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80年代初頭のブラジル音楽がブライアン・イーノとリンクすることを熱望していたなんて、ちょっと面白いと思わない? まだ軍事政権下のブラジルでは、そもそもコンピュータの輸入に関して制限があった。音楽における電子機材(とくにドラムマシン)に関しては、一般的な見解としてサンバの伝統を損なうということで、それ相応の抵抗があったそうだ。独裁政権と伝統主義の両軸から、エレクトロニックな機材はうとまれていたという。このあたりの興味深い事実関係は、ジョン・ゴメスのライナーに詳しいので、ぜひ読んでいただきたい。素晴らしい研究の成果の断片が読める。すなわち、伝統的な文化に砂をかけることなく、伝統的な文化を無視することなく、しかし外(海外)に開けていく手立てはあるのか……と。つまり、過去や伝統を参照するばかりではなく、海外文化にも積極的に目を向けながらブラジル人としてのアイデンティティを更新することは可能なのか……と。
なんにせよ『アウトロ・テンポ』は、2017年のベスト・コンピレーション・アルバムである。手短に言えば、1978年から1992年にかけてのブラジルでエレクトロニックな機材を用いて録音された曲を集めたコンピレーションで、軍事政権(1964年から1985年)から民主制に移行する時期の、長引く不況と政治的な不安定さのなかで生まれた楽曲、先にも書いたように、伝統と脱伝統の揺らぎのなかで生まれた楽曲──おもにエグベルト・ジスモンチという、日本でもお馴染みの、冒険心を忘れないアーティストに触発された人たちの楽曲が収録されている。
驚くべきほど多彩な、いろんなタイプのブラジリアン・テクノ、アンビエント……がある。当たり前だが、電子機材の応用といってもスタイルは幅広いので、たとえば1990年のオス・ムリェーリス・ネグラスによる1973年のジルベルト・ジル“Eu So Quero Um Xodo”のカヴァーは、ディーヴォの“サティスファクション”を思い出さずにはいられないし、イーノへのメッセージを自らのアルバムに記したマルコ・ボスコの1983年の“Madeira II”はベーシック・チャンネルがリオにやって来たかのようなダブで、ナンド・カルネイロによる1983年の“G.R.E.S. Luxo Artezanal”はリズムマシンを走らせながら甘美なギター・アルペジオをミキシングする。
もう2〜3例を挙げてみよう。ビートルズの“ウィズイン・ユー、ウィズアウト・ユー”をサンバに置き換えたような、サンパウロの実験的ロック・バンド、Os Mulheres Negrasによる1990年の“Só Quero Um Xodó”、同バンドのカンを彷彿させるほどユニークな“Mãoscolorida”もそうとう面白いし、フェルナンド・ファルカォンによる1981年の“Amanhecer Tabajara”やAnno Luzによる1988年の“Por Quê”のような、ミニマル/アンビエント/エクスペリメンタル系の曲も魅力たっぷり……というか、discogsで調べても1枚か2枚で消えている人も少なくないし、当然レコードを集めるだけでも相当な労力/出費がかかっているだろう。
2017年でより、ますますはっきりしたことのひとつには「分断されている」ことがあると思う。ネオリベラリズムは分断を好む。そういうなかで、イーノとジョン・ハッセルの『第四世界』がふたたび語られはじめていることを興味深く思っている。それはテクノロジーと非西欧の民族音楽との混合によって描かれる「第三世界」を捻った想像上の世界のことだが、ここに収録されているいくつかの曲は、同時代のイーノに共鳴しながら、それをブラジル内部おいて実践してきたことの結実と言える。いろいろなスタイルの音楽が混合されているという点もそうだが、要するに、ここに収められている音楽はユートピアを夢見ているわけだ。
野田努