ele-king Powerd by DOMMUNE

Home >  Reviews >  Album Reviews > 七尾旅人- billion voices

七尾旅人

七尾旅人

billion voices

felicity/P-Vine

Amazon iTunes

橋元優歩   Jul 27,2010 UP
このエントリーをはてなブックマークに追加
E王

 不自由さや閉塞感の中に表現の根拠を見いださなければならないというのが、2000年代の日本の状況だった。表現するということの居心地の悪さが、「なぜ表現などということをするのか、そんなことにいまどのくらいの意味があるのか」と無限に自己弁明を強いるような、ややこしい時代。たとえば相対性理論ならば、作品においてもふるまいにおいてもなかば露悪的にポップ・ミュージックという枠組み自体を脱臼させることで、その居心地の悪さを踏み抜こうと試みていたと言えるだろう。

 そうした無限の自己弁明に耐えられないならば、動機に関するメタな考察はいっさい放棄して、あるいは「エンターテイメント」に、あるいは「純文学」に、あるいは......といった具合に制度的なひとつの態度に開き直ることでなんとか創作行為を維持していくような消耗的な時代。ライトノベルやある種のゲーム、アニメの勢いがあったり、AKB48にうかがわれるパッケージ・ビジネスに期待が寄せられたりするムードもそのいち例だろう。こうした状況にどのように向かい合うかという問いの真摯さも、何が"真摯さ"かということが自明ではなくなって――表現における"真摯さ"の価値が崩壊して――シリアスな表現者ほど苦しい闘いを余儀なくされたように思う。「ゼロ年代」という呼称は、そうした状況と分かち難く結びついたものだ。ゼロはリセットの意ではなく、底抜けの空白状態を表すにふさわしい。

 七尾旅人は"真摯な"闘いを続けるアーティストである。七尾旅人の怪しげな格好は、メタ表現者......表現者としての自らに加えられたシニシズムでもあろうが、同時にゼロ年代を漂泊する西行のような、孤高の吟遊詩人の姿にも重なる。踊り念仏の一遍、あるいは空也になぞらえてもいいかもしれない。彼らの共通項は「ライヴ」だ。本作についてなにかを述べようとするならまず彼の近年のライヴの模様について語らねばならないと筆者は考える。

 七尾旅人はライヴという一期一会の場所におけるコミュニケーションを巧みに捏造する。そして例えばポリティカルなテーマ(=ネタ)設定によって、かろうじて外部性をでっちあげる。直接性を保証するはずのライヴにおいても、社会やメディアが高度に複雑化しきった現在では、コミュニケーションなど自明には成立しない。イヴェントやライヴの最中に携帯を広げる姿が目立つというが、メールではなくツイッターであろうし、その様子がストリーミング配信による実況中継で遠隔地の人間にも共有される昨今だ。彼らもまたツイッターに参加する。その真ん中で「つぶやき」を拾い、読みあげる七尾。また曲中でさえ客いじりを中心にしゃべりまくる七尾。そのように、なかば「コミュニケーションのパロディ」といった様相で立ち上がる彼のパフォーマンスは、一いちどの屈折を経ないと相手に繋がらないという、信頼よりは不安が先立つ90年代型の感性と、間接的なコミュニケーション・ツールが爛熟し飽和したゼロ年代に、そのマナーを逆用することで直接性の片鱗を掴もうという企てが交叉したもののように思われる。卓抜な弾き語りと、アイディアに満ちたパフォーマンス、彼自身のカリスマ。持てるものを総合して闘っている印象だ。

 彼の場合、批評性に偏るタイプではなく、実際に素晴らしく音楽的な才能と、音楽に対する純粋なリスペクトがあるところが得難い存在感に繋がっている。「フォーク・シンガーっていかに何もしないかだと思ってるから」ふわっと現れ、なにほどか聴衆を愉しませ、気づけば舞台を去っている。あれ? あの人は何だったんだろう? というような存在になりたい......という趣旨のMCをいつか聞いた。それはまさに詩と音楽と踊り念仏の上人だ。人びとを踊らせ(愉しませ)、メッセージをおいて、どこかへ消える。明晰な七尾は韜晦的な調子で述べるが、おそらくこれは本音だろう。
 
 さて、5枚目となるフル・アルバム『ビリオン・ヴォイシズ』は、こうしたライヴにおいてアニマートに演奏される楽曲のアソートだ。YouTubeなどで拾える名演も多いが、その本尊としてのスタジオ録音といった印象である。また、集められた楽曲は自ずからひとつのテーマ性とストーリーを浮かび上がらせている。アコースティック・ギターの軽快なリフに先導されて頼りない妻子持ちの身上をまくしたてる"アイ・ワナ・ビー・ア・ロック・スター"。単一のリフのみ、あとはヴォーカル・パフォーマンスで聴かせてしまうシンプルな展開。だが作中主体の妄想とともに突如ペダルで起爆、ファズが唸り、ブルージーなリフはヘヴィに強調され、野外フェスのような歓声とともにヒロイックなギター・インプロが延々と続く後奏へと流れ込んでフェイド・アウト。アルバムの冒頭を飾るにふさわしい、期待感のあるナンバーだ。

