Home > Regulars > sound cosmology - 耳の冒険 > 第3回 FULXUS
終わりなき日常のフルクサス〈三〉
1984ヨーゼフ・ボイス〈二〉
その日の夕方、水戸芸術館のヨーゼフ・ボイス展から妻の両親の家にもどった全員は食卓を囲んだ。毎回歓待を受けるので恐縮するのだが、この日もはやばやとテーブルにプレートがだされ、肉と野菜が並べられた。義母は、この年の女性がなべてそうであるように、「東京から来てクタビレタでしょう。ウフフフ」と笑いながら、一連の動作でビールの栓を抜き、私の前にあるコップになめらかに注ぐとテーブルの正面に座り、彼女の夫は私の左手で空をみあげるように新聞を開いていた。食卓にはザックリ切った野菜が入ったボールと、酒のアテは数種の漬け物と惣菜、妻の父が那珂湊から買ってきた肉厚に切られたマグロやタコの刺身があったが、この日はサイコロ状の鯨肉がメーンだった。
私は水戸駅の繁華でないほうのロータリーから妻の実家の方に向かう途中に鯨肉を食べさせる店がみえ、いつか入ってみたいその前を通るとき力強く宣言していたが、途中からそれをいうのはオヤクソクになっていた。水戸はアンコウ鍋が名物のはずだが、私はアンコウ鍋は食べたことがなく、「アンコウはじつにおもしろい。マジすごい」とおもにそのルックス面からアプローチしてきたが、鯨肉は給食でもでていたからおおよそ察しはつく。リュウグウノツカイとかトカゲギスとか、そこには深海魚は図鑑で見て楽しむものだという、たぶんジュール・ベルヌの『海底二万里』あたりから得た興味本位というか強化ガラス一枚を隔てて覗きみるような距離感があって、それをいえば鯨にだってメルヴィルの『白鯨』という忘れられない本があるが、『白鯨』には逆に移入した。といっても、主役である隻脚のエイハブと話者のイシュメルのどちらかではない。話のなかの彼らは当然役割を備えていたが、私はイシュメルの後ろにいてエイバブを観察するようでもあり、舳先から海原を眺めるエイバブの血眼になった眼を借りたようでもあった。モービー・ディックでさえあった。外洋に連れ出されたというか。
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私ははじめて読んだのはもう20年以上も前だから、エイハブと白鯨を善/悪、聖/俗、そのほかなんでもいいが、なにかの象徴になぞらえ神話的虚構として読んだわけでは全然なくて、メルヴィルの捕鯨に関する詳細な叙述もあって、ハウトゥというほど役立つわけではないが、抽象に昇華されきってない智恵に、暑い夏の日の真っ昼間に浜辺の木陰で涼をとる近所のオヤジとか老人とかがヒマツブシで語りだす虚構というより、どこまでいっても海しかない私の郷里のシマに伝わるシマの(ドン・キ・ホーテ的な)奇譚のように読んだ。私がまだ小さかったころには、シマにはハブに噛まれた足を毒がまわらないよう切り落とした着流しの老人が杖をついて歩いていて、その精悍な嘉手苅林唱似の顔つきをエイハブに重ねていたからかもしれない。
「最近の鯨は焼きすぎるとマズくなるからさっさと食え」
妻の父親は北関東のひと特有のそっけなさでいった。彼らはいまは水戸に暮らしているが、元は栃木の出である。
「シャリシャリ感が残るくらいでちょうどいいですかね」と私は聞き返した。
「調査捕鯨で獲った鯨は元々が漁ではないから、船も冷凍の設備がちゃんとしてないのよ。見てよ、このニコゴリみたいな赤い色。これはそのせいよ。高いのにヤんなっちゃうよな、まったく」
「すみません。気をつかわせて」
私はビールをついだ。
「勝手にやるから気にしなくていいよ。まあ調査捕鯨もそのうち禁止されるだろうから鯨はもう食えなくなっちゃうよなあ。鯨ベーコンなんてなあ、よく食ったんだがなあ。あんたのころもあったの? そう。でもまあ、もう食えなくはなるわなああチキショウメ」
最後のは妻の父の口癖である。
「シー・シェパードなんか物騒ですからね。でも捕鯨は世界的にみると禁止する流れなんでしょうね」
