「Noton」と一致するもの

第7回 未来は既にそこにある - ele-king

 この現実離れした惨劇は、残念ながら現実そのものだった。目を覆っても耳を塞いでもそこにそれが存在していることに変わりはない。繰り返し視界に現れる五つの輪。あるときは路上に貼られた紙に、あるときはバスで乗り合わせたおじさんの服の上に、そしてネットのニュースに友人のインスタグラムのストーリー、しまいには空にまで。カルト的なものの存在を感じさせるそれはそこかしこに現れ、その度に私の精神を汚染する厄災のような何かを連れてくる。
 普段の私の精神の汚染指数が全くのクリアだとは自分でも思えないが、いまは台風が訪れたときの河川のようになっている。

怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ。

 これはニーチェの『善悪の彼岸』に書かれた有名な言葉だが、私が最近この言葉を見たのは、自宅の近くにある老舗台湾料理屋の壁だった。そこには『羊たちの沈黙』などのモデルになった元FBI捜査官のサインと共に、彼の座右の銘であるらしいこの言葉が書かれ、四人がけのボックス席の横のほんの少し黄色くなった壁に飾られていた。私は小ぶりなガラス製のボウルに入った仙草ゼリーを食べながらそれを読み、数々のサイコパスやシリアルキラーに面会してプロファイリングという手法を作り上げたときの彼の精神状態を思った。
 良心や共感の欠如、慢性的な虚言癖、無責任、罪悪感のなさ、自己中心的などがサイコパスの特長らしい。パンデミック以降特に、この国の政治や社会、そして資本主義や新自由主義のサイコパス性を嫌というほど見せつけられてきた。その怪物の中で生きている限り、それにただ身を任せているだけでは自身も怪物へと成り果ててしまうだろう。では、その怪物と闘う者は……。
「サイコパスから自分自身を守ろうと思うなら、一切の関係性を絶つしかない」と解説する文献は多い。政治的無関心やある種の忌避は、そのための生理学的防衛手段なのかもしれないが、それそのものがサイコパス的な行動だ。忌避や無関心を決め込んだ人びとは極度に政治性を恐れるあまり、あらゆるものから政治性を引き剥がそうと必死になる。「音楽に政治を持ち込むな」「スポーツに政治を持ち込むな」「映画に政治を持ち込むな」いろいろなところで何度も聞かされた。そうやって身の回りのあらゆるものから政治性を引き剥がし、全ての問題を「自己責任」という言葉で個人の中に押し込める。音楽を、映画を、スポーツをただのエンターテイメントとして消費し続けるために。

 先日、疲れが溜まっていた私は、カロリーの高い食事を求めて自宅から15分ほどの距離にある小さな店へと向かった。案内されたテーブルの後ろには『AKIRA』が全巻置いてあり、トイレの中にも巨大なポスターが飾られていた。食事をはじめてしばらく経ったころ、不意に店内が騒がしくなり、店内にいた他の客たちが外へ出て空に向かってスマートフォンを掲げはじめた。飛行機が空に五つの輪を描いているらしい。そのまま食事を続けていると、店員のひとりが私のテーブルへとやってきて「お客さん、ブルーインパルスとか興味ないんですか?」と、あたかもそうあるべきだとでも言いたげに聞いてきた。この店内にある『AKIRA』はなんなのだろうか。金田のバイクが登場する予定だった開会式案を支持する声が多いことにも驚かされたが、世間の自称ファン達はこんな程度のものなのだろうか。開会式でゲーム音楽が流れ、漫画的演出があったことに沸き上がっている人たちが多数いるらしい。そのゲームや漫画から何を学んできたのか。いや、ただただ消費しただけか。そして彼らは、それらを消費したのと同じように、多様性や平等という言葉もただのアイコンとして利用して消費した。
 私はこの開会式を見ていない。どうやって見るのかも知らなかったし、意地でも見てやるものかとも思っていた。しかし、周りの友人があまりにも口を揃えて「あれは酷かった」と言うので、ほんの少しの興味(尻を拭いた後の紙に対して持つのと同程度)が湧いてきてしまっているのが正直なところだ。

