Home > Reviews > Album Reviews > Antony and The Johnsons- Cut The World
表題曲のヴィデオ(暴力描写あり)で、ウィレム・デフォーが女性に喉をかき切られていた。彼はラース・フォン・トリアー『アンチクライスト』で狂気の淵に落ちたシャルロット・ゲンズブールにもむごい暴力を受けていたが、映画とは違い、ここでのマリーナ・アブラモヴィッチによるそれにはどこかしら清々しいトーンがある。オーケストラはあくまで優美に演奏し、アントニー・ハガティはあの情感に満ちた長音を歌う。デフォーは喉から血を流し、ビルの外には同じように「殺戮」を行ったのであろう女性たちが集まってくる。このヴィデオの主題はそのまま、本作の2トラック目に収録されたアントニーによる「主張」、"フューチャー・フェミニズム"に引き継がれる。一部を引用しよう。「しかし、私は魔女です。実は「脱洗礼」もやりました。トランスジェンダーであることが素晴らしいのは、生まれながらにして自然な宗教を持っていることです。どの文化や経済圏や国に属していようと、すべての人に適用される。ほとんど自動的に魔女であるわけです。/家父長制の世界では誰も私たちを受け入れてくれない。そうした宗教においては死刑に処されることが明白です。(中略)私たちの犯した罪は神のみぞ知る、でしょう。戦争や対立、あらゆる種類の苦痛を引き起こしたのかもしれない」
この「世界」にある宗教のほとんどが家父長制の腕力に支配されていることを主張するアントニーはそして、「私は神の女性化ということに非常に興味がある」とまで言う。ライヴ盤のリリース自体が、この発言を収めたかったからに違いない。男性原理の喉元に刃物を当てて、「cut」すること。歌い手としてのアントニー・ハガティは、その唯一の声を持っているために純粋に特別な震えの持ち主として様々なアーティストに寵愛されてきたが、本人がジョンソンズを従えてパフォーマーであるときは、進んで「魔女」、異端者であろうとする。趣味としてのオカルトとはそもそも成り立ちが違う。ここでの「cut」という言葉と女たちの行動に象徴されるように、アントニーの表現にはつねに厳格さや鋭利さ、それにある種の禍々しさを孕んでいる。たとえば続けて演奏される初期の楽曲"クリップル・アンド・ザ・スターフィッシュ"の、「私は幸せでたまらない/だから、どうか私を殴って」というフレーズや、「別の世界」に焦がれる"アナザー・ワールド"。暴力や血、病、不健全さ、そして死のイメージだ。だが、それらの歌ではそこにこそ光が当てられて、そして愛が立ち上ってくる。異端者たちの愛が。
アントニー・ハガティの公演を観たのは、とても寒い日だった。雪が降ったのを覚えている。男でも女でもない大野一雄と慶人が舞踏すれば、男でも女でもないアントニーが信じられない声で歌う。信じられないと書いたけれども、同時にあらかじめ発声されることが決められていたかのように絶対的な響きを持った声。ライヴと呼ばれるコミューナルな空間とは異質の、まるで一対一で向き合っているようなきわめて親密な交感がそこでは生まれていた。このアルバムは、じゅうぶんにあの日のインティマシーを思い起こさせる。幾分崩して歌うアントニーには穏やかな余裕もあり、楽曲にはつねに感情の熱がこめられる。オーケストラの演奏の呼吸も素晴らしい。とくにデビュー作『アントニー・アンド・ザ・ジョンソンズ』収録の楽曲、"クリップル・アンド・ザ・スターフィッシュ"、"ラプチャー"、"トワイライト"の率直さがライヴでは重要な役割を果たしていることがわかる。歌のドラマティックな展開とともに、エモーショナルな高みが広がってゆく。
結局、この歌から聞こえてくる強さ、厳しさ、柔らかさ、豊かさ......それらを、我々は「美しい」としか言葉で表現できない。魔女の歌の美はだから、忌み嫌われ、遺棄された人びとが持ち得る感情の震えを放っているだろう。男たちが支配する世界に背を向けて、アントニーは微笑み、歌っている。世界が「不純物」だとする存在の、もっとも純粋な何かとして。
木津 毅