Home > Columns > Eaux Claires- July 17-18, 2015 - Eau Claire, Wisconsin
木津毅 Aug 27,2015 UP
「何見るの?」
「もちろんボン・イヴェールだよ!」
「俺、大学で同級生だったぜ」
ウィスコンシンは……というか、オークレアは思っていた以上に田舎だった。学校の校庭と言われても信じてしまいそうなサイズの地元の空港に降り立ち、少し車を走らせるだけでそのことはすぐにわかった。同じ大きさの家がひたすら並ぶ住宅街、マクドナルドのドライブスルーに大型スーパー、落ち着いた雰囲気の大学、ただ碁盤状に走る道路……アメリカ映画で観たサバービアそのものだ。この風景から生まれた音楽を聴きに来たんだと、流れる景色を見ながら僕はぼんやりと考える(免許がないので、運転は同行の友人に任せきりだ)。レンタカー屋の受付の兄ちゃんが「ロック・フェスティヴァルに来たの? 何見るの?」と訊いてくるので「もちろんボン・イヴェールだよ!」と答えると、「俺、大学で同級生だったぜ」という。ロ、ローカル! ……そうだ。ボン・イヴェールのジャスティン・ヴァーノンがザ・ナショナルのアーロン・デスナーとキュレーターを務め、自分の地元であるウィスコンシン州のオークレアで開催するフェスティヴァル〈Eaux Claires〉に参加するために、僕は大阪から東京に行き、そこからシカゴへと飛び、そこからさらに小さい飛行機に乗ってこの田舎町までやって来たのだ。
ジャスティン・ヴァーノンはこの何の変哲もないアメリカは中西部の小さな町で育った、ごく普通の、素朴なナイス・ガイである――ヴォルケーノ・クワイアとして来日したとき、がんばって覚えたひらがなでファンにサインをする程度には好青年で、穴の開いたスニーカーでノシノシとそのへんを歩く程度には鷹揚な。だから彼は自分は特別なのだと、選ばれた人間だと強調することはなかった。彼がかつてフォーク・ソングにこめた自身の孤独とその震えが生み出す詩情は、固有名詞のないものとして、ただ「よき冬」と名づけられてひっそりと世に流れ出したのだった。その透徹としたアンビエント・フォークに打たれて以来、しだいにアメリカの田舎に息づく何かを感じてみたいと思うようになったが、そうこうしているうちにボン・イヴェールが本国でどんどんビッグになって来日がますます困難になり、僕はバンドのライヴを観ることを諦めかけていた……バンドとしての活動も休止し、ジャスティンはプロデュース・ワークに精を出すようになっていた。が、今年に入って彼が地元でフェスティヴァルを作るのだと聞いて胸がざわついた(最初にこのニュースを知ったのはジャスティンのお父さんのツイートだった!)。しかもラインアップのフックはボン・イヴェール、ザ・ナショナル、スフィアン・スティーヴンス、スプーン。(テキサス出身のスプーンは別として)中西部が生んだインディ・ロック・スターを軸としていることは明白だった。心は決まった。
手作り感のある飾り付け、
広場にステージがドン、ドンとふたつ、
背後には雄大なチッパワ川。
車はどんどん森に入っていく。会場への道順を示す素っ気ない看板に従って走らせると、森のなかのキャンプ場に到着した。ほぼ完全にオート・キャンプ、アメリカの各地から何十時間も車を走らせてやってきたという参加者が続々と集まって来る……ほとんどのアメリカ人にとっても、ここはけっこうな田舎なのだ。キャンピング・カーの連中も多く、みんなビールや食料や遊び道具やらを詰め込んでいる。そんな筋金入りのキャンパー族を見て、あー、アメリカのフェスに来たんだなーと思っているうちに、キャンプ・サイトでのミニ・ライヴがはじまる。その日は前夜祭的な位置づけで、キャンプ・サイトだけがオープンしていたのだ。ジャスティンの学生時代からの音楽仲間、フィル・クックがきわめて内陸部の香りのするオーセンティックなアメリカン・ロックで雨上がりのキャンプ場を大いに盛り上げ、僕はミネソタから来たというやたら人懐こい兄ちゃんに謎のアルコール・ドリンクを分けてもらい、テントで爆睡するのだった。