 私は五つの輪を崇めるこの儀式への抵抗について新聞社からの取材を受けた。記者はどうしても感染症対策の観点からの意見が欲しかったようだが(もちろんその観点からの意見も、親戚一同にお裾分けしてまわりたいほど大量にある!)、もしこの儀式が完璧な感染症対策の下におこなわれていたとしても、ウソやクソにまみれたこの状態ではハンカチを吊るして大歓迎というわけにはいかない。そしてもちろんこれが中止されたとしても、それで全ての問題が解決するわけではなく、この国に積層する問題のひとつが片付いたに過ぎない。
「はじまったからには応援しよう」
アリやジョンやヨーコにも同じ言葉が投げかけられたのだろうか。“Imagine” が例の開会式で使われたらしい。この曲をかけた人や聞いた人は何を Imagine したのだろうか。これを聞いて何も行動を起こさなかったのなら、それはやはりアイコンとしてただ利用し消費しただけだ。
「現実を見ろ」と反対派を嘲笑するような声も多く聞いた。その現実とはなんなのだろうか。強行突破で作り出された現状に盲目的に隷従するのが自称リアリストたちの言う現実を見るということなのだろうか。
 Silence is violence という言葉がある。いまさら説明するまでもないが、不正義がおこなわれている現実から目を背け、黙ったまま放置することは、積極的にその行為に加担しているのと同じであるという意味だ。「はじまったからには応援しよう」も「政治を持ち込むな」も「現実を見ろ」も「やり方が気に食わない」のようなトーンポリシングも、声をあげた人に Silence を強要するもので、お前も積極的に不正義をなせと言っているのと同義だ。
「選手の気持ちを考えろ」のような都合の良い Imagine には、これまでに何度も遭遇した。自分がやっているスポーツが種目にない私の気持ちは Imagine してくれたのだろうか(なんとも思っていないどころかなくてよかったとすら思っている)。以前には総理の気持ちバージョンや大臣の気持ちバージョンもあった。そういえば、人の気持ちが分かるとか汲み取れるとか自称している奴に何度か出会ったことがあるが、その中にろくな奴はいなかった。
 パンとサーカスによる隷従を誓った者たちは、それが取り上げられないためにあらゆる手を尽くす。文化芸術から意味を剥奪して消費し、積極的に不正義をなし、沈黙を強要する。
 このサーカスは未曾有の被害をもたらした311からの復興の象徴という大義の下に誘致された。そしてこのサーカスそのものが新たな未曾有の被害を東京にもたらそうとしている。この被害の跡でまた復興という大義のもと新たな搾取がおこなわれるのだろうか。マーク・フィッシャーは『資本主義リアリズム』の中で、アポカリプスは「これから起こるもの」でも「すでに起こったもの」でもなく、むしろ私たちがいままさにその中を生き抜こうとしているのだと説いたが、私はいまそれを『資本主義リアリズム』を読んだ当時とは比較にならないぐらい痛感している。資本主義の終わりよりも世界の終わりを想像する方が容易いと彼は語った。確かに、このアポカリプスを餌に巨大資本はさらに肥え太っている。ビリオネアたちが宇宙へ行くニュースを見るたびに加速主義者の Exit が頭をよぎる(せっかく脱出したのなら帰ってこなくて良いのに)。しばしば引用されるウィリアム・ギブスンの言葉に「未来は既にそこにある。均等に分配されていないだけだ」というものがある。富の偏りは未来の偏りであり、縁故資本主義によって格差が拡大し続けているこの状況は、私たちの未来が奪われ続けていることを意味している。未来を奪われた私たちは、ただただいまを生き抜くことに精一杯だ。
 ここまで書いて私は、半ば道義的な理由からこの文章の締めくくりをなんとか少しでもオプティミスティックなものにしなければと、無意識のうちに軌道修正を図ろうとしていることに気がついた。例えば、いまというこの瞬間に全てのエネルギーを注ぐからこそ生まれる新しい未来云々というような感じだ。しかし、いまだけを考えて生きることの代償はとてつもなく大きく、構造的な搾取を孕む可能性も非常に高い。現在進行形のアポカリプス、いまを生き抜くことに精一杯な現状、オプティミスティックになれない精神状態、これらは確実に政治的課題であり、未来の再分配を強く求めていくことでしか解決されない。
 私たちには、自称リアリストたちには想像もつかないようないくつもの未来を創造する力があることは確かだ。いまはなんとかそのためのエネルギーを取り戻したい。

https://thebugmusic.bandcamp.com/track/pressure-feat-flowdan

Jaubi - ele-king

 イギリスではいろいろな国のミュージシャンが活動するが、その中でもインド、パキスタン、バングラデシュ出身のミュージシャンが数多く見られる。もともとこの3国はイギリス領インド帝国としてイギリスの統治下にあり、現在でもその移民や子孫が多く住んでいる。ジャズの分野においても、アフリカ系やカリブ系と共にインドやパキスタンの血筋のミュージシャンは多い。もともとその血筋ではないミュージシャンにもインド音楽の影響を受ける者がいて、たとえばテンダーロニアスもそのひとり。昨年彼はレジェンドであるタビー・ヘイズ作品集の『ザ・ピッコロ』において、“ラーガ” というインド古典音楽の旋法であるラーガに取り組んだ演奏を見せた。さらに『テンダー・イン・ラホール』という作品は、パキスタン北部のパンジャーブ地方に赴いて現地のミュージシャンと共演した録音をまとめたもの。そのときに共演したのがジャウビというグループで、タブラやサーランギー(弓奏楽器の一種)などのインド古典楽器を用いてラーガを演奏していた。『テンダー・イン・ラホール』に続いてリリースされた『ラーガス・フロム・ラホール』もジャウビとの共演で(録音は2019年4月)、テンダーロニアスが単なる思いつきのアイデアでインド音楽に取り組んでいるのではなく、中長期的な視点でじっくり取り組んでいることを示している。

 『ナフス・アット・ピース』はそんなジャウビによるアルバムである。ジャウビとはパキスタンのウルドゥー語で「何でも」という意味で、語源的には生命力、命、長寿、永遠といった意味合いがある。ジャウビのメンバーはアリ・リアズ・バカール(ギター)をリーダーに、ゾハイブ・ハッサン・カーン(サーランギー)、カマール・ヴィッキー・アバス(ドラムス)、カシフ・アリ・ダーニ(タブラ、ヴォーカル)という4人で、テンダーロニアスもフルートとソプラノ・サックスで録音に参加する。レコーディングは2019年4月にパキスタンのラホール、2019年8月にノルウェーのオスロでおこなわれており、『テンダー・イン・ラホール』と『ラーガス・フロム・ラホール』に続く録音と言える。ジャウビ自体は2016年からシングルやEPなどを制作してきており、それら一連の作品を発表してきたロンドンの〈アスティグマティック〉から『ナフス・アット・ピース』もリリースされた。
 ちなみに〈アスティグマティック〉はポーランドにもブランチがあって、EABS(イーブズ)などポーランド系のアーティストの作品も多い。『ナフス・アット・ピース』にサポート・ミュージシャンとして参加するラタミックことマレック・ペンジヴャトゥルも、ポーランド出身のキーボード奏者で EABS のメンバーでもある。また “シーク・リフュージ” という曲ではオスロのザ・ヴォックス・ヒューマナ・チェンバー・クワイアという合唱団もフィーチャーされている。

