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酒井隆史(責任編集)

酒井隆史(責任編集)

グレーバー+ウェングロウ『万物の黎明』を読む──人類史と文明の新たなヴィジョン

河出書房新社

三田格 May 02,2024 UP

 東北大震災が起きてしばらくした頃、なんとなく『十五少年漂流記』と『蝿の王』を読み返した。無人島に流れ着いた少年たちが権力をめぐって殺し合いに発展する後者と、基本的には仲良くやっていく前者という記憶があったので40年ぶりに読む『十五少年漂流記』はきれいごとにしか感じられないんじゃないかと予想しながら読み始めた。『蝿の王』は確かに印象は変わらず、『十五少年漂流記』はきれいごとどころか、仲間内に不協和音が生じたところで外敵が現れ、一気に団結が深まるという展開だったためにイスラムやロシアを敵視しなければ生き生きとしないアメリカを思い出し、攻撃性を内に向ける『蝿の王』と、外側に向ける『十五少年漂流記』という対比に印象が変わってしまった。1888年に書かれた『十五少年漂流記』は1871年に2ヶ月間だけ成立したパリ・コミューンの記憶を子ども向けの冒険小説にアレンジしたものなので、世界初の労働者自治政府やそれによって実現した社会民主主義政策の数々をフィクションにしたという側面もあり、労働運動にとっては貴重な文献の意味も持っているとはいえ、共同体のあり方として『十五少年漂流記』が構築したモデルは、少なくとも現在の世界にとってはあまり有益なものとはいえないのではないかという認識に改まったのである。

 これが、しかし、デヴィッド・グレーバーの思想を紹介する『『万物の黎明』を読む』で再度、価値観が覆った。『蝿の王』か『十五少年漂流記』か、という問いがそもそも間違いで、グレーバーのそれにならっていえば、この比較は「無人島に流れ着いた少年たちが互いに協力しあって平和的に過ごすという物語がなぜ名作として残されていないのか」という問いに変貌する。いわば内乱を肯定する『蝿の王』も、外敵を設定して挙国一致でまとまる『十五少年漂流記』も攻撃性を担保しているという意味では同じで、少年たちが平和裡に過ごすだけでは名作にならない世界に自分たちは生きているという認識がもたらされる。誰もお花畑には興味がない。『けいおん!』などという平和ボケしたアニメは無人島に舞台を移せばすぐに暴力性が発動し、内であれ、外であれ、血が流れてこそ共同体といえるものになると。

 そうなるとむしろ気になるのは『蝿の王』が昔と印象は同じだったことである。核戦争の恐怖に怯えながら1954年に書かれた『蝿の王』は1963年(冷戦初期)と1990年(冷戦終結直後)に映画化され、『漂流教室』や『ドラゴンヘッド』といったマンガに意匠替えもされ、殺し合いこそないものの「追放」というルールに置き換えられた『サバイバー』や『アイム・ア・セレブリティ』(ジョン・ライドンが出ていたやつね)といったリアリティTVの爆発的人気を通して、むしろ過剰に既視感を煽られていたのではないかという気がしてくる。「いじめはなくならない」という言い方なども同じ効果を与えてきただろう。「無人島でなくても狭いエリアに少数の人間が閉じ込められばいつしか争いになる」ことが「自然状態」であるかのようなヴィジョンがそこかしこに撒き散らされ、国家や統治機構に相当するものが人々を管理していなければ悲劇的な結末に至るというストーリーが常に上書きされてきたというか。昨年、TBSで放送された『ペンディング・トレイン』は電車ごと未来にタイムスリップするというサヴァイヴァルもので、社会における自己効力感をメイン・テーマとしていたものの、物語の後半になるとやはりグループ同士の抗争という見せ場が用意されていた。そうした要素がないと視聴者は納得しないという判断があるのだろう。

 デヴィッド・グレーバー&デヴィッド・ウェングロウ『万物の黎明』に興味を持ったのは、同書に「自然状態はなかった」という記述があると耳にしたからだった。人類が社会をつくる以前の状態を哲学者たちは「自然状態」と名付け、現代のような文明社会とは様相が異なるといって区別してきた。『蝿の王』と『十五少年漂流記』を読み返してから、この10年ほど、そのように定義されてきた「自然状態」という言葉が頭のなかでぐるぐると回り出し、「格差社会」というキーワードがそれを追って並走し始めると、この世界は適者生存のサヴァイヴァル・フィールドにしか見えなくなってくる。それこそ『ハンガー・ゲーム』や『イカゲーム』など人為的に仕掛けられたサヴァイヴァル・ゲームとして戯画化する流れや、マンガなどのタイトルには現世を通り越して「転生」や「来世」といったキーワードがあふれ、ごく普通のTV番組を観ていても「生きる」ではなく「生き残る」というフレーズが当たり前に使われている。人類は「自然状態」から「社会状態」に進歩してきたのかと思っていたら、「社会状態」がもはや「自然状態」と同じになっている。働いても働いても手取りが増えないと悲観する労働者と外国人が自分の仕事を奪うと吼えたてる右翼。弱者に向かって「終わってる」と勝ち誇る富裕層がいるかと思えば、自ら「詰んだ」と肩を落とす低所得層もそこかしこ。ホッブスによって「万人の万人における闘争」と性格づけられた「自然状態」が骨格ごとむき出しになっているイメージである。もしも、自分が原始時代に生まれていたら狩猟採集に明け暮れなければならないのは仕方がないと思うけれど、いまは原始時代ではないから、どこかしらに「蓄え」というものがあるはずで、『蝿の王』のような世界観のなかを生きていかなければいけないとはどうしても思えない。仮に「自然状態」がホッブスの考えるように闘争的なものだったとしても、そこから遠ざかるだけの豊かさを獲得してきたのが人類であり、現代文明ではないかと思うので、余計に納得がいかなかった。そこに「自然状態はなかった」と言い出した人がいるという。興味を持つなと言われても無理じゃん。

