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Bon Iver

Indie Folk Pops

Bon Iver

SABLE, fABLE

Jagjaguwar/ビッグ・ナッシング

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木津毅 Apr 22,2025 UP
E王

 2025年のヴァレンタイン・デーのことは忘れない。その日発表されたボン・イヴェールの“Everything Is Peaceful Love”は、「すべては平穏な愛」という曲名もさることながら、何よりもその歌が、ただの甘いラヴ・ソングだった。打ちこみの簡素なリズムと夢見心地のシンセのテクスチャー、そしてマーヴィン・ゲイを真似したようなジャスティン・ヴァーノンの歌唱。『Bon Iver, Bon Iver』(2011)の“Beth / Rest”のようにソフト・ロック路線はこれまでにもなかったわけではないが、それにしても、こんな愛の歌をボン・イヴェールとしてヴァーノンが歌ったことがあっただろうか。この歌のサウンドから立ちのぼってくるフィーリングは、新しい恋に落ちる瞬間の興奮や喜びであり、そして……「のんきであること」だ。それは楽観性と言い換えてもいい。
 この曲につけられたジョン・ウィルソンが手がけたミュージック・ヴィデオは、街にいるふつうの人びとがただ楽しそうにしている光景を繋ぎ合わせたものだった。彼らの政治的立場や主張はわからない。とにかくみんな、嬉しそうにしている……。ウィルソンは『ニューヨーカーの暮らし方/HOW TO WITH JOHN WILSON』というとぼけたヴィデオ・エッセイ・シリーズを作っていたクリエイターで、なんというか、あくまでのんきに庶民の素朴な善意を信じ抜くようなそのドキュメンタリー・コメディが僕は好きだったのだけど、その感覚が“Everything Is Peaceful Love”のヴィデオにも詰まっている。ヴァーノンは「それが最初に共有したいフィーリングだとずっと思っていた。ヴィデオは、ただ人びとが抑えきれずに微笑んでいるようなものにしたかった」と語っている。
 本当にそうだった。それは僕が、この殺伐とした時代にずっと感じたいと思っていたフィーリングだった。ヴァーノンは続ける。「幸福と喜びが最高の形であり、生き残るための真の浮力であり、自分自身をあまり深刻に考えなくても世界を癒すことができる、という考えだ」

 いや、昨年ボン・イヴェールとしてリリースした『SABLE』(漆黒)は内省的な弾き語りフォークをベースとしたEPで、自分が予想していた通りのものだった。というのは、これまでの4枚のアルバムは、心に傷を負って雪に閉ざされた山小屋にこもった『For Emma, Forever Ago』(2007/2008)の「冬」から始まり、そこから「秋」まで季節が一巡するものだとされていたからだ。とすれば、ヴァーノンはまた孤独な冬からやり直すだろう……。それはたんにコンセプト的なことではなく、ボン・イヴェールという「人びと」がどのように衝突し調和するかという理想を巡るプロジェクトが拡大しきったがゆえに、また彼は「ひとり」から始めなければならないだろうと思っていたのだ。分断と衝突の時代に、わたしたちはまず、そもそも「ひとり」であることを思い出さなければならない。『SABLE』はそして、彼個人の後悔や傷を巡るパートであり、その繊細なフォークは誰もが山小屋の歌を思い出すものだった。実際、このアルバムもそんな痛みにまつわるフォークから始まる。わかりやすいまでの原点回帰だ。こういう歌を作ったときのヴァーノンは、簡単に聴き手の傷ついた心にたどり着いてしまう。

 ところが、『fABLE』(寓話)と題されたサーモン・ピンク色のパートに入ると、もはやエクスタティックとすら言える“Short Story”で一気に雪は解け、春の訪れとともに新たな恋がやって来る。“Everything Is Peaceful Love”、そして続く“Walk Home”はボン・イヴェール史上もっともスウィートなR&Bチューンだ。たとえば『22, A Million』(2016)の頃のようにわかりやすく実験的なことをしているわけではないが、これまでの成果(エフェクト・ヴォイス、サウンド・コラージュ、複数のジャンルのスムースな融合などなど)を生かして気持ちいいポップ・チューンを鳴らしている。ディジョンとフロック・オブ・ダイムが参加したアブストラクトなゴスペル・チューン“Day One”、Mk.Geeがロマンティックな響きのギターを鳴らす“From”、ヨット・ロックなんて言葉が頭をよぎるイントロの“I'll Be There”……これはボン・イヴェールによるはじめてのポップ・ソウルのレコードであり、喜びと高揚がそこらじゅうで跳ねまわっている。想いを寄せる誰かにいますぐ身を任せたくなるような、長年の友人とお気に入りのバーにいっしょに出かけたくなるような、はじめて会うひとにたまらなく親近感を覚えるような……そんな明るいポップ・ソングに溢れている。かつてダサいとされていたようなAOR風のサウンドを真正面からやっているのは、ある種の俗っぽさを肯定することでもあるだろう。

いや、カーテンはいらないよ
光を入れられるからね
そして地上の苦悩を捨て去るんだ
ぼくは確信しているよ:
きみはぼくのために作られたんだと
(“Walk Home”)

取り戻すべきリズムがある
背筋を伸ばして歩き去ろう
(“There’s A Rhythmn”)

 愛と平穏な心にまつわる前向きな言葉がたくさん並んでいる。ガーディアンのインタヴューなどを読むとそれはヴァーノンのパーソナルな動機から生まれたものだそうだが、だけどずっとボン・イヴェールを「人びと」をめぐる音楽として聴いてきた僕には、彼がどうしてもいま世界に向けて届けたいものだったように思えてならない。微細なすれ違いに拘泥し、ありとあらゆる場所に溝ができ、お互いが疑心暗鬼にがんじがらめになっている現代に向けて……この、楽観性こそが必要なのだと。
 ダニエル・ハイムとの官能的なデュエット“If Only I Could Wait”を経て、“There’s A Rhythmn”でヴァーノンは、またしてもとろけるようなシンセ・サウンドに乗せて「そろそろ去るべきときなのかもしれない/雪をあとにして」とついに宣言する。孤独な山小屋と決別すること――それはボン・イヴェールの歩みを思うとあまりによくできたストーリーかもしれないが、いまを生きる「人びと」に向けた励ましにもなっているだろう。不安や恐怖を押しつけてくるものが溢れている時代だからこそ、そこに留まることは簡単だ。いつだって足を踏み出すのはあなた自身なのだ。そう、だから、すべては平穏な愛である。いま、この困難なときに、ボン・イヴェールは甘い音楽とともにラヴ&ピースを掲げるという挑戦をやり遂げた。

木津毅