 アルバム・タイトルにあるナフスとはアラビア語(パキスタンや北インド地方で話されるウルドゥー語の源流にはアラビア語があり、同じイスラム教の文化を有する)で自己や自我を指し、神の手によって訪れた平和の中で自我が解放・浄化されるというような意味合いとなる。ジャウビのデビュー作の『ザ・ディコンストラクティッド・エゴ』はJ・ディラのカヴァーなどヒップホップと北インドの音楽を融合したものだったが、やはり自我をテーマとしていて、『ナフス・アット・ピース』の前にリリースされたシングルで、ガスランプ・キラーなどをリミキサーに迎えた “サタニック・ナフス” など、ジャウビは一貫して自我や精神の在り方を説く作品をリリースしていて、そこにはイスラム教の宗教観が強く関与しているのだろう。また、パキスタンにおけるアフガニスタン難民を描いたと思われる “シーク・リフュージ(避難所を探し求めて)” など、政情不安からくる北インドやイスラムの社会情勢なども作品の中には盛り込まれる。アルバム・ジャケットのヒジャブ(ベール)を被った女性はアリ・リアズ・バカールの母親で、神への祈りを捧げているところだ。

 美しいギターとサーランギーの旋律に神聖なコーラスがフィーチャーされる “シーク・リフュージ” は、まさに祈りの音楽ということばがふさわしいだろう。“インシア” はエキゾティクなメロディーを持ち、北インド地方固有の音楽をジャズやジャズ・ファンクで解釈した作品。ジャウビのメンバーの演奏とテンダーロニアスのフルート、ラタミックのキーボードも有機的に結びつき、全体的に非常に奥行きと陰影に富んだ演奏となっている。“ラーガ・グルジ・トディ” はサーランギーによるラーガ演奏をもとに、途中からダイナミックなジャズ・ファンク、ジャズ・ロックへと変化していく。途中のドラム・ソロも迫力に富み、ジャウビの音楽のダークで重厚な側面が表われた楽曲だ。“ストレイト・パス” はタブラとサーランギーのコンビネーションが北インド音楽特有のもので、そこにテンダーロニアスのフルートが加わってスピリチュアルなムードを醸し出していく。
 ラタミック作曲による “モストリー” はヒップホップ的なビート・パターンを持つジャズ・ファンクで、テンダーロニアス周辺でいくとモー・カラーズやアル・ドブソン・ジュニアなどに近いタイプの楽曲。北インドの音楽は独特の哀愁に包まれた曲が多いが、“ザーリ” もそうしたムードに包まれる。エレクトリック・ヴァイオリンのようなサーランギーの音色が印象的だ。“ナフス・アット・ピース” は往年のマハヴィシュヌ・オーケストラ的であり、ゾハイブ・ハッサン・カーンのサーランギーはジャン・リュック・ポンティのヴァイオリンのような役割である。テンダーロニアスのソプラノ・サックスも鬼気迫る演奏で、彼のジャズ・ミュージシャンとしての力量を再確認させるプレイだ。全体を通して『ナフス・アット・ピース』は、北インドの音楽と結びついた独自の個性を持つスピリチュアル・ジャズ・アルバムと言えるだろう。

2021年7月26日 - ele-king

 ここ10日ほどずっと気が重いのは、もちろん小山田圭吾について考えているからだ。そもそもオリンピック開催に反対のぼくが、小山田圭吾がそれに関与したということに失意を覚えないはずがなく、また、問題となった二誌の記事の内容に関しても、一次資料に当たったわけでないが、ネットで明らかになっている部分だけ見ても擁護しようがない。自分自身のふがいなさも痛感している。音楽シーンにはぼくのようにROとQJを読まない人だっているわけだし、ぼくの仕事は人格をチェックすることではない。とはいえコーネリアスの特集号を2冊も作っているのだから、これらの記事に目を通し、これはいったい何だったのかを本人に問い、語らせるべきだった。下調べが徹底していなかったという批判はあって然るべきだ。

 ぼくが小山田圭吾と初めて会話したのは、1999年のたしか夏も終わりの頃だったと思う。きっかけは『ファンタズマ』だ。エレクトロニック・ミュージックばかりを聴いて、渋谷系と括られているシーンとはとくに接点のなかったぼくに、ひとりの友人がこれは聴いたほうがいいとCDを貸してくれたのである。ぼくは『ファンタズマ』を素晴らしい作品だと思ったし、折しもロックの特集を考えていたこともあって、小山田圭吾の友人でもあった彼が取材のセッティングをしてくれたというわけだ。以来、小山田圭吾とは主に取材を通じて何度も会うことになるが、ぼくにはとても「いじめ自慢」をするような人には見えなかったし、露悪的だったこともなかった(これは擁護ではない、ただそうだったという事実を書いている)。
 米国の出版社による「33 1/3」というポップ・ミュージック史における傑作アルバム1枚についてひとりの著者が一冊を書くシリーズがある。ジャンルで言えばロックがメインで、日本では村上春樹が訳したビーチ・ボーイズの『ペット・サウンズ』が有名だ。このなかの1冊として(そして日本のロック・ミュージックのアルバムとしては最初に)2019年にコーネリアスの『ファンタズマ』は刊行されている。「コーネリアスは西欧の音楽ファンの世界地図にJ-POPを載せる上で重要な役割を果たした」という紹介文とともに。
 コーネリアスは日本の大衆文化の国際的な評価に大いに貢献した。海外での知名度は高い。ゆえに今回のニュースは海外の有力メディア(『ガーディアン』や『ピッチフォーク』)でも報じられている。彼の音楽作品は道徳心を説くものではないし、暴力を駆り立てるものでもないが、件のニュースはコーネリアスの評価や今後の活動にダメージを与えるだろう。小山田圭吾は多くを失った。「社会など必要ない」と言ったのは新自由主義の起点となったマーガレット・サッチャーだが、彼が発表した謝罪文にも「社会」がなかった。いまコーネリアスを総合的に評価するうえでの難しさはそこに集約されているのではないかと思う。
 だが、『ファンタズマ』や『ポイント』が部屋に籠もってひとりで音楽を作っていた多くの若者の創作意欲を促したのは事実だし、これら作品を純粋に楽しんだリスナーやその音楽に癒されたリスナーが世界中に多数いることも事実だ。エレキングは基本的にリスナー文化を醸成することを目的としている。作品は世に出たときから作者の支配下から離れ、それを享受したもの(=リスナー)のなかで育まれるものだ。コーネリアスの音楽を愛している人たちが障害者への虐待を肯定することは100%ないだろうし、ファンの心のなかにある『ファンタズマ』や『ポイント』が汚れることもないだろう。
 ことの大小はともかく、誰にだって人生において失敗はあるだろうし、少なくともぼくにはある。この文章を書いているのも、今回の騒ぎと自分が決して無関係だとは思っていないからだ。コーネリアスが失ったものは大きい、しかし時間はまだ十分にある。なんらかのカタチをもって解決して欲しい。それがすべてのファンが願っていることだろう。

