Home > Reviews > Live Reviews > Earth / Mamiffer Japan tour- @ earthDOM / Fever 2012/09/19-22
いま猛烈に疲れている。というのもこのドシャ振りの雨の中、マミファーやアースの連中と一日中外を徘徊していたからだ。
シアトルの連中は雨を何とも思っていないように見える。というかむしろ好きなんじゃないかというくらいのはしゃぎようだ。
僕と言えばヒキコモリ・イン・ダ・ハウスを具現化したような毎日。
しかも先日、LAでの放浪を終えたばかり。まばゆいばかりの太陽と輝く砂塵、七色の煙にまみれ弛緩しきった体にこの湿度と雨、人波。この程度の些細な物事につまづいているゆえ今後の社会復帰が思いやられる。
という僕がいかに僕ちゃんなのかという話ではなく、これはシアトル→LA→東京をドリフトする怠惰なライヴ・レポである。
オールド・マン・グルーム(Old Man Gloom)、その名を聞いて震え上がらぬ者はいない。ex-アイシス/マミファーのアーロン・ターナー、ケイヴ・イン/ゾゾブラのケイラブ・スコフィールド、コンヴァージ/ドゥームライダーズのネイト・ニュートン、フォレンシクス/ゾゾブラのサントス・モンターノという泣く子も黙る00年初頭のボストン・エクストリーム・ミュージック・オールスター・バンドだ。
そのOMGが10年振りにライヴをやると聞き、僕は少量の尿を漏らした。行かねば...殺られる...彼らの西海岸ツアー初日を飾るこのエコー(Echo)は個人的にも思い入れのあるハコだ。サンセット通りに面した2階がエコー、グランデール通りに面した1階がエコー・プレックス(Echo Plex)となっており、アーロンが社長を務める〈Hydrahead Records〉でバイトをしていた際、LAで初めて借りた部屋から徒歩3分というのも相まって当時様々なバンドをここで見た。「dublab meets dubclub」等このふたつのフロアを存分にいかしたイベントも魅力的だ。
マーチテーブルでひとりせっせと社長自ら売り子をするアーロンを横目で見つつ、しかし手伝うということもなくビアを飲みながら弛緩しながらニヤニヤしている恩知らず極まりない僕は、この日の盛況ぶりに驚いた。会場を埋め尽くす汗臭い素人童貞感漂うメタル・デュード、メンヘラ感が否めないロックお姉さんの群れ群れ群、マーチャンダイズを湛然に物色する彼らオーディエンスの熱意の凄いこと凄いこと。OMGは多感な時期の僕のヒーローであり、所詮は過去のモノという概念がやはりどこかにあったのか、〈Hydrahead〉のリリース群のようなエクストリーム・ミュージックがこの地においては絶大なポピュラリティーを得ていることを改めて認識させられた。
気づけばステージではアイズ・オブ・ジェミナイの演奏が始まっている。そのサウンドはストーナー・ロックの文脈下ではあるが、良質なリフ、ひねくれたグルーヴのドラム、ゴシックな女性ヴォーカルと個々の要素に抜群のセンスを感じられるもので今後のブレイクが期待される......って今ウェブで調べたら彼等のアー写が出て来てウワチャー......これは僕にはちょっとゴス過ぎるなぁ......