『万物の黎明』にはしかし、「人類史を根本からくつがえす」という副題がついていて、なんというか陰謀論みたいで、ライヒスビュルガーの類だったらどうしようという不安がまとわりついていた。荒俣宏監修の『世界神秘学事典』だって言ってみれば「人類史を根本からくつがえす」本だったし、『天才バカボン』や種村季弘を読んでもひっくり返るし、スティーブン・ジェイ・グールドやV・S・ラマチャンドランもひっくり返っちゃって、なんだったら北山修やエマニュエル・トッドでもひっくり返りそうな僕としてはむしろ根本からくつがえさずに地道にこつこつと研究している方が新鮮だったりするぐらいで。とはいえ、「自然状態はなかった」ってどういうこと? と会う人ごとに訊ねていたら、誰からも答えは返ってこなかったのに、どこからともなく、というか、河出書房新社から『『万物の黎明』を読む』が送られてきた。河出書房新社は『サピエンス全史』で「人類史をくつがえ」したばかりなのに、またしても「人類史を根本からくつがえ」そうとしている。こちらの副題は「人類史と文明の新たなヴィジョン」である。う~ん、やっぱりライヒスビュルガーめいているなー。『万物の黎明』というタイトルも考えてみればニューエイジを思わせる。新興宗教が豪華なパンフレットに印字しそうなタイトルだし。悩む。読むべきか読まないべきか(そうだ、ChatGTPに訊いてみよう!) 。

 おそるおそる本書を読み始めると、序文に続く監修者へのインタヴューで「自然状態はなかった」というのは本書を評したヴァージニア・ヘファーナンの言葉だと書いてあった。とはいえ、本書にそのような類のことが書いてあることは間違いないらしい。人類の歴史は巨大なモニュメントを残したヒエラルキー型の国家を中心に書き残されてきたために、平等主義でやってきた社会はなかったことのようになってしまい、歴史家の視界にはまったく入っていなかったと。僕の記憶では2000年に日経サイエンスが訳出したJ・ブレッツシュナイダーの論文で、メソポタミア文明を構成する北部の遺跡を調べると富裕層と低所得層の家が隣り合わせて建てられていることがわかり、収入格差によって住む場所が分けられるようなことはなく、意外と民主主義的だったことが判明したとされていたけれど、そういった文明の数々は悪目立ちするモニュメントを建設することがなかったために、なかったことにされてきたのだという。ハコモノ行政の鬼だった秦の始皇帝のような人物がいた共同体ばかりが歴史を構成する要素となり、それらをつなぎ合わせていくと原始的な社会から現代の文明社会へと続く「進化」の道筋があるような気がしてしまい、ヨーロッパ文明のような進歩的世界以外はみな未開と位置づけられ、それに「自然状態」のレッテルを貼ってきたというようなことだという。『万物の黎明』では、そうではなく、巨大モニュメントを建設することなく、平等主義を続けていた社会の方がむしろ文明的だったのであり、数もそっちの方が多かったのではないかと主張する。ルソーは社会契約論を構築するために人類の起源は不平等だったとする「自然状態」をいわばフィクションとして立て、そうした考えがフランス革命の理論的支柱となっていくわけだけれど、そもそもそうした「不平等から平等」へと刷新されなければいけない社会を営んできたことが例外的なことであり、多くの共同体は人類の黎明期からもっと平等だったというフィクションを新たにぶつけてきたわけである。権威型の社会がさも人類には不可欠なものだったという印象操作が働いていたのが歴史というものであり、系譜学的にいうならば、そのように書かれることで有利になる人たちがいたんでしょうと。そして、そのような進歩史観が行き詰まりを見せる現在を逆照射し、ヒエラルキー型の統治システムを必要としないアナーキズムに光が当てられていく。

