Home > Columns > ハテナ・フランセ- 第14回 フランスで『ブラック・パンサー』はどう観られている?
ボンジュールみなさん。今回はマーベル映画『ブラックパンサー』についてお話ししたく。
本題に入る前に少し前に日本でもフランス映画としては近年稀に見る大ヒットとなった『最強のふたり』(12)について。障害者の富豪とそのケアをする貧しい黒人青年の友情を描いたこの驚異的ヒット作は、フランスのインテリやいわゆる映画批評家たちからはこき下ろされた。日本では全く放映されていないが、フランスには小人症の女優が主演する『Joséphine ange gardien』というご長寿人気ドラマがある。いっぽうオマール・シィは、カナル+という人気有料チャンネルの、シュールでバカバカしい芸風のコント番組で若者の人気を博した人だ。この2番組のエッセンスを組み合わせたのが『最強のふたり』というわけだ。しょうもないギャグとヒューマニズムを掛け合わせると、最強のポリティカリー・コレクト映画が出来上がる。というマーケティング通りに作られた映画だというのが批評の主軸だ。実話に基づいた映画だが、実際はアラブ系だったドリス役はアフリカ人のオマール・シィに変更された。見た目のギャップが際立つコンピに変えるという変更が、実話をリアリティのないマーケティングの産物に変えてしまったという批判も多く聞かれた。
さて、本題の『ブラック・パンサー』だが、フランスでは2月14日に公開され興行収入1位を2週間連続で奪取し、観客動員も300万人越え。フランスでも大ヒットとされる本作は、日本やアメリカで、黒人文化、そしてアフリカ文化を描いている非常に重要な作品と評価されているように見える。もちろんアフリカを舞台にアフリカ人のヒーローが活躍する前代未聞のブロックバスター映画、という意味では純粋に立派だ。また主役のブラック・パンサーより強いと思える女戦士オコエの魅力といったらない。彼女やブラック・パンサーの妹にして天才科学者シュリなど、女性キャラクターが強く重要な役割を持っていることも素晴らしい。そして私が個人的に一番グッときたのは最初と最後に出てくるオークランドのプロジェクト(低所得者向け団地)のシーンだ。この2シーンは、決してこれ見よがしに貧しさを強調しているわけではない。だがオークランドのタフさを、短いが意味と説得力を持って描いている。それはオークランド出身のクーグラー監督が自身の経験として知っているからではないだろうか。クーグラーの『フルートベール駅で』(14)は警官による黒人の射殺事件を扱い、ブラック・ライヴス・マターのエスプリで作られた映画。
それに比べてアフリカやその文化の描かれ方については、どうも肯定的にはなり難い。フランスのインテリ紙などでは「この空想上のアフリカの国ワカンダは、悪趣味なディズニーランドにしか見えない」や「ドバイの成金が演じるライオン・キングのよう」などと揶揄されている。フランスの多くの都市にはアフリカ系を含む移民コミュニティがあり、それらを見ている身からすると「なんか違う」と思えてしまうのではないだろうか。そして私もそれに同感なのだ。
19区の私が住んでいる地区は、パリを代表するアフリカン・コミュニティではないが、家賃の安い地区なので移民も多い。赤ん坊をウエストポーチみたく腰にくくりつけてるまだ十代と思しきお母ちゃん。ウォロフ語とフランス語ちゃんぽんで話している、昼間から暇そうなお兄ちゃんたち。彼らは私のご近所さんたちだ。映画『アメリ』でもおなじみのモンマルトルのそぐそば、18区Barbes Rochechouartではメトロの出口でアフリカ人のおっちゃんがトウモロコシを焼いてる。そのBarbes Rochechouartから隣の駅La Chapelleへの道すがらにはしょっちゅう無許可の市場が立つ。アフリカ系もアラブ系もごった煮だが、もっぱら移民系の人たちがそこには集まる。用途のよくわからない中古の電子機器の一部や、山盛りの古着や、違法感ムンムンのスマートフォン(私がiPhoneを引ったくられた時には、警察に「アフリカ系の若い子にやられたんでしょ。