 今回の件でもうひとつ気が滅入ったのは、彼の息子、小山田米呂への執拗な罵詈雑言だ。こんな前近代的ムラ社会のつるし上げが、21世紀のいまもネット社会にあるということが本当に悲しい。「親の七光りで書かせやがって」などと言ってくる輩もいたが、小山田米呂は彼の若い感受性をもってOPNのような10年代を代表する電子音楽やシェイムのような若いバンドについて言葉を綴れる書き手であり、可能性を秘めたミュージシャンだ(そもそも米呂とぼくは、コーネリアスとは関係のないところで出会っている。若い世代のインディ・ロックについての若い書き手を探していて、それがたまたま小山田圭吾の息子だった)。近い将来、彼がまたあの軽妙な文体で若い世代の新しい音楽について書いてくれることを願っているし、堂々と音楽活動を続けて欲しい。

R.I.P. Peter Rehberg - ele-king

 7月23日、ピタことピーター・レーバーグが逝去。明け方に見たガーディアンの見出しには53歳とあった。心臓発作だったという。レーバーグはエレクトロニック・ミュージックをダンスフロアから引き剥がし、エレクトロニカを先導したラップ・トップ・ミュージシャンの先駆者である。フェネスとともに現代音楽やミュジーク・コンクレートをリヴァイヴァルさせた中心人物といっていい。ウィーンを拠点にラモン・バウアーらと共同で運営していた〈メゴ〉からは自らの作品だけでなく、フェネスやヘッカーなど実験的なエレクトロニック・ミュージック(=ジム・オルークいわく「パンク・コンピュータ・ミュージック」)を矢継ぎ早にリリースすることでエレクトロニカというタームを引き寄せ、1999年には彼自身のソロ作『Get Out』と、フェネス及びジム・オルークと組んだ『The Magic Sound Of Fenn O'Berg』によってテクノのサブ・ジャンルに位置していたエレクトロニック・リスニング・ミュージックを一気に格上げすることとなった。また、コンピュータをサウンド・メイキングの主役としたことでDJカルチャーによって葬り去られた“演奏”を復活させ、ライヴにラップ・トップを持ち込むという早すぎたアクションは観客からパフォーマス中に罵声を浴びせられるという事態も招くことになった。〈メゴ〉が10年の歴史に幕を閉じてからはレーバーグひとりで〈エディション・メゴ〉を新たに立ち上げ、マーク・フェルやOPNなど2010年代の主役となる才能も幅広くフック・アップし、カテリーナ・バルビエリやヴォイシズ・フロム・ザ・レイクなど数えるのが面倒なほど幅広い才能にチャンスを与えている。一方で、ワイアーのギルバート&ルイスによるドームを全作再発するなど過去に向ける視点にも確かなものがあり、2012年にはミュジーク・コンクレートの再発や未発表作品に的を絞ったサブ・レーベル、〈リコレクションGRM〉からも話題作を多数リリース。元エメラルズのジョン・エリオットにA&Rを委ねた〈スペクトラム・シュプール〉やジム・オルーク専門の〈オールド・ニュース〉など6つのサブ・レーベルも併走させ、よくこんがらがらないなと思ったことがある(複数のサブ・レーベルを展開していた〈ミュート〉が彼の理想だったらしい)。レーバーグや〈メゴ〉は現代音楽をポップ・ミュージックの領域に近づけたといってもいいだろうし、エレクトロニック・ミュージックに現代音楽の使える部分を再注入したでもいいけれど、明らかに〈ラスター・ノートン〉や〈パン〉といったレーベルは〈メゴ〉の遺産の上に成り立ち、その裾野はいまも広がり続けている。

 レーバーグとステファン・オモーリー(Sunn O))))から成るKTLが初めて日本に来た際、僕は松村正人とともに一度だけレーバーグに取材したことがある。コンピュータ・ミュージックとブラック・メタルの融合と自称していたKTLはオモーリーのギターとレーバーグのノイズだけで構成され、ビートがないにもかかわらず、ゆらゆらと体を揺らしながら聴くことのできる有機的なノイズ体験であった(オモーリーも後に〈エディション・メゴ〉傘下で〈イディオロジック・オーガン〉というサブ・レーベルを始める)。お天気雨の日に赤坂の外れで会ったKTLは二人とも適度に話し好きといった印象で、簡単に打ち解け、ジゼル・ヴィエンヌが舞台のためにふたりにコラボレイトしないかと持ちかけてきたことがKTLの始まりで、奇妙なロケーションでレコーディングしたことやヨーロッパでは彼らの作品が不本意にもファシズムと結びつけられて批判されていることなどを語ってくれた。この時期、バックボーンがまだよくわからなかったオモーリーがアメリカで起きているドゥーム・メタルの動向やそれらとの距離感を冷静に説明してくれたのに対し、レーバーグは人間関係の行き詰まりから〈メゴ〉を閉鎖しなければならなくなったことや日本のライヴでは羽目を外し過ぎてしまった失敗談など、どちらかというと、話を盛り上げたい性格なのかなという話し方だったように記憶している。プライヴェートではマイルス・デイヴィスしか聴かないというオモーリーに対して、ミュジーク・コンクレートどころか、若い頃はニッツィアー・エッブに夢中だったというレーバーグの回想も興味深く、それを聞いて『Get Out』の暴力性が何に由来するのか少しは謎が解けた気もする。それこそボディ・ミュージックから最先端の実験音楽へと音楽性を発展させた彼のキャパシティに驚かざるを得なかったというか。

 レーバーグの演奏を最後に観たのは六本木のスーパーデラックスで行われたフェン・オバーグのリリパだった。『The Return Of Fenn O'Berg』から8年ぶりとなるサード・アルバム『In Stereo』のために行われたもので、その時のライヴも『Live In Japan』としてリリースされている(https://www.youtube.com/watch?v=r_trm302p_I)。初期に比べて諧謔性は抑えられ、ニュアンスに富んだドローンを演奏するレーバーグがそこにいた。ラップ・トップに意識を集中させる彼の眼差しは真剣そのものであり、罵声を浴びせるようなオーディエンスはなく、誰もが彼らの曲を静かに聴き入っていた。R.I.P.