OMGの出番もいつしかおとずれ、マーチテーブルから息つく暇もなくアーロンは袖へ。なにも社長自ら売り子をしなくてもいいのになぁと相変わらず手伝う気がない僕だが、そのいつだって一直線な努力が彼のバンドとレーベルをここまで大きな存在にしたことに間違いはない。
さすがはオールスター・バンド、見栄えが違う。第一線で活躍する個々のバンドの過密なスケジュールがピッタリ合う周期が10年に一度とゆーことなのだ。そのありがたさたるや何チャラ流星群みたいなものである。当時クソガキだった僕はコヤジ(小オヤジ)となり、アンチャンだった彼らはコッサン(小オッサン)となった。パンク・ハードコア・スピリットを忘れ、腰痛が恐くてモッシュもできず、女の子にフラレても「あ、生理なのね」と動じない迷惑千万な図太いコヤジとなった僕を嘲笑するかのようにOMGのオッサンたちはのっけからブルータルなチューンで畳み掛ける。彼らの新作である『No』はOMG史上最もブルータルなアルバムであるが、このライヴで見せる彼らのポテンシャルはそれ以上のものだ。狂気の沙汰ともいえるアーロン、ネイト、ケイラブが全員がヴォーカルをとるという怒濤の三位一体エネルギーがオーディエンスの血液を逆流させる。個人的にOMGのトレード・マークであるサントスのヘヴィかつダンサブルなドラムがフロントの3人の怒れる漢を後押しする。OMGのバンド名からも伺えるが、このバンドは元々アーロンとサントスのふたりが地元であるニューメキシコで結成したものだ(「Old Man Gloom」および「Zozobra」はニューメキシコはサンタフェでおこなわれるバカデッカい案山子を燃やすお祭りのことだ)。OMGのサウンドは燃え盛る感情の炎が照らし出すインディオとラティーノのミックス・カルチャーが育んだニューメキシコの雄大な土地と歴史を舞台にキューブリックが『2001年宇宙の旅』を撮ったような宇宙スラッジ・コアとでも言っておこう。気づけばモノリスに群がる猿と化した僕はフロアでもみくちゃとなり、満身創痍な状態でライヴは終了。アーロンに礼と別れを言い、東京での再会を約束したのであった。
そう、それは彼の別プロジェクト、マミファーがあのアースとともに来日することになっていたからである。
Old Man Gloom | Photo by Diona Mavis
さて、話は少し戻り、紙『エレキング』7号にてインタビューをおこなったアースであるが、実はこのインタヴューに僕はかなり尻込みしていた。だってだってだってあのアースですよ? ふだん僕がインタヴューをおこなっている味系ミュージシャンとはワケが違うワケで......。
僕はアースにある種の畏敬の念を感じている。9年間のブランクの後に発表された『Hex』のレコードに初めて針を落とした時、そのサウンドのあまりの美しさに涙した。それから現在に至るまでコンスタントにアースが発表してきた比類なき完成度を誇るすばらしい作品群は、ディラン・カールソンという壮絶なる半生を送って来た男にしか奏でることができない叙事詩なのだ。近年はB型肝炎を患っており、医者にはすでに余命宣告もされているという中で制作された最新作『Angels of Darkness / Demons of Light I & II』(レコーディングは同一セッション)、そしてリリースを控えているディランのソロ作品、彼のクリエイティヴィティはさらなる高みを登り続けている。彼が見ている世界はもはや凡人が伺い知ることのできない領域なのだ......。
......というワケで、僕の中のディランは神々しい存在なのであった。が、新大久保「earthDOM」でのライヴ前、初めて会うディランは笑顔の絶えない最高の男であった。昨年シアトルで会ったベーシストとして今回のツアーに参加しているドン・マクグリーヴィ(その日のくだりはマスター・ミュージシャンズ・オブ・ブッカケのレヴューを参照)とともに自宅で飼う3匹の猫の可愛さを笑顔で語るディランに僕の緊張はいつしかほぐれていった。僕のくだらない質問にも気さくに答えてくれ、炭坑夫として働いていた彼の叔父の壮絶な話なんかまさしく『Hex』の世界観そのままだ。
ディランの話を聞いている内にすでに演奏を開始していたマミファーはパーカッショニストとしてジョン・ミューラーが今回のツアーをサポート。実は僕は最初彼がジョン・ミューラーだと知らず(だってアーロンがジョンとしか紹介しなかったからね)、後日カレーを食いながら談笑している際に気づいた。失礼極まりない......彼とジェイムズ・プロトキンによるレコード『Terminal Velocity』はエレキング編集部で最近もっぱら話題の名作である(というか僕と三田さんの間だけの話だが......)。