 そのように言われるとなんとなく思い出すことがある。2003年にイラク反戦をテーマにサウンド・デモをやった時、最初は誰が何をやるかを決めず、適当に始めたら参加者がそれぞれに得意なことをやりだして最後まで騒ぎまくるだけで面白かったのに、これが2回、3回と続けるうちに、なんとなく得意なことを担当制にしてしまったためか、効率は上がり、デモに集まる人数も倍々で増えていったにもかかわらず、どことなく義務とか責任が生じたようになってしまい、楽しむことよりもやり遂げること、サウンド・デモという場所を維持することに主催の関心が移らざるを得なくなっていった。大きくしなければできなかったこともあるし、警察の棋聖線を突破してデモ隊が雪崩を打つダイナミズムなどは人数が多いからこそ面白かったことではあるのだけれど、誰が言い出すでもなく、1年間でやめてしまったのは、僕は「維持」することに負荷を感じるようになったからだと思っている。場を共有するために犠牲を強いられる人が何人かいて、それがなければ成り立たないのであれば続ける必要はないという感覚が暗黙のうちにみんなに伝わったことで、次はなかったのではないかと。ヒエラルキー型の統治システムが構築されていれば、そのようなことはなく、こうした組織は持続するのかもしれない。それが西欧社会などの権威的な国家のあり方だと『万物の黎明』が主張するのであれば、自分としてはそれは実感として理解していたという気もしないではない。こうした経験を経たことで、それぞれが得意なことを担当にしてしまうということが官僚制の始まりなのかなと考えたこともしばしばで、バンドの寿命について考える時もそのことは当てはまる。逆にいえば、グレーバーが主張する平等主義の社会は無数にあったかもしれないけれど、どれもが長くは続かなかったことにはそれなりの理由があったのではないかと思えてくる。本書には「持続する社会という評価自体(中略)倒錯的なユートピアに過ぎない」(瀬川拓郎)という発言もあり、アイヌ社会の分析を経て縄文時代について考えた文脈からは必要なだけの説得力もあるので、このあたりは僕の理解力が追いついていないのかなとは思う。考古学という学問自体、何をどう解き明かそうとしているのか、その思考様式や何やらがよくわかっていないので、彼らが『万物の黎明』のどこに興奮し、どんな可能性を述べ立てているのかもうひとつ距離を感じてしまうのだけれど。

『『万物の黎明』を読む』にはまた、権威的統制国家の行く末について否定的な言葉が並べられる反面、世界中に存在したとされる反権威的平等主義の社会には女性差別があったのかなかったのかということにまったく言及がない。驚くほどそのことには関心が払われていない。災害地にボランティアなどが集まると「気がつくと水まわりは女がやっている」と言われるように、自然発生的な組織論だからこそ、そうした役割の固定は深刻だと思うので、グレーバーたちが「人間を、その発端から、想像力に富み、知的で、遊び心のある生き物として」捉えているのならば、なおさらそこはスルーして欲しくなかった。本書の後半は人類学、考古学、哲学の専門家がそれぞれの領域で『万物の黎明』に触発された興奮を語り、「人類史を根本からくつがえす」ことに意識が絞られるあまり専門的過ぎて女性差別よりも重大な問題が事細かに語られているという印象が強い。僕としては水たまりが気になって先へ進めなかったところも多々あるというか、「人類史と文明の新たなヴィジョン」に女性たちの未来は含まれているのかどうか、それこそ序文にはあらかじめ「あれがなかったりこれがなかったりするのはゆるしてもらいたい」と特大のエクスキューズが打ち込まれているものの、これに関してはそういった言い訳は用意して欲しくなかった。今後、『万物の黎明』に触発されて無数のアナーキストたちが反権威的平等主義の社会をつくったとしても、その時の平等は権力や経済的なことがほとんどで、依然として女性が差別されたままではあまりにも無力感が強くのしかかる。「万物」という範囲の設定がここでは裏目に出ている。

 もっと書きたいことはあるし、それだけ議論を触発する本ではある。本書は1人で考えるよりも対話が大事だと強調していた箇所が何箇所もある。となると、書きたいことを書ききってしまうのはよくないのだろう。ちなみに僕は学校の授業で刷り込まれた「万人の万人における闘争」という考え方にいまのいままでインパクトを感じ、現代について考える上で不可欠な要素になっていたことにここへきてようやく気がついた。ジョン・ロックが同じく「自然状態」を定義する時に人々はもう少し助け合う存在なのではないかとしていたことは忘れ去っていたにもかかわらず。デヴィッド・グレーバーもホッブスやルソーは批判しているみたいだけれど、ロックについてはとくに言及はしていないみたいで、そこのところはよく分からなかった。それとも引用されていないだけで、『万物の黎明』では取り上げられているのかな。うむ。やはり『万物の黎明』も読まないとダメだろうか。うむむ。悩む。読むべきか読まないべきか(もう一度、ChatGTPに訊いてみよう!) 。

三田格

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