Home > Interviews > interview with Ital - ハウス、大いなるサイケデリック・フロンティア
Various Artists The Silk Road melting bot / 100% Silk |
「最初にジャックありき、ジャックにはグルーヴありき......」、1987年にシカゴのチャック・ロバーツがこう喋ってから25年経った。「それは"私"の家(ハウス)から"私たち"の家(ハウス)となった......ハウス・ミュージックはこうして生まれた」と。
ハウスはそれから、紆余曲折を経て、今日も生きている。9月に発売予定のジ・XXのセカンド・アルバムでは、4つ打ちのキックドラムの入ったハウス・ミュージックをやっている。インディ・ロックにおいて、ハウスは今日的なモードとなっているが、この流れをうながしたのがロサンジェルスの〈ノット・ノット・ファン〉(いま世界でもっともヒップなレーベル)であることは周知の通り。おそらくは同レーベル傘下の〈100%シルク〉の第一弾、アイタルの「アイタルズ・テーマ」、そして〈ノット・ノット・ファン〉から出たLAヴァンパイアズの「ストリートワイズ」がそのはじまりの合図だった。アマンダ・ブラウンの勘が働いたにせよ、アイタルを名乗るダニエル・マーティン・マコミックは「ストリートワイズ」にも参加しているので、彼が引き金を弾いたとも言える。
この新世代のハウスは、音楽的には彼らの前史――ドローン、サイケデリック,フリー・フォーク、ローファイ、エクスペリメンタル、ダブなど――の流れを引いている点でも充分に面白いが、ほかにもいくつかのレイヤーにおいて変化をうながしている。ひとつには、彼らはレコード店泣かせである。現状では〈100%シルク〉はクラブ・ミュージックでありながらインディ・ロックのコーナーに置かれている。90年代からおよそ20年続いてきた区分けは無効になりつつあり、シーンは再編成のまっただなかにある。また、彼らは「CD」を作らず、12インチのレコード盤(さもなければカセット)でリリースしている。よって、この最先端のユース・カルチャーの多くが日本のCDショップには置かれない......という残念な状況をフォローすべく、〈プラネット・ミュー〉の日本盤をリリースしているインパートメントが世界初の〈100%シルク〉のコンピレーションCDをアマンダ・ブラウン監修のもとリリースした。このインタヴューは、その発売記念というわけである。
誰かに媚びることなく、クレイジーな音を一生作っていくほうがどう考えたって生き生きしてられるってわかってる。わかりやすくてなんかのジャンルにハマるものを絞り出すより、自分が向かうべき音に集中してくしかない。
■ワシントンDCでブラック・アイズ(Black Eyes)というハードコア・バンドのギターをやっていたあなたが、どうしてロサンジェルスの〈ノット・ノット・ファン〉と出会ったのでしょうか?
アイタル:ブラック・アイズが解散したあと西海岸に移って、そこでデーモン(Damon = Magic Touch)に会ったんだ。そうしてミ・アミ(Mi Ami)を組むことになった。そして1年後くらいに、ヤコブ(Jacob)が加わって少しずつツアーをしはじめた。
2008年にブリット(Britt = ノット・ノット・ファン主宰)がポカホーンテッドとサンフランシスコでライヴをやるからって誘ってくれたんだけど、そのショーは結局1週間前にオーガナイズ側が動きはじめるというスケジュールだったもんで、結局失敗に終わった。いまでも、彼らとは連絡は取り合っているけど。自分らの 〈クオータースティック〉/ 〈タッチ・アンド・ゴー〉が経営的になりゆかなくなったとき、ブリットが〈ノット・ノット・ファン〉からミ・アミのレコードを出したいと言っていて、もし何かあるんだったらどの名義でもいいからと強い希望があった。ずっと自分の単独のプロジェクトをセックス・ワーカーという名義でやってみたいとは思ってはいたものの、まだ実際音を作ってなかったんだよね。
そのときはツアー中だったんだけど、ただ自分の心は決まっていたから彼らに電話して「はい、ソロでやります。家に戻ったらテープを送るので」って伝えた。7週間半もかかったツアーから戻った次の日、練習部屋にいって曲をレコーディングしはじめ、数時間で「ザ・レイバー・オブ・ラヴ」の3曲のうちの1曲ができ上がって。その次の日、また別の曲を、そのまた別の曲をレコーディングして、あのレコードが完成したというわけだよ。
■あなたのバックボーンであるパンクについて話してもらえますか?
