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Book Reviews

音楽と建築

音楽と建築

ヤニス・クセナキス 著 高橋悠治 編訳

河出書房新社

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松村正人   Nov 10,2017 UP
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 最初に本書の編訳者高橋悠治が著者の足跡をまとめた「軌跡」を要約しながら略歴をおさらいいしよう。

 ヤニス・クセナキスは1922年(または1921年)5月29日(または6月1日)にブライラで生まれたギリシア系ルーマニア人。6歳のとき母に子ども用の笛をもらったのをきっかけに音楽の不思議に打たれ、ラジオでクラシック、民族音楽、教会音楽を聴き、古代の遺跡や文学にふれ、考古学、数学、天体物理学に興味を抱くも、ときおりしも第二次大戦のさなか、1941年にドイツ軍へのレジスタンスに加わり、戦後にはイギリス占領軍との戦闘に参加し負傷する。47年にフランスに亡命し、建築家ル・コルビュジエのスタジオで構造計算を担当する一方、51年から2年間オリヴィエ・メシアンの講義に出席し作曲を学んだ。のちに現代音楽と呼ばれる分野を牽引した作曲家を多数輩出したメシアンの助言にしたがい、ギリシア人である自身のルーツと建築家としての経験や数学の素養をいかす音楽を模索し、「メタスタシス」(1953~54)、「テレテクトール」(1965~66)、「ノモス・ガンマ」(1967~68)などの管弦楽、高橋悠治に献呈した「ヘルマ」(1961)や「ノモス・ガンマ」のプロトタイプであるチェロのための「ノモス・アルファ」(1965)などの独奏曲、確率論や群論をもちいた作曲法の開拓はコンピュータによる作曲プログラムや音響合成の礎石となり、それはやがて電子音響を視覚化して描く装置「UPIC」の開発にもつながっていく。建築や数学を音楽と等価に――というよりも、たがいの土台にあるものを陥入させあい独自の地層を築くクセナキスの思考は視覚のみならず、空間全体にひろがり、「ポリトープ」や「ディアトープ」などの作品に実を結んだ当時、まさに絶頂期の論考が本書の中心だが、クセナキスはその後もうまずたゆまず170曲以上を世に問い、ギリシア文字の〆となる「Ω」を表題に冠した打楽器と室内オーケストラのための「オメガ」(1997)を最後に、新世紀が明けてまだ日もあさい2001年2月4日、この世を去った、いうまでもなく20世紀音楽を代表する作曲家のひとりである。

 その作風はふだんこの手の音楽にふれることのすくない読者の方でも、音楽の先鋭性や求道性を形容する文脈で「クセナキスっぽい」とか「クセナキスを思わせる」とかのセンテンスを目にされたことがあるかもしれない。私なども、難解さの言い換えでご尊名を拝借したこともしばしばだが、その音楽的方法の背景にある思想体系を十全に理解していたとはいいがたい。なんとなれば、確率論や群論といった数学の公理や関数や方程式がその背後にひかえているからであって、ことにポピュラー音楽の愛好家には数字を目にするだけみなかったことにしようと思われる方もすくなくないだろうがそれではまことにもったない。クセナキスの音楽のみあげるほどの構築性と圧倒的な動態はいまなお抽象物としての音の可能性の中心をなしている。この本は彼の叢雲のような思考にわけいる手引であり、200ページに満たないこぶりな書物だが行間と紙背にあるものは原書の発行から40年経ったいまも汲めども尽きないゆたかさをたたえている。