「商業捕鯨と調査捕鯨を混同しちゃいかんよ。日本が外洋でやっているのは調査捕鯨であって、調査捕鯨は商業捕鯨を再開するためのものでしかありません。商業捕鯨は日本の沿岸でやっている伝統的なものか、IWCの管轄に入らないクジラを対象にしたものなんよ。ウィキペディアによると『IWCの商業捕鯨モラトリアム決議に対して、国際捕鯨取締条約 (ICRW) 第5条に基づく異議申し立てを行ったノルウェーが1993年に再開を宣言し、ミンククジラを対象に沿岸捕鯨を行っている。近年の捕獲実績は年に600頭前後で、2006年は1052頭の捕獲枠に対し捕獲実績は546頭である。アイスランドも2006年に商業捕鯨再開を宣言してナガスクジラとミンククジラ各7頭を捕獲したが、翌年に再停止している。ただし、日本への輸出のめどが立てば直ちに商業捕獲を再開するとしている』とあるのが商業捕鯨でシー・シェパード体当たりしているのは調査捕鯨。市場にでまわってるのは調査捕鯨の副産物である鯨肉しかないので、それをおいしく安価で提供するというお題目はそもそも成り立たないのであろう」
「システムというか流通的にどうしても良質の鯨肉を提供できないなら調査捕鯨は止めればいいじゃないですか?」
「それを止めると商業捕鯨の前提が崩れるべ。科学的論証のある乱獲に当たらない水産資源の有効利用は伝統的な食文化を保護すると主張しないとな」
「その伝統的な食文化が非捕鯨国には倫理観に抵触するんですよ」
「それはあらゆる文化の摩擦にいえるのではないかね。オレは21世紀はそういう時代だと、10年ほど前にさかんにいわれており、ここ数年またちがう局面に入ってきたと思う。国家によらない覇権主義、もう覇権主義の言霊みたいなものだな。それに対抗するには、偶然ある瞬間にであう無名の人びとの集団が有効だとしても、捕鯨はひとりではできないしな。かといって、利害関係が対立する複数国が関係する問題を、国際機関を調整弁として利用して一色に染めようとしてもな。生殺与奪の話には宗教観はからむもんだからな」
「調査捕鯨の名目で獲るからややこしくなったのではないですかね。調査という割には肉食ってると。非捕鯨国にしたら主従が逆転した現状があり看過できないと」
「それはあくまで副次的な問題だべ。オレなんかむしろ、環境問題のグローバル・スタンダードの押しつけな気はするけどな。畜産や養殖みたいに生産計画を立てられるのは倫理を問われないが、たとえ統計学的な推移は提示できても、クジラみたいに生態がよくわらからない、しかもオレらとおなじ哺乳類は希少種であってもなくても、捕獲すべできでないとはわかるけど、それはむしろ神秘主義のにおいがあるな」
「というと?」
「かつてクジラを滅ぼそうとした科学を使ってクジラの象徴性を守るということよ。文化のソウコクは科学的データの積み上げでは対処できなのではないかな」
「タバコも同じですね」
「あれは健康にわるいからダメに決まっとろう」
妻の父は北関東特有のアクセントで尻上がりにいった。
「大麻はタバコより健康に害がないそうですが、マリワナは吸ってもいいですか?」
「オレはガンジャのことなんか知らんよ、コンチキチョウ」
私たちは食卓でこんな話をした気になったのは日中に『ボイスがいた8日間』を見て思うことがあったからである。お暇なら前回を読んでいただきたいが、水戸芸術館で私は妻と子と妻の両親ともいっしょだったのだった。外出するときいつもフィッシャーマンズ・ベストを着てキャップをかぶる義父は、アイテムだけみるとボイスとかぶっており、年の頃も彼が最後に日本を訪れたこのときと同じ60代なかばである。この年齢になると男はボイス化するのだろうか? もし読者はここまできて私がムダ話で字数をかせいでいると思われるのは心外である。ネットの原稿に字数などそもそもない。あるのは余白だけだ。広大な階層化したスペース。あるいは自律した集合知の堆積。ボイスがこの時代に生きていたら、私は彼はこれまで「任意の触媒」とみなしてきたマルチプル作品をネット的なコミュニケーションにどう対応させるか、あるいは転用するかたいへん興味がある。