インディ・ヒップホップ・レーベル〈ブラック・スワン〉のオーナーで、元〈Pヴァイン〉のA&R/ディレクターの佐藤将さんが3月5日に亡くなった。享年40歳だった。佐藤さんが亡くなって1か月近くが経とうとしているが、熱心な日本語ラップ・ファンや若い日本語ラップ・リスナーの人たちにこそ佐藤さんの功績を知ってほしいという気持ちは増すばかりだ。
音楽業界におけるA&R(Artist and Repertoire)という職業は、たとえるならば、出版業界における編集者のようなもので、才能あるアーティストを発掘し、その才能を育て、作品を世に送り出すのが仕事だ。アーティストにアドバイスし、ときにプロデューサー的役割を担う。寝食をともにし、ときにはカネを貸すこともある。そうやって、いっしょに遊んで、飲んで、仕事をして、音楽を作っていく。
アメリカの音楽専門サイト『COMPLEXMUSIC』は、昨年2月に「The 25 Best A&Rs in Hip-Hop History」という記事をアップしている。1位は〈ジャイヴ〉のCEOであるバリー・ワイスで、2位にドクター・ドレ、3位にディディ、4位にリック・ルービン、9位にRZAがランクインしている。
そうしたUSのシーンとは産業の規模やA&Rの捉え方において差はあるものの、日本語ラップでこの手の企画をやれば、ベスト10に間違いなく入るのが佐藤さんという人物だった。いや、番外編の1位を飾る人物であると評した方が的確かもしれない。「佐藤さんは番外編の1位ですよ」と仮に伝えることができたならば、佐藤さんは体を斜めに構え、ニヤリと不敵な笑みを浮かべ、皮肉のひとつやふたつでもくり出しながら喜んでくれたに違いない。佐藤さんはそういう天邪鬼なところのある、最高にマニアックな人だった。変態や変わり者やはぐれ者、少数派への異常な愛というものがあった。狂気と正気のはざまから産み落とされる芸術=ヒップホップを愛していた。それが、佐藤さんの最大の魅力であり、A&Rとしての武器であり、個性だった。
佐藤さんのもっとも重要な功績をふたつ挙げるとすれば、MSC『Matador』(2003年)とSCARS『THE ALBUM』(2006年)を世に送り出したことだろう。2000年代のインディ・ヒップホップの方向性を決定づけた、それぞれ個性のまったく異なるMSCとSCARSというハードコア・ヒップホップの二大巨頭をいち早く評価し、シーンを揺り動かす傑作を生み出した。
昨年末に〈リキッドルーム〉で、本当にひさびさに観ることのできたMSCのほぼフル・メンバーでのライヴの数日後に電話で話したとき、普段は辛辣で、そう簡単にMSCを褒めない佐藤さんが珍しく「MSC、やればできるじゃん! ライヴ、ヤバかったよね! 今後いい感じになってほしい」とうれしそうに語っていたのが印象に残っている。MSCが本格的に再始動するのをいちばん楽しみにしていたのは、佐藤さんだった。
〈ブラック・スワン〉を立ち上げてからは、ゴク・グリーンをデビューさせている。また、レーベル・オーナーとしての苦悩をユーモラスな自虐精神と恨み節で語った鼎談記事をレーベルHPにアップしてもいた。
時代の変化に伴う経済的理由はおおいにあるだろう、大きなお金を生まないアーティストに時間や労力を惜しみなく使い、運命共同体のように歩んでいくA&Rはいまや少数派となっている。
そういう意味で佐藤さんは、反時代的で、反骨心のあるA&Rだった。シビアなポリティックスが渦巻くヒップホップ・シーンのなかで、一筋縄ではいかないアーティストや、レーベル/メディア関係者らと粘り強く対峙しながら、どれだけ茨の道であろうと、自分の信じる、おもしろい! ヤバい! というヒップホップをしつこく探究したA&Rだった。それだけに愚痴やディスもはっきりと言う人で、偏屈なところもあったけれど、大人の常識のあるビジネスマンでもあった。だからこそ、信頼もされた。
なによりも最後は自分の惚れたアーティストの良き理解者であろうとしたし、ヒップホップを心の底から愛し、A&Rという仕事に誇りを持つ、永遠のヘッズだった。佐藤さんはドープなシットをたくさん残してくれた。僕たちはこれからも佐藤さんの残したヒップホップを聴きつづけるでしょう。本当にいままでお疲れさまでした。安らかに。