Home > Regulars > NaBaBaの洋ゲー・レヴュー超教条主義 > vol.6 『Journey』- ――アート・ゲームを定義する
■アートと言えば何でもあり、なわけはない
しかしながらこれは多分に理想論的な話であって、実際にアート・ゲームを名乗る作品のすべてがユニークな体験を生み出せているわけではありません。ハッキリ言ってしまえば、ほとんどの作品は完成度が低いのです。
とくに説明不足、要素不足で後はあなたの方で想像してください、というパターンがとても多いのですが、これは僕から言わせれば投げっぱなし。想像力に委ねること自体には意義がありますが、それは決して作品側の不足を鑑賞者に埋め合わせさせるようなものであってはなりません。このバランスはじつに難しいのですが、ほとんどの作品が踏み誤っているのが実情です。
また上記の煙に巻くような内容に、アート・ゲーム特有の攻略性のなさが加わると、本当に何の取りとめもない体験になってしまうし、他にも操作性が劣悪だったりとか、アートに関係なくゲームの基礎がなってないことも多いのが悲しい。
完成度の低さはインディーズ全般の問題ではあるのですが、とりわけアート・ゲームに酷さが目立つのは、おそらく「アート」であることが逃げ口上になっている部分があるからでしょう。現代のアート・ゲームの直接的なはしりである〈Tale of Tales〉の『the Graveyard.』からしてそもそもそういう作品でした。
08年初頭というインディーズがちょうど台頭しつつあるときに出てきた『the Graveyard.』は、老婆を操作して教会前のベンチに座らせて、BGMを聴き終えたら来た道を戻る、たったそれだけの内容です。当時は「これでゲームって言っちゃうの!?」みたいな感じで一部で議論を呼びましたし、それもあって後続のアート・ゲームの呼び水になった部分はあると思います。しかし素直に作品として見ると、やはり圧倒的に要素が足りない。
『the Graveyard.』は、製品版では老婆がランダムで死ぬ要素が追加されている。うーん......
そういう事情もあり、期待感とは裏腹に現時点で僕が本当に良いと思えているアート・ゲームは、同じく〈Tale of Tales〉の『The Path』と、前半でも名前を挙げた『Dear Esther』の2作のみ。
『The Path』は赤ずきんをモチーフにした作品で、『the Graveyard.』の翌年09年にリリースされました。アート・ゲームのお約束どおり、いっさいの攻略性がない代わりに、プレイヤーが触れたものに応じて結末が変わるという、分岐というか双方向的な変化を楽しむシステムになっていています。ヴォリュームも必要十分に備えており、『The Graveyard』の反省も活かされていて、アート・ゲームのもっとも典型的かつお手本的な良作と言えます。
『The Path』数あるTale of Talesの作品のなかでも最高傑作だ。
6人の赤ずきんの物語が不気味なホラータッチで描かれている。
また『Dear Esther』のほうは前項でも触れたとおり、ただただ歩くだけの作品で、『The Path』の双方向的な面白さもありません。しかしモデリングやオブジェクトの配置のセンスが抜群に良く、さらに砂埃のエフェクトや風の音響等の繊細な表現が加わることによる環境の実在感は、ただ歩いているだけなのにゲームの世界に深く没入させてくれます。
単純なテクノロジーで『Dear Esther』より高度なグラフィックスのゲームは数多くあるが、実在感という点で匹敵するものはない。
これはまさに『Half-Life 2』が示したグラフィックスと演出の向上による深い没入感と同一線上にある表現で、そこからさらにいっさいのゲーム性を廃し、純粋に没入するためだけの作品に仕上げたという点では、アート・ゲームの理念にいちばん忠実な作品とも言えるでしょう。
これらの2作はいままでの僕のなかでは理想的なアート・ゲームという評価でした。しかし今回感じたのは、じつはこれらすらも『Journey』には及んでいないということです。ここにアート・ゲームとしての今後の課題が見出せるかと思います。
■『Journey』というベストアンサー
再び『Journey』に話を戻しましょう。本作をアート・ゲームと比較して改めて感じるのは、プロダクトとしてまったく隙がないということ。無駄が無く最小限の要素が完璧に機能していて、またそれらすべては気持ち良さの表現という方向性で一貫している。
