Home > Regulars > 編集後記 > 2021年7月26日
ここ10日ほどずっと気が重いのは、もちろん小山田圭吾について考えているからだ。そもそもオリンピック開催に反対のぼくが、小山田圭吾がそれに関与したということに失意を覚えないはずがなく、また、問題となった二誌の記事の内容に関しても、一次資料に当たったわけでないが、ネットで明らかになっている部分だけ見ても擁護しようがない。自分自身のふがいなさも痛感している。音楽シーンにはぼくのようにROとQJを読まない人だっているわけだし、ぼくの仕事は人格をチェックすることではない。とはいえコーネリアスの特集号を2冊も作っているのだから、これらの記事に目を通し、これはいったい何だったのかを本人に問い、語らせるべきだった。下調べが徹底していなかったという批判はあって然るべきだ。
ぼくが小山田圭吾と初めて会話したのは、1999年のたしか夏も終わりの頃だったと思う。きっかけは『ファンタズマ』だ。エレクトロニック・ミュージックばかりを聴いて、渋谷系と括られているシーンとはとくに接点のなかったぼくに、ひとりの友人がこれは聴いたほうがいいとCDを貸してくれたのである。ぼくは『ファンタズマ』を素晴らしい作品だと思ったし、折しもロックの特集を考えていたこともあって、小山田圭吾の友人でもあった彼が取材のセッティングをしてくれたというわけだ。以来、小山田圭吾とは主に取材を通じて何度も会うことになるが、ぼくにはとても「いじめ自慢」をするような人には見えなかったし、露悪的だったこともなかった(これは擁護ではない、ただそうだったという事実を書いている)。
米国の出版社による「33 1/3」というポップ・ミュージック史における傑作アルバム1枚についてひとりの著者が一冊を書くシリーズがある。ジャンルで言えばロックがメインで、日本では村上春樹が訳したビーチ・ボーイズの『ペット・サウンズ』が有名だ。このなかの1冊として(そして日本のロック・ミュージックのアルバムとしては最初に)2019年にコーネリアスの『ファンタズマ』は刊行されている。「コーネリアスは西欧の音楽ファンの世界地図にJ-POPを載せる上で重要な役割を果たした」という紹介文とともに。
コーネリアスは日本の大衆文化の国際的な評価に大いに貢献した。海外での知名度は高い。ゆえに今回のニュースは海外の有力メディア(『ガーディアン』や『ピッチフォーク』)でも報じられている。彼の音楽作品は道徳心を説くものではないし、暴力を駆り立てるものでもないが、件のニュースはコーネリアスの評価や今後の活動にダメージを与えるだろう。小山田圭吾は多くを失った。「社会など必要ない」と言ったのは新自由主義の起点となったマーガレット・サッチャーだが、彼が発表した謝罪文にも「社会」がなかった。いまコーネリアスを総合的に評価するうえでの難しさはそこに集約されているのではないかと思う。
だが、『ファンタズマ』や『ポイント』が部屋に籠もってひとりで音楽を作っていた多くの若者の創作意欲を促したのは事実だし、これら作品を純粋に楽しんだリスナーやその音楽に癒されたリスナーが世界中に多数いることも事実だ。エレキングは基本的にリスナー文化を醸成することを目的としている。作品は世に出たときから作者の支配下から離れ、それを享受したもの(=リスナー)のなかで育まれるものだ。コーネリアスの音楽を愛している人たちが障害者への虐待を肯定することは100%ないだろうし、ファンの心のなかにある『ファンタズマ』や『ポイント』が汚れることもないだろう。
ことの大小はともかく、誰にだって人生において失敗はあるだろうし、少なくともぼくにはある。この文章を書いているのも、今回の騒ぎと自分が決して無関係だとは思っていないからだ。コーネリアスが失ったものは大きい、しかし時間はまだ十分にある。なんらかのカタチをもって解決して欲しい。それがすべてのファンが願っていることだろう。
今回の件でもうひとつ気が滅入ったのは、彼の息子、小山田米呂への執拗な罵詈雑言だ。こんな前近代的ムラ社会のつるし上げが、21世紀のいまもネット社会にあるということが本当に悲しい。「親の七光りで書かせやがって」などと言ってくる輩もいたが、小山田米呂は彼の若い感受性をもってOPNのような10年代を代表する電子音楽やシェイムのような若いバンドについて言葉を綴れる書き手であり、可能性を秘めたミュージシャンだ(そもそも米呂とぼくは、コーネリアスとは関係のないところで出会っている。若い世代のインディ・ロックについての若い書き手を探していて、それがたまたま小山田圭吾の息子だった)。近い将来、彼がまたあの軽妙な文体で若い世代の新しい音楽について書いてくれることを願っているし、堂々と音楽活動を続けて欲しい。