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30才以下で、アファーマティヴ・アクションという政策を知っている日本人はどのくらいいるのだろうか?
先月4月24日付けのウォール・ストリート・ジャーナル(日本版)に、「米最高裁、ミシガン州のマイノリティ優遇廃止に合憲判断」という記事が掲載された。これは、ミシガン州が、公立大学入学において、アファーマティヴ・アクション(積極的差別是正策)を2006年に廃止したものに対して、米連邦最高裁判所が合憲と判断したというものであった。記事に付随していたアメリカの国立教育統計センターの2012年の統計によれば、大学進学比率は、ヒスパニック系が68.5%、白人が67%、黒人が62.1%と、ほぼその差がなくなっているという。さらに記事によれば、カリフォルニア州を含む8州では、ついに、と言うべきか、すでにアファーマティヴ・アクションは廃止されているとのことであった(この政策は、当初からアフリカ系アメリカ人の中でも賛否両論あり意見が分かれていた)。
時代は完全に変わったのであろうか。少なくとも90年代は、「キープ・イット・リアル」といういまではいっさい聞かなくなった言葉に象徴されるように、アフリカ系アメリカ人によるヒップホップ・アルバムのほとんどは、行き場のない怒りと聴く者を威圧するようなサウンドに満ちていた。その時代を象徴する楽曲のひとつが、ファレル・ウィリアムスとチャド・ヒューゴによるプロデューサー・ユニット、ザ・ネプチューンズが手掛けた、ノリエガの“スーパーサグ”(1998)である。
そもそも音楽という表象的な表現手段に留まらず、事実1992年には、日本でも大きく報道された「ロス暴動」というロサンゼルス市街で起きた大規模な放火、略奪といった多数の死傷者を出す事件すらあった。この事件の根は深く、ここでその背景を詳しく説明することは控えるが、それから20年以上が経過し、やはり時代は確実に前に進んでいると考えてよいのだろう。バラク・オバマが奴隷の子孫ではないにせよ、アフリカ系アメリカ人が大統領として国家のリーダーシップを取るその聡明な姿を日々メディアで目にすれば、一部の白人至上主義者がかつて持っていた有色人種に対する差別的な見解は、(当然なのだが)まったくの出鱈目であることは誰の目にも明らかだ。もしかしたら、アメリカの問題はすでに「人種」ではないのかもしれない。
ファレル・ウィリアムスは、2枚目となるソロ・アルバム『ガール』をリリースした。公式インタヴューによれば、同アルバムは、ファレルが参加したダフト・パンクの“ゲット・ラッキー”を受けて、ソニーからオファーされたものであったという。従って、アルバム全体の印象は、ダフト・パンクの『ランダム・アクセス・メモリーズ』に通じる部分も多いが、『ガール』のほうは、よりファレルの持つファンクネスが強調されたアルバムに仕上がっている。共演陣も、ジャスティン・ティンバーレイク、マイリー・サイラス、アリシア・キーズ、そして、ダフト・パンクなど多彩な顔ぶれとなっており、良い意味で濃厚なブラック・ミュージックと言うよりは、良質のポップスとして広く受け入れられるようなトラックが並んでいる。
そして、ファレルが、今回のアルバムについて「女性に対する感謝の気持ちのスペクトラム」と述べている通り、ポジティヴなリリックが全編に渡り綴られている。また、リード・シングルとなった“ハッピー”では、24時間にわたる前代未聞のミュージック・ヴィデオが制作・公開されたが、そこに登場するのは、OFWGKTAのタイラー・ザ・クリエイター、アール・スウェットシャツや、ジェレミー・フォックス、マジック・ジョンソンなどの著名人が何人かカメオ出演しているものの、そのほとんどは一般の人びとである。
そこでは、その多くのファレルの言う「普通の人」が、ゴージャスなプールサイドや洒落たパーティ会場ではなく、ごくありふれた場所、例えば、街のガソリンスタンドや地下道、ショッピングモールなどでまさに自由に踊っている。さらに、ファレルは、収録曲“マリリン・モンロー”について、下記のように述べている。
“どういうわけか、社会と言うのは、自分が大勢の中の1人だって思わせようとしてきた。でも、お互いにこう言えばいいじゃないか。「いいかい、君はスペシャルなんだ。唯一無二の存在なんだ」って。”
そしてこのメッセージは、“ハッピー”のミュージック・ヴィデオでも同様に見事に体現されている。
先月末、現在、アメリカでは、新たな貧富の差による分断が進んでいる――といった内容のNHKの報道番組が放映されていた。そこではかつてのような人種による分断ではなく、職業や所得による分断の実情が報告されていた。当然、その大多数は貧しい側だ。貧富の格差が固定化され、1%が99%を切り捨てていくその現実に、かつて貧しい者の精神的な支柱でもあったアメリカンドリームの構造は消えかけているという。
先述した通り、映像でファレルは、その99%の側である「普通の人」を主役にしている。もし仮にセレブリティ(彼らは、ときに富める者を象徴する)だけを集めたヴィデオを制作していたとしたら、それはプロモーション・ヴィデオにはなるかも知れないが、たんに24時間というトピック以外に意味を持ち得ることはなかったかもしれない。この映像のアーティスティックな作品としての価値は、それが仮に無意識であったにせよ作家から見た社会の有りの侭を映し出しているからこそ、だ。そして、映像のなかの彼らは、悲観的ではない。それぞれが、自由に、思うままにダンスしている。もちろん、そこに「人種」による分断はもはや見られない。
これが、99%の側の者たちの「それでも楽しんでやるよ」という諦めの境地なのかどうかはわからない。しかし、ファレル・ウィリアムスは、稀代の音楽家、そして現代のポップスターである。彼が奏でる音楽を聴く者は、その瞬間だけでも日常の嫌なことを忘れ、「ハッピー」な感情に包まれることができるのかも知れない(まるで、『夏の夜の夢』のパックの魔法のように)。そして、彼らはまた、階層が固定化された日々のループに戻っていく。本来、自由と平等=競争(アメリカンドリーム)を是認してきたアメリカ。反転してそれが崩壊している現状が見えてくる、というのは筆者の単なる深読みであろうか。
東海林修