そして翌日。2日とも見事な快晴となったフェスティヴァルは最初から最後まで作り手の気持ちのこもった、温かいイヴェントだった。自然のなかであるフェスという意味では、日本だと〈フジロック〉なんかとイメージとしては近いとは思うけれど、もっと小規模だしDIYだし、なんというかもっといなたい。手作り感のある飾り付けがエントランスに施され、広場にステージがドン、ドンとふたつ立っていて、背後には雄大なチッパワ川。収益のためにVIPチケットもあるのだけれど、その特典がビールを含むドリンク飲み放題というのは笑った。いい音楽と美味いビールにもっと酔っぱらいたいやつらのためのフェスなのだ。案の定というか何と言うか、飲み放題のビールは1日めで予定量がなくなり、2日めスタッフの兄ちゃんが「いま急いでストックを運んでるところだから!」と叫んで、みんなイエーと答え、そして到着後さらに飲んでいた。
2万人強とオーディエンスも少なくはないが、スペースがかなりあるのでフリスビーで遊びまくっているグループもチラホラいる。しかもみんな開放感もあってかフレンドリーだ(ヒゲ男子はかわいいし)。アジア人が珍しいのか不憫なのか、ピザをくれたり(なんで?)、お菓子をくれたり、ビールをくれたり、バンバン話しかけてくる。「きみたち日本人? メルト・バナナは観るの?」
そう、メルト・バナナも出演していた(大人気だった)。フォークやインディ・ロック色が強いとはいえじつはラインアップの幅も広く、スプーンのロックとブラインド・ボーイズ・オブ・アラバマのゴスペルとジョン・ミューラーのドローンとサム・アミドンのフォークがカブっていたりする。ただ、基本的にはジャスティンとアーロン・デスナーの知人・友人として招かれているミュージシャンが多く、メルト・バナナもジャスティンが10代のときにライヴを観ていたく感銘を受けたというある種の感傷的な理由で呼ばれている。キュレーションにも作り手の想いがよくよく反映されているし、オーディエンスもそのことをよくわかっているのだ。
野外フェスティヴァルのステージが、アメリカの田舎のダイナーでのライヴ風景と重なっていく。
……本当に音楽が中心にあるフェスティヴァルだった。
素晴らしい演奏がたくさんあった。ザ・ナショナルの双子のデスナー兄弟は元ムームの双子姉妹と小さなステージに現れ、サム・アミドンはオーディエンスを引き連れてステージの下でフォークロアをみんなで歌い、スプーンはソリッドなロック・サウンドを簡潔になかば暴力的に叩きつけ、ヴァージニアの超ファンキーなブラス・バンドであるNO BS!ブラス・バンドはさまざまなステージに飛び入りしていた。カントリー系のシンガーソングライターであるスターギル・シンプソンが「じゃあブルーグラスをやるよ」と言って演奏を始めた瞬間、僕は電撃を食らったような気持ちになった。そうだ、日本ではほとんど知られていないこうしたカントリー・シンガーの存在がアメリカの内側で音楽を支え、そしてそれらはどこかで確実にボン・イヴェールやスフィアン・スティーヴンスとも繋がっているのだ。野外フェスティヴァルのステージが、アメリカの田舎のダイナーでのライヴ風景と重なっていく。アメリカという土地の音楽の層の厚さ、その広大さには唖然とするばかりだ。
いっぽうでコリン・ステットソンのようなエクスペリメンタルの極を描く瞬間もあり、ピースフルななかにひそかなスリルも併せもっているところもニクい。オーディエンスも真面目な音楽好きが多いのか、演奏中に大声でダラダラくっちゃべったりしていない……本当に音楽が中心にあるフェスティヴァルだった。
このフェスの顔となった中西部出身のシンガーとバンドたちはみな、その地名を含んだ曲を演奏し歌った。それはでき過ぎた偶然だったのだろうか?
