Home > Reviews > Album Reviews > Saint Etienne- The Night
18歳のあの夏の日、もっとも重要だったのは、つまずいてしまったぼくが一緒に歩いていた彼女の白いブラウスの胸に思い切りコーラをこぼしてしまったことだった──これはあくまで喩えだが、長い人生におけるほんのわずかなこの瞬間、しかしもう二度と再現はされないこの出来事、あるいは失恋の切ない経験だけで、ポップおよびロックは何万曲もの名曲を生み出してきた。おそらくそれは戦争に反対した歌よりもずっと多く、表現力の質においても豊かなヴァリエーションがあるに違いない。ボブ・スタンレーはコーラをこぼした少年(少女)から広がるポップスをいまも愛しているひとりである。ポップス研究家でレコード・コレクターでもある彼は、いまならチャーリーXCXが最高だと言える人で、10代のときに初めてポップス(かつてのロックンロール)を聴いたときの胸がうずくような感覚をずっと追い求めている、というのは言いすぎだが(彼はもっと幅が広い方なので)、でもぼくは彼のそうした気質を100%ではないにせよある程度は共有できるし、共有したいと思う。
スタンレーはセイント・エティエンヌの頭脳かもしれないが、だからといってバンドはスタンレーのソロ・プロジェクトではない。セイント・エティエンヌは、サラ・クラックネルとピート・ウィッグスの2人を加えた3人の個性の集合体で、とりわけ前作と今作においてはヴォーカルのサラの存在の大きさをぼくは感じている。前作『アイヴ・ビーン・トライング・トゥ・テル・ユー』では、彼女の、いわゆる“エーテル”系のヴォーカル/ヴォイスがバンドの新境地となったムーディーなダウンテンポの魅力を増幅させていることはたしかで、バンドにとって初のアンビエント作となった今作においても、言葉少なめの彼女の声は“レス・イズ・モア”なサウンド効果となっている。
セイント・エティエンヌがアンビエントをやることは、彼らがそもそも90年代初頭のダンス・カルチャーの突出したエネルギーに大いに触発されたバンドだったことを思えば意外ではないし、アンビエントがポップの領域にまで浸透した昨今の状況を考えれば当然の成り行きと言える。また、本人たちがザ・KLFの『チルアウト』のようなアルバムを作りたかったという意図もまったく理解できる。『チルアウト』はもちろん独特のムードを持った名盤で、アルバム全体には、アンビエントにありがちな学際的な言説の代わりに、自分をいかにも頭良さげに見られようとはしない、あのころの英国インディ・ミュージックならではの風味がある。また、セイント・エティエンヌにとっては、『チルアウト』と同様にサンプリングは制作においてもっとも重要な作業/手法である。スコット・ウォーカーの誇張された悲しみ、エンニオ・モリコーネのロココ調のバラード……じっさいサウンドとして使われているかどうかはわからないが、本作『ザ・ナイト』がちまたのアンビエント・ポップと一線を画しているのは、ここにはそうした他にはないテイストやアプローチ、ともすればブロードウェイ・ミュージカルめいた陶酔もあり、セイント・エティエンヌ独自のポップス主義と混合術が効いて、夜のサウンドトラックとしての魅惑的な薄明かりを創出している。
『ザ・ナイト』はきわめてムーディーで親密な夜の音楽だが、アルバムのはじまりには前作から続くセイント・エティエンヌの永遠のテーマが組まれている。それはこんな風に。
20歳か21歳であれば
信念は揺るぎなく、エネルギーは満ち溢れている
それが黄金か? 私の運命を教えて
時は飛び滑り落ち、すべての道はここに続く
サラのモノローグは、いかようにも解釈できる。前作における18歳であることの美しさを、ぼくは後から稲垣足穂の「彼等」と重ねてみた。長い人生において誰もが若く美しい、しかしそれはほとんど一瞬にして消える儚いもの、計らずともセイント・エティエンヌも足穂も「若さ」を同じような感覚で表現している。そして今作においても失われた「若さ」はアルバムに通底する意味深い主題となっている。
あなたが若かった頃
私たちが過ごした時間、あなたが言ったこと
私たちが過ごした時間、あなたが言ったこと
それらはまだ私の頭のなかにある
ボブ・スタンレーは、少しアンドリュー・ウェザオールと似ているところがあって、どちらも10代の音楽=ロックンロールやロカビリーを愛している。ニール・ヤングの若さゆえに生まれた名失恋ソング “オンリー・ラヴ・キャン・ブレイク・ユア・ハート” の歌詞をウェザオールも好きだったに違いないが(彼は同曲の最初のリミキサーである)、彼らのように、若さゆえにクリエイトできた文化を若くなくなってからも愛することは、若く見られようと薄い髪をごまかすこととは意味が違うということをここで断っておこう。
傷つきやすい10代の恋心は、大人になるとフィリー・ソウルになり、それがディスコの土台になった。それからずいぶんときを経て、郷愁を慈しむ大人の夜が、いまここにアンビエントを生んだ。この音楽はスピってもいなければ枯れてもいないが、ときに悲しく、冷たい。遊び心があって敷居も低いが、前作と同様、初期の楽天性は遠い昔の話である。それでもこれはリスナーに寄り添っているインディ・ミュージックであって、あの夏の日のことを歌ったポップ・ソングをいまでも忘れられない大人たちが作ったアンビエントなのだから、孤独だけれどドリーミーで、そして音楽に依存してきたぼくのような人間にとっては貴重な癒やしになるのだった。
(いや、自分もこの年になって、ふたたびセイント・エティエンヌを聴くようになるとは思わなかったです)
野田努