 クセナキスは「確率論と音楽」と題した第1章で自作「ピソプラクタ」を例に、この論文を発表した1956年当時の音楽のあたらしい潮流だったセリエル音楽(ミュジック・セリエル)の批判的のこりこえをはかっている。セリエル音楽とはシェーンベルク、ことにそのもっとも徹底した継承者であるヴェーベルンら新ウィーン楽派の12音技法の等価性を音の持続、強度、音高、音色に敷衍し、パラメートと化した音を構造化する作曲技法で、ブーレーズやシュトックハウゼウンがおもだった先導役だった。クセナキスはセリエル音楽を、幾何学的で量的なものであり線的な思考性にとどまっていると批判するところから自作を例証し論を展開するなかで、のっけから数式やグラフが登場し読者はうへーとなるわけだが、つづく2~3章でしだいにつまびらかになっていくその思想の土台には音楽史にあったただ彼だけがなしえた思考の高みがみてとれる。確率や群論などの数学の援用ひとつとっても、シュトックハウゼンいうところの「点の音楽」(『シュトックハウゼン音楽論集』所収の論考「技法(手仕事)の状況」を参照)の連結である「線の音楽」であるセリエル音楽を「面の音楽」からさらにクセナキスのあの有名な命名法を借りれば「音の雲」(密度、変化速度などの要素が特徴づける音の塊)へ分布~展開するための方途であり、即興ないしケージのチャンス・オペレーションなどにおいてブラックボックス(神秘)化する作曲の課程を明晰(理論)化する方途でもある。方法の土台にはクセナキスのルーツであるギリシアからビサンチンの音楽をもとに平均律の陥穽を剔出し、音を多面的に考察する重要性を指摘するのだが、そのためには音を時間内/外のカテゴリーで把捉しなければならない。時間内とはいわゆる音響事象のあらわれ方であり、時間外の一例は任意のピッチの音階などである、それらを音の最小単位(平均律の半音より細かい微分音が前提となる)→音階→それからなるシステム→システムを運用する場(トポス)といった具合にクセナキスは審級化する。むろんその課程には篩法のような数論の技法が説明なしに出てくるのだが、クセナキスにとっておそらく数学という人類史上もっとも完成した体系そのものが篩(フィルター)だった。それで漉した音楽に古いも新しいもない。クセナキスはギリシアの古代音楽と来るべき電子音楽が矛盾なく同居する音楽空間を夢想していた――というような言い方では曖昧にすぎるだろう。おそるべき明晰さで彼はそれを厳然とみすえていた。

 ピーター・ペジックは『近代科学の形成と音楽』(NTT出版)で、ホワイトヘッドの「近代科学にとって数学は『ハムレット』におけるオフィーリアである」との言を受け、「科学にとって音楽はハムレットの親友ホレイショーである」と序章に記したが、歴史の起源にあってハムレットとオフィーリアとホイレショーはもっと濃密だった。一体化していたといってもいい。「万物は数である」と言い放った(といわれる)ピュタゴラスは、みなさんもどこかで耳にされたことがあるにちがいない整数比の音の協和をもとにしたピュタゴラス音律でも有名だが、音楽における感覚と理性の優位を説きピュタゴラスと対立しやがて歴史の王道を外れていったアリストクセノスにクセナキスが同情的なのも、たとえ数の公理と論理に準拠したとしても、作曲家は感覚と美学の決定権を放棄しないどころか、そんなことはそもそもできないという原則であり、それは古代から未来までを貫くという確信ゆえであろう。

 確率音楽はセリエル音楽の線的な思考の更新をはかるだけでなくそこに潜在する時間にたいするリニアなアプローチをものりこえようとする。音の密集や拡散は音響の強度であるとともに現象の時間的な持続性もかねているように思うことが、クセナキスの音楽を聴いているとよくある。逆に彼が多用するグリッサンド(ある音程から別の音程まで途切れることなく移動する音の動きないし奏法)は音の時間的な持続であるだけでなく、空間的な移動の表現とも解釈できる。むろんこれは主観の問題にすぎないが、このような顛倒は音楽は時間芸術である云々という常套句以上に空間をも問題すべきだという気づきをうながす。ここでもシュトックハウゼンらの歩みとパラレルにクセナキスは作曲に指標にとりこまざるをえず、そのことはやがて曲を書くというのと同時に、その曲をいかに音に結実させるか、そのためのシステムを考案することに腐心させることになる。

