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Forgotten Punk

Forgotten Punk

#11:耳と言葉

野田 努 Jun 17,2011 UP

深夜、ジャマイカから
6人の男が初めてやって来た
ディリンジャー
リロイ・スマート
デルロイ・ウィルソン
それからサウンド・オペレイター
ケン・ブースとUKポップ・レゲエ
バック・バンドにサウンドシステム
連中が何か言おうものなら
ここにはそれを聴くたくさんの黒い耳があるザ・クラッシュ"ハマースミス宮殿の白人"

 家のなかが狭いので、いろんな音が錯綜する。ほとんど家で仕事をしているので、当たり前の話、家では長い時間、音楽がかかっている。小学校から帰ってきた子供は、僕がそのときアンビエント・ミュージックを再生していようが、ポスト・ダブステップを再生していようが、あるいはリトル・テンポを再生していようが、「うるさい」と言う。いつもではないが、たびたびそれは言われる。どんな名盤も、どんな名演奏も、それを「聴こうとする耳」がなければ騒音に過ぎない。それが音楽というものを成立させている重要な要素だ。
 いつからか日本の音楽誌はインタヴュー記事の占める割合が増えていった。いまではインタヴュー記事だらけの雑誌が主流じゃないだろうか(僕が数年前まで関わっていた『remix』という雑誌などひどいものだった)。ミュージシャンの連載も目に付くようになった。インタヴュー記事やミュージシャンの言語活動は、面白いものもあれば面白くないものもある。人気ミュージシャンであればその言葉を有り難がるファンもいるし、新人ミュージシャンであれば自己紹介となる。それはそれで意味がある。メディアであまり取り上げられない才能あるミュージシャンの声を拾うことも媒介者として大切な働きのひとつだし、「いま、この人の言葉を聞きたい」といういこともある。問題は誌面なりメディアにおける比重が、作り手の言葉に大きく傾いていったことだ。

 言うまでもなくミュージシャンとは音で表現している人たちのことを言う。ミュージシャンの言語活動とは、たいていの場合は新作が出たときのプロモーション活動の一環としてある。なかには言語表現の才能にも恵まれているミュージシャンもいて、そういう人は本を出したりもする。音楽活動よりも自分の言語活動のほうが売れる人もいる。その逆のパターン、つまり言語活動をしていた人が音楽家として売れてしまうということは、日本ではまだないし(イギリスにはけっこういる)、どうも日本の音楽シーンにおける言語活動は軽んじられているようなきらいがある。音楽メディアは、文筆家の言語活動の成果よりもインタヴュー記事すなわち音楽家の言葉のほうが多くなってしまっている。しかし、それは音楽文化にとって本当に良いことなのだろうか。

 冒頭に引用した歌詞は、ザ・クラッシュの有名な曲の歌い出しで、僕はこの曲を先日惜しまれつつ終刊した『SNOOZER』の「のだな対談」の最終回の「譲れない10曲」のひとつに挙げた。高校生の頃からずっと好きな曲で、パンキー・レゲエの曲調もたまらないし、何よりも最初のヴァースの最後にある「And if they've got anything to say/There's many black ears here to listen」というフレーズが良い。「連中が何か言おうものなら/ここにはそれを聴くたくさんの黒い耳がある」、この簡潔な言葉は音楽のありかたを見事に表している。
 「それを聴くたくさんの黒い耳がある」ことは音楽において極めて重要なことだ。「黒い耳」とは、リスナー=音楽に感応する者を指す。その存在があってそれは初めて音楽となる。音楽文化における言語活動とは、言葉表現とは「黒い耳」のことに他ならない。
 DJカルチャーは、音楽におけるそうした聴き手の感応力の問題を浮き彫りにする。DJを見ればわかるように、彼らは耳にヘッドフォンを当てている。彼らはみんな聴いているのだ。聴いて、それを自己流に解釈して、再生産している。芸のないDJはそれを繋げるだけに終始する。良いDJはそれを表現の素材とする。デトロイト・テクノは1991年にUKのエイフェックス・ツインやその周辺の連中によって再生産されている。デリック・メイはそうした事態を産業構造の観点から面白くないとぶーたれていたが、文化全体を考えれば重要な出来事で、それがなければ広がりは生まれなかった。
 音楽について書くこととは、言葉表現による再生産である。「黒い耳」になることであり、それは音楽を音楽として存在させている重要な行為だ。ゆにえ言語活動における再生産が縮小され、貧困になったときに、どんな名盤も、どんな名演奏も、どんな名録音も、「うるさい」ものとなる。そして、そのような耳による再生産こそが、ある意味ではポップ・カルチャーの核にあると言える。
 たとえばジャズの話をしよう。ときとしてジャズ専門のライターよりも菊地成孔のような演奏家が語るジャズのほうが説得力があるように見えるのは、ジャズが基本的には演奏の文化だからだ(ジャズはレコード店では演奏家の名前で分類される)。ゆえに演奏行為をよく知る者は、言葉表現においてもアドヴァンテージがある。そのセンで考えれば、クラシックの語り部は譜面を読む能力を持ち、音楽の構造を分析できる能力が求められることになる(クラシックは譜面によって伝達されている)。そして、クラシックのコンサート会場で、興奮のあまり座席に立って「イエー」と叫ぶ人がまずいないように、「耳」はその場において制御されている。ジョー・ストラマーは「クラシックが大嫌いだった」と言っているが、それは音楽そのものというよりも、そうしたある意味高慢な西欧文明の制御(コントロール)の仕方が気にくわなかったのだろう。レゲエのサウンドシステムにおける「耳」は総じてもっと自由だからだ。
 演奏行為を知らなくても、ジャズにおける優れた言語活動すなわち言葉表現はある。その先駆的な例が、リロイ・ジョーンズもしくはビートニクで、彼らはジャズにおいて「耳」としての言語活動を切り開いていったと言えよう。日本にも平岡正明や平井玄、あるいは間章などなど、彼らはまさに言葉を用いてそれを再生産しているわけだが、我々はジャズを聴いてなくても、リロイ・ジョーンズの言葉表現を通してジャズを知ることができる。いや、リロイ・ジョーンズの文章があまりに良かったから、それを独立した言葉表現だと見なして、実際にジャズを聴かなくてもいいやという人がいたとしても悪いことではない。いずれにしても、その言葉表現は読者と音楽との距離を確実に縮めている。それが仮に悪口であっても、優れた悪口なら知らない人にそれを近くに引き寄せることができる。こうした「耳」がもたらす言葉の再生産がさらにもっと頻繁に起きたのがポップスやロック以降の音楽文化だ。