UNKNOWN ME - ele-king

 毎日こうも過酷な暑さがつづくと、あの涼しかった音空間が猛烈に恋しくなってくる。

 今春、LAの〈Not Not Fun〉から初のLP『BISHINTAI』を発表した UNKNOWN ME。ユニットとしての知名度はまだそれほどないかもしれないが、やけのはら、P-RUFF、H.TAKAHASHI の3人と、ヴィジュアル担当の大澤悠大からなるアンビエント・プロジェクトである。ヴィジブル・クロークス以降のアンビエント/ニューエイジの流れとリンクしつつ、その更新を試みているグループと言っていいだろう。6月27日、アルバムのリリース・パーティが開催されるというので足を運んできた。場所は神宮前 Galaxy。食品まつり a.k.a foodmansatomimagae、Chee Shimizu と、かなり豪華な面子がそろった。

 階段をくだり地下のエントランスを抜けると、ひんやりと冷えた空気が漂っている。すでに satomimagae のパフォーマンスははじまっていた。30~40人ほど集まっていただろうか、にもかかわらず、下手したら空調の音まで聞こえかねないほど会場は静まりかえっている。耳に浸透するかなしげなギターの音と、澄んだ satomimagae のヴォーカル。〈RVNG〉から出たすばらしい新作でも独自の静けさを表現していた彼女だが、ライヴでは一層そのサイレンスが際立って聞こえる。音が鳴っているのに、サイレンス。おかしな話だが、ほんとうにそうとしか形容のできない体験なのだ。
 最後の曲が終わると、一気に会場が談話に包まれる。つなぎDJは Chee Shimizu。おとなしすぎず、主張しすぎず、絶妙なあんばいのアンビエントやオブスキュアなトラック群が空間を彩っていく。

 ふた組めは、〈Hyperdub〉からの新作を控える食品まつり。ここでオーディエンスが50人くらいまで増える。アンビエントでスタートしたセットはほぼ低音を用いることなく、ちゃかぽこした上モノで引っぱっていく感じで、これまたどこか涼しげなサウンド。じょじょに実験性が高まっていき、後半になるとダンサブルな反復が飛び出しパーカッションの饗宴を迎えるが、最後はやはり静けさを強調した電子音で〆。「聴きこむ/踊る」という二項対立を宙吊りにするかのようなセットは、この満足には踊れない時代、身体はどう音に反応すべきなのかという問いを提起しているかのようだった。やはり食品まつり、あなどれない。

 ふたたびつなぎDJをはさんで、いよいよ主役の UNKNOWN ME。4人全員がワイシャツとネクタイを着用して登場、ずらっと横一列に並ぶ。きれいなシンセ音、水やひぐらしなどの具体音が入れかわり立ちかわり登場し、白昼夢のごとき音空間が生成されていく。これは、涼しい。基本的にアルバム収録曲が演奏されていたはずで、ほとんどがノンビートなのだが、ビートはなくともリズムはあり、ここでもコロナ時代における身体性について考えさせられることになる。
 ヴィジュアルも手がこんでいて、東京タワーや駅などのランドマークと、山や川での釣りの風景などが代わるがわる映し出されていく。文明と自然、都市的なものとロハス的なもの、それらの共存なのか対比なのかはわからないが、やはりなにかを投げかけてくる映像表現だった。
 最後はアルバムにも参加していた MC.sirafu、中川理沙、食品まつりも加わり大団円……手ちがいにより、食品まつりが2曲のあいだほぼなにもできず棒立ち状態に陥るアクシデントはあったものの、うまい具合に電子ノイズの即興でイヴェントは幕を下ろした。

 こちらがそういう構えでいたからかもしれないが、3組ともそれぞれのやり方でコロナ禍におけるひとの集合のあり方、身体性の新しいかたちを探っているように感じられた。大声で騒ぐのではなく、といって孤独にストイックに音に没入するのでもない、そのはざまを探るようなライヴ。
 このときは「まん防」だった。その後四度めの非常事態宣言が発せられ、醜悪にもオリンピックが強行開催されようとしているいま思い返してみると、この日は地獄のなかにさっと吹きこむ、一陣の涼風のようなイヴェントだった。

downstairs J - ele-king

 思わず、「ちょうど良い」という言葉をひさびさに口走ってしまった downstairs J なるアーティストのLP『basement, etc...』。いわゆるダウンテンポというよりかはテクノで、しかしリズムは強すぎず多様に躍動していて、クリアな音質も相まって初期オウテカあたりをマイルドにしたようなそんな印象を覚える作品です。リリースはアンソニー・ネイプルズと写真家でもあるジェニー・スラッテリー(Jenny Slattery)によるニューヨークのレーベル〈Incienso〉から。