 この本の後半が「建築」に割かれているのもいわば必然である。クセナキスはコルビュジエのもとで構造計算を担当したのはすでに述べたが、第二部「建築」では1958年のブリュッセル万博でのフィリップス館を例に、そこでとりくんだ立体的建築の野心的なこころみを概観している。立体建築とは直線と平面による近代建築批判として、曲面や円筒面、二重曲面などをもちいた建築様式をさしている。それまでの建築は平面を展開したものであり、空間の立体たる特性を活用していない、とクセナキスは考えた。その問題に彼がどのようにとりくんだかはぜひ本書を手にとってたしかめられたいが、それを読みながら私が思い出したのはある有名な箴言である。

 「建築は凍った音楽である」ないし「建築は凝固した音楽である」ともいう。この警句を発したのはゲーテ(1749~1832)であるといわれるが、芦津丈夫は「凝固した音楽と共通感覚――シェリング、ゲーテ、ヘルダー――」でショーペンハウアー(1788~1860)の『意志と表象としての世界』続編Ⅱの第39節「音楽の形而上学」を引きながら、それがゲーテと、『ゲーテとの対話』の著書があるエッカーマンとの対話であることをあきらかにする。ゲーテいわく「わたしは書類のなかに、建築は凝固した音楽であると書きこんだ紙片を見つけた。またじじつこれは或る程度たしかにそのとおりだ。建築からかもしだされる気分は音楽の効果に近い」(ショーペンハウアー全集6「意志と表象としての世界・続編Ⅱ」塩屋竹男・岩波哲男・飯島宗享訳、白水社)。建築が音楽に近いといわれても、なるほどそうですねというひともいればピンとこない方もおられよう。芦津はゲーテが親交をもった年少の哲学者シェリングの「芸術哲学」講義草稿にそのことばがみえることからゲーテの発言の大元はシェリングであると指摘するが、そもそも凝固した音楽とはなにか。建築がかもしだす気分とはどういうものなのだろうか。

 私なぞウォーターフロント(死語)のタワマン(新語)などをみても、そんなものに血道をあげてご苦労さんとしか思わないが、ゲーテやシェリングにならえばそれはよこしまな考えとなる。ショーペンハウアーは建築のシンメトリーと音楽のリズムに相同性をみいだしている。シェリングは「……造形芸術の音楽としての建築は、それゆえ必然的に算数的な比例に従っている。だが建築は空間内の音楽、いわば凝固した音楽であるので、ここでの比例は同時に幾何学的な比例となる」(『芸術哲学』訳文は芦津丈夫による)といい、ゲーテはシェリングの言を敷衍しそれは凝固したものというより「沈黙した」音楽であると言い換えている。あたかもジョン・ケージを予見するかのようなこのことばは、エリック・ドルフィーさながら、音楽は時間とともに過ぎ去り空間に痕跡をとどめないということを念頭に、一方の建築は音楽に似た規則性を空間にもたらすということだろうが、いずれにせよ、ゲーテにとって音楽との相同は不動であり、その根底には音楽とはまずもって(ユークリッド幾何学的な)調和(ハーモニー)であるという機制がはたらいている。