とくにアート・ゲームとの分かれめになっている攻略性がすばらしく機能していて、攻略していく行為が本当に気持ち良い。しかも本作は難易度は低く抑えているにも関わらず、攻略したときの気持ちよさを最大限に描けているのは革新的とさえ言ってもいいでしょう。
いままでの常識では、課題の難易度と攻略したときの気持ちよさは比例関係にあるとするのが普通でした。難しい課題を乗り越えたときほど、達成感や気持ちよさも高まるもの。しかしこの関係は一歩誤ると、難易度が必要以上に高くてストレスが溜まったり、攻略に精いっぱいでかえって没入感を削いでしまうことが起こり得ます。逆に難易度が低いと攻略行為が単なる作業と化してしまい、これまた没入感を削いでしまう。
とりわけ『Half-Life 2』の登場以降、没入感や体験性重視のゲームは戦場を主な表現の舞台にしてきたわけですが、戦場の極限状態をプレイヤーに体験させる上で、どうしてもこのジレンマがつきまとってきました。そして今日にいたるも根本的打開策は見出せておらず、この問題は半ば放置されつつあります。
一方で、そもそもこうした攻略性と体験の衝突を忌諱して、アート・ゲームは攻略性を捨て、それでも成立する純粋体験の確立を目指しているのですが、そこにもいろいろと問題がある、ということを前項までで書いてきました。
『Journey』の攻略性はこれら既存の問題点をすべて乗り越えた上に成り立っています。そしてそれを成立させているのは、攻略性そのもののデザインのセンスが圧倒的に良いことももちろんあるのですが、卓越した演出力による部分も相当大きい。
グラフィックスから音響まで一級品で、絵作りの方向性はインディーズ的ですが、完成度は他とは比較にならないぐらい高い。そしてこれらが、課題をクリアしたときや迫る脅威をダイナミックに演出していて、実際以上に物事を大きく感じさせることに成功しています。
先に進むために橋を架ける。やることは簡単だが、その結果は壮麗に演出される。
この、かつてはゲーム・デザインで表現していた感動を演出で代替するという考え方は、没入感や体験性重視のゲームの基本ではありますが、これほどうまくいっている作品はいままで遊んだことがありませんでした。そして本作のこのアプローチと成果は、攻略性を捨てて純粋体験を追い求めていたアート・ゲームの界隈にとっては、痛烈なカウンターになっているのではないでしょうか。
『Journey』は攻略性の有無という点でアート・ゲームとは決定的に違うと書いてきましたが、逆に言うとその点以外はとてもアート・ゲーム的なアプローチを取っている作品です。それがかえって現状のアート・ゲームの問題点を浮き彫りにしているし、いっぽうアート・ゲーム側からすれば『Journey』から学び取れることは多大でしょう。
たとえば『Dear Esther』なら、『Journey』のような攻略性を入れろとは言いませんが、少なくとも地形によって変化する移動感は、そのまま取り入れるだけでもかなりプラスになるはず。坂や階段、ぬかるんでいたり草が生い茂っていたりと、現実で起こり得る移動感を克明に描写することは作品のテーマに沿っているし、とくに『Dear Eshter』は一人称視点ですから、これによる没入感の向上は『Journey』以上のものになれる期待も持てるはずです。
■まとめ
『Journey』自体は紛うことなき傑作。PlayStation 3を持っている人なら誰もが遊ぶべき価値ある作品です。そのいっぽうで『Jouney』以外のアート・ゲームの作品、とくに『The Path』や『Dear Esther』にも触れてみてほしいのが僕の正直な気持ちです。総合力では『Journey』には及んでいませんが、それぞれユニークな体験をさせてくれる作品であることには変わりありません。
正直に言って、『Journey』は見かけはインディーズみたいだけど、予算も開発体制もまるで違うはずなので、それを考慮すると『Journey』と他のアート・ゲームを比較するのはフェアじゃない気もするし、越えられない壁は確実にあると思う。
しかしいざ市場に出ると、こういった生まれの差はまったく関係なく同じ土俵で評価されるのが海外のゲーム業界の面白いところでもあります。つまり究極的には感動させたもの勝ちの世界であり、感動させるのに必ずしも大規模な開発リソースが必要なわけではありません。
今後のアート・ゲームは『Journey』から見習える部分は見習い、よりいっそう表現内容を突き詰め完成度を上げていってほしいし、そのいっぽうで『Journey』に物怖じしないユニークな作品を作り続けてほしいです。