 アンソニーは〈Proibito〉を閉じた後に、この〈Incienso〉を、さまざまな才能をフックアップする、そんなレーベルにしている模様(自身の作品は〈ANS〉から)。もちろんアンソニーという現在のハウス、テクノ・シーンの重要人物のレーベルというのもあるんですが、本レーベルに関していえば、やはりDJパイソンの1st『Dulce Compañia』でその名前を記憶している方も多いでしょう。その他の作品も最高で、ダウンテンポやアートコア・ジャングルなどの絶妙な配合でモダンなテクノの柔軟な音楽性を豊かに提示して見せたベータ・リブレ(Beta Librae)の傑作アルバムや、現在、NYとともにやはりすばらしいアンダーグラウンド・アクトを輩出しまくっているメルボルンの、スリープ・Dの作品、そして本作とほぼ同時期にリリースした、こちらもメルボルンからの新生、ブレイクビーツとディープ・ハウス、テクノの折衷様式がすばらしいビッグ・エヴァー(ex コップ・エンヴィー)のシングルもありました。コール・スーパー、あとは工藤キキの驚きのシングルもこちらのレーベルからでした。どちらかと言うと、そこまでリリースの多いレーベルではありませんが「いま思い返せば」、いつでもそのサウンドがその先の未来(つまるところ現在のシーンの動き)とともに思い出せるようなそんなサウンドをキープしているレーベルといった印象です。つまりセンス良すぎる。アンソニー・ネイプルズは、言われなくてもという感じだと思いますが、〈Proibito〉時代のフエアコ・エスのフックアップとかも含めて、とにかくいい感じなんですね。

 おっと横道にそれてしまいましたが『basement, etc...』にもどると、こちら downstairs J、本名義では初となる作品で、ジョシュ・アブラモビッチというアーティストによる名義。このジョシュはグライフィック・デザイナーのようで、DJパイソンのアルバム2nd『Mas Amable』なんかも手がけています。音楽面では snacs というノスタルジックなエキゾチック・アンビエント〜ダウンテンポを(実は本原稿での下調べで一番の発見だったかも……)、VOSE 106という名義では1作、ドープなビートダウン・ディープ・ハウスをリリース。どちらも Bandcamp を探すと出てきますがなかなか楽しめる作品ですのでぜひ。

 アルバムはテクノ・インフルエンスなヒップホップ・ビートからスタート、2曲目はスキッと爽やかで軽やか、涼やかなテクノ “Solid Air City”、ダブ・ブレイクビーツ的な “Soft Tissue”、アシッドなロウ・ビート “Lab Rat Boogie”、ポコポコとアンダーウォーターなダブ感が心地よい “Adjust”、フローティングでマイルドなダンスホール “Viewing Space”、エキゾチックなダウンテンポ “Wired” と、7曲。と、文字だけだとなんだか1990年代とか2000年代の、すごく凡庸なダウンテンポ・アルバムの原稿を書いているようでげんなりなんですが、でもそこに立ち上がってくるのはモダンでアップデーテッドなテクノの音響的なミックスの音質、そこはかとないダブ感、フローティンなメロディととにかく聴けば聴くほど、その楽曲の素晴らしさがにじみ出てきます。初期オウテカ、もしくはデトロイト・エスカレーター・カンパニー、あのあたりのテクノのチル感を彷彿とさせます。もうちょっと抽象的な言葉で言ってしまえば、IDMなグリッチでも、ドープなスモーカーズ・デライトでもないクリアなチル感といってもいいのではないでしょうか、そうした要素が抽出されていて、それでいて今様な、という。ダンス方面でも1990年代テクノのいわゆるインテリジェンス・テクノ、ないしはエレクトロニック・リスニング・ミュージックと呼ばれる音楽の復古というのがありましたが、当時の音源、いわゆるアンビエント・テクノが一部がトリップホップ的な方向へと舵を切ったあたりのサウンド、だけどドープなブレイクビーツには行っていないあのあたりの感覚がいま顕在化しているんではという感覚もあります。

 で、しかもレーベルが明らかにもう少しフロア寄りのサウンドで、シングルとしてリリースしている前述のビッグ・エヴァーのシングル「Otto EP」での、多様なIDM的なリズムを内包したハウス・トラックとは少なからず本作の音楽は共鳴しています。このあたり、なにか顕在化しつつある動き、単なるトリップホップの、IDMの、リヴァイヴァルと言ってはもったないような動きではないかと妄想が膨らんでしまうような音楽です。もちろんコロナ禍の影響もあるのかもしれませんが、この惹きつけられる感じは、なにかの未来をつかまているそんな作品であるような気がしてなりません。

John Carroll Kirby - ele-king

 昨今のUS西海岸の音楽シーンを中心に、有能なセッション・ミュージシャン及びソング・ライター/プロデューサーとして活躍してきたジョン・キャロル・カービー。共演やコラボしてきたメンツには、フランク・オーシャン(“DHL”でキーボードを演奏)、ソランジェ、ブラッド・オレンジ、バット・フォー・ラッシーズ、シャバズ・パラセズ、コナン・モカシン、セバスチャン・テリエ、ジ・アヴァランチーズ、イエロー・デイズなどが並ぶ。特にブラッド・オレンジの『フリータウン・サウンド』(2016年)への参加で名を広め、ソランジェの『ホエン・アイ・ゲット・ホーム』(2019年)では主要プロデューサーに名を連ねている。1990年代に活躍したソウル・デュオのチャールズ&エディの片割れであるエディ・チャコンが昨年リリースした復活作の『プレジャー,ジョイ・アンド・ハピネス』では、全面的に制作を任されている。

 そんな裏方仕事が多いジョン・キャロル・カービーだが、自身のソロ作品も地道に作ってきており、2017年に『トラヴェル』という処女アルバムを残している。キーボード奏者である彼ならではの各種鍵盤&シンセサイザーなどを多重録音したアンビエント~ニューエイジ系の作品だった。続いてカセットのみで発表した『メディテーションズ・イン・ミュージック』(2018年)はタイトルどおり瞑想のための音楽で、『タスカニー』(2019年)はピアノのみで綴る20分弱の曲がレコードのA/B面にそれぞれ収められ、〈ECM〉的なジャズとアンビエント~モダン・クラシカルの中間のような作品だった。そんなジョン・キャロル・カービーが昨年〈ストーンズ・スロー〉と契約を結んだのは意外だったが、最近の〈ストーンズ・スロー〉はリジョイサーなどジャズからアンビエント寄りのアーティストの作品もリリースしているので、彼もそんな新機軸を担うアーティストとして期待されたのだろう。