 スペーシーなサウンドとリズムボックスがネットワーク世界を幻想的に描き出すファンシーなシンセ・ポップ"検索少年"は、クリエイターが自ら楽曲ファイルを販売できる新システム「DIYスターズ」の開発とそれを利用したリリースでも話題になった曲。NHK「みんなのうた」で流れたとしても違和感のない童謡的なメロディとサリュの紗のようなコーラスが効いていて、本作品中では異色なトラックとなっている。
 つづく"シャッター商店街のマイルスデイビス"と"バッド・バッド・スウィング!"はアルバム全体の腰となるパートだろう。琵琶法師もかくや、クラシック・ギターを抱いて語りとも歌唱ともつかない節回しで紡がれつづける言葉、言葉、言葉。ライヴでもハイライトとなるパフォーマンスで、カオスパッドを用いてヴォーカルに変幻自在な表情や遊びが加わる。マイルスのプレイの声真似には微笑が漏れる。似ている。シャッター商店街のシャッターの向こうから突然マイルスが現れ、トランペットを聴かせてくれるくだりだ。すると妄想は次へ次へと連鎖し、いつしか心はサバンナへ。サバンナとカフェを好む作中主体は、その大地を慕って連呼する「帰りたい帰りたい帰りたい......」帰りたいのがいったいサバンナなのかファスト風土化した日本なのか、聴いているうちになんだかわからなくなった。そのまま間髪を入れずに"バッド・バッド・スウィング"。ウッドベースは人々がひしめいて踊る闇を演出し、七尾はそれを早口に描写、ピアノは艶かしく、ドラムは性急に心をあおる。サックスは加藤雄一郎。次第に熱を帯び、咆哮するサックスと七尾のド迫力のスキャットが切り結ぶ圧巻のセッションだ。七尾のプレイ・スタイルとして、批評性が勝るかに見えて実際には極めて洗練された音楽性が楽曲を支配しているという性質が挙げられるが、この曲はその嚆矢といえる。彼の声はほんとうに素晴らしい。非常に醒めた視線と非常にロマンチックな理想に引き裂かれている。そして前者を後者が圧倒しようとするのがよく見てとれる。

 あとは"どんどん季節は流れて"、"Rollin' Rollin'"だろうか。ソング・ライティング以上に表現や歌唱自体に並みならぬ才能をみなぎらせる七尾がブラック・ミュージックに接近するのは、時間の問題だったのだろう。メロウでハート・ウォーミングなR&Bナンバー"どんどん季節は流れて"はライヴでは聴衆に合唱を求められる。ソウルフルな味わいのシンプルな曲で、やはり七尾の歌唱が冴える。"Rollin' Rollin'"は説明不要のフロア・アンセムだ。やけのはらとのコラボ作で、ニュー・ソウルへのオマージュに満ちた切なく幻想的なトラックに、やけのはらの棒立ちのラップが鮮やかに映える。メロディは忘れがたく、ヴォーカルは甘く涼やかだ。一夜と一生と世界が渾然と混ざりあって回転するイメージが、ターンテーブルに重ねられてエンドレスに展開する......わずかにビターな後味を残す、アーバンな雰囲気の名曲である。

 こうした曲の合間を、静かな弾き語りの小品が埋めていく。いずれにも身近な人間の命を愛おしく見つめる視線が織り込まれていて、本作のサブ・テーマを形作っているように見える。"あたりは真っ暗闇"は、さすらいのブルーズメンを自らに重ねたものだろう。愛するものを後へ後へと残して旅する、音楽にしか身寄りのない男たちへの憧れと共感がにじむ。が、そんなロマンチシズムへの自嘲もわずかに宿っている。七尾の下駄に麦わら帽、ひらひらと黒い衣装をまとった「うさん臭い」姿は、全身で「俺についてくるな」と語っているのではないだろうか。実際の自分は「大騒ぎの後まだ生きてる」ことに不思議さを覚えながら、「ちょっとそっちにいってみよう」と思っているだけなのだ(なんだかいい予感がするよ)と。

 人びとを踊らせ、いい予感を残し、自らは去る。今作は七尾自身がこれから歩む道を方向づける重要作ではないだろうか。六波羅蜜寺の有名な空也像は、念仏を唱える口からどんどん阿弥陀が出てくる。ふと見れば、本作ジャケット写真も七尾の口からどんどんと歌われたものが形を成して出てくるデザインだ。それは音楽への敬虔さであると同時に、世界に対する――「ビリオン・ヴォイシズ」に対する――敬虔さの証であるように思われる。彼はけっして安易に世界を否定しない。そしてそれがどう聞かれようとも「心配要らない」と歌う。ミュージシャンとはそのようなものであってほしい。

橋元優歩