このフェスの顔となった中西部出身のシンガーとバンドたちはみな、その地名を含んだ曲を演奏し歌った。それはでき過ぎた偶然だったのだろうか? だけど僕にはただ、そのことが甘美な体験に思えたのだ。
ミツバチの群れが俺をオハイオに運んでいく
俺は結婚しなかった だけどオハイオは俺のことを覚えていない
ザ・ナショナル “ブラッドバズ・オハイオ”
ザ・ナショナルはいまのアメリカを代表するロック・バンドとして、あるいは中西部生まれのしがない市民の心情の代弁者として、堂々たるトリをやってのけた。とにかく大人気で、みんな歌う歌う。グレイトフル・デッドのカヴァーを挟みつつ、ゲストにスフィアンとジャスティンを呼んでオーディエンスを狂喜させる。この貫禄は、セクシーなバリトン・ヴォイスを持つマット・バーニンガーが書く歌詞とも大いに関係しているのだろう。ザ・ナショナルが歌っているのはいつも、名もなき市井の人びとの悲しみや孤独、それに疲労感だ。だがそれがそこに集まったオーディエンスの合唱となるとき、それはたしかな高揚となる。
僕はたくさんの過ちを犯した
心のなかで 心のなかで
スフィアン・スティーヴンス “シカゴ”
スフィアンは……それほど大きくないヴォリュームで演奏された彼の歌は、なんて悲しいのだろうと思った。前半、新譜からの切ないフォーク・ソングが多く選曲されたこともある。だけど、踊りながら歌う『ジ・エイジ・オブ・アッズ』の“ヴェスヴィアス”も、『イリノイ』収録の“カモン! フィール・ザ・イリノイズ!”のめくるめく変拍子も、ブラス・バンドを招いての華やかな“シカゴ”も、その根っこはとてもとてもサッドだ――「スフィアン、内なるパニック」――誰も理解できない、恐らく本人さえも扱えない内面の混乱がそこにはあり、彼はそれをファンタジックな「語り」にするばかり。それが楽しければ楽しいほど、チャーミングであればあるほど、キリキリとした痛みが尾を引いていく。アメリカそのものを祝うはずの独立記念日モチーフとした“フォース・オブ・ジュライ”では狂おしく「僕たちはみんな死ぬんだ」と繰り返し、張り詰めた空気がそこに立ち現われていた。周りを見ると、誰もがただただ立ちつくしている。僕にはアメリカ人がこれを聴いてどう感じるのか想像しきれないけれど、豊かで勇ましいアメリカとは違った、物悲しく貧しく、だけどささやかなファンタジーと物語が宿るスフィアンのアメリカが愛おしくてならなかった。
だから僕はその指を頼りにする
きみが再び証明してくれるから
ボン・イヴェール “ブラケット、ウィスコンシン”
ジャスティン・ヴァーノンはそして、相変わらず飾らないナイス・ガイで……相変わらず度を越した理想主義者だった。彼はこの2日間半で、この町の音楽的な土壌の豊かさを証明し、そのことを祝福した――少しばかり感極まり、「言うべきことはたくさんあるけれど……グッド・ジョブ! きみたちは正しい選択をしたよ!」と冗談めかして笑ってみせた。そこに集まった2万人全員が彼のことを愛していたし、それに何か、彼のことを誇りに思っているようだった。それはきっと、ごく普通の青年が彼の誠実さでこの音楽的な共同体を生み出したことへの敬意だ。ザ・ステーヴス、Yミュージック、コリン・ステットソン、それにジャスティンいわく「このフェスティヴァルのMVP」であるNO BS! ブラス・バンドら、フェスティヴァルの出演者が次々に現れて彼と彼のバンドとともに大団円を作り上げていく。ボン・イヴェールの音楽はスフィアンとはそれぞれ美しく対照的に、傷や孤独を抱えながらそれでも地に足をつけて前に進もうとする、タフなものだった――「僕が失ったかもしれないものは、僕を引き止めたりはしない」。それは合唱となり、わたしたちの宣言としてオークレアの夜空に吸い込まれていく。アンコールでは新曲を2曲披露してバンドの先を仄めかし、ジャスティンは5年前に日本で見たのと同じようにノシノシと長身を揺らしつつ去って行った。
間髪入れずにNO BS! がステージの下に降りてきて、マイクを通さずブリブリとファンキーなナンバーを演奏する。みんな踊っているし、笑っている。「あと一曲だけやるよ!」……わはは、なぜかアーハの“テイク・オン・ミー”だ。Take on me, I’ll be gone……僕のはじめての海外フェス体験は、その楽しい合唱で終わっていった。そうだね、I’ll be gone.
5年前、大阪でジャスティンに厚かましくも「ウィスコンシンでいつかあなたのステージが観たい」と言ったら、彼はとびきりの笑顔で「ぜひ来てよ!」と言った。それはもう叶ってしまったけれど……僕はきっとまた、この愛おしい田舎町にやってくるだろう。
(Special thanks to Yusuke Fukuda!)