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2020年に『Winterreise』をリリースして以降、ロンドンのインディ・アーティスト、ジャースキン・フェンドリックスを取り囲む景色は大きく変わった。UKアンダーグラウンド・シーンを支えるレーベル〈Untitled(recs)〉から出された彼のデビュー・アルバムが『籠の中の乙女』や『女王陛下のお気に入り』でオスカーにノミネートされた映画監督ヨルゴス・ランティモスの心に届き、次回作の劇伴をジャースキンに担当して欲しいと願い出たというのだ。当時のジャースキンはサウスロンドンのライヴ・ハウス・ウィンドミルの周辺シーンのミュージシャンたちから称賛を集めるカルトヒーローといった立ち位置で大きな場所ではほとんど無名に近かった。そんな中でランティモスは彼の才能に惚れ込み直接メールを送って映画の世界を一緒に形作ることを求めた(オーヴァーグラウンドのシーンとアンダーグラウンドのシーンがダイレクトに結びついたこの事例は現代のインターネット社会における美しさが集約された出来事だといってもきっと過言ではないはずだ)。事前にこうして欲しいという大きなリクエストも制約もなく、それどころか撮影時に脚本を元に作られたサウンドトラックを流してからカメラを回したというのだからランティモスがいかにジャースキンの才能を信頼していたかがわかるだろう。そうやって制作された『哀れなるものたち』は高い評価を得た。ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を獲得し、主演のエマ・ストーンがアカデミー賞で主演女優賞に輝き、ランティモスは監督賞にノミネートされ、そして我らがジャースキン・フェンドリックスは初の映画スコアでオスカー・ノミネート作家になった。
これが2023年のことだ。そして2024年にはランティモスの次回作『憐れみの3章』が公開されこちらも続いてジャースキン・フェンドリックスが劇伴を務めた。さらにこれから公開される『Bugonia(原題)』でもジャースキンが音楽を手がけている(なんでも90人のオーケストラを使ったとのこと)。これまでの2作と同じく制作にエマ・ストーンが入り主演を務めるランティモス作品、ここまでくるとジャースキン・フェンドリックスもこのチームの欠かせない一部のような感じだ。もはやインディ・ミュージックのカルト・ヒーローとしてではなく、映画音楽作家としての顔の方が知られているのかもしれない。
だが彼はこのふたつの世界を隔てることを選ばなかった。本名であるジョスリン・デント=プーリー名義を使わずに学生時代の友人がふざけてつけたジャースキン・フェンドリックスという名前のままで映画業界に関わり、そうして2025年のいま再び故郷に帰ってきた。インディーミュージシャンとしての帰還、そして文字通り少年時代を過ごしてきたふるさとへの帰還。この2枚目のアルバムは彼が幼少期からティーンエイジャーの頃まで暮らした牧歌的な田舎町シュロップシャーを舞台に展開する。森や風景、光と動物、それらの全ては子ども時代の思い出と芸術的な感覚に包まれている。音楽家にかかわらず小説家や映画監督が晩年に自分の生まれ故郷をテーマに作品を作ることは珍しいことではないが彼はキャリアのこのタイミングでそれをおこなうことに決めたのだ。
その最初のきっかけは2020年に亡くなった幼なじみに捧げるアルバムを作ろうと考えたことだった。「自分たちが育った場所がどんな場所であったのか、その文脈を切り離して書く事はできないと思ったんだ。そうして子ども時代や思春期について自分たちのあいだで共有されていたものについて書きたいという思いに発展した」The Quietusのインタヴューでジャースキンはそう話している。しかしこのアルバムの制作を前にもうひとつの死がそこに重なる。2022年に彼の父親が進行性の運動ニューロン疾患を発症しその年に亡くなったのだという(レコードのブックレットの最後のページにはこのふたりの名前が並んで記されている)。
だから当然のことなのかもしれないが、このアルバムの中の故郷シュロップシャーにはノスタルジアと共につねに死の影が付きまとっている。「太陽の熱を恐れるな/2001年にここに引っ越した時からずっと感じている」その街で過ごした牧歌的な日々を唄った優しく柔らかな幕開けのポップ・ソング “Beth’s Farm”の中にも「ベスの農場では誰も死なない」と繰り返しその外にある死が意識され、その後に起こることの予兆を静かに感じさせる。けたたましく人を食ったようなラップトップの狂騒 “Jerskin Fendrix Freestyle”でも悪い予感を胸に破れかぶれになったようなニュアンスがそこに乗る。この曲は特にアルバムの流れの中で聞くと印象が一変する曲だ。「これがThe Universeだ/俺は決して死なない、約束する」誰彼構わずに噛みつき、不遜にまくしたてているように思えるその中に友を失い、父を失おうとしている人間の強がりが見え隠れするのだ。