Barbes行けば見つかるかもよ」と笑えない冗談を言われた)などが売っている。ガイドブックにも必ず載っているクリニャンクールの蚤の市に行こうとすると、まずはぱちモンのベルサーチのベルトやら2パックのTシャツやらの洗礼を受ける。イケメンのアフリカ系の兄ちゃんはいつ警官が来ても逃げられるように地べたに布切れを敷いてそれらのぱちモンを売っている。パリの人にとってのアフリカのイメージは、ファンタジーとして語るにはあまりにも生活感がありすぎるのだ。そしてブラックパンサーの描くアフリカは生活感がまるっと抜け落ちているのだ。
もちろんマーベルのヒーロー映画に生活感を求める方が間違っているのだろう。だが、監督のライアン・クーグラーは、キャストの大半をアフリカ系俳優にしたことからもうかがえるとおり、正面きってポリティカリー・コレクトをやろうとしたはずだ。そしてその観点から、アフリカで現実にある問題を取り上げている。そう、これはあくまで取り上げている、というふうにしか見えない。それこそが問題なのだ。例えば人身売買業者と思しき悪者たちをやっつけるシーンがある。これが紋切型で薄ぼんやりとしたシーンなのだ。「人身売買、ダメ、絶対」的な標語以上のものは感じられない。オークランドの短いシーンでは、ゲットーのリアルを表現できていたライアン・クーグラー。ことアフリカに関してはその問題を、おそらく自分自身のものとして感じられていないのだろう。
加えて音楽にも物足りなさを感じる。ケンドリック・ラマーが参加することの商業的、政治的重要性は理解できるので、そこに異論を唱えるつもりはない。そのケンドリック・ラマーのプロデュースした曲に負けず劣らずのインパクトがあるのが、たびたび登場するトーキング・ドラムの音だ。たしかに通信手段にも使われるトーキング・ドラムはよく響くのでアイコニックだが、アフリカにはリュート型弦楽器コラも瓢箪を使った木琴バラフォンも親指ピアノもあるのに、トーキング・ドラム一本槍というのはもったいないのでは。スコアを手がけたスウェーデン人のルドヴィク・ゴランソンは、これまでライアン・クーグラーの長編2作の音楽を手がけてきた映画音楽作曲家だ。今作を作るにあたり、セネガル出身のバーバ・マールに協力を仰いだらしい。バーバ・マールはアンジェリク・キジョーやリシャール・ボナに並ぶアメリカで成功したアフリカ人アーティストの大御所の一人。スコアの中でも透明感のある声を聞かせてくれるすばらしい歌手だ。だが、64歳のベテランよりもう少しフレッシュな人材もいたのでは? と思わずにいられない。これまで仕事を一緒にしてきた人に任せたいというクーグラー監督の気持ちも理解できるが、そこはもう少しアフリカ音楽に造詣が深い人に任せても良かったのではないか。例えばイギリス人だがアフリカ音楽のエキスパート、デーモン・アルバーンとか。そしてマリのソンホイ・ブルースや、もっと思い切って南アフリカのNakhaneなんかが聞けたら、今のアフリカ音楽が感じられて刺激的になったのでは。そうしたらもっとアフリカと真剣に向き合ってくれたんだ、と思えた気する。
とはいえ、セネガル人の知り合い達に言わせると「アフリカ人がヒーロー設定の映画でこんな大ヒット作が出てきただけでありがたいよ」ということらしい。さらに「アフリカン・アメリカンにとってはアフリカは現実じゃないでしょ。今の子たちは行ったことすらない世代なんだから、彼らにとってのアフリカはファンタジーというフィルターを通して思い描く必要がある場所なんじゃないの」ということなのだろう。私だってワカンダのように、搾取されないアフリカが現実になればいいと思う。それにマーベル映画にコンゴ映画『わたしは、幸福(フェリシテ)』やタンザニア映画『White Shadow』のような、アフリカにおける過酷な現実の考察を求めているわけではもちろんない。だが、『ブラック・パンサー』の描く理想化されたアフリカが、マーケティング的結果なんだとすると、アフリカ文化を描いた重要映画という称号はあげられない気がしませんかねえ?