、いわゆる「音響をめぐる言説」と非常に近い議論がなされているようにも読める。音響をめぐる言説、つまり音楽から切り離された即物的な響きとしての音を介して、非音楽的なノイズの探求や聴くことおよび空間を問題化した議論においては、まさしく音楽を可能ならしめている条件としての媒質に焦点が当てられたのだった(7)。モートンが指摘しているように、「私たちがノイズと考えるものと音楽と考えるもののあいだの境界をまさに無効にしようとする実験的なノイズ音楽は、音質(timbre)に関心を寄せる。ケージのプリペアド・ピアノは、ピアノの物質性に気づかせてくれる。(……)逆に、音の持続する振動や持続低音は、振動が起きているところである空間に気づかせてくれる」(8)。楽器が音楽のための道具である以前に備えている物質性、あるいは音が音楽のための記号である以前に満たされている空間性。それらはわたしたちがなにを音楽と呼び、なにを音楽ならざる背景もしくは雰囲気と呼んでいるかの区別に揺さぶりをかけていく。アンビエント詩学としての実践はまずもって「背景と前景のあいだの通常の区別を掘り崩す」(9)。
さらにモートンが「コミュニケーションが起きている媒質を指摘することは、コミュニケーションを中断させることである」(10)と述べるとき、それは音響的な即興演奏における丁々発止ではないやり取り、反応の拒絶、無関心を装った演奏の並走状態といった特徴を想起させる。音響的な即興演奏では、それが起きているところの媒質すなわち音響が前景化することによって、非対話的な演奏へ、つまりはありふれたコミュニケーションの中断へと進んでいったのだと解釈することもできるだろう。『自然なきエコロジー』は2007年に刊行されているが、ここ日本に限っても同年に音響的即興に関する論争が収録された大谷能生『貧しい音楽』と北里義之『サウンド・アナトミア』が、前年には音響派を90年代から取り上げてきた佐々木敦による聴取論『(H)EAR』、翌年には音楽家としての立場から音響と聴取を論じた大友良英による『MUSICS』が刊行されるなど、いわば「音響をめぐる言説」の総括の季節でもあり、こうしたことを踏まえるならば、モートンの思想からは時代の機運のような側面も感じられるように思われる。
とはいえ言うまでもなくモートンの議論を「音響をめぐる言説」へと収束させることはできない。後者はあくまでも特定の時代におけるある種の音楽の傾向を語るなかから浮かび上がってきたものだからだ。それに対してモートンの思想は小説、詩、絵画、映画と時代も領域も縦横無尽にわたり歩きながら「自然」に関わるための術を探っていく。いわば「音響をめぐる言説」の汎用化である。それだけでなく、モートンがアンビエント詩学を通して考察するのは、音響をも含み込んだ環境へと接近するためだということを見落としてはならない。たとえばモートンは米国実験音楽の作曲家アルヴィン・ルシエが1969年に手がけた「I Am Sitting in a Room」──パフォーマーが椅子に座りながら「わたしは部屋で座っている」という言葉を発し、それをその場で録音したものを同じ部屋でスピーカーから再生するとともにまた録音する、ということを繰り返していく作品──について次のような解釈を与えている。
作品は、言葉と音楽のあいだの、音楽とまったき音のあいだの、そしてつまるところは音(前景)と雑音(背景)のあいだの揺れ動く余白に位置している。事後的に、私たちは、過程のそもそもの始まりから部屋が声において現前していたことを知ることになる。声はつねにすでにその環境において存在していた。(11)
重要なのは音楽の媒質から響きの肌触りや聴くことの称揚へと向かうのではなく、「声はつねにすでにその環境において存在していた」と捉える点だろう。それはモートンがアンビエント詩学の根本的かつ基本的な性格とする「再‐刻印」のきわめて洗練された在り方とも言える。声の録音と再生を繰り返すことから次第に空間の周波数特性が顕在化し、声は靄のようにくぐもってかたちなき響きへと融解していくこの作品では、空間の特性としての環境を漸次的に増幅することで事後的に声がはじめから環境とともにあったことを明らかにする。すなわちパフォーマーが語る声はつねにすでに環境において存在するのであり、そして声と環境のどちらが先でもないという点で環境に刻まれた声は起源ではなく差異と遅延を孕んだ痕跡である。もちろん声が「再‐刻印」であること自体はこの作品に限ったことではない──あらゆる声はつねにすでにその環境においてしか存在し得ないだろう。だがそのような環境のありようは普段は聴こえないものとして隠されているのである。さらに言うなら録音と再生の自己言及的な反復は、同一の空間であっても僅かな差異を増幅することで実演の度に異なる相貌を明らかにするのであり、この意味で環境のありうべき潜在性を仄めかしてもいる。いずれにせよ音楽が環境とともにあり、あるいは環境が音楽において現前することは、音楽とその環境という二項対立が崩壊する瞬間をわたしたちに聴かせることになる。だがそうであるからこそモートンは二元論を放擲し一元論へと還元することもしない。アンビエント詩学とされる芸術的実践は「内と外の差異を実際のところは解体しない」(12)のである。
