連日レジェンド級のアーティストたちの訃報が続き、堪えるなと思っていたところへまたひとり……シーナ&ロケッツの、そして日本を代表するロックンロール・ギタリストの鮎川誠が1月29日午前5時47分(シーナ!)に亡くなった。享年74歳。日本中のロックンロール・ファンがいま、悲しみに暮れている。
昨年5月に膵臓がんで余命5ヶ月を宣告されてからも「一本でも多くライヴをしたい」とツアーを続け、近年ではもっともライヴの多い一年になったという。最後までロックとライヴにこだわった生涯だった。
11月にはシーナ&ロケッツ45周年ワンマンを新宿ロフトで行った。ライヴ中にウィルコ・ジョンソンの訃報が入り、「ウィルコの分までロックするぜぃ!」と叫ぶ姿がYouTubeに投稿されている。
そんなウィルコ・ジョンソンやイギー・ポップといった鮎川とも交流のあったアーティストたちと同様に、鮎川はパンク以前とパンク以後、メジャーとアンダーグラウンドを自在に行き来した存在だった。鮎川の人生は日本のロック史と、そして日本の戦後史とも寄り添っている。
アメリカ兵の父と日本人の母の間に生まれ、母子家庭で育った鮎川少年はラジオで50年代のロックンロールと出会う。次第に音楽に惹かれていく中でビートルズ、そしてローリング・ストーンズとの出会いが彼の一生を決めた。
地元久留米のダンスホールに入り浸る高校時代。そして「音楽をやるために」九州大学へ進学、柴山俊之(菊)らと71年にサンハウスを結成する。サンハウスはメンバー全員が熱心なレコードマニアであり、それぞれにブルースから最新のロックまであらゆる音楽を吸収し、ブルースのカヴァーを中心にレパートリーを増やしていく。
そんな中でブルースの次に目指したのが「日本語のロック」だった。奇しくも『ニューミュージックマガジン』に「日本語ロック論争」と呼ばれる記事が掲載されたのと同時期だが特にそれを意識したものではないようだ。ある日柴山が書いてきた「俺の身体は黒くて長い、夜になったら抜け出して」で始まる歌詞に鮎川が曲をつけて出来上がった「キングスネークブルース」は、それまでの日本の歌謡曲とも、はっぴいえんどの「日本語ロック」とも異なる、ブルースの泥々したエロティックな世界を日本語で表現したものだった。
今でこそ福岡は日本のロックの大きな拠点のひとつとして知られているが、サンハウスが活動を始めた当初はシーンなど存在していなかった。米兵を相手にしたダンスホールが閉店していくと、彼らは地元のホールなどを借りて自主コンサートという形で活動を続けていく。そんな彼らを見て育ったのがルースターズやロッカーズをはじめとする「めんたいロック」第二世代勢である。福岡にロック・シーンを築いたのがサンハウスだったのだ。
その後、伝説のフェス「郡山ワンステップ・フェスティバル」出演などで注目を集め、75年にはメジャー・デビュー・アルバム『有頂天』をリリース。テイチクから「ヒット賞」をもらうほどのヒットとなったという。
生涯の伴侶となるシーナとの出会いも、サンハウスのライヴだった。ある日、バンドが演奏しているダンスホールにふらっと入ってきた青いスーツ姿のロック少女。高校生ながら東京、京都とロック・バンドを求めて旅をした帰りに、福岡の街を歩いていると聞こえてきたサウンドに耳を惹かれて立ち寄ったのだという。そのまま二人はすぐに意気投合。数日後には同棲を始め、サンハウスのセカンド・アルバム『仁輪加』リリース直前の76年に結婚する。
78年にサンハウスが解散すると、鮎川はシーナの親の後押しもあり、単身東京へ出る。当初はスタジオ・ミュージシャンとして身を立てていくつもりだったのだが、後日様子を見に上京したシーナが「歌いたい」と言い出したことがシーナ&ロケッツの結成につながっていく。
サンハウス解散時にはパンクに夢中になっていた鮎川とシーナが同時に惹かれていたのは、フィル・スペクターなどの50年代のメロディだったという(それもまたラモーンズやニューヨーク・ド-ルズがロックにもたらしたものだった)。パンク/ニューウェイヴとそれ以前のロックを結びつけるシナロケの基本的な構想は、YMOファミリーと出会う前からあったものだとわかる。東京ではパンクに理解のあるミュージシャンとなかなか出会えず、結局末期サンハウスのメンバーだった浅田猛と川嶋一秀を迎えてシーナ&ロケッツが結成された。
エルヴィス・コステロの来日公演でシナロケが前座をつとめた際に観客として訪れた高橋幸宏が仲立ちとなり、細野晴臣プロデュースによるセカンド・アルバム『真空パック』が録音される。同時期にYMOの『ソリッド・ステイト・サバイバー』のレコーディングにも参加している。このときのエピソードについては最近もテレビで語られたりしているのでご存じの方も多いだろう。
