Home > Reviews > Film Reviews > キック・アス ジャスティス・フォーエバー
野田努
たとえコミカルな映画であっても、返り血で床が赤く染まるような、血なまぐさい暴力シーンは誰にでも好まれるわけではない。デビュー当時のエミネムのリリックが顰蹙を買ったように、強姦を面白可笑しく表現することへの拒否反応はあるだろう。しかし4年前、11歳のヒット・ガール(クロエ・グレース・モレッツ)が、ジョーン・ジェットの曲に合わせて、大勢の悪党を片っ端からやっつける場面には突き動かされるものがあった。世間体なんか気にしないというパンク・ソングが流れるなかで、武器を持って襲いかかる大人の男を次から次へと倒していく小さな彼女は、力でねじ伏せようとする世界をひっくり返す象徴としての、いわばスーパーヒーローにおけるパンクだ。その続編である『キック・アス/ジャスティス・フォーエバー』においても、思春期を迎えたヒット・ガールは、あまりにも格好良かった。(以下、ネタバレあります)
原子炉エネルギー開発会社を所有する資産家のバットマンが格差社会の極貧困層の反乱を鎮圧する『ダークナイト ライジング』と違って、『ジャスティス・フォーエバー』では頭のいかれた鼻持ちならない金持ちが超悪党だ。その彼──クリス(異名マザーファッカー)は、作中において「自分のスーパーパワーとは、クソとしての金持ち(rich as shit)であることだ」と自己認識する。キック・アスとヒット・ガールというふたりのヒーローは孤独なティーンエイジャーだが、悪党クリスもおそらくティーンエイジャーであり、孤独だ。キック・アスはクリスと死闘を繰り広げるが、助けようともする。そう見ていくと、『ジャスティス・フォーエバー』は、無名の市民が世界を救うという政治性を匂わせつつも、表向きにはティーンエイジャーのファンタジーとして作られている。
15歳のヒット・ガールは学校で同級生の女たちの陰湿なイジメにあうが、これは日本でも日常的な光景だ。ほかにもいちいち風刺が効いていて、台詞のひとつひとつにも無駄がない。現代アメリカ社会のリベラルな知識人が過敏になっている差別表現や卑語を包み隠さず、むしろ図太く使っている。そんなところにも、外面的には礼儀正しい社会へのアイロニカルな感性が読み取れる。暴力描写も、大人を怒らせるためのティーンエイジ・ライオットの一環かもしれない。
が、単純化できないこの物語には困惑させられもする。たとえば、元悪党の、宗教に目覚めたことで改心し、古くさいGIジョーの格好をしたジム・キャリー演じる大佐、彼の名前はスターズ・アンド・ストライプス、つまり星条旗大佐だ。その彼の睾丸がイヌに食いちぎられる場面は深読みできなくもないが、彼はあくまでキック・アスの味方として登場している。また、典型的な保守的アメリカ人として描かれているのがキック・アスの父親で、キック・アスはそんな父の生き方に反発しながら、親子の愛情は受け入れている。
思春期を迎えた登場人物たちは、この年頃の若者特有のアイデンティティの悩みを抱えている。こと15歳のヒット・ガールは、義父から若い女性として、もっと学生としての生活をエンジョイするよう、執拗に問い詰められる。そして、実の父によって有能な暗殺者に育てられた彼女から「子供時代」をうばったのはその父だと説き伏せられる。お洒落したり、デートしたりと、彼女自身も一時期は失った子供時代を取り戻そうと努めるが、結局のところ彼女は、子供でいることが必ずしも幸福ではないと、返す刀で世間の常識をはねのける。それが本作を逆説的なファンタジーへと転換させる(友だちを作りなさい、友だちができて良かったね、などという大人の言葉が子供にとってどれほど抑圧的に働くか……)。
この見事な反旗と重なるように、『ジャスティス・フォーエバー』で最大の見所となっているのが、ヒット・ガールのアクション・シーンだ。明らかに前作以上の見応えがある。考えて欲しい、あれだけ素晴らしかった前作をしのいでいるのだ。ダンスするシーンも、紫色のドゥカティに乗って爆走するシーンも、素晴らしい。彼女が何度もぶん殴られるシーンには目を背けたくなるだろうが、はっきり言えば、躍動するクロエ・グレース・モレッツを見るだけでも、この映画には価値がある。ナウシカにパンクはない。彼女はいまや、虚構ではなく、本物のスーパーヒーローになったと言える。「HIT & RUN(やって、逃げる)」と記されたナンバープレートのバイクに乗って街を去る彼女を見ながら僕は……、いや、もうこの辺で止めておきましょう。
野田 努