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Home >  News >  RIP > R.I.P. Phil Spector - 追悼 フィル・スペクター

RIP

R.I.P. Phil Spector

R.I.P. Phil Spector

追悼 フィル・スペクター

鷲巣功 Jan 23,2021 UP

 新型コロナウイルス感染による合併症でフィル・スペクターが亡くなった。命日は2021年1月16日、享年81、女優ラナ・クラークスン殺人容疑で有罪となり、キャーフォーニャ州立刑務所の薬物中毒治療施設に収監されていた(*1)
 合掌。……お直り下さい。

 前世紀末1980年代半ばのある晩、行きつけの呑み屋でザ・ルーベッツの “シュガー・ベイビー・ラヴ” が有線放送から流れた。それを聞きながら「フィル・スペクターの流儀は時代を超えて続いているのだな」と、わたしはひとり納得していた。ところが同曲は1973年のイギリス人たちによる録音作品であり、彼の遺産は20年以上の歳月だけでなく、大西洋も超えていたのだ。
 永遠の循環進行で「シュバッシュバリバリ」とスキャットを繰り返す男声ハーモニー多重層、前面には「アハー」と高音域のファルセトーが出て来る。他愛のない、しかし永遠に揺るがない愛の真実が唄われ、後半には低音の語りで「そこのアンタ、よく聞けよ。人を愛す事を躊躇するな」と不滅の教訓を諭す。これらが全て分厚い音の壁の上で展開するのだ。フィル・スペクター的でなくてなんであろうか。
 ルーベッツというのはスタジオ演奏家の集まりだったらしい。“シュガー・ベイビー・ラヴ” がヒットして、間に合わせで揃えたような惡趣味の白スーツ姿で人前に出ていた。いつの間にかそれが制服になり、今も懐メロ歌合戦にはこの格好で出ている。あのスペクター的な壁音カラオケがいつも一緒だ。
 わたしがフィル・スペクターのヲール・サウンドを初めて聞いたのは、ロネッツの “ビー・マイ・ベイビー” だったと思う。小島正雄が担当していたラジオ番組「9500万人のポピュラー・リクエスト」だ。ただそれはオリヂナルがアメリカ本国でヒットした1963年ではなく、65年だったような気がする。それ以前に出ていたとされる弘田三枝子、伊東ゆかりのカヴァは今日まで聞いた事がない。
 そのころ持っていた小型のトランジスタ・ラジオでも音の厚さは印象的だった。ひとりひとりがどんな楽器をどのように鳴らしているのかよりも、大編成による伴奏が通奏低音のように「ゴー」と響いていた。特別なパタンを刻むドラムズは、ビートルズの “涙の乗車券” と似ていた。それからだいぶ後にジューク・ボクス下がりの中古で手に入れて聞いたキング盤B面の “ヲーキング・イン・ザ・レイン” は、「壁」の印象がそれより強かった。