アイタル:パンクはいつだって自分の生きる姿勢であり武器であり、そしてこれからもそうだよ。テクニックや機材やそういった何でもに対して遠慮なんてせず「なにクソ」っていう感じだったりとか、感情剥き出しのヒリヒリした痛みと、それが相まったものを引っ張りだして、飛びこんで、もうやっちまえ、みたいな感じ。
たぶん自分がパンクだけを特別に聴いていた時期って14、15歳くらいのときのたったの9ヶ月間くらいだし、そのシーンで細分化されたサブジャンルをあれやこれ延々と語ってるような黒パーカーを着たハードコア野郎とかでもないし。常套句っぽく聞こえるかもしれないけどさ、たとえば「マイルス・デイヴィスがパンクだった」というかね。誰かに媚びることなく、クレイジーな音を一生作っていくほうがどう考えたって生き生きしてられるってわかってる。わかりやすくして、なんかのジャンルにハマる音を絞り出すより、自分が向かうべき音に集中してくしかない。メタルコア、ジャズ、なんでも一緒で。
あとさ、パンクにはまっていたとき、いままでに感じたこと無いくらいの解放感を感じてたと言わざるを得ないね。自由だよ! 1回そこまで自由になると、自分に正直になることを忘れて「おーディスコも好きだよ」とか何とか言ってしまったり、ほかのことでもそうだけど、そういう落とし穴がある。
■あなたからみて〈ノット・ノット・ファン〉や〈100%シルク〉の魅力とは?
アイタル:彼らが素晴らしいのはどっかミステリアスで影があるセクシーさを持つレコードをリリースしているところかな。それなのに同時に手が届きやすさもある。明確なサウンドのイメージはないけど、確実に強いヴァイブレーションがある。彼らはそんなにたくさんプレスしないし、あれやこれやと大きくクロスオーヴァーしたリリースもない。だからいつも新しいアーティストの発掘のセンスがあって、激しく嫉妬を覚えるよ。先見性もあるしね。彼らのリリースするレコードは、先が見えなくて守りに入ってるレーベルと違って、とてもフレッシュな雰囲気があって、楽しいよ。それに、リリースの多くはかなり良い感じだしね。
■セックス・ワーカーを名乗った理由は何ですか?
アイタル:理由はいっぱいあるよ。2003年に初めてバンド・セットでツアーをして、2005年以降久しぶりに2008年にしたツアーのときに、オーディエンスと激しく身体を通して共鳴したいっていう、いままで吐き出していなかった感情があふれ出してきて困惑したんだ。そして同じとき、売春婦として働いている心的外傷後ストレス障害患者(PTSD)を癒すためのアートセラピーのことを知って。空虚なまなざし、憔悴しきった帰還兵のようなうなだれた様子でバスタブのなかにいるどこか東欧の国の売春婦が映っている写真だったんだけど、その1枚の写真から目をそらすことができなかった。本当にすべてをシャット・アウトしてその写真を無心に、ただ眺めたんだよね。
身体的な嫌悪についてよく考えていて、その表現を自身のなかや他人に見つけたように、精神にあるむき出しの神経に直接触るような、そんなプロジェクトをはじめたいと思ったし、自身にある嫌悪に対する奇妙なアート・セラビーのようなものであり、いっぽうでそれがどう外界にある人の性や自己嫌悪に伝わるか、またコミュニティや社会のなかでどう演じられるか、そういった個人的な心の空間を作りたかったんだ。それがきっかけだよ。そこからはこのプロジェクト自体ひとり歩きしてった。
■バンドをやっていた頃からエレクトロニック・ミュージックには興味があったんですか?
アイタル:いつも音楽の周期について興味はあるよ。そうだね、エレクトロニック・ミュージックに入りはじめたのは2000~2001年、高校生だったときかな。ちょうどその時代はパブリック・エネミー、DJ シャドウ、ビューク、クラフトワーク、エイフェックス・ツイン、ボーズ・オブ・カナダなんかをすごく聴いて、そっから2002年あたりに〈トミー・ボーイ〉が自分のなかで来てて、そっからディスコ、ハウス/テクノとじょじょに流れていった。2005~2006年がもっともエレクトロニック・ミュージックに熱を上げていたかな。デーモンと僕の大きな共通項でもあったしね、ミ・アミを結成するのも無理ないでしょ。もともとライヴでエレクトロニックっぽいことをやろうとしてて、それが幸運なことにみんながあんまり聴いたことないっていうものだった。
■打ち込みはどうやって学んだのでしょうか?
アイタル:ハードウェアを使ってライヴをして来たからそこからかな。でも実際はPCで、あんまイケてないプログラミングのAudacityって音楽編集ソフトを使ってトラックは作ってる。2006年からハマりはじめたんだけど、その頃はサンフランシスコに住んでいて、彼女と「電子音を作りたいね」という気持ちになって、でも、まったく何もわかってなくて。そしたら友だちがこのフリーソフトのことを教えてくれた。で、実際わからないながら使ってみたわけ。ミニマル・テクノをドラムマシン/キーボード/MIDIなしでどうやって作るかとか、必要最小限の音から組み立てていこうとしていたんだけど、それが楽しかったんだよね。
取材:野田 努(2012年7月11日)