モートンのこのような思想からは、意図されざる響きとしてのサイレンスを音楽の主要な要素として取り込んだジョン・ケージや、その仕事を引き継いで何の変哲もないかのような録音に突如として録音メディアの不透明性に気づかせる仕掛けを施したリュック・フェラーリ、あるいは観客が会場空間に介入することによる微細な変化を電子音やオブジェによって可聴化/可視化したフェリックス・ヘスなどについても、同様のアンビエント詩学を湛えていると言うことができるだろう。それらはどれも音楽がおこなわれるところの条件としての環境──サイレンス、録音物、会場空間──に言及する。だが普段は隠されている環境に言及することは、それが見られ聴かれるものとされた途端に、環境であることをやめてしまうということを忘れてはならない。それを「自然なき」ものとして感得するためには、音楽の条件としての環境を明らかにすることそれ自体を概念化するのではなく、なおもその環境が流動的であるような曖昧さのうちに留まらなければならない。
モートンはアンビエント詩学の作品について「知覚しえないものを知覚できるものにしつつ、その知覚しえなさのかたちを保つ」(13)とも述べている。知覚しえなさのかたちを保つとはどのようなことだろうか。モートンはこのような「かたち」について「自由即興を思い起こさせる」(14)という。体系化されたジャンルの技法に基づくことのない自由即興においては、あらかじめ決められた「かたち」の再現ではなく、手探りの状態でその時その場に生成するいわば「かたちなきかたち」を試みる。それはつねに事後的にしか結果がわからないような意想外な出来事へと、つまりは未知のものの領域へと突き進んでいく。だが未知のものが引き起こされた途端に、わたしたちにとってそれは既知のものになる──現在ではジャンルとしての「自由即興」が再現可能なスタイルと化しているように。そうではなく自由即興をその本質──いわばその即興性──において捉えるならば、それは既知のものと化したうえであらためて未知のものを探っていく試みだと言わねばならない。こうした未知のものと既知のものの往還運動が自由即興にあるのだとしたら、それはモートンが言うように「未知のものを既知のものにすることを欲する」(15)のであり、同時に「未知のものの特質である、当惑させる不透明性を保持しておくことをも欲する」(16)ことになる。自由即興における「かたちなきかたち」が事後的に未知のものであることをやめ、ひとつの「かたち」として既知のものに変化することは、自然について語ろうとした途端にそれが「自然」であることをやめることにも似ている。
私たちが自然を真正面からみるとき、自然はその自然性を失う。私たちにはそれをただ歪像として垣間見ることができるだけである。歪みとして、形のないものとして、あるいは他のものがその形を失う状態として。この「かたちなきもの」が、エコロジカルに書くことの形式そのものである。(17)
自由即興と銘打っていれば無条件で「即興性」をもたらすのではない。むしろ自由即興を真正面から──どれほど複雑であろうとメロディ、ハーモニー、リズム、音色などに還元された静的な構造を──聴き取るとき、演奏はその「即興性」を失ってしまう。わたしたちは「自然」を歪像として垣間見るように演奏の「歪み」を聴き取らなければならない。そしてそのように垣間見られた音の歪像こそがモートンに自由即興を想起させた「かたちなきもの」なのだろう。実は即興的実践に関してモートンは別の著作で興味深い一節を書き残している。本書の訳者である篠原雅武が2016年に刊行した『複数性のエコロジー』では、モートンとの直接の対話からアンビエントの議論を語根を同じくするアンビギュイティすなわち曖昧さ──「硬直性、二元論、首尾一貫した確定状態において消されてしまうもののこと」(18)──の議論へと接続していた。そしてモートンは「この曖昧さを、たとえば即興という表現行為との関連で指し示す」(19)のである。その一節として篠原はモートンによる2013年の著作『リアリストマジック』における次のような文章を引用している。
即興とは、デリダが指摘したように、読むことと書くことが容易に区別できなくなっている状態で、読むことである。(20)