 その価値観はゲーテやモーツァルトやベートーヴェンを生んだ18世紀後半から19世紀を貫き、プルーストの『失われた時を求めて』で主人公が聖堂や鐘塔や身廊に官能的といってよい嘆息をもらす場面を目にすると――むろん教会を神の身体とみなす宗教性抜きに考えられないにしても――、おそらく20世紀初頭でもかわらなかったどころか、建築の技術的革新を糧に、神を代理する資本にひとびとを跪かせながら21世紀のタワーマンションをも支配している。その固着した価値観に挑む建築家=クセナキスの姿勢は作曲家としての彼の歩みと軌をひとつにし、両者はやがて彼の表現において区分する必要はなくなっていく。第8章「見るための音楽《ディアトープ》」で例証する「ディアトープ」のように、コンピュータで統合した音楽は光源を使ったライトアートと一体化し「バレエでもオペラでもなく、光と音、視覚と聴覚の新しい芸術、星や地球についての、音楽的で抽象的なスペクタクルが生まれる」のである。時間と空間のみならず、聴覚と視覚を結びつけるクセナキスの総合へのあくなき探求は「宇宙都市」(第7章)を提言するまでに高まっていくのだが、ほとんどSF的といってもいいこの論文(初出は1965年)を、それでもたんに荒唐無稽と退けるわけにはいかない。むろん宇宙時代の産物ではあるが、そこには戦中戦後抵抗運動にたずさわってきたクセナキスのものの見方が反映している。音楽はいうまでもない。クセナキス自身は自身の来歴や思想的背景を本書では述べないが、経験は彼の音楽に深く根をはっている。音楽は人間の心的活動であるから決定項の何割かはそこからくるが、他方でメカニカルな音の組み合わせであるから、そこに数学の論理をとりいれてみる、あるいはコンピュータをもちいてみる。すると音は拡散し分布し、空間的な広がりをもつ「音の雲」となりつねに運動しやむことがない。それは一見、きわめて抽象的だがたぶんに感覚的である。感覚を感情ととりちがえてはならない。聴覚は感情ではない。クセナキスの音楽は純粋に聴覚に訴えかける。と同時に、それがたぶんに視覚的でもあるのは「音の雲」という形容もさることながら、音が空間のなかで持続して運動するからである。そしてそれは空間を媒介に音を触知でできる感覚さえ惹起する。のちのペンでタブレットに線を描いて作曲するコンピュータ「UPIC」の開発はそのような感覚統合のツールであり、これがあればだれしも脳内に去来した音のイメージをいちいち五線譜に移し替えなくても、目で見て手を動かし発生した音を聴きながら感覚的に作曲できる。あなたがいま使っているグラフィックインターフェイスの音楽ソフトのはしりだと思っていただければ、難解だと敬遠してきたクセナキスの音楽もぐっと身近になる、かもしれない。

 クセナキスは科学を音楽にもちいることを時間と空間と論理の秩序構造の変化のためのきっかっけとし、さらにそこから「死すべき者永遠の二元性」の解決をはかろうとした。クセナキスはいう「未来は過去にあり、その逆も言える。現在のはかなさを打ち破り、あらゆる場所に同時に存在し、「ここ」が20億光年の彼方でもあるような……」

 ふたたびゲーテにまいもどると、芦津は音楽と建築という相容れない分野を同列に語るところに「共通感覚」をみいだしている。19世紀においてそれを通底させるものは調和の感覚だった、それが20世紀では有機的で動的で不定形なものに変わってきた。そこにモダニズムの劃期があり、それを述べるにはヴェーベルンやメシアン(クセナキスが師事したメシアンはまた共感覚者であったとよくいわれる)に、建築の分野ではコルビュジエはもちろん荒川修作の仕事もわすれてはならないが、長くなるので稿をあらためるとして、最後にもういちど古典にまいもどってみたい。

 「もうもうたる靄がたちまち広間をこめる。靄は伸びたり固まったり入り乱れたり分かれたり、組み合ったりして忍びこみ、雲のように流れてくる。靄が漂うと、音楽の音が起こります。渺渺たる音響からなんとも知れぬものが湧きだし、また靄が棚引けば、すべてが旋律となります。円い柱も、その上の三条の飾りも鳴り響きます。まるで神殿全体が歌っているかと思うほどです」(ゲーテ『ファウスト』第二部第一幕「騎士の間」6441~6448行(一部省略)相良守峯訳、岩波文庫)

 クセナキス以後、私たちは靄や雲の歌に耳を傾けることができる。(了)

松村正人