Home > Regulars > 編集後記 > 編集後記(2019年7月9日)
求人募集の履歴書、アメリカでは年齢(そしてジェンダー)を必ずしも書かなくてもいいことになっている。年齢(ないしはジェンダー)によってひとを選ぶことは差別だという認識だ。よって久保建英の才能を18歳だからという年齢を入れて評することは現代的とはいえないだろうが、しかし、彼が日本のサッカー史上、類を見ない選手であることは、レアル・マドリードに移籍したからではないし、全盛期の小野伸二を彷彿させる技術を持っているからではなく、コパアメリカで敗戦後に一時帰国した際の報道写真において、なんとこのフットボーラーは片手にエドゥアルド ガレアーノによる『スタジアムの神と悪魔』を持っていたのである。
ウルグアイの作家によるこの本は、ラテン・フットボールの哲学であり、叙事詩である。そこに描かれているのはトレーニングや戦術の話でも自己啓発的な精神の話でもない、フットボールへの極めて詩的な、ある種耽美的とも言える、そしてラテン的な愛の表現だ。このような書物は、ぼくのような妄想家の快楽であって、リアリズムに生きている選手には縁のないものだと思っていたが、思いがけないことがあるものだ。もし仮に久保建英がこの本を読んでみたけれどさっぱり面白くなかったと思ったとしても、まったく問題ない。少なくともこの本を手にした(そしておそらく機内でその本のページをめくった)という事実だけでも素晴らしいことだし、誰かにプレゼントされたとしても、そういうひとが身近にいるということだ。彼の非凡さは、プレイだけではない。まあそんなわけで、ジダン監督のもとでこの18歳がどんな選手になっていくのか、うん、じつに楽しみ。
そう、なにを隠そう、この編集後記をなかなか書けなかった最大の理由は、Jリーグ開幕以来、清水エスパルスが不甲斐ない試合をしてきたことに尽きるのだが(一時期は最下位で、監督は解任)、最近ようやく少しは持ち直してきたおかげで心にゆとりが生まれ、いまこうして書くことができている。負けたとはいえ、味スタで久保建英のプレイも見れたことは、いまにして思えば良かった。なんてことも言えるようになった。
さて、これを書いている今日は、別冊エレキング『続・コーネリアスのすべて』の入稿日。このコーネリアス号を作る1ヶ月前は、紙エレキングの「オルタナティヴ日本!」という特集号を編集した。そんなわけでここ数ヶ月は日本の音楽をよく聴いたし、日本の音楽についてよく考えた。
つい最近、海外を放浪していた旧友から、日本って例外の可能性を考えないよなぁという話をされた。「オルタナティヴ」とは「例外」のことである。いまの日本がおそろしく「例外」を認めない国になっているように感じるのは彼だけではないだろう。同調圧力型の社会は「例外」を恐れているようだが、しかし果たしてこのまま貧しいことも受け止められずにいることが救いになるのだろうか。安部政権下の6年のあいだで、音楽ではいったい何が評価されたのか、「オルタナティヴ日本!」における邦楽ベスト100枚は、未来の子どもたちに笑われないように選んだつもりです。ことに最初の3枚は、ある意味「孤独」な作品といえるかもしれない。孤独を忌避しようとしている(ように思えてしまう)現代に逆らってみたかったし、じゃがたらの“みちくさ”やザ・タイマーズの“イモ”のような曲をもっとみんなに聴いてもらいたかった。そんな折りに、参院選の渡辺てる子の演説(=心の叫び)を聴いて、100メートルぐらいぶっ飛んだ。この国にヴァンパイア・ウィークエンドやスリーフォード・モッズのようなミュージシャンがいたら教えてあげて欲しい。サンダースやコービンも、黄色いベストも、もはや海の向こうの話ではないかもよ。