わたしたちはふつう、読むことと書くことは別の行為だと考えている。だが文章を読解しあらたに何かを書き起こすとき、読むことは書くことへと入り込み、また、書くことによって、もとの文章には読むことのいわば痕跡が残される。あるいはもっと素朴にこう言ってもいいだろう。なにがしかを書いているとき、わたしたちは書かれつつあるその文章を読んでもいるはずなのだ。事前に書くべきことを決定しているならともかく、わたしたちは書きつつ読み、読みつつ書き、そしてついに思いもよらなかったことを書き出してしまうこともある。それはきわめて即興的な行為と言い得る。即興演奏に比すべきは、読むことなく自由連想法的に書き続けていく自動筆記ではなく、むしろ「読むことと書くことが容易に区別できなくなっている状態」だったのではないだろうか。
そしてこれを音楽において考えるならば、音を発することと聴くことが容易に区別できなくなっている状態で聴くことである、と言い換えることもできる。あらかじめ発する音が決められた演奏行為においては、聴くことと発することはあくまでも区別されたものとしてある。極端なことを言うならば、そこでは聴くことがなかろうとも「決めごと」に従って音を発しさえすれば、演奏はその目的を完遂することができる。だが音を発しつつ聴き、聴くことが発する音に変化をもたらし、また音を発することが聴くことを変化させていくとき、それはつねに生成変化する「即興性」の本来的なありようを描き出す。ここで重要なのはこうした「即興性」が作曲によって損なわれないばかりか、むしろジャンルと化した自由即興やスタイルとしての即興演奏によって立ち消えてしまうということだ。すなわち自由即興をその「即興性」において捉えるならば、作曲ではない純粋な即興演奏をフォルマリスティックに追い求めていくのではなく、むしろ作曲と即興の区別が曖昧な状態で即興することへと向かわなければならない──そこには必然的に作曲としての契機が織り込まれている。そしてこのように生成変化する「即興性」は、アルヴィン・ルシエの作曲作品における録音と再生や、フェリックス・ヘスの展示作品における装置と観客が、その環境において相互陥入的に影響を与え合い変化していく循環的なありようと類比的なものとして捉えることもできる。二元論を放擲するのではなく、しかし従うのでもなく、アンビエント詩学によっていたるところに現出する二元論の瓦解の瞬間を聴き取り、感じ取ること。そのようなモートンの環境思想は、音楽の条件としての環境に言及するとともに、環境への言及それ自体が曖昧になるような当惑させる質感をともなう「即興性」に、そのアクチュアルな具体性をあらわすことだろう。
繰り返しになるものの本書『自然なきエコロジー』は2007年に刊行されている。このことの意味は大きい。なぜなら同年に英国ロンドンのゴールドスミス・カレッジでおこなわれた学術会議が、のちにモートンがその文脈で語られることになる思弁的実在論の出発点となっているからである(21)。読まれるように本書には思弁的実在論とその周辺の議論は一切出てこない。だがそのことはかえって、スタイルに当て嵌めてしまっては取り零してしまうようなモートンの思想の深部があらわされた、彼自身のキャリアのなかでも比類なき内容になっているように思う。それは19世紀に蓄音機を発明したトーマス・エジソンが、娯楽として音楽を複製し流通させるという20世紀的な用途をほとんど考えておらず、その代わりに教育やコミュニケーションなど生活の傍で記録と保存を担うといった、いわば20世紀的思考が覆い隠してきた蓄音機の物質的な可能性に触れていたように、本書もまた潮流としての実在論/唯物論以前にあるような、多方向に展開し得る脱人間中心主義的な思考の複数の軌跡が刻まれていることだろう。その痕跡を読み取るにあたって概念とイデオロギーによる硬直化を注意深く避ける必要があることはあらためて言うまでもない。
(註)
(1) ティモシー・モートン『自然なきエコロジー 来たるべき環境哲学に向けて』(篠原雅武訳、以文社、2018年)13頁。
(2) 間章『間章著作集 III さらに冬へ旅立つために』(月曜社、2014年)。
(3) ティモシー・モートン『自然なきエコロジー』47頁。
(4) 同前書、66頁。
(5) 同前書、354頁。
(6) 同前書、75〜76頁。
(7) たとえば次を参照。「『音響的即興』再考」(「大胆不敵な音楽の熟達者たち――AMM論」)http://www.ele-king.net/columns/006473/index-4.php。
(8) ティモシー・モートン『自然なきエコロジー』76頁。
(9) 同前書、同頁。
(10) 同前書、74頁。
(11) 同前書、93頁。
(12) 同前書、100頁。
(13) 同前書、186頁。
(14) 同前書、同頁。
(15) 同前書、同頁。
(16) 同前書、同頁。
(17) 同前書、124頁。
(18) 篠原雅武『複数性のエコロジー 人間ならざるものの環境哲学』(以文社、2016年)68頁。
(19) 同前書、同頁。
(20) 同前書、同頁。
(21) 正確を期するならばモートン自身は思弁的実在論ではなくオブジェクト指向存在論の立場を取っている。
細田成嗣