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Forgotten Punk

Forgotten Punk

#12:日本人て暗いね(1)

野田 努 Jan 10,2012 UP

 年末年始は静岡の実家で過ごした。31日の夜は親と一緒に紅白を見て、それから小学生の息子を連れて近所の寺に除夜の鐘を突きに外に出た。自分が静岡に住んでいた頃、大晦日の夜11時半過ぎになると、その鐘を突いたものだったので、いつか子供にも経験させたいと思っていた。鐘を前に合掌して、そして思い切り叩けと、僕は息子に教えた。
 除夜の鐘の響きには、時間的な区切りを告げている以上に、独特の無常観がある。家から歩いて1分ほどの場所で鳴っているこの音を、僕は生まれてから18年連続で聴いているのだから、影響を受けていないはずがない。鐘を突き終わると、それから僕はすぐ近くにある神社に場所を移した。時計の針が12時を過ぎ、新年を迎えたところで境内では"木遣りの歌"が歌われた。これを僕は聴きたかったのである。
 "木遣りの歌"は13世紀初頭(鎌倉時代)、火消しの歌として生まれている。それが人気となって全国に広がって、それぞれの地方のヴァージョンが存在している。静岡で歌われている"上総くずし"(くずしとはヴァージョンを意味する)は、十五代将軍の徳川慶喜が大政奉還後、静岡に隠居するさいに、武士に代わって200人の子分を引き連れ護衛をつとめた新門辰五郎の一味が歌った歌だとされている。新門辰五郎とは、当時もっとも有名な江戸の侠客(ないしは火消し、つまりヤクザ)で、天皇家よりも徳川家を慕っていたことでも知られ、慶喜とも仲が良く、清水の次郎長とも交友関係があったというから、その縁もあって駿河までの道中の護衛をしたのだろう。鐘を突いた寺の筋迎えには当時新門辰五郎をが宿泊したことで知られる常光寺があるが、そうしたエピソードを僕は自分の父から伝聞するほどこのヤクザはいまでも民衆から愛されている。

 新年のお参りの人で混み合ってきた神社で、僕は集中して、"木遣りの歌"を聴いた。新年の神社で演ずる一発目の曲がヤクザの歌というのも面白い伝統だが、僕がもっとも今回注意を払ったのはいまからおよそ90年前に生まれた歌のその歌メロだ。"木遣りの歌"自体は有名だが、地域によって歌詞が違う。僕が気になっているのは静岡で歌い継がれている上総くずしのサビのフレーズである。ロングトーンを多用した印象的な旋律だ。

 ヨーヲィサーエンヤラサーノセーエヤレコノセ~
 サーノセーイーエーハ
 アレワサエーエ、ヤーアラネ~

 「サーノセーイーエーハ」のところは、火消しであるから「イ」「ハ」などそれぞれ組の名前を言っているのだろうか。僕自身が歌詞の意味を解明したわけではないが、それでもこの曲は現代に、ひとつの事実を伝えている。それは祭りで歌われるこの曲が、祭りというにはダウナーで、暗すぎるのだ。音階をたどっても、マイナー・コード、つまり短調である。ブラジル人やアフリカ人に、これが祭りの音楽だといったら信じられないのではないだろうか。スピリチュアルに思うかもしれないが、しかしこれはれっきとした俗曲である。そして、実のところ僕はこの暗さを確認したかったのである。

 僕は静岡市内の歓楽街で生まれ育った。家の隣は「トニオ」という大きなクラブだった。ラリー・レヴァンのクラブではなく、演歌のかかるクラブである。僕が小学校の頃まで(1970年代のなかばまで)、薄い壁を伝わって、「トニオ」でかかる演歌が毎晩のように流れてくる。僕が小学校の頃は阿久悠の全盛期だったが、阿久悠の洒落た言葉よりもひと世代前の"悲しい酒"のような、陰々滅々としたいわゆる古賀メロディが、ほとんど同じ部屋にいるような音量で聴こえてくるのだ。僕は窓を開けて、聞こえようはずもないのに何度となく「トニオ」の壁に向かって怒鳴った覚えがある。小4からラジオ少年となって、やがて洋楽を聴いて、とにかく浴びるように聴いたのは、僕の音楽経験の古層にあるであろう、そうした日本的な暗さがもう二度と姿を見せないように、新しい層を堆積させるためでもあった。
 ところが、日本的な暗さを葬り去りたいと思っていたのは、あとから思えば僕だけではなかった。歌謡曲がピンク・レディやキャンディーズの時代を迎え、そしてアイドル歌手の時代へとシフトする頃には、酒と演歌に酔っていた「トニオ」は取り壊され、実家の隣には大きな空き地が生まれた。空き地は駐車場となり、かれこれ40年近くもそのままである。時代そのものが演歌に表象される酒にまみれた感傷、もの悲しさ、哀愁、自虐、そういったものを押し流そうとしていたのだろう。歌謡曲からJポップへと呼び名が変わってからもさらにまた、暗さのうえには分厚い何かが何重にも積もっている。僕がそうした葬られた暗さを温ねてみたくなったのは、結局のところ自分が好んで聴いている音楽からはついに暗さが消えたことがないと思ったからである。