 〈ストーンズ・スロー〉からは2020年4月に『コンフリクト』と『マイ・ガーデン』の2作が立て続けてリリースされた。『コンフリクト』は『タスカニー』の延長線上にある静穏としたピアノとシンセによる作品集で(一部にフルート演奏もあり)、“ワビ(侘び)” と題された楽曲も収録されている。彼のピアノ演奏は昨年末にコロナ感染で死去したハロルド・バッドがブライアン・イーノとコラボしていた頃のサウンドを彷彿とさせるものだ。
 『マイ・ガーデン』のほうはもう少しシンセが前面に出て、フルートやマリンバなど楽器使いもカラフルになっている。曲によってしっかりとした骨格のリズム・セクションによるジャズやジャズ・ファンク寄りのアプローチあり(日本人ベーシストの鈴木良雄が1980年代に作っていたニューエイジ・ジャズからの影響が強いようだ)、メディテーショナルなモダン・クラシカルあり、チルウェイヴやヴェイパーウェイヴに繋がるところも感じさせる楽曲ありと、より広がりのある世界を見せる作品集だ。

 そして、『コンフリクト』と『マイ・ガーデン』から約1年ぶりの新作が『セプテット』である。ちなみにジャケットの写真は前述のエディ・チャコンによるものだ。ジャズのセプテットは7人組の楽団だが、今回はジョン・ポール・マランバ(ベース)、ディーントニ・パークス(ドラムス)、ニック・マンシーニ(マレッツ)、デヴィッド・リーチ(パーカッション)、ローガン・ホーン(ウッドウィンズ)、トレイシー・ワンノメイ(ウッドウィンズ)が参加し、文字どおり7人組バンドによる録音。いままではほぼひとりで多重録音してきたが、『セプテット』はバンド・サウンドによるアプローチへ変化している。
 そうした変化は “レインメーカー” あたりに顕著で、バンド・サウンドならではのグルーヴに富むメロウ・ナンバーだ。この曲に見られるように『セプテット』の方向性はジャズとソウルやファンクの融合で、これまでのアルバムとは異なるカラーを持つ。ある意味でより〈ストーンズ・スロー〉らしいカラーのアルバムかもしれない。たとえば “スワロー・テイル” はクルアンビンあたりに近いレイドバックしたファンク・ナンバーで、レトロなアナログ・シンセの音色がサイケデリアを演出する。

 “センシング・ノット・シーイング” はアフロ・ラテン調のミステリアスなジャズ・ナンバーで、カマシ・ワシントンの『ヘヴン・アンド・アース』(2018年)にも参加していたトレイシー・ワンノメイらによる木管が重厚で神秘的な音色を奏でる。ジョン・キャロル・カービーの鍵盤はむしろ管楽器などの引き立て役で、『セプテット』において彼は全体のプロデュースを主眼としていることを示している。“ジュビリー・ホーンズ” も同様にホーン・アンサンブルが主役となるが、ここではジョン・キャロル・カービーのエレピも印象的な演奏を聴かせる。1970年代のロニー・リストン・スミスあたりに近い演奏と言えよう。
 メロウの極みと言える “ウィープ” でのエレピとマリンバの絡みも素晴らしく、サンプリング・ソースとしても有名なボビー・ハッチャーソンの名曲 “モンタラ” を彷彿とさせる世界だ。“ザ・クエスト・オブ・チコ・ハミルトン” はジャズ・ドラマーのチコ・ハミルトンに捧げた作品で、『ペレグリネーションズ』(1975年)、『チコ・ハミルトン・アンド・ザ・プレイヤーズ』(1976年)、『ノマド』(1980年)などクロスオーヴァー/フュージョン期の彼の作品をイメージしている。“ニュークレオ” のマリンバを絡めた変拍子のドラミングも印象的で、エスニックな雰囲気とミニマル・ミュージックに繋がる要素を感じさせる。ジョン・キャロル・カービーならではのニューエイジ・ジャズと言えるだろう。

Microcorps - ele-king

 聴覚表現というのは、実体のない“音”を見えた気にする幻覚効果もあって、ときに人は視覚的なサウンドなどと言ってみたりするのだが、これはたいてい視覚的イメージの想像を促すという意味で使っている。マイクロコープスのファースト・アルバムを聴いていると、魔獣のごとき迫力をもったエレクトロニック・ミュージックがクローネンバーグの映画さながら暴れ回っているように感じる。しかしながら緊急事態宣言下でオリンピックが開催されるというこの倒錯した現実のなかで暮らしていると、むしろ現実のほうがシュールすぎて、自分の想像力の矮小さが嘆かわしくも感じる。コロナ以降、世界は変わらず不安定なままで、喧々ゴウゴウと情報合戦も続いている。マイクロコープスの迫力ある不気味さは、いまの時代の奇妙な状態を反映しているとも言えるだろう。

 『XMIT』はマイクロコープスのファースト・アルバムだが、作者のアレクサンダー・タッカーは10年以上のキャリアを持つベテランで、〈スリル・ジョッキー〉などから何枚ものアルバムを出している多作の人だ。ただしそのほとんどがロック系に分類されているので、マイクロコープスは彼のテクノ・プロジェクトになるのだろう。テクノといってもこれは、クラフトワークではなくスロッビング・グリッスルのほうに近い。ロボティックでもなければファンキーでもないが、暗喩的で、特異で破壊的な魅力を秘めている。

 その世界は興味深いゲスト陣の名前からもうかがえる。いまやUKでもっともラディカルな電子音楽家のひとりのガゼル・ツイン、デレク・ジャーマン映画のサウンドトラックや〈Mute〉からの作品で知られるサイモン・フィッシャー・ターナー、そしてファクトリー・フロアやカーター、トゥッティ、ヴォイドのメンバーとして知られるニック・ヴォイド、ペーパー・ドールハウス名義でダーク・アンビエントを作っているアストラッド・スティーハウダー。これらゲストが参加した曲には各々の個性が注入され、格別に出来が良い。忍び寄る恐怖を絶妙に描いているガゼル・ツインが参加した“XEM”、異世界における妖美なダンスを展開するニック・ヴォイドとの“ILIN”はとくに印象的で、「H.R.ギーガーの絵画の聴覚表現」ないしは「世界に放棄されたダンスフロア」などという評価がされるのもむべなるかなだ。10年代に〈Blackest Ever Black〉がやっていたことをさらに拡張したというか。