そこで予告されている次曲 “The Universe” では酔っ払い子ども時代に戻ったような答えを探し意味を求める弱く優しい人間の姿が映し出される。この街では都会と違い気心の知れた、心安らげる人たちに囲まれている。「こんなに長くスマホを気にしなかったなんて/ 愛する人がみんなここにいる」そう、だからこそいなくなった人の姿をそこに見るのだ。アカペラで始まり、心の波を映し出すかのようなストリングスの震えが添えられるこの曲は虚飾が取り除かれたジャースキンの生の感情がそのまま出ているかのようだ(レコードで聞くとちょうどここで2枚目に入り、交換のための空白の時間が入るので余計にこの曲たちが重なり合っているように感じられる。裏と表、弱音と強がり、中にしまいそうして別のものを取り出す。それは人間の言葉が常に正しいわけではないということと同じなのだ)。
この曲だけではなく、このアルバムには物語全体のイメージ、文脈とも言えるそれを伝えるべく、曲と曲とをつなぐ断片がいたるところに埋め込まれている。そしてそれはブラック・カントリー・ニュー・ロードの1stアルバムや2ndアルバムでも用いられたような手法でもある。「僕のやりたかったことがジャースキンのセットの中ですでに完成されていたんだ」というのはBCNRを脱退したアイザック・ウッドの言葉だが(2019年The Quietusのインタヴューでの発言)どうして彼がジャースキンをここまで信奉したのかこのアルバムを聞くとよくわかる。彼は言葉やサウンドをキーにして映画のように多面的で複雑に捻れた人の心を描き出すのだ。それもふざけたようなユーモア混じりで。うさんくさく人を食ったようないスタイルの、マジメで弱く優しい男、その全てが物語の中に、ひとりの人間の中に存在するというのがたまらなく心を惹きつける。
そうしていくつもの気配が重ねられ複雑に歪む “Together Again”に繋がる。父の最期を看取る為にシュロップシャーに帰ってきた息子。母と兄弟、家族の時間が描かれたこの曲は避けられない出来事への哀しみや優しさに包まれ、慈しみや戸惑い、過去に思いをはせるノスタルジアと未来への不安、そしてそこから逃れるためのユーモアが絡み合っている。「父はキッチンにいて/僕は彼の脳を心配する/きっと壊れていくのを見ることになるだろう」「ウサギと、その頭を食べた猫がいる/そしてここに死を悼む家族がいる」田園地帯の風景の中に死の気配が漂うこの曲はこのアルバムを象徴するような曲だ。それはまるで重厚な映画の劇伴のようにも、小さな部屋で録音されたアーティストの個人的な記録のようにも聞こえてくる。おそらくこれは1stアルバムとの間に挟まれた映画の経験が大きかったのだろう。そのままストレートに制作に入ったならばこのようなアレンジにも映画のように故郷の景色を描くという手法にも至らなかったはずだ。ピアノを基調とし、そこに様々な人間の気配やいびつで複雑な感情の揺らぎの音(それはストリングスの波やエレクトロニクスのひび割れとして現れる)が挟み込まれたアルバムは1stアルバムだけでなく『哀れなるものたち』のサウンドトラックの延長線上にあるように感じられるのだ。映画のサウンドトラックのようにキャラクターに寄り添い描かれるアルバムの物語、ここでの死は克服すべき物語上のメタファーではなく常に隣にあるもののように描かれる。死を意識するからこそ生を考え、ノスタルジックに故郷を想うからこそいまを強く意識する。我々はもう存在しないものと共に生きている。それはないものを感じられるという人の想像力の賜物であり、そしてその創造の隙間にこそ芸術は入り込む。
故郷と死をテーマにしたジャースキン・フェンドリックスの試みはこの2ndアルバムで見事結実しているように思える。子ども時代の安寧のように優しく牧歌的で、哀しみと慈しみ無常感と強がりに包まれた複雑な人の感情が混じった物語。父と友人の死という極めてパーソナルな出来事を作品の中に落とし込み普遍的なものへと繋げるのはまさに優れた作家としての仕事だ。そしてこれを個人的なものとして作り上げ提示するというのがまた素晴らしい。ブラック・ミディの面々やイーサン・P・フリン、ロビー&モナのウィリアム・カーキートら、昔から知っている仲間の手を借り、古巣である〈Untitled (Recs)〉からリリースする。それはオスカー・ノミネート以前のうさんくさく誠実な彼の姿勢となんら変わりがないように思えるし、それでいて “Beth’s Farm”のビデオではヨルゴス・ランティモス監督、自身とエマ・ストーンが主演という信じられないような贅沢なことをしていたりもする(3人のオスカー・ノミネートの共作、これはおそらくインディーレーベル史上最も豪華なビデオだろう)。彼を見ているとオーヴァーグラウンドもアンダーグラウンドも死や生、過去も未来も全てが地続きで繋がっているように感じられる。もしかしたらこれこそがあるべき姿で、そして理想なのかもしれない。インディのカルト・ヒーローであり続けながらもオスカー像を手にする姿を見たいと望まれる希有な存在、ジャースキン・フェンドリックスはなんと興味深い人なのだろう。この2枚目のアルバムには彼の子ども時代から現在に至るまで、ジャースキン・フェンドリクスの世界の空気が詰まっている。
Casanova.S