 ポップスやロックの特徴のひとつに、素人(子供)がプロ(大人)とタッグを組んでそれが生まれた......ということがある。素人は、平均的にみれば、ジャズの演奏家に比べて劣るかもしれないが、まあまあ演奏できる。あるいは、クラシックの作曲家のように譜面を理解できずとも、簡単なコードの曲なら書ける。そうした素人が業界のプロと組むことで発展したのがポップスやロック以降の音楽文化だと言える。ザ・ビートルズは4人の素人(子供)とジョージ・マーティンやブライアン・エプスタインというプロ(大人)とのチームによってザ・ビートルズとなった。セックス・ピストルズは4人のメンバーとマルコム・マクラレン(もしくはジェイミー・リードやクリス・トーマス)によるチームだった。
 素人とはより「耳」に近い存在だ。エルヴィス・プレスリーへの感応者であり、クラウトロックやレゲエへの共振者だ。より再生産的な傾向を強めている表現者と言える。もちろん子供はやがて大人となり、最初に組んでいた大人は追い出されたり、死んだり、とにかくいなくなる。立派なプロ(大人)としてやっていくことになる。だとしても、彼らは子供が成長した大人として存在する。いきなり大人としてどーんとデビューしているわけではない。
 このように素人が制作の現場に介入したことが、ポップ・カルチャーにおける言語活動すなわち言葉表現を活発化させたひとつの要因であることは間違いない。音楽学や演奏力とその知識に気後れすることなく、言語活動を展開できるからだ。要するにまあ、素人が偉そうなことを言えるようになったわけだが、しかし......ゆえにそれはポップ・カルチャーとして広く伝染することができたとも言えるのだ。
 そもそも、作り手自身に喋らせたりすることよりも、ぜんぜん関係のない他者が豊かな言語活動をするほうが、スター信仰というスターの言うことならなんでも正しいと思えるような教徒たちを従えたものでもない限りは、いろんな点において有益である。ブロガー連中が勝手に騒いだお陰でチルウェイヴが脚光を浴びたように、ポップ・カルチャー(とくにインディ・シーン)は言語活動が活発なところほどそこは盛りあがる。言語活動の質の問題もないことはないが、しかし極論を言えば、たとえ知識量的に乏しく、思慮深さを欠いたものであったとしても言語活動が活発なほうが盛りあがるし、資本主義的に言えば売れる可能性が高まる。みなさんも、キャプションがうまいレコード店だとついつい買ってしまうでしょ。
 よって、たまに作り手で(といっても彼も再生産者のひとりなのだが)、せっかく言葉を発する「耳」が多数いるというのに、そうした他人の勝手な解釈にもとづいた言語活動を制御したいがゆえに、ブログをもうけて自分で言語活動までがんばってしまう人もいるが、あんまり幸福とは言えない。「耳」を制限することはその作品の広がりの可能性をもみ消すことになる。制限のあるアカデミックのような場所の外側にいるというのに、もったいない話だ(とはえイギリスのアート系の大学の授業は、総じて言語活動の比重が大きいらしい)。
 もったいない話は他にもたくさんころがっている。例に挙げて申し訳ないが、人から聞いたところでは「たかがロンドンに1回行ったぐらいでダブステップをわかった気になって」などとネットのような公の場で言ってしまう淋しい人もいるらしい。こうした経験値や知識量によるカースト制度を主張したいのなら、いっそうのこと「ヴェーベルンの弦楽三重奏の第二楽章」の各部の形式を言えるように学べばいいだろう。ダブステップが本稿の主旨ではないので、これはあくまでもひとつの喩えとして言うけれど、ロンドンに1回行ったぐらいでダブステップをわかった気になってしまうほどダブステップはすごい(あるいはそいつの感受性がすごい)、ロンドンの現場を知らなくてもそれはすごいと思わせてしまうほどすごい......という程度の想像すらできない想像力のなさを破壊しながら広がるのが音楽における言語活動である......。

 さて、この話はさらに続くのだが、今回はもう疲れたのでひとまず終わろう。紙ele-kingの作業も終わったようだ(さすが松村正人!)。
 さて、次は......ドミューン公式ガイドのほうのサポートにまわらなければ......。

 追記:UKの偉大なるベテランDJ、Kenny Hawkesが6月10日になくなられた。彼は90年代後半のディープ・ハウス・ムーヴメントにおけるキーパーソンのひとりで、〈ペーパー・レコーディングス〉や〈20:20ヴィジョンズ〉などから作品を発表しながら、伝説的なパーティ〈スペース〉を主宰し、デリック・カーターなどのシカゴ・ハウス、ブレイズのようなニュージャージーのハウス、デトロイト・テクノ、そしてスカ、レゲエ、ソウルなどをイギリス人的なセンスで、実に幅広くミックスする最高の再生産者であった彼のご冥福を祈る。

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