 レーベルはヘルムことルーク・ヤンガー主宰の〈オルター〉、急進的なエレクトロニック作品やポスト・パンク作品のリリースによって評価を高めている。言うなればテクノとパンクのごった煮で、コロナ以降の世界ではより存在感を高めていきそうだ。

Guedra Guedra - ele-king

 マイルス・デイヴィスのアルバムから命名した〈オン・ザ・コーナー〉というロンドンのレーベルがある。2013年の活動開始からこれまでに、マルチ・リード奏者のタマル・オズボーン率いるアフロ・バンドのカラクターや、その一員であるパーカッション奏者のマグナス・メータ率いるペーニャ、ドラマー/プロデューサーのニック・ウッドマンジーのプロジェクトであるエマネイティヴなどの作品をリリースしてきた。
 カラクターに代表されるようにアフリカ音楽やラテンなど民族色の強いジャズ、スピリチュアル・ジャズやフリー・ジャズにフリー・インプロヴィゼイション系が強い印象で、サウス・ロンドンのトゥモローズ・ウォリアーズ系のジャズ・サークルとはまた違う個性を放っているのだが、次第にイタリアのDJカラブやペルーのデンゲ・デンゲ・デンゲなど、ロンドンやUK以外の国のアーティストも扱うようになってきている。カラブやデンゲ・デンゲ・デンゲはプログラミングやエレクトロニクスを交え、ダンサブルなクラブ・サウンドを志向するDJ/プロデューサー・ユニットであるが、やはり民族音楽を主体とした音作りをするアーティストでもあり、そうした点で〈オン・ザ・コーナー〉の一貫したレーベル姿勢を感じる。

 今回〈オン・ザ・コーナー〉から『Vexillology(ヴェクシロロジー)』でアルバム・デビューしたゲドラ・ゲドラも、カラブやデンゲ・デンゲ・デンゲと同じ系統のアーティストと言えるだろう。ゲドラ・ゲドラの本名はアブデラ・M・ハッサクでモロッコ出身。現在もモロッコのカサブランカを拠点に活動するDJ/プロデューサーで、その名を広めたボイラー・ルームでのDJのときなど、おそらくモロッコのものだろうか、原住民の部族が被るようなお面をつけてプレイしていたりする(デンゲ・デンゲ・デンゲも同じようなマスクをつけているので、トロピカル・ベース系DJの間ではスタンダードなスタイルのようだ)。
 レコード・デビューは2020年の春で、やはり〈オン・ザ・コーナー〉から「サン・オブ・サン(太陽の息子)」というEPをリリースした。南アフリカ発祥のゴムのようなアフロ・ハウスから、クラップ・クラップやデンゲ・デンゲ・デンゲなどに通じるトロピカル・ベース~フットワーク系のサウンドが注目を集めたのだが、ゲドラ・ゲドラの場合は自国のルーツ音楽であるグナワを取り入れたもので、そこに自らのアイデンティティを表現していた。その後、残念ながらコロナ禍によって以前のようなDJ活動ができなくなってしまったようだが、そうしたなかで『ヴェクシロロジー』は制作され、先行シングルとなる “ホエン・アイ・ラン” に続いてリリースとなった。リリース後、最近になってDJツアーも再開するようだ。

 『ヴェクシロロジー』とは旗章学のことで、国、地域、民族、氏族などの象徴である旗や紋章などを体系化する学問である。DJのときにつける部族のお面もそうだが、民族音楽の上に成り立つゲドラ・ゲドラらしいネーミングである。
 祈祷のようなエキゾティックなヴォイスを散りばめたフットワークの “セヴン・ポエツ” にはじまり、土着的で素朴な味わいの笛の音色がトライバルなビートに絡む “スタンプド・ステップ” など、恐らくフィールド・レコーディングスや民族音楽のレコードから採取されたであろう素材を、サンプリングやビートメイキングにふんだんに取り入れた音作りがおこなわれている。“Cercococcyx” はオナガ・カッコウのことを指す学名で、民族色の強いコーラスとエキゾティックなメロディによるアフロ・ハウスとなっている。アルバムのなかで “ジ・アーク・オブ・ザ・スリー・カラーズ” は比較的アンビエントな色彩が強い曲だが、その哀愁漂う独特のメロディや歌声はバレアリックというよりも、むしろマグレブと呼ばれる北アフリカ地域におけるイスラム教の礼拝をイメージさせるものだ。
 同様にビートレスの “ベルベル・イズ・アン・エイリアン” はマグレブの先住民族であるベルベル人を描いた曲。有名なところではサッカー界のジネディーヌ・ジダンやカリム・ベンゼマなどもベルベル人だが、そもそも古代ローマ人が北アフリカの異邦人を指す蔑称として用いた言葉がベルベル人である。サッカーの世界もそうだが、現在でも人種差別や民族差別は根強く残っており、そうした象徴として「ベルベル人はエイリアン」というタイトルに皮肉を込めて用いたのかもしれない。美しい曲調とは裏腹に、そうしたメッセージ性も感じさせる作品だ。

SAULT - ele-king

 昨年ブラック・ミュージックの大絵巻、『Untitled (Black Is)』と『Untitled (Rise)』の2枚のアルバムを送り出し大いに話題を呼んだUKの匿名のグループ、SAULT が早くも新作をリリースしている。『NINE』と題されたそれは、99日間に限り、ストリーミングまたはダウンロードすることができる。ときが経つのはあっと言う間なので、お早めに。


https://saultglobal.bandcamp.com/album/nine

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