Home > Reviews > The Weather Station- Humanhood
「人間性」という簡潔だからこそ深遠なアルバム・タイトルは、ザ・ウェザー・ステーションことタマラ・リンデマンが音楽で探究する領域を端的に言い当てているだろう。管弦楽器が生き生きと躍動するタイトル・トラックで、彼女は「わたしは人間だったのだろうか? と考えている」と打ち明ける。「この人間らしさを背負ってきた/それを実現しようとしている」。人間とは何なのか――そのような大いなる問いを、あくまで個人的な場所から掲げる7作目である。
飾りけのないインディ・フォークとして始まったザ・ウェザー・ステーションが大きな飛躍を遂げたのは5作め『Ignorance』でのことだった。ツイン・ドラムと管楽器を含むフルバンドによって音楽的にスケールアップしたそのアルバムでリンデマンがテーマにしていたのは、環境破壊と気候変動を中心とする現代社会の破壊的な現状だった。というと政治的なアルバムのようだが――いやもちろんそうとも言えるのだが――、それ以上にフォーカスが当たっていたのは彼女自身の胸の痛みだった。つまり、地球が傷ついていることに傷ついている人間の心の動きについてであり、それこそをダイナミックなアンサンブルを持ったフォーク・ロックにしたのだ。また、同時期に録音された双子作的な6枚め『How Is It That I Should Look At The Stars』はピアノ・バラッドを中心にして、より内省的にこの世界の美しさを見つけ直そうと聴き手にささやく作品だった。
バンジョーやフィドル、管楽器を加えた多楽器のアンサンブルで制作した『Humanhood』は、まさにそれらの2枚の成果を合わせた一枚で、活気に満ちたジャズ・フォーク・ロックと静謐で慎ましいバラッドが整然と並べられている。そしてすべての楽曲でディテールに富んだアレンジが施されていて、聴けば聴くほど細部に引きこまれていく。とりわけ活躍するのがフルートやクラリネット、サックスといった管楽器で、それらは曲によって軽やかに跳ねまわったり、抽象的なムードを演出したり、優しくゆったりとピアノと歌に寄り添ったりする。人間の呼吸によって変幻する楽器たち……考えてみればザ・ウェザー・ステーションのアンサンブルが管楽器によってスケールアップしたのは興味深いことで、人間の息づかいが彼女の表現のニュアンスを完成させたと言える。
息づかいといえば、もちろんリンデマンの声がこの繊細な歌世界を作りあげていることも間違いない。アルバムのなかでもとくにアップリティングな “Neon Signs” の軽やかさ、ジャズ調のアンニュイな “Mirror” でのアルト、あくまで控えめな演奏で浮遊感を生みだす “Body Moves” の茶目っ気……と、多彩な表情を見せていく。その声はしばしば音量がかなり落とされるのだが音程はしっかり取られており、メロディを失わないリンデマンのウィスパー・ヴォイスは、この奥ゆかしいフォーク音楽にけっして消えない光を与えているように感じられるのだ。クロージングの “Sewing”、まるで演奏の隙間に溶けていくような彼女の静かな歌声は、しかしそのデリケートさによって聴き手を陶然とさせる。
前二作はパンデミック期を強く反映していたが、それ以降の世界はますます混迷していて、当然ながらそうした状況に対するリンデマンの心痛は本作にもはっきり表れている。広告に溢れた世界の信用のならなさ、止まらない環境破壊、壊滅的な政治状況……それらに彼女はなおも傷ついている。そしてそれを聴くわたしたちも、自分たちがたしかに傷ついていたことを思い出すだろう。見なかったことにしていた小さな傷跡のひとつひとつを。何かと好戦的な人びとばかりが目につく状況にあって繊細な心の動きは無視されがちだが、ザ・ウェザー・ステーションの音楽は見落とされた感情をこそ掬いあげる。
なんでもリンデマンが近年経験した慢性的な離人症障害(自分自身が切り離されているように感じる症状)で得た感覚が本作には投影されているとのことで、「離れてしまった」肉体を探すというモチーフを本作にたびたび発見できる。観念だけでは声を発することはできないから、彼女はここで肉体を切実に求めているのだろう。そうして身体に空気を通して発せられる歌たちは「人間であること」自体を再発見し、その美しさをどうにか取り戻そうとする。この混沌とした世界にあってザ・ウェザー・ステーションの音楽はときに「清廉すぎる」ように聞こえるかもしれないが、しかし、人間性の複雑さと不思議さを神秘的な輝きとして反射させている。
木津毅