 「会った途端にひとめぼれ」という素敵な邦題を持つフィル・スペクターの第一作 “トゥ・ノウ・ヒム・イズ・トゥ・ラーヴ・ヒム” は、彼が十代の時に結成したヴォーカル・トリオ、テディ・ベアーズの作品で、1959年に全米1位を獲得した。彼自身は人前で唄ったり踊ったりするよりも制作に徹する裏方を志し、2年後に業界の先輩レスター・シルと組んで、自身のレイベルを立ち上げる。フィルとシルで「フィレス」だ。当初ここから発売されたシングル盤のB面は常に器楽曲だったという。それは唄入りのイチ推しA面曲がラジオで必ず流されるための配慮だったというから、恐れ入る。
 “会った途端にひとめぼれ” では、フィル・スペクターの録音手法はまだ発揮されていない。それまでの歌物と同じような響きだ。全米1位を獲得出来たのは、詞と曲、そして表現の素直さがウケたからだろう。フィレス設立以降はフィルがステューディオ作業を仕切る立場になれたから、思う存分に録音を追及できた。
 ただスペクター即ち、アクースティク・ギター20人、パーカッション10人とまで大げさに揶揄された「ヲール・サウンド」では、決してない。空間で鳴るカスタネットを聞けば分かるだろう。何よりも、まず惹句を持った可愛らしい詞曲があり、要所要所に仕掛けを潜ばせたアレンヂ、ヴォーカル・ハーモニー、そして圧倒的なリズムで個性的な声の節を聞かせるのである。これらは大衆音楽に必要な不変の要素で、フィル・スペクターはこの真髄を体で分かっていた。作品を重ねるに連れて雰囲気が類似してしまうのは仕方ない。それは「作風」であり、「特徴」や「個性」でもある。
 フィルの録音制作過程は世界中で特異とされて来た。だが彼以前に、録音過程で音楽を作って行く手法を試みた人間がいただろうか(*2)。それまでのレコード音楽は、「原音再生」論を金貨玉条的に振りかざし、録音電気技術を邪道と考える保守的な制作者や技術者たちの作った退屈な響きばかりだった。
 フィルはそこに大衆音楽に必要不可欠な楽曲固有の響きを求めたのだ。まだ多重録音機が生まれる前だから、演奏は全員揃って同時に行わなければならない。それほど広くないロス・エインジェルズのゴールド・スター・ステューディオに押し込められた大勢が、今と違い実際に楽器を鳴らすのだから、必然的に音圧は高くなり余韻が回ってずっと音が鳴っているような響きが生まれる。そうすれば様々な音の魔術も仕掛け易くなる。更に何回も同じ演奏を重ねて「壁」となる。ヲール・サウンドは最初からフィル・スペクターの概念にあったのではなく、彼が要求した追加録音を重ねて出来た結果だ、とわたしは見ている。フィルのセッションは録音拘束時間が長過ぎると演奏家組合から目を付けられたのも、オーヴァ・ダブが多かったからだ。そして録音を重ねていくうちにテイプ上で変化して行く音色も彼を惹きつけた。モノーラルにこだわっていたのも納得が行く。彼にとって音はドッカーンと真ん中から飛び出す物で、ステレオ左右スピーカーの分離などあってはならないのだ。
 たぶんフィルはこういう響きに酔って行き、狂ってしまったのだろう。しかしこのやり方は、確実に全世界の大衆音楽を変えた。ビーチ・ボーイズはもちろん、カーペンターズやブルース・スプリングスティーンだって、スペクターなしには存在しない。ビートルズですらそうだ。
 現在のデジタル技術ならボタン操作一回で出来る事を、フィル・スペクターは時間をかけ人間たちを使ってエンヤコラと録音した。ヲール・サウンドをアナログで聞くと、バズビー・バークリーの群舞実写映画が蘇る。

 フィル・スペクターの遺作は、1980年発表のラモーンズと作った『エンド・オヴ・ザ・センチュリー』になる(*3)。作業はあまり順調に進まなかったとされるが、出来はそんなに悪くない。ロンドンのパンク・ロックの動きを肌で感じたフィルは、自分なりの流儀でこのアメリカのロック・グループのレコードを制作したのだ。仕上がった音は厚く、音圧感が高い。安定したビートが効いている。充分にポップで、茶目っ気もある。紛れもないスペクターの音であるし、彼にとっての音楽はそもそもロックンロールなのだ。ただ形骸したパンクに付き物の、いい加減な薄っぺらさと、破綻に至る暴力感がないところがダメだったのかもしれない。更に1980年には、レコードの音がこの程度で普通になってしまっていたから、謹製スペクター・サウンドの商標も付けられなかった。

 彼は狂人である。鬼才と言えば聞こえはいいけれど、一般的な常識には欠けていたようだ。薬物への依存も相当だったらしく、チャック・ベリーが初めてジョン・レノンと会ったのはフィルの家で、ふたりともメロメロにラリっていたという。場面は想像に難くない。また何かにつけてピストルをブッ放したらしい。ジョンも、ラモーンズのディー・ディーも被害に遭っている。
 ジョンはグループ最後のアルバム『レト・イト・ビ』の最終仕上げをスペクターに一任した。四人の演奏はリヴァーブ漬けとなり、勝手なピッチの変更やストリングス追加などでポール・マカートニを怒らせた。レナード・コーエンは本人承諾のないところでデモ録音を勝手にいじられ、市販レコードにされてしまった。
 そもそもフィレス・レコーズ最初の全米1位曲 “ヒーザ・レボー” は「ザ・クリスタルズ」名義になっているが、実際にはダーレン・ラーヴのザ・ブロッサムズが唄っていたのだ。このような当事者を無視した強引な制作進行は、若くして掴んだ成功の後遺症だろう。また初期に彼の使った唄い手たちの殆どが若い黒人女性だったという状況も影響している。60年代初頭、彼女たちは白人の元締めに文句が言えなかったのだ。一方で黒人の音楽感覚、特にヴォーカル表現には一目置いていたようで、その昔に出ていたレイザー・ディスクの「ガール・グループズ」編では、ステューディオ内で煮詰まったクリスタルズに「もっと普段のゴスペル調に唄ってよ」と促す場面が収録されていた。それを観てわたしは「そうか」と、とても新鮮な気持ちになえたのを覚えている。
 こんな問題の多いフィルに、ジョージ・ハリスンは三枚組ソロ作品『オール・シングズ・マスト・パース』のプロデュースをフィルに依頼した。ジョン・レノンは『ロックンロール』の制作も委ねた。この作業の途中では、録音済みのマルチ・トラック・テイプ紛失というあり得ない事故すら起きた。
 彼はロシア系のアメリカ人でいつも母親と一緒に行動し、制作現場にも立ち会わせていたという。これもちょっと信じられない。録音セッションは父兄参観会ではない。母親同伴だなんて全くおかしな話だ。スナップ写真でそのオフクロの姿を見た事があったような……。本人がいつも濃い色のサングラスをかけていたのも不気味だった。死亡記事の写真でようやく素顔を確かめられた。