その後もYMOファミリーとの関係は続き、シナロケのサード・アルバム『Channel Good』やシーナのソロ・アルバム『いつだってビューティフル』は前作に続き細野がプロデュースし、YMO関係者が演奏に参加している。
サンハウス時代のブルース・ロックから一転してニューウェイヴ/テクノポップ・サウンドに身を包んだシーナ&ロケッツは「YMOファミリー」として一躍人気を得る。これ以降はテレビ出演の機会なども増え、お茶の間での知名度も上がっていった。おそらくこの時期に彼らのことを知った人が多いだろう。コンビニやカップラーメンなど、九州ローカルのCMなどもいろいろと出演している(そんなCMでもかっこいいのが流石である)。
シンガーとしても独特な朴訥した魅力があった。81年の日比谷野音でのライヴから鮎川が歌った曲を集めた『クール・ソロ』、シーナの産休中にロケッツ名義でリリースされた『ロケット・サイズ』など鮎川のヴォーカルをフィーチャーしたアルバムも何枚かリリースされている。中でも特筆したいのは、盟友ウィルコ・ジョンソンのプロデュースによる『ロンドン・セッション#1』『#2』の2枚だ。ウィルコとそのバンド・メンバーをはじめ、ハーピストのルー・ルイス、エルヴィス・コステロ&ジ・アトラクションズのスティーヴ・ナイーヴなどパブ・ロックの名手が参加し、ジーン・ヴィンセントやリンク・レイ、チャック・ベリー、BBキングなどロックンロールやブルースの名曲を伸び伸びと演奏している。
ルーツ音楽を追求する一方でコンピュータやインターネットに興味を持つのも早く、96年には自身の手による公式ホームページ「ロケット・ウェブ」を作成。同年には名著『DOS/Vブルース』を刊行している。このロケット・ウェブは立ち上げが早かっただけでなく、最後まで当初の形を残したまま更新が続いていたということも特筆しておきたい。ディスコグラフィーには詳細な本人解説がつき、ほぼすべてのライヴのセットリストが翌日にはアップされていた(昨年12/19に三宅伸治のライヴにゲスト出演したものが最後になっている)。今見るとちょっと懐かしいような昔ながらの「ホームページ」だが、その無骨な感じが鮎川らしい。
鮎川の、というかシーナ&ロケッツについて特に重要なのは、シーナは子どもを生んでから初めて音楽活動を開始したということだ。それまでステージ経験のまったくなかった女性が出産後にバンド活動を始めるというのはかなりレアなケースだと思う。『女パンクの逆襲』でも書かれているように、出産をきっかけに女性アーティストがいったんキャリアを中断せざるをえなくなるケースは枚挙にいとまがない。そんななか、周囲のサポートと本人たちの強い意志でバンド活動を継続していった鮎川夫妻の提示した家族像は極めて新しいものだったのではないだろうか。その後は長女がバンドのロゴをデザインし、次女がマネージメントに携わり、2015年にシーナが亡くなった後は三女が母に代わってステージに立つに至る。
新旧のロック、ブルース、ソウルへの造詣の深さは評論家顔負けのものがあった。雑誌の企画でおすすめ版を求められればスリム・ハーポからアラン・ヴェガまで様々なレコードが挙がる。彼の監修したディスクガイド『200CDロックンロール』はブルースからR&B、正統派ロックにパンク/ニューウェーヴまでを網羅したこれまた名著である(個人的にはニューヨーク・ドールズでセカンドを推しているあたりに膝を打った)。60年代ガレージ・パンクのコンピレーション・シリーズ「ペブルス」から鮎川が選りすぐって選曲した『ペブルスの真髄』も名コンピである。筆者はここからガレージの世界にはまっていったものだ。
そんな鮎川誠というミュージシャンだが、「代表作」を挙げにくいという問題がある。もっともヒットしたのは『真空パック』だろうが、やはりYMO色が強すぎる。やはり鮎川はライヴでこそその真価を発揮するタイプのアーティストだったのだと思う。
対バンのあるイベントで見るとよくわかるのだが、まずシナロケは常にどのバンドよりも音がでかい。そして長年連れ添ったレスポールから発するあの爆音は、エフェクターなしでどうやったらあんな音が出るのかまったく見当もつかない。3年ほど前に、ピータ・バラカンと鮎川の対談イベントというのがあり、その際にちょっとしたミニライヴがあったのだが、バラカン氏も「ものすごい音ですね、なにか特別なアンプを使っているんですか?」と尋ねていたものである。
はっきり言ってしまえばテクニック的に彼よりうまいギタリストは正直いくらでもいる。しかしながらステージに現れてEコードを一発鳴らしただけですべてを納得させてしまうサウンド、そしてその佇まいの問答無用のかっこよさ。
あれほどまで「ロック」を体現したギタリストは誰もいなかったし、これからも現れないだろう。あの雷鳴のようなすさまじいギターには代わるものがない。あれがもう聴けなくなってしまったことがただただ残念で仕方がない。