 さて、神社の境内で"木遣りの歌"が歌い終えると、次は獅子舞(これもまた、面白い芸能である)、そしておかめとひょっとこのダンスだ。最前列で見ていた息子は彼らのパフォーマンスを充分に怖がっていたが、神社では毎年恒例の甘酒がもちろん無料でふるまわれ、大人たちは良い気分になっている。加太こうじ編集の『流行歌の秘密』(1979年)によれば、そもそも日本には日本で生まれた音楽などないそうだ。日本的と呼ばれるすべての音楽の源流は、半島、中国、そしてインドにある。そうはいえ、インド仏教と中国仏教と日本仏教が違うように、大陸からやって来たメロディはこの島国におけるヴァージョンとなって発展している(要するに、東アジア文化の混合)。多くの識者によれば、そのもっとも古い調べは、つまり日本の音楽の源流になるもののひとつは天台宗の声明だという。声明とは、西洋における賛美歌のようなもので、僕は昔、忌野清志郎の"500マイル"を聴いたとき(これはピーター・ポール&マリーによるアメリカのフォーク・ソングのカヴァーでありながら)、その節回しが声明的だと思ったことがある。もし邦楽という言葉を正確に使うのなら、声明的な音楽、そこを土台に広まったご詠歌をベースとする世俗音楽ということになる。浪花節にしろ江戸の三味線歌謡にしろ、ご詠歌とは、この国の大衆音楽のある種の通奏低音だ。そのペシミスティックな響き、無常観、ないしはもの悲しさや哀愁を僕はこだま和文やゴス・トラッドの音楽からも聴き取ることができる。蓋をされて、逃げ場を減らされた暗い情感は、いまではそうしたオルタナティヴな場面において継承されているとも言える。

 歌謡曲にとっての致命傷はニヒリズムというものがないことだと言ったのは寺山修司だが、ダブステップなんかを好んで聴いている僕には、暗い情感の表現が価値のないものだとは思えない。明るくふるまうことが対人関係において約束事になっているこの世界において、暗さが抑圧された感情を解放することはいまにはじまったことではない。西欧の若い世代においても、スクリューのような音をフラットさせる手法が幅をきかせているのが現代だ。あのドロッとした感覚は、滞留し、喉に詰まったような感情を、天突きを用いてところてんを押し出すように逃がしてあげているように僕には感じる。
 声明における鈴の音、獅子舞の笛の音色や太鼓の音は、バレアリックな観点でいえば寂しさいっぱいかもしれない。しかし、それで盛り上がっている文化がここにあるのも事実なのだ。おかめとひょっとこ、獅子が舞台からいなくなると、餅(あるいはお菓子)がふるまわれる。僕は自分の身長の高さを活かしたキャッチングで多くの餅(あるいはお菓子)を手に入れ、そして家に帰ると、母親の所有していたレコードを引っ張り出した。レコード・プレイヤーはもうないので、僕はかつて自分が憎悪した曲の歌詞を読む。「酒よこころがあるならば/胸の悩みを消してくれ/(中略)/好きで添えない人の世を/泣いて怨んで夜が更ける」
 ジュリアン・コープがたどり着けなかった生層がその向こう側にはある。ブラック・ミュージックにおけるヴードゥー、ジャマイカ音楽におけるメントのようなものだ。かのジョン・サヴェージでさえ、日本の音楽を語りながらこの歴史ある無常観にたどり着けていない。西欧のポップ・カルチャーからはまだ日本が見えていないのだろう。ただひとつ、ジュリアン・コープの勘が鋭いと思うのは、日本とイギリスが似ているという指摘だ。たしかにこのふたつの国の音楽には、陰々滅々としたものへの共振があるように思える。(つづく)

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