 フィル・スペクターについてわたしには、どうしても忘れられない余話がある。蛇足ながら以下に記す。
 1965年のスポーツカー世界一を決める国際マニファクチャラーズ選手権を制した優勝車はコブラ・フォードだ。これは元ドライヴァのキャロル・シェルビーが、英国ブリストル製軽量車体に米フォードの丈夫で長持ち大排気量原動機を載せた混血車で、イタリアの名門フェラーリと一騎打ちの末に覇権を勝ち取った。シェルビーはその時に高速仕様として屋根付きを6台だけ製造した。これが有名なコブラ・フォード・デイトナ・クーペだ。その最初に作られた車台番号CX2287をフィル・スペクターが1967年から町で5年間も使っていたという。彼自身の存在が世界的に知られて行く頃と重なる時期だ。車は純粋な競争用だから日常には全く向かない。フィルもその扱いには手を焼きながら、まだ空いていたロス・エインジェルズで爆音を振り撒いて、ステューディオに乗り付けていたのだろうか。狂人に相応しい振る舞いだ。現車CX2287は彼の手許を離れてから数奇な運命を経た後に発見、復元され、2018年にアメリカの歴史遺産に指定された。フィル・スペクターの所有した履歴が大きく影響しているのは、間違いない。わたしはこの知らせに喝采を送った。

 今世紀初頭、わたしが初めて自分のラジオ番組を持った時、最初に回した第一曲は、“アイ・キャン・ヒア・ミュージック” だった。これはその何年か前に裏方を担当していた萩原健太の番組からインスピレイションを貰ったのだが、健太がビーチ・ボーイズを使ったのに対して、わたしはフィル・スペクター絡みのロネッツを選んだ。これも「9500万人のポピュラー・リクエスト」で聞いたのが最初だ。
 「最初にお断りしておくと、わたしは大滝詠一およびその周辺の人たちのようなスペクター信奉者ではなく、そもそも彼をよく知らないのだ」、この追悼文はこんな風に始めようとした。確かにそれは事実だが、リーバー・アンド・ストーラーに弟子入りした時の話や、1964年ザ・ローリング・ストーンズの録音に立ち会った事、ライチャス・ブラザーズに関してなど、まだまだ知りたい事は沢山あった。今はもう本人に聞く事は出来ない。しかしそれ以前に、彼にまつわるこれほどにも沢山の出来事がわたしの身辺にもあり、今回、その偉大さを改めて思い知ったのである。
 フィル・スペクターの音楽は永遠だ。

(編註:2021年1月25~26日追記)

*1 2009年6月24日付のCNNの報道によれば、彼はカリフォルニア州立刑務所の薬物中毒治療施設には収監されず、有名人や元ギャングなど、注意を要する受刑者向けの特別な場所に収容されていた模様。カリフォルニアの監獄を運営するカリフォルニア矯正リハビリ局(California Department of Corrections and Rehabilitation)による公式発表はこちら(1月17日付)。また、同局が管理するカリフォルニア健康管理施設(California Health Care Facility)のウィキペディアにも彼の名が挙げられているが(1月26日閲覧)、ソースは辿れず。

*2 フィル・スペクターの少しまえに、ジョー・ミークが近いことをやっていたのではないかと、読者の方よりご指摘いただきました。

*3 アルバム単位での遺作。曲単位では2003年に手がけたスターセイラーの2曲が遺作となる。

鷲巣功

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