マミファーのセットは見るたびに異なる様相を呈している。前回の来日の際との秋田昌美氏とのコラボレーションや近年のリリースを聴く限り、よりオーガニックなノイズ・ミュージックを今回も予想していたが、ジョンとのセットとのことで今回は哲学的な重厚さを漂わせるドローン・ロックを披露していた。フェイスの美しい歌声はもちろんだが、OMGとは別にLAで見たウィリアム・ファウラー・コリンズのコラボレーションでも際立っていたアーロンのヴォーカルの繊細かつ重厚な響きはすばらしい。
マミファーの演奏後の熱も冷める間もなくアースの出番だ。ディランいわく、今回のアースはパワー・ロック・トリオなのさ、とのこと。セッティングのすばやさもさることながら、まさしく小細工無しの生音スリー・ピース。ホーン/オルガンのオーケストラ・セットでのアースもすばらしいが、ディランがていねいにストリングを拾うことによる芳醇な倍音、アドリアーノの司るすばらしい間、ドンの流れる様なベースライン、シンプルが故に個々が際立っている。濃密なロングセットを披露した。僕は週末の新代田フィーバーでの再会を約束し、この日を後にした。
ラストの東京公演の日、例のごとく予想よりかなり早い時間にアーロンから着信があり、サウンドチェックも早々に済ましたとのことでこの辺にヴィーガン・レストランはないか、とのこと。合流のためチャリを走らせながら僕はかつて彼が結婚前、アイシスで来日していた頃毎回「日本だー! 焼き肉だー!」と騒いでいたことを思い出していた。日本でのヴィーガン・ライフはまだまだ厳しい。下北にてヴィーガン食をむさぼりながらアーロンとフェイスはジョンと本日のセットについて細かい部分を詰めていた。そのかいあってか、その日のマミファーのセットはDOMでのショウを遥かに凌ぐすばらしいできばえだった。終止途切れることのない集中力、ジョンのドラミングはまさしくスティックがドラムに吸い寄せられているようなライト・スポットを打ち抜き、アーロンのヴォーカルは気合い千万、フェイスの歌声の透明感もさらに増したすばらしいものであった。
おっと、話が前後してしまうが、この日の東京公演をサポートするのは日本が世界に誇るBoris。しかもアレ? 栗原さんもいるじゃないですか。いまさら栗原ミチオについて僕が語るまでもないが、海外の友人のみなが一様に絶賛する彼こそが日本が誇る世界屈指のギタリストである。Borisは名盤『Flood』と新曲を披露する僕が今まで見たBorisのセットの中で最も短いものであったが、それが逆に新鮮であった。Borisの3人が奏でるヘヴィ・サウンド・スケープの中を縦横無尽に駆け巡る栗原氏の血湧き肉踊るギターに会場にいる誰もが恍惚としたことだろう。常にリスナーの予想を良い意味で裏切る、確信的な活動をおこなってきたBoris、それは孤高の存在と呼んでいいだろう。彼らの常に時代の先をゆく活動は真に才能と努力に裏打ちされた天の邪鬼が為せる奇跡なのではなかろうか。今後も彼等に驚かされるのが今から楽しみである。
さて、結論から言うとこの日のアースは初日を遥かに凌ぐすばらしいものであった。チケット完売で約300弱のオーディエンス。ヨーロッパ・ツアーでの大きなフェスティバル以来の聴衆だとディランは漏らしていたが、それほど誰もがアースを心待ちにしていたのだ。そんな中を優雅にプレイするのは百戦錬磨の経験に他ならない。かつて見た彼らのドキュメンタリー内でのインタヴューにてディランは興味深いことを言っていたのを思い出した。おもむろに目の前にあるグラスを手に取り、自分の音楽はこのグラスに注がれた水のようなものだ。形を持たないその何かがどこからかやってきて自分という器に注がれ、形を為しているに過ぎないと。ディラン・カールソンはかつて僕らの想像を絶する絶望の淵から幾度も這い上がって来た。そして今現在彼がおかれている状況も決して楽観視できるものではない。この日の彼の演奏を聴いて僕は涙しそうになった。それはまるでこの地球上のあらゆるものの存在の儚さ、しかしすべては永遠であり、形を為している個にはすべてに意味があるのだ、と彼が語りかけているように聴こえたのだ。
彼らはシアトルへ帰っていった。雄大な自然に囲まれたミュージシャン・コミュニティのあるあの地へ。もしこの僕の駄文を読んで少しでも彼等の音楽に興味を持ってくれた方がいれば、彼らのレコードを手に取って欲しい。非常に残念なことにアーロン・ターナーの〈Hydra Head Records〉は今年の暮れを持って1995年から歩んで来たその偉大な歴史に幕を閉じる。いつだってインディペンデント・レーベルとしてローカル・ネットワークを大切にしてきた彼らのリリースを手にとる機会がもしあれば、それは多いなるサポートへ繋がるだろう。またアースもディラン・カールソンのソロ・プロジェクトを含め多くのリリースを控えている。どちらも90年代から現在に至るまでロック史に大きな足跡を残して来た存在であり、今後のインディ・ミュージックの先を占うものであるだろう。
EARTH | 写真:塩田正幸
文:倉本諒